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静かな悪戯 ― Just one touch.―
しおりを挟むメモには、ただ一言だけ――
「thanks」と書かれていた。
◇◇◇
人間の歴史を眺めるのが、彼は好きだった。
静かな店で、いつもの紅茶を飲みながら、お気に入りの古書をめくる。
そして、出かける時は、いつも肌になじむスーツを着る。
これが、人間界でのささやかな楽しみ。
ある日、彼は人間界で、過去の仲間を見かけた。我々とは既に違う者。
眉をひそめ、その場から静かに立ち去る。
余程のことがない限り、手は出せない、出さない。
これは我々の人間界での破れぬ"制約"。
ある日、彼は、言い争う二人の姿が目に入る。
男の傍には、人間が倒れていた。一人は、以前見かけた、あの“青年”だった。
青年は、倒れた人間の傍にしゃがみ込み、男に怒鳴っていた。
相手の男は鼻で笑う。
お前も俺と同じ側、だと。
青年の真紅の瞳は、強く深い真紅へ変わり、鼻で笑った男へ殴りかかる。
男は殴られ、よろめいた。それでも、血走った目で殴り返そうとする。
だが、"青年"は強かった。
相手の男の拳は空を切り、逆に殴られ続けていた。
男の瞳は、やがて真紅からどす黒く血走ったものへと変化してゆく。
青年は、変わりゆく男の様子に気づき、はたと手を留める。
「お前、ヤバいぞ」
その男は徐々に異形の者へと変わり始めた。
感情は消え、身体は歪み、淀んだ空気をまとい始める。男の力は増していく。
暴走しつつある男を、青年は、なんとかねじ伏せる。
異形と化した男は、ねじ伏せる青年を睨みつける。
その憎悪の視線に青年はハッとし、手を離す。全ては自分の所為なのかと、頭をよぎる。
青年は後退り、壁に背を当て、ずるずるとしゃがみ込む。
その隙に、異形の者へと変わった男はじりじりと距離を取り、去っていった。
ただ静かに事の成り行きを見ていた彼は、青年にそっと近づいた。
そして彼は、なぜか、無意識に手を差し伸べていた。
青年は、彼を見て“守る者”だと、すぐに気づく。
「お前…」
そう呟き、青年はふいと目をそらした。
だが、戻さない彼の手を、戸惑いながらも静かに取った。
そこから、彼と青年の奇妙な繋がりが始まった。
青年は、かつて彼と同じ側だった者。
しかし、制約に納得できず、制約以上に、
人に手を差し伸べた、
もう戻れない者だった。
制約を”守る者”と”守れない者”。
あの日から、彼は、人間界に来るのが増えた。
あの日から、異形の者は、青年への殺意と復讐のみとなっていた。
のちに、異形の者は傷を癒し、制約を守れない者を付け狙うようになる。
◇◇◇
その日も、彼は同じ店にいた。
いつもの紅茶は、まだ温かかった。
読みかけの古書には、一枚のメモが挟まっていた。
それには、ただ一言だけ――
「thanks」と書かれていた。
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