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第7話 矛盾
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外は夕暮れだろうか、又は夜だろうか。カーテンが閉められていて、灯りもなく時間すら分からなかった。時計は有るが、男は見る気すら無かった。頭がボーとして、上手く働かない。目は虚で何処を見ているのかすら、分からない。きっと他人から見たら、真っ白い天井を只見つめているように見えるだろう。
誠は明かりもつけず、自分の部屋で何も考えず只座り込んでいた。
何故だろう、いつ家に着いたのか家に着く前誰と何してたのかさえ覚えていなかった。
確か、美絵に屈辱的に振られて…その後…何も思い出せない。でも確か、誰かと一緒にいた。
俺は意識が朦朧としている時、そうまだ空は明るかった気がする。1人の女性に身を委ねてた。
前から誠を好きだと言っていた、同級生。その誠の姿を愛しむような仕草で、頭を撫で背中に手を回す。やっと自由の身になった彼を、離すまいとする行動。そしてこれから彼女の思うがままに、彼を動かそうとする為の儀式らしき事。それを実行する為なのか、普段は使われていない部屋に入る。少し埃っぽいが気にせず彼女、麗奈は誠に更に体を密着させた。脚が絡み、吐息が顔や首筋に熱を持ってかかる。ゆっくりと唇が触れた途端、誠は意識を覚ました。目が大きく開かれる。状況が読めない。あったかい、いや熱い方が正しいのかも知れない。その様なものが、自分に纏わり付いている。誠は勢い良く、肩を持ちそれを剥がした。麗奈の綺麗な髪と、大きい胸が揺れた。
「麗奈、お前何やってっ!」
誠が焦った表情で掴みかかる。麗奈はつまんなそうな顔で、拗ねた声を出した。
「あーあ、覚めちゃった。あのままずーと、意識が朦朧としててくれてれば良かったのに」
辺りを見渡すと、薄暗い倉庫みたいな場所だった。本棚には古い本がいくつも並べてある。どうやらここは書庫みたいだ。
「意識が?俺が何でそんな」
「何でってそれも忘れてるの?」
変な質問に、麗奈は身を離し少し驚いた。そして、誠の顔を覗き込む様な仕草を取る。
「美絵に振られたショックが大きくて、頭がフリーズしたんでしょ」
誠の動きが止まった。麗奈はその姿を気にも止めず、話続けた。
「全く、今までも散々振られてるのに何であの簡単な言葉の方でこうなるのかなー」
この言葉はもう、誠の耳には入っていなかった。誠は、美絵の言葉を思い出していた。『そんな事誠に言われなくとも分かっている』この言葉はそこまでではなかった、多分眼と声の質だろう。今までとは違った。本気だった。
「まぁでもさ、私がそんな最低女を忘れさせてあげるよ。だから、ね」
妖艶に満ちた瞳で誠を見て、麗奈は距離を縮めた。麗奈の熱く優しい手が触れると、誠の体はビクリと反応した。何かが溶けていく様な感触。ホッと力が抜けそうになったが、そんな自分が怖くなり誠は麗奈の手を跳ね返した。
麗奈は叩かれた手を抑え、驚いた顔で誠を見た。怖かった、美絵とは違う人にこんな気持ちを抱く自分が。誠の口から、荒っぽい息が吐かれる。
「美絵以外に、抱かれるつもりはない」
意識を強く持つ様に、誠は握り拳を強く握った。
「何言ってんの、もう無理じゃん。振られたんだよ」
麗奈が声を荒げた。誠はこの場から逃げる様に、走り去った。
そして気が付いたら家に居た。自分は逃げて来たのだ。誠は髪の毛を掻きむしった。どうしたらいい?でも美絵には、もう希望など求めてはいけない。
誠は気だるそうに顔を上げ、電気が付いている隣の家を睨む様に見つめた。
大体里志もおかしい、自分に美絵を任せたくせに直ぐに取り戻しに来て。彼女が里志の誘いを断るはずないって、分かっているかの様な感じ。それにまんまと行った美絵。その時はもう、頭の中に誠は存在していなかったに違いない。
誠はふと外に気配を感じ、カーテンを開けた。開けた頃には空はもう夜で、灯りがチラホラしていた。誠が窓を開けたと同時に、美絵の家から男が出て来た。ドアを閉めると、ポケットから煙草を取り出すあの姿。スーツを着た好青年、里志だった。誠の目線に気付いたのか、上を向き手を挙げる。その手が何故か手招きしている様に見えたのは、誠だけなのかもしれない。誠は惹かれる様に、外に出た。里志は、煙を吐きながら吸い終わると吸い殻をしまい誠の方へ顔を向けた。澄ました顔つき、誠は動けなくなっていた。動揺している自分より遥かに、余裕に満ちた顔。誠は自分が恥ずかしくなった。
「場所、変えようか」
里志が静かにそう言い、前を歩く。誠は躊躇いがちに後ろを追った。里志が近くの公園に入り、自動販売機の前に止まる。コーヒーを買うと、誠に差し出した。
「飲めるか?」
カフェオレを差し出し、誠は受け取った。2人はベンチに腰かけた。里志はブラックの缶コーヒーを開けると、一口飲んだ。
「どこから話そうか」
一息ついて、里志は隣に座った、誠を見た。誠は戸惑いながら、チラチラと里志を見る。
「あの、えっと…」
言葉にならない、誠の中ではまだ整理が付いていないのだ。動揺を隠す様に、缶コーヒーを手で転がす。言葉を探す仕草で、唇を舐めた。
「あらかた、堂麗奈ちゃんから話聞いた?」
里志の言葉に、誠は顔を上げた。里志の顔が綻んだ。
「彼女は、尾行してたつもりだったんだろうね。美絵は俺に会って、驚いて見えてなかったみたいだけど」
誠は身を乗り出す。確かに大まかに麗奈が、内容を説明してくれた。
「気付いていたのか?」
「あんなに見つめられてたら、誰でも気づく。まぁ聞かれても良いと思っていたから、気にしてはいないさ」
誠はまず聞きたかった事を、思い切って言ってみた。
「何で、美絵を迎えに来たんだ?俺に任せるって言ったのに」
誠は以前、里志の家で言われた言葉を思い出した。初めて見せた、里志の遣る瀬無い顔が今でも忘れなれなかった。
「皮肉な事に、美絵は俺の初恋だったからだ」
里志は懐かしむ様に、語り出した。
こんなに何もかも恵まれている男が初恋だなんて、年上であり得るのか?誠はそう思った。
「上部だけで、言い寄ってくるやつらは沢山いた。君だって、そうだったんじゃないのか?」
誠に問いかけられ、小さく頷いた。誠も人柄と顔で、決して女に飢えていた訳ではなかった。告白してくる人は数多くいた。2人はそこが共通していた。
「俺は、そんな奴らと日頃の事から逃げたくて遊びで付き合っていた。昔の事から逃げたくてが、正しいかな」
「昔の事?」
「俺は殺人犯だ」
一瞬何もかも止まった気がした。誠の手から缶コーヒーが落ち、砂利道をゆっくり転がった。誠が苦笑いをする。
「なっ何、何言ってんだよ…。冗談言うなら、もっとマシなっ」
「こんなとこで、嘘言って何が変わる?」
里志は至って冷静な口調で、淡々と喋った。誠は唾を飲み込む。
「いずれはバレる。隠すつもりはないし。この事があって、人付き合いは浅くしてた。今もだ」
里志はコーヒーを飲み干し、空き缶を片手で潰した。潰れる音が、静かな公園に響く。
「そんな俺には、美絵は綺麗過ぎた。会った時、壊しちゃいけないものに感じたんだ。一種の憧れや嫉妬も混じった」
誠は黙って聞いた。と言うか、突然唐突に衝撃的な言葉を言うからまともに口が開かなかった。
「綺麗で羨ましいかった。俺は消せない位汚れてる、それとそんな過去を持っていなくて憎らしい。美絵にはそんな感情を抱いた」
里志は下を向いた。多分里志は全員にそう言う感情を持って、それでその事を隠して接していたのだろう。
「何で、さっさつ、殺人何てしたんだよ…」
誠はようやく落ち着き、重たい口を開いた。
「家柄だ。父の方針で、上の奴らそして下からのし上がってくる厄介なやつ。ぜーんぶ纏めて、絞めろって言うな」
里志は煙草に火を付けた。誠は唇を噛みしめる。変に緊張していた。
「父の言葉は絶対で、正しいと10代の頃は思っていた。確かに正しかった。見る見るうちに、剣道の腕は上がるし全国も夢じゃないくらい、優勝の数を挙げれた」
煙を吐く。一緒に何かを出している様にも、誠には見えた。
「でもそうすると、ライバルが出てくる。勝てないやつもやっぱり居る。俺は言われるがまま殺した。初めは体調を崩した。でも次にやった時には何だろうな、ゾクッとしたんだ。快感に近かった」
里志は空いていた、自分の右手を見つめる。
「楽しかったんだ、俺の手でいとも簡単に倒れていく様が。でも大人になっていくにつれて、おかしいと感じて剣道の道から目を背けた」
里志はベンチから立ち上がると、誠から少し距離を置いた。
「例え、剣道から逃げても俺は立派な犯罪者だ。だから、あの時は美絵をお前に託そうとした」
「でも、無理だったのか?」
誠は静かに問いかけた。この時里志は誠とそんなに変わらない、そんな風に見えた。
「智瑛梨ちゃんから、電話で言われたよ。『これ以上、お姉ちゃんを傷つけないで』って。だから取り戻しに来た。けど、だからと言って美絵を幸せになんて出来る立場じゃない」
里志は空を見上げた。
「それに実家と縁を切れば、過去の事は明るみになるのは時間の問題だ。俺は死刑になるかもな」
無理して笑ってるように見える、里志の顔。誠は、目を合わすことが出来なかった。
「その事美絵に言ったのか?」
「言おうと思ったが、言えなくなった。俺について行くって、あんな風に微笑んで言われると無理だ」
誠も立ち上がる。
「でも正直手離したくない。どうすればいいんだろうな、こう言う時って」
言い終わって里志は、可笑しかったのか小さく笑った。
「何て、ライバルのお前に言ってもどうしようもないけどな」
「美絵だったら、例えどんな事があってもお前について行くよ。あいつはそうだって決めたら、曲げない。俺と似てるとこあるから」
言ってて誠は辛かった。何応援しているんだろ、自分はもう美絵には行けないから。もう駄目だから。
誠は拳を握り締めた。それに気づいたのか、里志が近づいて来た。
「お前はこれから、どうする?」
誠は戸惑った。
「分かんない」
誠はボソリと呟く。その横を里志は通り、誠の拳に一瞬触れた。誠は驚き振り向くと、里志は振り向かず歩き夜の道に消えた。誠はそっと触れられた手を触ると、少し生温い感触が残っている様な気がした。
朝4時、美絵は道着に身を包み真剣を握っていた。力強く振り下ろす。道場に、風邪を切る音が響いた。少しも鈍りを見せない、立ち振る舞い。
だが、その静かな空間に誰かが入り込んで来た。
「どう言うつもりだ、美絵」
美絵は振り向きもせず、刀を下ろした。声のトーンと気配で誰だか分かる。
「お父さん」
襖の出入り口に、怒った顔をした美絵の父が立っていた。ゆっくりと娘に、近づいて来る。
「お前には言ったはずだ。もう、真中家には関わるなと」
「好きな人と人生を共にして、何が悪いんですか?」
美絵は父の方に体を向けた。その瞬間、父の手が美絵の頬を叩いた。避けようと思えば避けれた。しかし美絵は逃げなかった。頬がヒリヒリと痛む。
「それは大いに結構!だがな、相手が違うだう!殺人未遂者を旦那にする、そんな話許されると思っているのか!」
美絵は黙っていた。言おうとしている事、それは大体わかっている。
「お前も目の前で見ただろう!そして聞いていた、叔父は殺されかけたんだぞ!そんな奴の家に入るのか!」
「里志さんは、真中家とは縁を切ります!それにお爺様に手を降したのは、里志さんではなく律次さんです!」
「そうだとしても、それを支持したのは紛れもなく真中家の当主だ!縁を切ろうが、その様な勇ましい感情を持った親の子だと言う事実は変えられない」
「私は変えません!」
美絵はキッパリと言い切り、父を睨んだ。父は察すると、溜め息をつき勢い良くその場から離れた。無言で襖を閉める。
父が出て行ったのを見計らって、智瑛梨が入ってきた。湿布を持ち姉に近づく。心配そうな顔を覗かせ、美絵の赤くなった頬に湿布を貼った。頬にヒヤリとした感触が伝わる。
「お姉ちゃん、お父さんの気持ちも理解してね。私は別に構わないけど…」
美絵は日本刀を鞘に納めると、歩き始める。智瑛梨が慌てて、後ろに付いてきた。
「案ずるな、分かっている。そんなに心配するな」
智瑛梨は下を向き、足を止めた。襖に手を掛けた美絵が、ふと振り向いた。
「お爺さんが真中家は、悪投だって言ってた。でもこうなるって思ってたみたい。お爺さんも多分、お姉ちゃんの意見に反対するよ」
美絵は、智瑛梨の頭に手を軽く置いた。
「お爺様の事は私も承知だ。あの様な事があった以上、そうならざる終えない。何にせよ、またなった時は私もここを守る。里志さんの事は、私が説得する」
里志は朝方の道を歩き、自分が宿泊しているホテルを目指した。到着すると、ドアの前で見慣れた男を見つけた。里志は少し怒った顔つきで、近づく。ドアの前で待っていた、律次は里志を見るなり呆れた顔をした。
「何をやっておられるのですか?」
里志との距離を縮める。里志は軽く、律次を睨む。
「あの女とやり直すなど、誰がいいと言いました?」
「俺は、真中家の操り人形じゃない」
律次の口元が、微かに緩んだ。里志はそれを見逃さなかった。
「まだ操り人形ですよ。貴方は真中家の当主の座を降りると、言うのでしょう?そうなると、分かりますよね」
「ああ…」
重たい口を静かに開く。分かっている、これまでの過去が明るみになる事くらい。
「そうなられたくないのであれば、従ってください。旦那様は、貴方を護りたいとまだ思ってらっしゃっているんですよ」
それは、自分の息子だからか。或いは、まだ使えると思っているからだろうか。どちらにせよ、もう沢山だ。だとしたら、自分はどうしたら良い。誠に先ほど訪ねた言葉が、脳裏を横切る。
美絵を悲しませたくない、悲しませないでと言われ心が揺らぎ戻って来た。でもそれだけの気持ちじゃ、どうにもならない。
「じゃあこうしましょう。貴方が美絵様に取り入り、隙を見て当主をどうにかして下さい」
「また同じ条件で、行けってか?」
初め美絵の家に向かう目的がそれだった。また同じ事を繰り返せと言うのか。清高は溜息をつき、髪をかきあげる。里志の真横を通り過ぎると、車のノブに手を掛けた。
「過去をバラされたくなかったら、従うべきです。そうしなければ、貴方は生き残れませんよ」
そう言い残すと、清高は運転席に乗り車を走らせた。
里志は苦い顔をして、眼鏡を取るとポケットに入れホテルに入った。
学校で誠は授業中、何度か先生に怒られた。理由は、話も聞かずボーと上の空だったからだ。全く、自分が情けない。
休み時間、誠は1人屋上にいた。もう秋で肌寒い。そこに、湖太郎が姿を見せた。
「どうしたんだよ。お前変だぞ、女子が様子おかしいって噂してたし」
他のクラスにまで、誠の事が広まるのか。誠は下を向いた。
「何時もの、何つーかほらっ」
「湖太郎、星野さんとはどうなった?」
湖太郎の言葉と重ねる様に、誠は別の話を被せた。まるで話題をそらすかの様に。湖太郎は唾を飲み込む。誠の表情が、いたたまれなかったからだ。湖太郎は言葉を探しているのか、目をしきりに動かし躊躇いながら口を開いた。
「付き合う事にしたよ…。誠は、その……美絵ちゃんとは…」
「振られたよ。当然だよな、鼻っから相手にされて無かったし。大人には敵わない、それに相手は剣道一家の頂点かつ許嫁。無理な話だ」
高飛車な声で無理に、喋っている声が痛々しい。湖太郎は焦り声が裏返った。
「何言ってんだよ。それでもお前は、負けずに向かってただろう。あの気力はどうしたんだよ」
「もう無理なんだよ!沢山なんだ、何度やっても振られて、疲れたよ。勝てっこないんだ、美絵が惚れた男には!」
誠は弾かれた様に、声を上げた。瞳に熱いものがこみ上げてきたが、ぐっと堪える。
「何だよそれ。やっぱり、今日の誠かっこ悪いよ」
湖太郎は静かに、そう言い残すとその場を去った。
湖太郎が階段を降りて行くと、1人の女子が立っていた。顔は少し怒っている。
「何やってんのよ。誠君、ますます落ち込んじゃったじゃない」
麗奈は、湖太郎を睨みながら言う。どうやら、盗み聞きしてたみたいだ。
「そんな事言うなら、慰めて取りいったら?欲しかったんだろ、誠の事」
麗奈は溜息をつき、めんどくさそうに腰に手を当てた。
「いっつも、慰め役じゃない。こんな事したって、どーせ振り向いちゃくれないわ。あのバカ、口では諦めたって言ってるけど、まだ好きに決まってる」
悔しそうに、麗奈の口元が歪んだ。その姿を黙って、湖太郎は見つめる。
「美絵なんて、最初っからいなければ良かったのに…」
智瑛梨は1人、図書室に居た。机にかじりつきながら、必死にペンを動かす。
何でよりによって、宿題を忘れてしまったんだろう。次の授業で提出しなきゃいけないのに…。
イライラしながら書いてて、隣に誰かが来たことに気づかなかった。
「何やってるの?」
男の問い掛け智瑛梨は急いで終わらせなきゃいけないプレッシャーで、顔を確認せず答えた。
「宿題よ、あーもう私ったら馬鹿みたい」
ブツブツ言いながら、ペンを走らせると分からないところに到達した。益々頭にくる。
「あっ、僕それ得意だけど教えてあげよっか?」
「良いってば!自分でやるし、こんなもんだ…い……」
智瑛梨は何なのよと思いながら、ゆっくり顔を上げ男を見て、一気に顔が赤くなった。開いた口が塞がらない。何と真横にカナタが居て、しかもずっと声をかけて来て居たのだ。
「かっか、か、カナタ君…」
智瑛梨の慌てた顔を見て、カナタは笑顔で首を傾げた。カナタが片手を差し出す。
「見せて、ノート。良かったら、僕が解いてやるよ」
おずおずと智瑛梨は、ノートをカナタに渡す。するとスラスラと素早くペンを走らせた。空白がどんどん埋まって行く。智瑛梨は唖然としながら、横で見つめる。ものの10分で解き終わり、カナタがノートを返す。
「どーぞ。間に合いそう?」
智瑛梨はノートをまじまじと見つめる。読みやすい字、しかもこんな短時間で解けるなんて。驚きでしかなかった。
「うん、ありがと…。あっそうだ、お礼。何がいいかな?」
言われてカナタは、キョトンとした。智瑛梨は取り乱しながら、言葉を続ける。
「えっと、ほら私助かったし。これ急いでたから、本当。そうだ、明日クッキーとか焼いて…」
「じゃあ、泣いて見て」
カナタがニヤリと笑いながら、唐突に言ってきた。智瑛梨は、言葉を失う。
いきなりそんなこと言われても、大体何で泣かなきゃいけないんだろう…。
カナタは椅子から立ち上がって、智瑛梨を見下ろした。
「なーんて、いきなり出来るわけないし冗談だよ。只さ」
カナタは歩き出し、彼女に背を向けた。その姿を智瑛梨は椅子に座りながら、見入いる。
「前、泣き顔見た時さ綺麗だなって思って。また見たくなった、それだけ」
ドアの所まで歩き、チラリと智瑛梨を見る。智瑛梨は聞いてて、顔が火照ったのを感じた。真面にカナタの顔が見れない。その表情を見てカナタは、クスリと笑うと図書室を出た。
帰りの時間、智瑛梨は姉の美絵と肩を並べて歩いていた。
智瑛梨はルンルン気分で、道を歩いていた。
「お姉ちゃん、ヤバイよ。私、カナタくんに綺麗だって言われちゃった」
頬を赤く染め、スキップしながら美絵の前を歩く。何も反応が返ってこないので、振り向くと美絵はボーと歩いてるだけだった。智瑛梨がバックし、美絵の隣に並ぶ。
「どうしたの?ボーとして」
心配した声で、聞くとそれに気づき美絵は慌てて否定した。
「あっいや、別に…。そっそうか、良かったな」
苦笑いを智瑛梨に向け、そそくさと先を歩く。智瑛梨は頬を膨らませた。
「誠くんと何かあったの?それとも里志さん?」
「気にするな、そんな大したことではない」
「でも、何かあったら言ってよ。頼りないかもしれないけど、姉妹なんだから」
膨れた妹に、美絵は小さく笑みを浮かべた。
「本当に、大丈夫。だから」
美絵が玄関の柵を開けようと手をかけると、隣から音がした。美絵が振り向くと、相手と目が合う。
誠も美絵と同じタイミングで、自分の家の柵に手をかけていた。
見つめ合ったまま、ほんの数秒黙り込む。後ろからついて来ていた、智瑛梨も顔を青白くし立ち止まる。
誠は聞きたい事や言いたい事が、山積みになるくらいあったが唇を噛み締め逃げる様に家に入った。
「まこっ…」
誠が家に入る直前、美絵が何故か呼び止めたがそれさえも無視した。目だけ動かし、一瞬美絵の顔を見た。困った様な瞳に、微かに言いたげに揺れる唇。
何でこんな切なそうな顔をするのだろう。また揺らいでしまいそうになる自分が、耐え切れなかった。気持ちを押し殺し、家に逃げ込む。
誠は駆け足で自分の部屋に行くと、少し気になったのかそっとカーテンを小さく開ける。その姿に気づきもせず、美絵は智瑛梨と普段通り家に入った。
誠はモヤモヤした。最後に見せたあの表情は、一体自分に何を言いたかったのだろう。
美絵にとって誠は、何でも話せる唯一の存在。この関係はこれからもずっと続くと思っていた、恋という2文字が無ければ…。
美絵は俺の事、嫌いとも好きとも言っていいない。でも恋人にも結婚相手にも選ばれなかった。だからこの気持ちは、断ち切らなきゃいけない。これ以上したら、泣かす相手は間違いなく自分だ。だから、だからこれ以上彼女を困らせてはいけないんだ。これまで子供だった、里志が来てから全部の行動がカッコ悪く見えた。こんなの俺じゃない。
誠は部屋の電気も付けず、部屋の隅で蹲った。
あれから1週間たった。美絵は家でボーとしていた。広げていたノートにも目もくれず。里志は東京での出張も終わり、地元に帰ってしまった。
自分は着いて行くと、言ったもののその先はまだ分からない。着いて行くと言ったとき、彼の顔は少し無理して笑っていた様に見えたのは自分だけだったのだろうか。何か他に心配事でも?と考えてしまう。
それからあの事、誠の事だ。あれだけ自分に好きだと押してきていたのに、あっさりと振ってしまい。あれから会話すらしていない。気まずくなってはいる。家が隣同士というのが、意外とこたえる。必ずどっちかが見えてしまう距離感。いっそ、家も遠くてクラスも別だったらこんなに辛くはなかったのに。
土曜、学校も休みで美絵は家に居た。美絵は携帯を操作し、連絡帳を開くと里志の所で手を止めた。
微かに指が震える。携帯を閉じようとしたその時、着信音が鳴り響いた。ディスプレイを見ると、里志だった。美絵は唾を飲み込む。そっと、通話ボタンを押した。聞きたかった声が聞こえてくる。
『美絵、いま家か?』
安心する、心臓が静かに脈を打ち始めた。顔がつい綻んだ。
「はい」
『少し用事があって、今東京駅にいるんだが…。ちょっと会うか?』
明るい声。美絵は頷きながら返事をし、電話を切るとジャンバーを持ち外に出た。
駆け足で駅に向かい、着くと左右を見る。ふと、近くで里志の声が聞こえた。私服の里志が、手を振っている。美絵はその姿を追った。美絵が里志の前に立つと、彼は笑顔を見せた。
「相変わらず人凄いね。場所、変えよっか」
駅だから当たり前、人の数が凄かった。里志の言葉に、2人は動こうとした。その時里志は誰かに、肩を二回叩かれた。
「真中里志、だね」
重みがある、男の声。里志は動けなくなった。美絵もその男を見つめる。スーツを着た30くらいの人と後ろには、強面の40代の男。
「君を10年前に起きた大量殺人の容疑で、逮捕する」
その言葉を聞いて、美絵は半笑いの顔を浮かべた。
里志の顔には普段見せない、焦る顔。里志はゆっくり振り向いた。男2人は、絶対逃すまいという顔が見て取れる。
「なっ、どっから出た情報っ」
里志が男の方に体を向ける。その瞬間、手錠をかけられた。軽いはずなのに、里志には手首に重みを感じた。里志は目を動かした。ふと、ある人物に集中した。駅のホームの柱に、こちらを見て笑みを浮かべてる若い男。清高だった。いつもと変わらないスーツ姿 を身に纏い。里志の目線に気づくと、口を軽く動かしその場を去った。何を言ったかは、聞こえなかった。だが里志に向かって「馬鹿」と口パクで、言って居たのは見て取れた。情報を流したのは、律次か?それとも親父?この事はその2人以外知る奴はいない。
動かなくなった里志を、男は引っ張るようにして連れて行く。美絵はその姿を見て、声をあげた。
「そんな、嘘ですよね?里志さん私に、言ったじゃないですか。ずっと一緒にいよって。これじゃ、いれないじゃないですか」
涙声の悲痛の叫び。里志は目を閉じた。美絵がとっさに駆け寄ろうとした。それを止めようと、後ろにいた女の刑事が、美絵の腕を掴む。
逃げても仕方ない、と言うか逃げ場がない。これは紛れもなく真実なのだから。
里志は男に捕まれ美絵の真横を、通り抜けた。
「ごめん」
すれ違いざま、小さく動いた唇で里志は美絵に言った。美絵は信じられないと言った顔で、彼を目で追う。やがて車に乗って去っていくと、美絵を掴んでいた女性もパトカーで去っていった。
「行ってしまいましたね」
ハッとし、美絵は声がした方を見た。いつの間には近くに清高が立っていた。
「貴方がハメたのですか?」
美絵は清高を睨みつけた。清高は、ニヤリと口元を動かす。そして嗜めるように、美絵を見つめた。
「さて、どうでしょう。でも、こちらの方が被害者なんですよ」
清高は語りながら、美絵の顎を持ち上げる。
「貴方が里志様を真中家から離れさせ、鈴風家の物にしようとしたから。話が漏れてしまったのですよ」
美絵の瞳が大きく開かれる。
「大体里志様もいけないのです。こんな子供に、うつつを抜かすなど。私たちの目的は、貴方の叔父を殺す事で娘に恋しろとは言ってなかったのですから」
「私が悪いという事ですか…」
「ええ、無ければ逮捕されることもなかった。真中家から外れるということは、こういう事を示すんですよ」
清高の手が美絵から離れる。ぞくりとするくらい、冷たい手だった。
「それはそうと、知りたくはありませんか?里志様が貴方と会う前、どう言う生き方をしてきたか」
美絵の心臓が、ドクっと波打った。確かに知りたい気持ちはある、けど…。
「どうせ、これから会えるか分からない。あの人の口からは、決して聞けませんよ」
いつ牢屋から出れるか分からない、里志からは当然聞くことなど不可能。と言うことは、もうこれから一生会えないのか?美絵は思っただけで苦しくなった。と同時に、湧き上がってくる好奇心。それなら知りたい。
「しっ知りたいですけど…」
迷い、美絵の目が泳ぐ。清高が不意に、距離を縮めて耳元で囁いてきた。
「1つ、条件があります。私に抱かれなさい。そしたら、話してあげますよ」
美絵はとっさに、清高と距離を離した。清高は小さく笑い声を出した。
「別にどうこうしようなんて、考えてませんよ。私も知りたいのです。何故里志様が、貴方一筋になった理由を」
だからって好きでもない人に、身を預けたくは無い。美絵は怒りを露わにした。
「結構です!」
美絵は、清高に背を向け歩き出す。すると、清高は美絵に聞こえる声で呟いた。
「今まで何人殺めたか、そしてそれが何故10年もバレなかったか。あの様な悪人が、剣道界でトップになれたか…知りたく無いですか?」
美絵は振り返りもせず、足を止めた。しかし、また歩き出す。
「好きな方のことなら知りたいと、思いませんか?まぁいいでしょう。でも知りたくなったらいつでも、言ってくださいね」
清高はまるで楽しむ様に語り、美絵とは反対方向に進んで行った。美絵は首だけを動かし、彼の後ろ姿を目で追った。
日曜日、美絵は気分が悪かった。目の前で恋人が逮捕され、そのままどうなったか分からない状態。無意識に見た鏡には、目が腫れた自分が虚に映る。なんて酷い有様だ。ヨロヨロと階段を降り、廊下を歩くと居間からテレビの音声が聞こえた。朝のニュースが流れている。美絵はふと、足を止めた。
『真中明彦の息子、真中里志25歳が昨日殺人の容疑で逮捕されました』
美絵は息苦しくなった。聞きたくは無いが、どうなっているかは知りたい。
「嘘でしょ…」
聞いていた智瑛梨の震えた呟きが、襖越しに聞こえる。
『剣道界では有名な真中里志は10年前、何人もの剣道後継の人達を自分の手で殺めており、人数は10人以上居たそうです。取り調べでは里志容疑者は、「間違えありません」と容疑を認めて居ます』
男のアナウンサーが、淡々と文章を読み上げる。
『真中家と言えば、剣道では日本で1位、世界では10位と華々しい結果を出されている方ですよね。それと顔の美しさから、女性ファンも多かったですし。とても残念な事ですね』
女性のコメンテイターの人が、感情を入れながら喋る。
美絵は耳を塞ぎ、足を早め何故か外に出た。堪える様に、唇を噛みしめる。
「美絵、大丈夫?」
美絵はとっさに声がした方を向く。誠が心配そうに、こちらを見ていた。
「酷い顔してんじゃん。里志さん、バレるの早かったしね…」
その言葉に、美絵の心臓が高鳴った。その言い方まるで…。
「お前は…知っていたのか…」
ボソリと呟くような声。誠は、聞こえなくて耳を傾けた。そのそぶりを見て、美絵は声をあげた。
「知っていたのか!あの事全部!」
また私だけ、知らなかった。何で里志さんは、自分に嘘を付くのだろう。言えない事くらい誰にでもある。でも何で自分には言わず、他人には言えるのか…。
美絵は理解できなかった。
誠は少し狼狽えた。
「全部は知らないさ。でも自分は殺人犯で、それを隠す為他人とは距離を置いて付き合ってた。そういう事は聞いたけど」
美絵の瞳が大きく開く。
「では私は、距離を置かれてた存在で…誠は違ったって事か」
誠は震える美絵に、慌てて否定した。
「そうじゃない、好きだから言えない事だってある。言ったら、傷つくから」
誠は語りながら、地面を見つめた。里志の気持ちは、痛いほど分かる。
自分もそうだから。
「誰だって嫌だよ。好きな人の泣き顔、見るのは…。俺だって、美絵のそういう顔見たくないし」
美絵は静かに誠を見つめる。誠はゆっくりと顔を上げ、苦笑いした。
「でも俺達って、美絵を泣かせてばっかだな。矛盾してるね…本当、ごめん」
「誠、わっ私っ」
「でももう終わりにするから、俺は美絵をもう追っかけない。これ以上はもう…」
どうせ無理なんだ、止めよう。誠は区切りをつけたかった。美絵にはもう決めた人が、居るんだから。
美絵の瞳には、枯れたはずの涙が頬を伝って居た。誠はその顔が何故か綺麗に見えて、目が離せなくなった。
「やだっ…お願い…。1人に、1人にしないで……」
美絵は誠に縋るように、弱々しい声を出した。里志との交際を家族から反対され、それでも好きで。でも今叶わなくなった、そこからの誠の発言。美絵は置いてけぼりにされた、猫のような気分にされた。
自分には居場所がない。
「誠に、居なくなられたら私…。もう…」
誠は無意識に、美絵の方まで歩きいつのまにか抱きしめて居た。何だろう、今にも崩れてしまいそうに見えたから。それを待っていたかの様に、美絵は擦り寄ってきた。まるで待っていたかの様に。
諦められない、そうさせるのは美絵の行動。
誠は美絵の頬を、優しく両手で包み込んだ。冬の寒さが、誠の体を彼女に触れた事で熱を持たせた。
怖かった、まだ美絵に支配されるのか、無意識に…。
誠は我に返り、素早く手を退けた。美絵の顔を、まともに見れない。
「友達ではいるよ。でもそれ以上は、望まない。そういう事だから。別に…関係を断つ訳じゃないし」
何かを押し殺す様に、語る。美絵は躊躇ったが、誠と少し距離を置いた。
「ごめんな…取り乱して。ありがとう」
美絵は深く聞かず、誠を見る事なく家に入って行った。
誠は美絵が居なくなると、1人外を歩き始めた。
しばらく歩き、前を見ると見慣れた人物が目に入った。立ち止まる。
「あっ誠君…」
麗菜だった。手には、コンビニ袋を下げている。誠は無言で近づき、麗菜を抱き締めた。麗菜の手から、ビニール袋が落ちる。誠の体温が触れ、麗菜の心臓は激しく波打つ。数分したら離れ、誠は少し考え込んだ。
「やっぱり、火照らないや…」
「えっ…」
誠の言葉に、麗菜は唖然とした。
「諦めるには、時間…掛かりそうだな…」
誠はボソリと呟き、また歩き出す。麗菜は慌てて落としたものを拾うと、彼に向かって叫んだ。
「なっ何なのよ!」
勝手にドキドキしてた自分が、馬鹿みたいではないか。
麗菜は、恥ずかしくてたまらなかった。
「ごめん。やっぱり堂を好きになる事出来ないってことが、証明されたって事かな」
誠は軽く遇らうと、足を動かした。麗菜はそんな後ろ姿を、睨みつけた。
「何よ、誠君の馬鹿」
麗菜は小さい声で、毒を吐き背を向けた。
誠は明かりもつけず、自分の部屋で何も考えず只座り込んでいた。
何故だろう、いつ家に着いたのか家に着く前誰と何してたのかさえ覚えていなかった。
確か、美絵に屈辱的に振られて…その後…何も思い出せない。でも確か、誰かと一緒にいた。
俺は意識が朦朧としている時、そうまだ空は明るかった気がする。1人の女性に身を委ねてた。
前から誠を好きだと言っていた、同級生。その誠の姿を愛しむような仕草で、頭を撫で背中に手を回す。やっと自由の身になった彼を、離すまいとする行動。そしてこれから彼女の思うがままに、彼を動かそうとする為の儀式らしき事。それを実行する為なのか、普段は使われていない部屋に入る。少し埃っぽいが気にせず彼女、麗奈は誠に更に体を密着させた。脚が絡み、吐息が顔や首筋に熱を持ってかかる。ゆっくりと唇が触れた途端、誠は意識を覚ました。目が大きく開かれる。状況が読めない。あったかい、いや熱い方が正しいのかも知れない。その様なものが、自分に纏わり付いている。誠は勢い良く、肩を持ちそれを剥がした。麗奈の綺麗な髪と、大きい胸が揺れた。
「麗奈、お前何やってっ!」
誠が焦った表情で掴みかかる。麗奈はつまんなそうな顔で、拗ねた声を出した。
「あーあ、覚めちゃった。あのままずーと、意識が朦朧としててくれてれば良かったのに」
辺りを見渡すと、薄暗い倉庫みたいな場所だった。本棚には古い本がいくつも並べてある。どうやらここは書庫みたいだ。
「意識が?俺が何でそんな」
「何でってそれも忘れてるの?」
変な質問に、麗奈は身を離し少し驚いた。そして、誠の顔を覗き込む様な仕草を取る。
「美絵に振られたショックが大きくて、頭がフリーズしたんでしょ」
誠の動きが止まった。麗奈はその姿を気にも止めず、話続けた。
「全く、今までも散々振られてるのに何であの簡単な言葉の方でこうなるのかなー」
この言葉はもう、誠の耳には入っていなかった。誠は、美絵の言葉を思い出していた。『そんな事誠に言われなくとも分かっている』この言葉はそこまでではなかった、多分眼と声の質だろう。今までとは違った。本気だった。
「まぁでもさ、私がそんな最低女を忘れさせてあげるよ。だから、ね」
妖艶に満ちた瞳で誠を見て、麗奈は距離を縮めた。麗奈の熱く優しい手が触れると、誠の体はビクリと反応した。何かが溶けていく様な感触。ホッと力が抜けそうになったが、そんな自分が怖くなり誠は麗奈の手を跳ね返した。
麗奈は叩かれた手を抑え、驚いた顔で誠を見た。怖かった、美絵とは違う人にこんな気持ちを抱く自分が。誠の口から、荒っぽい息が吐かれる。
「美絵以外に、抱かれるつもりはない」
意識を強く持つ様に、誠は握り拳を強く握った。
「何言ってんの、もう無理じゃん。振られたんだよ」
麗奈が声を荒げた。誠はこの場から逃げる様に、走り去った。
そして気が付いたら家に居た。自分は逃げて来たのだ。誠は髪の毛を掻きむしった。どうしたらいい?でも美絵には、もう希望など求めてはいけない。
誠は気だるそうに顔を上げ、電気が付いている隣の家を睨む様に見つめた。
大体里志もおかしい、自分に美絵を任せたくせに直ぐに取り戻しに来て。彼女が里志の誘いを断るはずないって、分かっているかの様な感じ。それにまんまと行った美絵。その時はもう、頭の中に誠は存在していなかったに違いない。
誠はふと外に気配を感じ、カーテンを開けた。開けた頃には空はもう夜で、灯りがチラホラしていた。誠が窓を開けたと同時に、美絵の家から男が出て来た。ドアを閉めると、ポケットから煙草を取り出すあの姿。スーツを着た好青年、里志だった。誠の目線に気付いたのか、上を向き手を挙げる。その手が何故か手招きしている様に見えたのは、誠だけなのかもしれない。誠は惹かれる様に、外に出た。里志は、煙を吐きながら吸い終わると吸い殻をしまい誠の方へ顔を向けた。澄ました顔つき、誠は動けなくなっていた。動揺している自分より遥かに、余裕に満ちた顔。誠は自分が恥ずかしくなった。
「場所、変えようか」
里志が静かにそう言い、前を歩く。誠は躊躇いがちに後ろを追った。里志が近くの公園に入り、自動販売機の前に止まる。コーヒーを買うと、誠に差し出した。
「飲めるか?」
カフェオレを差し出し、誠は受け取った。2人はベンチに腰かけた。里志はブラックの缶コーヒーを開けると、一口飲んだ。
「どこから話そうか」
一息ついて、里志は隣に座った、誠を見た。誠は戸惑いながら、チラチラと里志を見る。
「あの、えっと…」
言葉にならない、誠の中ではまだ整理が付いていないのだ。動揺を隠す様に、缶コーヒーを手で転がす。言葉を探す仕草で、唇を舐めた。
「あらかた、堂麗奈ちゃんから話聞いた?」
里志の言葉に、誠は顔を上げた。里志の顔が綻んだ。
「彼女は、尾行してたつもりだったんだろうね。美絵は俺に会って、驚いて見えてなかったみたいだけど」
誠は身を乗り出す。確かに大まかに麗奈が、内容を説明してくれた。
「気付いていたのか?」
「あんなに見つめられてたら、誰でも気づく。まぁ聞かれても良いと思っていたから、気にしてはいないさ」
誠はまず聞きたかった事を、思い切って言ってみた。
「何で、美絵を迎えに来たんだ?俺に任せるって言ったのに」
誠は以前、里志の家で言われた言葉を思い出した。初めて見せた、里志の遣る瀬無い顔が今でも忘れなれなかった。
「皮肉な事に、美絵は俺の初恋だったからだ」
里志は懐かしむ様に、語り出した。
こんなに何もかも恵まれている男が初恋だなんて、年上であり得るのか?誠はそう思った。
「上部だけで、言い寄ってくるやつらは沢山いた。君だって、そうだったんじゃないのか?」
誠に問いかけられ、小さく頷いた。誠も人柄と顔で、決して女に飢えていた訳ではなかった。告白してくる人は数多くいた。2人はそこが共通していた。
「俺は、そんな奴らと日頃の事から逃げたくて遊びで付き合っていた。昔の事から逃げたくてが、正しいかな」
「昔の事?」
「俺は殺人犯だ」
一瞬何もかも止まった気がした。誠の手から缶コーヒーが落ち、砂利道をゆっくり転がった。誠が苦笑いをする。
「なっ何、何言ってんだよ…。冗談言うなら、もっとマシなっ」
「こんなとこで、嘘言って何が変わる?」
里志は至って冷静な口調で、淡々と喋った。誠は唾を飲み込む。
「いずれはバレる。隠すつもりはないし。この事があって、人付き合いは浅くしてた。今もだ」
里志はコーヒーを飲み干し、空き缶を片手で潰した。潰れる音が、静かな公園に響く。
「そんな俺には、美絵は綺麗過ぎた。会った時、壊しちゃいけないものに感じたんだ。一種の憧れや嫉妬も混じった」
誠は黙って聞いた。と言うか、突然唐突に衝撃的な言葉を言うからまともに口が開かなかった。
「綺麗で羨ましいかった。俺は消せない位汚れてる、それとそんな過去を持っていなくて憎らしい。美絵にはそんな感情を抱いた」
里志は下を向いた。多分里志は全員にそう言う感情を持って、それでその事を隠して接していたのだろう。
「何で、さっさつ、殺人何てしたんだよ…」
誠はようやく落ち着き、重たい口を開いた。
「家柄だ。父の方針で、上の奴らそして下からのし上がってくる厄介なやつ。ぜーんぶ纏めて、絞めろって言うな」
里志は煙草に火を付けた。誠は唇を噛みしめる。変に緊張していた。
「父の言葉は絶対で、正しいと10代の頃は思っていた。確かに正しかった。見る見るうちに、剣道の腕は上がるし全国も夢じゃないくらい、優勝の数を挙げれた」
煙を吐く。一緒に何かを出している様にも、誠には見えた。
「でもそうすると、ライバルが出てくる。勝てないやつもやっぱり居る。俺は言われるがまま殺した。初めは体調を崩した。でも次にやった時には何だろうな、ゾクッとしたんだ。快感に近かった」
里志は空いていた、自分の右手を見つめる。
「楽しかったんだ、俺の手でいとも簡単に倒れていく様が。でも大人になっていくにつれて、おかしいと感じて剣道の道から目を背けた」
里志はベンチから立ち上がると、誠から少し距離を置いた。
「例え、剣道から逃げても俺は立派な犯罪者だ。だから、あの時は美絵をお前に託そうとした」
「でも、無理だったのか?」
誠は静かに問いかけた。この時里志は誠とそんなに変わらない、そんな風に見えた。
「智瑛梨ちゃんから、電話で言われたよ。『これ以上、お姉ちゃんを傷つけないで』って。だから取り戻しに来た。けど、だからと言って美絵を幸せになんて出来る立場じゃない」
里志は空を見上げた。
「それに実家と縁を切れば、過去の事は明るみになるのは時間の問題だ。俺は死刑になるかもな」
無理して笑ってるように見える、里志の顔。誠は、目を合わすことが出来なかった。
「その事美絵に言ったのか?」
「言おうと思ったが、言えなくなった。俺について行くって、あんな風に微笑んで言われると無理だ」
誠も立ち上がる。
「でも正直手離したくない。どうすればいいんだろうな、こう言う時って」
言い終わって里志は、可笑しかったのか小さく笑った。
「何て、ライバルのお前に言ってもどうしようもないけどな」
「美絵だったら、例えどんな事があってもお前について行くよ。あいつはそうだって決めたら、曲げない。俺と似てるとこあるから」
言ってて誠は辛かった。何応援しているんだろ、自分はもう美絵には行けないから。もう駄目だから。
誠は拳を握り締めた。それに気づいたのか、里志が近づいて来た。
「お前はこれから、どうする?」
誠は戸惑った。
「分かんない」
誠はボソリと呟く。その横を里志は通り、誠の拳に一瞬触れた。誠は驚き振り向くと、里志は振り向かず歩き夜の道に消えた。誠はそっと触れられた手を触ると、少し生温い感触が残っている様な気がした。
朝4時、美絵は道着に身を包み真剣を握っていた。力強く振り下ろす。道場に、風邪を切る音が響いた。少しも鈍りを見せない、立ち振る舞い。
だが、その静かな空間に誰かが入り込んで来た。
「どう言うつもりだ、美絵」
美絵は振り向きもせず、刀を下ろした。声のトーンと気配で誰だか分かる。
「お父さん」
襖の出入り口に、怒った顔をした美絵の父が立っていた。ゆっくりと娘に、近づいて来る。
「お前には言ったはずだ。もう、真中家には関わるなと」
「好きな人と人生を共にして、何が悪いんですか?」
美絵は父の方に体を向けた。その瞬間、父の手が美絵の頬を叩いた。避けようと思えば避けれた。しかし美絵は逃げなかった。頬がヒリヒリと痛む。
「それは大いに結構!だがな、相手が違うだう!殺人未遂者を旦那にする、そんな話許されると思っているのか!」
美絵は黙っていた。言おうとしている事、それは大体わかっている。
「お前も目の前で見ただろう!そして聞いていた、叔父は殺されかけたんだぞ!そんな奴の家に入るのか!」
「里志さんは、真中家とは縁を切ります!それにお爺様に手を降したのは、里志さんではなく律次さんです!」
「そうだとしても、それを支持したのは紛れもなく真中家の当主だ!縁を切ろうが、その様な勇ましい感情を持った親の子だと言う事実は変えられない」
「私は変えません!」
美絵はキッパリと言い切り、父を睨んだ。父は察すると、溜め息をつき勢い良くその場から離れた。無言で襖を閉める。
父が出て行ったのを見計らって、智瑛梨が入ってきた。湿布を持ち姉に近づく。心配そうな顔を覗かせ、美絵の赤くなった頬に湿布を貼った。頬にヒヤリとした感触が伝わる。
「お姉ちゃん、お父さんの気持ちも理解してね。私は別に構わないけど…」
美絵は日本刀を鞘に納めると、歩き始める。智瑛梨が慌てて、後ろに付いてきた。
「案ずるな、分かっている。そんなに心配するな」
智瑛梨は下を向き、足を止めた。襖に手を掛けた美絵が、ふと振り向いた。
「お爺さんが真中家は、悪投だって言ってた。でもこうなるって思ってたみたい。お爺さんも多分、お姉ちゃんの意見に反対するよ」
美絵は、智瑛梨の頭に手を軽く置いた。
「お爺様の事は私も承知だ。あの様な事があった以上、そうならざる終えない。何にせよ、またなった時は私もここを守る。里志さんの事は、私が説得する」
里志は朝方の道を歩き、自分が宿泊しているホテルを目指した。到着すると、ドアの前で見慣れた男を見つけた。里志は少し怒った顔つきで、近づく。ドアの前で待っていた、律次は里志を見るなり呆れた顔をした。
「何をやっておられるのですか?」
里志との距離を縮める。里志は軽く、律次を睨む。
「あの女とやり直すなど、誰がいいと言いました?」
「俺は、真中家の操り人形じゃない」
律次の口元が、微かに緩んだ。里志はそれを見逃さなかった。
「まだ操り人形ですよ。貴方は真中家の当主の座を降りると、言うのでしょう?そうなると、分かりますよね」
「ああ…」
重たい口を静かに開く。分かっている、これまでの過去が明るみになる事くらい。
「そうなられたくないのであれば、従ってください。旦那様は、貴方を護りたいとまだ思ってらっしゃっているんですよ」
それは、自分の息子だからか。或いは、まだ使えると思っているからだろうか。どちらにせよ、もう沢山だ。だとしたら、自分はどうしたら良い。誠に先ほど訪ねた言葉が、脳裏を横切る。
美絵を悲しませたくない、悲しませないでと言われ心が揺らぎ戻って来た。でもそれだけの気持ちじゃ、どうにもならない。
「じゃあこうしましょう。貴方が美絵様に取り入り、隙を見て当主をどうにかして下さい」
「また同じ条件で、行けってか?」
初め美絵の家に向かう目的がそれだった。また同じ事を繰り返せと言うのか。清高は溜息をつき、髪をかきあげる。里志の真横を通り過ぎると、車のノブに手を掛けた。
「過去をバラされたくなかったら、従うべきです。そうしなければ、貴方は生き残れませんよ」
そう言い残すと、清高は運転席に乗り車を走らせた。
里志は苦い顔をして、眼鏡を取るとポケットに入れホテルに入った。
学校で誠は授業中、何度か先生に怒られた。理由は、話も聞かずボーと上の空だったからだ。全く、自分が情けない。
休み時間、誠は1人屋上にいた。もう秋で肌寒い。そこに、湖太郎が姿を見せた。
「どうしたんだよ。お前変だぞ、女子が様子おかしいって噂してたし」
他のクラスにまで、誠の事が広まるのか。誠は下を向いた。
「何時もの、何つーかほらっ」
「湖太郎、星野さんとはどうなった?」
湖太郎の言葉と重ねる様に、誠は別の話を被せた。まるで話題をそらすかの様に。湖太郎は唾を飲み込む。誠の表情が、いたたまれなかったからだ。湖太郎は言葉を探しているのか、目をしきりに動かし躊躇いながら口を開いた。
「付き合う事にしたよ…。誠は、その……美絵ちゃんとは…」
「振られたよ。当然だよな、鼻っから相手にされて無かったし。大人には敵わない、それに相手は剣道一家の頂点かつ許嫁。無理な話だ」
高飛車な声で無理に、喋っている声が痛々しい。湖太郎は焦り声が裏返った。
「何言ってんだよ。それでもお前は、負けずに向かってただろう。あの気力はどうしたんだよ」
「もう無理なんだよ!沢山なんだ、何度やっても振られて、疲れたよ。勝てっこないんだ、美絵が惚れた男には!」
誠は弾かれた様に、声を上げた。瞳に熱いものがこみ上げてきたが、ぐっと堪える。
「何だよそれ。やっぱり、今日の誠かっこ悪いよ」
湖太郎は静かに、そう言い残すとその場を去った。
湖太郎が階段を降りて行くと、1人の女子が立っていた。顔は少し怒っている。
「何やってんのよ。誠君、ますます落ち込んじゃったじゃない」
麗奈は、湖太郎を睨みながら言う。どうやら、盗み聞きしてたみたいだ。
「そんな事言うなら、慰めて取りいったら?欲しかったんだろ、誠の事」
麗奈は溜息をつき、めんどくさそうに腰に手を当てた。
「いっつも、慰め役じゃない。こんな事したって、どーせ振り向いちゃくれないわ。あのバカ、口では諦めたって言ってるけど、まだ好きに決まってる」
悔しそうに、麗奈の口元が歪んだ。その姿を黙って、湖太郎は見つめる。
「美絵なんて、最初っからいなければ良かったのに…」
智瑛梨は1人、図書室に居た。机にかじりつきながら、必死にペンを動かす。
何でよりによって、宿題を忘れてしまったんだろう。次の授業で提出しなきゃいけないのに…。
イライラしながら書いてて、隣に誰かが来たことに気づかなかった。
「何やってるの?」
男の問い掛け智瑛梨は急いで終わらせなきゃいけないプレッシャーで、顔を確認せず答えた。
「宿題よ、あーもう私ったら馬鹿みたい」
ブツブツ言いながら、ペンを走らせると分からないところに到達した。益々頭にくる。
「あっ、僕それ得意だけど教えてあげよっか?」
「良いってば!自分でやるし、こんなもんだ…い……」
智瑛梨は何なのよと思いながら、ゆっくり顔を上げ男を見て、一気に顔が赤くなった。開いた口が塞がらない。何と真横にカナタが居て、しかもずっと声をかけて来て居たのだ。
「かっか、か、カナタ君…」
智瑛梨の慌てた顔を見て、カナタは笑顔で首を傾げた。カナタが片手を差し出す。
「見せて、ノート。良かったら、僕が解いてやるよ」
おずおずと智瑛梨は、ノートをカナタに渡す。するとスラスラと素早くペンを走らせた。空白がどんどん埋まって行く。智瑛梨は唖然としながら、横で見つめる。ものの10分で解き終わり、カナタがノートを返す。
「どーぞ。間に合いそう?」
智瑛梨はノートをまじまじと見つめる。読みやすい字、しかもこんな短時間で解けるなんて。驚きでしかなかった。
「うん、ありがと…。あっそうだ、お礼。何がいいかな?」
言われてカナタは、キョトンとした。智瑛梨は取り乱しながら、言葉を続ける。
「えっと、ほら私助かったし。これ急いでたから、本当。そうだ、明日クッキーとか焼いて…」
「じゃあ、泣いて見て」
カナタがニヤリと笑いながら、唐突に言ってきた。智瑛梨は、言葉を失う。
いきなりそんなこと言われても、大体何で泣かなきゃいけないんだろう…。
カナタは椅子から立ち上がって、智瑛梨を見下ろした。
「なーんて、いきなり出来るわけないし冗談だよ。只さ」
カナタは歩き出し、彼女に背を向けた。その姿を智瑛梨は椅子に座りながら、見入いる。
「前、泣き顔見た時さ綺麗だなって思って。また見たくなった、それだけ」
ドアの所まで歩き、チラリと智瑛梨を見る。智瑛梨は聞いてて、顔が火照ったのを感じた。真面にカナタの顔が見れない。その表情を見てカナタは、クスリと笑うと図書室を出た。
帰りの時間、智瑛梨は姉の美絵と肩を並べて歩いていた。
智瑛梨はルンルン気分で、道を歩いていた。
「お姉ちゃん、ヤバイよ。私、カナタくんに綺麗だって言われちゃった」
頬を赤く染め、スキップしながら美絵の前を歩く。何も反応が返ってこないので、振り向くと美絵はボーと歩いてるだけだった。智瑛梨がバックし、美絵の隣に並ぶ。
「どうしたの?ボーとして」
心配した声で、聞くとそれに気づき美絵は慌てて否定した。
「あっいや、別に…。そっそうか、良かったな」
苦笑いを智瑛梨に向け、そそくさと先を歩く。智瑛梨は頬を膨らませた。
「誠くんと何かあったの?それとも里志さん?」
「気にするな、そんな大したことではない」
「でも、何かあったら言ってよ。頼りないかもしれないけど、姉妹なんだから」
膨れた妹に、美絵は小さく笑みを浮かべた。
「本当に、大丈夫。だから」
美絵が玄関の柵を開けようと手をかけると、隣から音がした。美絵が振り向くと、相手と目が合う。
誠も美絵と同じタイミングで、自分の家の柵に手をかけていた。
見つめ合ったまま、ほんの数秒黙り込む。後ろからついて来ていた、智瑛梨も顔を青白くし立ち止まる。
誠は聞きたい事や言いたい事が、山積みになるくらいあったが唇を噛み締め逃げる様に家に入った。
「まこっ…」
誠が家に入る直前、美絵が何故か呼び止めたがそれさえも無視した。目だけ動かし、一瞬美絵の顔を見た。困った様な瞳に、微かに言いたげに揺れる唇。
何でこんな切なそうな顔をするのだろう。また揺らいでしまいそうになる自分が、耐え切れなかった。気持ちを押し殺し、家に逃げ込む。
誠は駆け足で自分の部屋に行くと、少し気になったのかそっとカーテンを小さく開ける。その姿に気づきもせず、美絵は智瑛梨と普段通り家に入った。
誠はモヤモヤした。最後に見せたあの表情は、一体自分に何を言いたかったのだろう。
美絵にとって誠は、何でも話せる唯一の存在。この関係はこれからもずっと続くと思っていた、恋という2文字が無ければ…。
美絵は俺の事、嫌いとも好きとも言っていいない。でも恋人にも結婚相手にも選ばれなかった。だからこの気持ちは、断ち切らなきゃいけない。これ以上したら、泣かす相手は間違いなく自分だ。だから、だからこれ以上彼女を困らせてはいけないんだ。これまで子供だった、里志が来てから全部の行動がカッコ悪く見えた。こんなの俺じゃない。
誠は部屋の電気も付けず、部屋の隅で蹲った。
あれから1週間たった。美絵は家でボーとしていた。広げていたノートにも目もくれず。里志は東京での出張も終わり、地元に帰ってしまった。
自分は着いて行くと、言ったもののその先はまだ分からない。着いて行くと言ったとき、彼の顔は少し無理して笑っていた様に見えたのは自分だけだったのだろうか。何か他に心配事でも?と考えてしまう。
それからあの事、誠の事だ。あれだけ自分に好きだと押してきていたのに、あっさりと振ってしまい。あれから会話すらしていない。気まずくなってはいる。家が隣同士というのが、意外とこたえる。必ずどっちかが見えてしまう距離感。いっそ、家も遠くてクラスも別だったらこんなに辛くはなかったのに。
土曜、学校も休みで美絵は家に居た。美絵は携帯を操作し、連絡帳を開くと里志の所で手を止めた。
微かに指が震える。携帯を閉じようとしたその時、着信音が鳴り響いた。ディスプレイを見ると、里志だった。美絵は唾を飲み込む。そっと、通話ボタンを押した。聞きたかった声が聞こえてくる。
『美絵、いま家か?』
安心する、心臓が静かに脈を打ち始めた。顔がつい綻んだ。
「はい」
『少し用事があって、今東京駅にいるんだが…。ちょっと会うか?』
明るい声。美絵は頷きながら返事をし、電話を切るとジャンバーを持ち外に出た。
駆け足で駅に向かい、着くと左右を見る。ふと、近くで里志の声が聞こえた。私服の里志が、手を振っている。美絵はその姿を追った。美絵が里志の前に立つと、彼は笑顔を見せた。
「相変わらず人凄いね。場所、変えよっか」
駅だから当たり前、人の数が凄かった。里志の言葉に、2人は動こうとした。その時里志は誰かに、肩を二回叩かれた。
「真中里志、だね」
重みがある、男の声。里志は動けなくなった。美絵もその男を見つめる。スーツを着た30くらいの人と後ろには、強面の40代の男。
「君を10年前に起きた大量殺人の容疑で、逮捕する」
その言葉を聞いて、美絵は半笑いの顔を浮かべた。
里志の顔には普段見せない、焦る顔。里志はゆっくり振り向いた。男2人は、絶対逃すまいという顔が見て取れる。
「なっ、どっから出た情報っ」
里志が男の方に体を向ける。その瞬間、手錠をかけられた。軽いはずなのに、里志には手首に重みを感じた。里志は目を動かした。ふと、ある人物に集中した。駅のホームの柱に、こちらを見て笑みを浮かべてる若い男。清高だった。いつもと変わらないスーツ姿 を身に纏い。里志の目線に気づくと、口を軽く動かしその場を去った。何を言ったかは、聞こえなかった。だが里志に向かって「馬鹿」と口パクで、言って居たのは見て取れた。情報を流したのは、律次か?それとも親父?この事はその2人以外知る奴はいない。
動かなくなった里志を、男は引っ張るようにして連れて行く。美絵はその姿を見て、声をあげた。
「そんな、嘘ですよね?里志さん私に、言ったじゃないですか。ずっと一緒にいよって。これじゃ、いれないじゃないですか」
涙声の悲痛の叫び。里志は目を閉じた。美絵がとっさに駆け寄ろうとした。それを止めようと、後ろにいた女の刑事が、美絵の腕を掴む。
逃げても仕方ない、と言うか逃げ場がない。これは紛れもなく真実なのだから。
里志は男に捕まれ美絵の真横を、通り抜けた。
「ごめん」
すれ違いざま、小さく動いた唇で里志は美絵に言った。美絵は信じられないと言った顔で、彼を目で追う。やがて車に乗って去っていくと、美絵を掴んでいた女性もパトカーで去っていった。
「行ってしまいましたね」
ハッとし、美絵は声がした方を見た。いつの間には近くに清高が立っていた。
「貴方がハメたのですか?」
美絵は清高を睨みつけた。清高は、ニヤリと口元を動かす。そして嗜めるように、美絵を見つめた。
「さて、どうでしょう。でも、こちらの方が被害者なんですよ」
清高は語りながら、美絵の顎を持ち上げる。
「貴方が里志様を真中家から離れさせ、鈴風家の物にしようとしたから。話が漏れてしまったのですよ」
美絵の瞳が大きく開かれる。
「大体里志様もいけないのです。こんな子供に、うつつを抜かすなど。私たちの目的は、貴方の叔父を殺す事で娘に恋しろとは言ってなかったのですから」
「私が悪いという事ですか…」
「ええ、無ければ逮捕されることもなかった。真中家から外れるということは、こういう事を示すんですよ」
清高の手が美絵から離れる。ぞくりとするくらい、冷たい手だった。
「それはそうと、知りたくはありませんか?里志様が貴方と会う前、どう言う生き方をしてきたか」
美絵の心臓が、ドクっと波打った。確かに知りたい気持ちはある、けど…。
「どうせ、これから会えるか分からない。あの人の口からは、決して聞けませんよ」
いつ牢屋から出れるか分からない、里志からは当然聞くことなど不可能。と言うことは、もうこれから一生会えないのか?美絵は思っただけで苦しくなった。と同時に、湧き上がってくる好奇心。それなら知りたい。
「しっ知りたいですけど…」
迷い、美絵の目が泳ぐ。清高が不意に、距離を縮めて耳元で囁いてきた。
「1つ、条件があります。私に抱かれなさい。そしたら、話してあげますよ」
美絵はとっさに、清高と距離を離した。清高は小さく笑い声を出した。
「別にどうこうしようなんて、考えてませんよ。私も知りたいのです。何故里志様が、貴方一筋になった理由を」
だからって好きでもない人に、身を預けたくは無い。美絵は怒りを露わにした。
「結構です!」
美絵は、清高に背を向け歩き出す。すると、清高は美絵に聞こえる声で呟いた。
「今まで何人殺めたか、そしてそれが何故10年もバレなかったか。あの様な悪人が、剣道界でトップになれたか…知りたく無いですか?」
美絵は振り返りもせず、足を止めた。しかし、また歩き出す。
「好きな方のことなら知りたいと、思いませんか?まぁいいでしょう。でも知りたくなったらいつでも、言ってくださいね」
清高はまるで楽しむ様に語り、美絵とは反対方向に進んで行った。美絵は首だけを動かし、彼の後ろ姿を目で追った。
日曜日、美絵は気分が悪かった。目の前で恋人が逮捕され、そのままどうなったか分からない状態。無意識に見た鏡には、目が腫れた自分が虚に映る。なんて酷い有様だ。ヨロヨロと階段を降り、廊下を歩くと居間からテレビの音声が聞こえた。朝のニュースが流れている。美絵はふと、足を止めた。
『真中明彦の息子、真中里志25歳が昨日殺人の容疑で逮捕されました』
美絵は息苦しくなった。聞きたくは無いが、どうなっているかは知りたい。
「嘘でしょ…」
聞いていた智瑛梨の震えた呟きが、襖越しに聞こえる。
『剣道界では有名な真中里志は10年前、何人もの剣道後継の人達を自分の手で殺めており、人数は10人以上居たそうです。取り調べでは里志容疑者は、「間違えありません」と容疑を認めて居ます』
男のアナウンサーが、淡々と文章を読み上げる。
『真中家と言えば、剣道では日本で1位、世界では10位と華々しい結果を出されている方ですよね。それと顔の美しさから、女性ファンも多かったですし。とても残念な事ですね』
女性のコメンテイターの人が、感情を入れながら喋る。
美絵は耳を塞ぎ、足を早め何故か外に出た。堪える様に、唇を噛みしめる。
「美絵、大丈夫?」
美絵はとっさに声がした方を向く。誠が心配そうに、こちらを見ていた。
「酷い顔してんじゃん。里志さん、バレるの早かったしね…」
その言葉に、美絵の心臓が高鳴った。その言い方まるで…。
「お前は…知っていたのか…」
ボソリと呟くような声。誠は、聞こえなくて耳を傾けた。そのそぶりを見て、美絵は声をあげた。
「知っていたのか!あの事全部!」
また私だけ、知らなかった。何で里志さんは、自分に嘘を付くのだろう。言えない事くらい誰にでもある。でも何で自分には言わず、他人には言えるのか…。
美絵は理解できなかった。
誠は少し狼狽えた。
「全部は知らないさ。でも自分は殺人犯で、それを隠す為他人とは距離を置いて付き合ってた。そういう事は聞いたけど」
美絵の瞳が大きく開く。
「では私は、距離を置かれてた存在で…誠は違ったって事か」
誠は震える美絵に、慌てて否定した。
「そうじゃない、好きだから言えない事だってある。言ったら、傷つくから」
誠は語りながら、地面を見つめた。里志の気持ちは、痛いほど分かる。
自分もそうだから。
「誰だって嫌だよ。好きな人の泣き顔、見るのは…。俺だって、美絵のそういう顔見たくないし」
美絵は静かに誠を見つめる。誠はゆっくりと顔を上げ、苦笑いした。
「でも俺達って、美絵を泣かせてばっかだな。矛盾してるね…本当、ごめん」
「誠、わっ私っ」
「でももう終わりにするから、俺は美絵をもう追っかけない。これ以上はもう…」
どうせ無理なんだ、止めよう。誠は区切りをつけたかった。美絵にはもう決めた人が、居るんだから。
美絵の瞳には、枯れたはずの涙が頬を伝って居た。誠はその顔が何故か綺麗に見えて、目が離せなくなった。
「やだっ…お願い…。1人に、1人にしないで……」
美絵は誠に縋るように、弱々しい声を出した。里志との交際を家族から反対され、それでも好きで。でも今叶わなくなった、そこからの誠の発言。美絵は置いてけぼりにされた、猫のような気分にされた。
自分には居場所がない。
「誠に、居なくなられたら私…。もう…」
誠は無意識に、美絵の方まで歩きいつのまにか抱きしめて居た。何だろう、今にも崩れてしまいそうに見えたから。それを待っていたかの様に、美絵は擦り寄ってきた。まるで待っていたかの様に。
諦められない、そうさせるのは美絵の行動。
誠は美絵の頬を、優しく両手で包み込んだ。冬の寒さが、誠の体を彼女に触れた事で熱を持たせた。
怖かった、まだ美絵に支配されるのか、無意識に…。
誠は我に返り、素早く手を退けた。美絵の顔を、まともに見れない。
「友達ではいるよ。でもそれ以上は、望まない。そういう事だから。別に…関係を断つ訳じゃないし」
何かを押し殺す様に、語る。美絵は躊躇ったが、誠と少し距離を置いた。
「ごめんな…取り乱して。ありがとう」
美絵は深く聞かず、誠を見る事なく家に入って行った。
誠は美絵が居なくなると、1人外を歩き始めた。
しばらく歩き、前を見ると見慣れた人物が目に入った。立ち止まる。
「あっ誠君…」
麗菜だった。手には、コンビニ袋を下げている。誠は無言で近づき、麗菜を抱き締めた。麗菜の手から、ビニール袋が落ちる。誠の体温が触れ、麗菜の心臓は激しく波打つ。数分したら離れ、誠は少し考え込んだ。
「やっぱり、火照らないや…」
「えっ…」
誠の言葉に、麗菜は唖然とした。
「諦めるには、時間…掛かりそうだな…」
誠はボソリと呟き、また歩き出す。麗菜は慌てて落としたものを拾うと、彼に向かって叫んだ。
「なっ何なのよ!」
勝手にドキドキしてた自分が、馬鹿みたいではないか。
麗菜は、恥ずかしくてたまらなかった。
「ごめん。やっぱり堂を好きになる事出来ないってことが、証明されたって事かな」
誠は軽く遇らうと、足を動かした。麗菜はそんな後ろ姿を、睨みつけた。
「何よ、誠君の馬鹿」
麗菜は小さい声で、毒を吐き背を向けた。
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