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すずらん通りに謎の老人が現る
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美羽がプロレスデビューを果たしてからというもの、美羽が働いている夜の街にも少し活気が出てきたようだ。おてんば駅の東口にある「すずらん通り」。クラブやスナックが居並ぶ通りの一郭に、美央が勤めるキャバクラ「おてんば愛」があった。
すずらん通りのシンボルでもある桜は、今では新緑の衣装をまとい始めていた。ぷーんと香る緑の匂い。黄緑色に輝く蔵王山からは、シルクのようなやさしさに包まれた風が小躍りを見せていた。
美羽が出勤しているのは、月・火・木・金・土曜日の五日間。水曜日だけは、娘の弥生をバレエ教室に通わせているので、美羽自身、その送り迎えのために休みをもらっていた。勤務時間は日によって替えてもらう以外になかった。昼間は昼間で別な仕事についているため、やりくりは大変なのだ。美羽自身、常に疲労という名のドレスを着込んでいるかのようだった。キャバクラでは、できるだけウーロン茶を飲むことにしているが、TPOによってはビールや水割りを飲まざるを得ず、それがジャブのごとく体(特に肝臓)にダメージを与えているのであった。体調不良は、もはや当たり前の状態で、薬を飲み飲みしながらのキャバクラ勤め。とはいえ、お客さんの前では決して暗い顔を見せるわけにいかない。生きていくうえでは、男だけじゃなく、女も辛いのだ。
「やーねー、かんちゃんったらエッチなんだから。私のこと、あまり困らせないでぇ。そんなに困らせるんだったら、お返しに〇✕△□✕△◎□しちゃうわよ」とかなんとか、常連の男性客らに話を合わせながら、適当にふるまう術(すべ)は、美羽にとってお手のものだった。会話の流れに合わせて、男どもをいい気分にさせるだけで、時給ン千ン百円。気を遣うことは多いが、その一時間一時間が自分と娘の生活を支えているんだと思うと、もはや全力で疑似恋愛を演じる以外になかったのである。
が、しつこい酔っ払いはいるもので、今度の日曜日に会ってくれないかとか、車で迎えに行くので住所を教えてほしいとか、一歩間違えばストーカーじゃないの?と思える男性は多かった。なかには巧妙な男性がいるもので「ミーちゃんちの近所で、おいしいラーメン屋さんはある?」なんて聞いてきたうえで、美羽の自宅を推察し、「近くのコンビニまできたから。これから会おう」と連絡してくる輩までが現れた。えー、それってストーカー行為だから。勘弁して。
店内で酔っ払い男の度が過ぎるときは、マル秘のサインを出してママに助け舟を求めることになっているが、そこは百戦錬磨のママのこと。まるで赤ん坊をあやすかのように男どもを諭し、しまいには「ママ、ごめん」と謝らせたうえで、ニューボトルを一本入れさせるのだから、まさにママは強しであった。ドンペリ一本、毎度あり。チャリンチャリンなんてさ。
キャバクラ「おてんば愛」の座席数は四十席ほど。この日は四月半ばの土曜日で、もしかするとお花見の流れもあるのだろうか、七時の開店と同時に、お店はほぼ満杯であった。なかには最初から酔っ払っているオッさん連中もいて、ボトルバックが収入に直結する美羽らキャバ嬢にしてみれば、この日は鴨がねぎを背負ってきたようなものだった。娘の結衣のために、えんやこーら。ド派手な音楽が流れる中、美羽は稼ぎのチャンスとばかりに臨戦態勢を整えた。
「ミーさん、ミーさん。十一番テーブルにお願いします」というコールに従い、美羽が十一番テーブルに赴くと、そこにはちょっと怪しげな風貌の老人と、いかにも人のよさそうな見た目四十歳ぐらいの男性が座っていた。ミーというのは、もちろん美羽の源氏名であるが、もしかすると、このふたりは親子だろうか。いやいや、親子にしては似ていないし、雰囲気がまるで違う。キャバ嬢歴四年半の美羽の直感でいうと、年配の男性はその昔特殊な業界にいて、今はひっそりと隠遁生活を送っているイメージ。まさか芸能界ではないだろうが、それに近い特別な世界を生き抜いてきたような異種独特の匂いを感じるのだ。ふたりともエッチっぽくないのは、せめてもの救いかしら。
「ミーで~す、よろしく」と笑いかけながら、グラスを打ち鳴らすと、「今日はジョニーさんが、冥途のみやげに地元のキャバクラに行きたいというので連れてきました。ていうか、僕自身、こういうお店にくるのは初めてなので、どうしていいのかわからないんだけどね」といい、四十歳前後とおぼしき男性が、やたらどぎまぎしながら天然っぽい笑顔を浮かべた。ひょっとして自由業なのだろうか、学生時代の延長のような服装で、ヘアスタイルもぼさぼさであった。男性の名前は、どうやらショー君らしい。よくよく聞けば、翔というのが本名のようだ。
「ショー君。僕はさ、生まれ故郷に戻ってきて、初めておてんば市のよさを知り、毎日が心を洗われるような気分なんだ。プロレスという独特の世界で生きてきた経験を糧に、何でもいいから恩返しがしたいと本気で思っている。このお店の名前じゃないけど、“おてんば愛”はしっかりと僕の中にも息づいていたんだね」。
ジョニーさんなる人物の「プロレス」という言葉に、すかさず美羽が反応したのはいうまでもなかった。今の美羽はプロレスのことを考えるだけで、全身に熱い想いがほとばしるのであった。
「あっ、あの、プロレスってプロレスのことですよね。男子のプロレスですか?」と訊き返す美羽に、ジョニーはニッとほほ笑むと、「女子」とだけ答えた。あまりの素っ気なさに、美羽は「えっ」と思ってしまった。
なんなの、このおじさん。女子のひとことだなんて。女子プロレスとは、どういう関係があるのかしら。年齢的にはおじいさんといってもよかったが、一体何者なの? 単なる冗談よね、きっと。
とにかく生活のため、つけ焼刃のような状況でプロレスの道に突き進んでいる美羽にとって、女子プロレスに対する予備知識は皆無に等しかった。ジョニーといわれても、誰さん?という感じだったのだ。
「ここにいるジョニーさんって、ほんとうはすごい人なんだ。今はタヌキをかぶっているけど、プロレス界では超有名なんだから」というショー君に対し、「タヌキじゃなくてネコでしょ」とジョニーさんがいい直した。「あれ、ネコだったかな」とかなんとか口にしながら、「えへへ」と笑うショー君は正真正銘の天然かもしれない。ハート的にどうやら悪い奴ではなさそうだ。
自分がおてんばプロレスのメンバーであることは、ひた隠しにしながら、キャバ嬢のミーが訊き出した限りでは、ジョニーさんなる男性は、やはりただ者ではなかった。どうやら女子プロレス界きってのメジャー団体・ジャパンなでしこプロレスの創設者。デンジャラス歌子をはじめとする名レスラーの生みの親。第一線を退いてからは、千葉県の柏市で隠遁生活を送っていたそうだが、やがてジョニーさんの生まれ故郷であるおてんば市内で、もうひと花咲かせるべく、謎の行動をとり続けていたようなのである。こうなったら、あとでそう。ジョニーさんのことをもっと詳しく調べてみるしかないわね。
ショー君のお父さんとジョニーさんが、小中学校から高校時代にかけての同級生という関係もあり、この日は“冥途のおみやげ”として、息子のショー君がジョニーさんのことをキャバクラに連れてきたらしい。そんな偶然のタイミングで、美羽がテーブルの指名を受けたのである。
たしか何かの映画で人と人が出会う確率は、それこそ〇・〇〇〇三パーセントぐらいでしかないという話を聞いたことがあるが、まさにこれこそが奇跡の出会いなのかもしれなかった。美羽にとっては、その後の運命を変えることになるジョニーさんとの出会い。天然のショー君が続けた。
「僕とジョニーさんには絶賛応援中の女子レスラーがいて、それがストロングマヤさんという女性なんだよね。マヤさんは地元の仲町商店街で、ごく普通にブックカフェを営んでいるんだけど、これがまた強いのなんのって。いっそのことブックカフェを閉じて、本物のプロレスラーになればいいのに」。
「えっ、マヤさんっていうお名前、たしか聞いたことがあるような――」と美羽は思ったが、よくよく聞けば、このショー君とマヤさんは同級生らしい。「中学生の頃は、本好きのおとなしい女子だったのに、まさかプロレスラーになっちゃうなんて思わなかったよ。ま、プロレスラーといっても、おてんば市内のイベントに出ているだけなんだけどさ」。
お酒は弱いと見えて、たかだかコップ一杯のビールで、顔をまっ赤にしながらショー君がしゃべり始めた。それなりのお年であるはずのジョニーさんの方が強いのか、こちらは早くも水割り三杯目であった。おっ、これは強いと思っていたら、案のじょう、ジョニーさんの口からは「次、チェイサーでね」という言葉が飛び出した。「ちぇっ、いいさー」とかなんとかいいながら、ショー君がおどけてみせたが、それを無視するかのようにジョニーさんが続けた。
「マヤ君のいいところは、天性の運動神経だろうな。おそらくは自分でも気づいていなかった機敏さ。それがリングの上で表現されている。彼女があと十歳若かったら、本物のプロレスラーとしてデビューできたかもしれないね。じつに惜しい」。
マヤさんという地元発の女子プロレスラー。たしかおてんば市の広報誌の「元気印の市民たち」のコーナーでとりあげられていたような気がする。
本物のプロレスラーというワードに、美羽の胸は高鳴った。そうそう。自分も本物のプロレスラーをめざせばいいのよ。このジョニーさんという男性が、ほんとうに女子プロレス界の名プロモーターだとすれば、お願いする価値はありそうだ。女一匹現役のキャバ嬢。弥生のためにも、自分のためにも――。
このタイミングでカミングアウトするのもどうかと思ったが、今を逃したら、もうあとはないだろうという想いから、美羽は心を決めた。
「お願いです! 私をほんまもんのプロレスラーとして売り出してください」といい、美羽がジョニーさんに頭を下げるまで、そう多くの時間はかからなかった。キャバクラという閉ざされた空間の中にあっては、ほとんど似つかわしくないアプローチであったが、美羽としては自分の想いをストレートに伝えただけであった。
「えっ、何!? 君はプロレスに興味あるの?」と問いただすジョニーさんに、美羽は想いのたけをぶつけた。
シングルマザーの自分には、目に入れてもいたくないほど、かわいくて仕方のないひとり娘がいる。娘のためになることであれば、たとえ火の中、水の中、自分はどうなってもいいと思っているのだが、一にも二にも生活ができない。働けど働けど――というよりも、働けば働くほど、託児にかかる費用がかさみ、生活費はおろか娘と過ごす時間もないという二重苦に陥っている。それこそが、今の自分の置かれた状況であること。
かくなるうえは一発逆転を狙って、ローカルプロレスのスターをめざしたい。おてんばプロレスの美央さんやジュリーさんのように、自らの夢を切り拓きながら、世間並み程度の幸せをつかみとりたい。自分の“女”が武器になるかどうかはわからないけど、現役のキャバ嬢でプロレスラーというプロフィールはおもしろいと思うんだけど――。
プロレス、プロレス。今はプロレスのことしか思い浮かばない。プロレスで成功し、必ずや娘のことを守ってみせる。
そんな美羽の話を聞きながら、冥途のおみやげに地元のキャバクラを体験したジョニーさんは冥途のおみやげに、もうひとりぐらいスター選手を育ててみるのもありかな、と考え始めていたのであった。ジャパンなでしこプロレスという団体を興(おこ)し、幾多の名選手を育てあげてきたジョニーさんの中には、どうやらスター育成のための方程式ができあがっているようであった。
「現役のキャバ嬢がプロレスラーだなんて、じつにおもしろい。だけど、何も“女”を武器にする必要はないんじゃないかな。女を超えた女。そんな立ち位置でいた方が受けるんじゃないの。
ほら、魚の中には、一生の間に性別が変わってしまう仲間がいるんだよ。雌として生まれたのに、途中から雄に変わる。これを雌性先熟(しせいせいじゅく)というらしいが、いってみれば強くて大きい雌だけが雄になれるんだ。その意味でいうと、君なんかは女子を圧倒するぐらいの雑草魂で、のしあがる姿が似合っている。一度はセンセーショナルなデビュー戦を果たしたのであれば、ひとまず消息を絶って、その後謎の覆面レスラーとして現れるのもおもしろいよなぁ」というジョニーさんの言葉に、「あっ、ジョニーさん、その気になったかも」とショー君が吠えた。二杯目のビール。ショー君は、早くもろれつがまわらなかった。
当のジョニーさんは目を細めながら、琥珀色の液体をのどに押しやるだけだったが、女子プロレス界のストーリーテラー、それがジョニーさんの真骨頂でもあるのだ。ロッキー美羽の出世物語。そんなおぼろげなビジュアルが、ジョニーさんのハートの中に浮かびあがっていた。
「ジョニーさんもショーさんも、ミーのことをよろしくね」といい、蠱惑的な笑みを浮かべながら美羽が乾杯攻撃を仕かけた。
すずらん通りのシンボルでもある桜は、今では新緑の衣装をまとい始めていた。ぷーんと香る緑の匂い。黄緑色に輝く蔵王山からは、シルクのようなやさしさに包まれた風が小躍りを見せていた。
美羽が出勤しているのは、月・火・木・金・土曜日の五日間。水曜日だけは、娘の弥生をバレエ教室に通わせているので、美羽自身、その送り迎えのために休みをもらっていた。勤務時間は日によって替えてもらう以外になかった。昼間は昼間で別な仕事についているため、やりくりは大変なのだ。美羽自身、常に疲労という名のドレスを着込んでいるかのようだった。キャバクラでは、できるだけウーロン茶を飲むことにしているが、TPOによってはビールや水割りを飲まざるを得ず、それがジャブのごとく体(特に肝臓)にダメージを与えているのであった。体調不良は、もはや当たり前の状態で、薬を飲み飲みしながらのキャバクラ勤め。とはいえ、お客さんの前では決して暗い顔を見せるわけにいかない。生きていくうえでは、男だけじゃなく、女も辛いのだ。
「やーねー、かんちゃんったらエッチなんだから。私のこと、あまり困らせないでぇ。そんなに困らせるんだったら、お返しに〇✕△□✕△◎□しちゃうわよ」とかなんとか、常連の男性客らに話を合わせながら、適当にふるまう術(すべ)は、美羽にとってお手のものだった。会話の流れに合わせて、男どもをいい気分にさせるだけで、時給ン千ン百円。気を遣うことは多いが、その一時間一時間が自分と娘の生活を支えているんだと思うと、もはや全力で疑似恋愛を演じる以外になかったのである。
が、しつこい酔っ払いはいるもので、今度の日曜日に会ってくれないかとか、車で迎えに行くので住所を教えてほしいとか、一歩間違えばストーカーじゃないの?と思える男性は多かった。なかには巧妙な男性がいるもので「ミーちゃんちの近所で、おいしいラーメン屋さんはある?」なんて聞いてきたうえで、美羽の自宅を推察し、「近くのコンビニまできたから。これから会おう」と連絡してくる輩までが現れた。えー、それってストーカー行為だから。勘弁して。
店内で酔っ払い男の度が過ぎるときは、マル秘のサインを出してママに助け舟を求めることになっているが、そこは百戦錬磨のママのこと。まるで赤ん坊をあやすかのように男どもを諭し、しまいには「ママ、ごめん」と謝らせたうえで、ニューボトルを一本入れさせるのだから、まさにママは強しであった。ドンペリ一本、毎度あり。チャリンチャリンなんてさ。
キャバクラ「おてんば愛」の座席数は四十席ほど。この日は四月半ばの土曜日で、もしかするとお花見の流れもあるのだろうか、七時の開店と同時に、お店はほぼ満杯であった。なかには最初から酔っ払っているオッさん連中もいて、ボトルバックが収入に直結する美羽らキャバ嬢にしてみれば、この日は鴨がねぎを背負ってきたようなものだった。娘の結衣のために、えんやこーら。ド派手な音楽が流れる中、美羽は稼ぎのチャンスとばかりに臨戦態勢を整えた。
「ミーさん、ミーさん。十一番テーブルにお願いします」というコールに従い、美羽が十一番テーブルに赴くと、そこにはちょっと怪しげな風貌の老人と、いかにも人のよさそうな見た目四十歳ぐらいの男性が座っていた。ミーというのは、もちろん美羽の源氏名であるが、もしかすると、このふたりは親子だろうか。いやいや、親子にしては似ていないし、雰囲気がまるで違う。キャバ嬢歴四年半の美羽の直感でいうと、年配の男性はその昔特殊な業界にいて、今はひっそりと隠遁生活を送っているイメージ。まさか芸能界ではないだろうが、それに近い特別な世界を生き抜いてきたような異種独特の匂いを感じるのだ。ふたりともエッチっぽくないのは、せめてもの救いかしら。
「ミーで~す、よろしく」と笑いかけながら、グラスを打ち鳴らすと、「今日はジョニーさんが、冥途のみやげに地元のキャバクラに行きたいというので連れてきました。ていうか、僕自身、こういうお店にくるのは初めてなので、どうしていいのかわからないんだけどね」といい、四十歳前後とおぼしき男性が、やたらどぎまぎしながら天然っぽい笑顔を浮かべた。ひょっとして自由業なのだろうか、学生時代の延長のような服装で、ヘアスタイルもぼさぼさであった。男性の名前は、どうやらショー君らしい。よくよく聞けば、翔というのが本名のようだ。
「ショー君。僕はさ、生まれ故郷に戻ってきて、初めておてんば市のよさを知り、毎日が心を洗われるような気分なんだ。プロレスという独特の世界で生きてきた経験を糧に、何でもいいから恩返しがしたいと本気で思っている。このお店の名前じゃないけど、“おてんば愛”はしっかりと僕の中にも息づいていたんだね」。
ジョニーさんなる人物の「プロレス」という言葉に、すかさず美羽が反応したのはいうまでもなかった。今の美羽はプロレスのことを考えるだけで、全身に熱い想いがほとばしるのであった。
「あっ、あの、プロレスってプロレスのことですよね。男子のプロレスですか?」と訊き返す美羽に、ジョニーはニッとほほ笑むと、「女子」とだけ答えた。あまりの素っ気なさに、美羽は「えっ」と思ってしまった。
なんなの、このおじさん。女子のひとことだなんて。女子プロレスとは、どういう関係があるのかしら。年齢的にはおじいさんといってもよかったが、一体何者なの? 単なる冗談よね、きっと。
とにかく生活のため、つけ焼刃のような状況でプロレスの道に突き進んでいる美羽にとって、女子プロレスに対する予備知識は皆無に等しかった。ジョニーといわれても、誰さん?という感じだったのだ。
「ここにいるジョニーさんって、ほんとうはすごい人なんだ。今はタヌキをかぶっているけど、プロレス界では超有名なんだから」というショー君に対し、「タヌキじゃなくてネコでしょ」とジョニーさんがいい直した。「あれ、ネコだったかな」とかなんとか口にしながら、「えへへ」と笑うショー君は正真正銘の天然かもしれない。ハート的にどうやら悪い奴ではなさそうだ。
自分がおてんばプロレスのメンバーであることは、ひた隠しにしながら、キャバ嬢のミーが訊き出した限りでは、ジョニーさんなる男性は、やはりただ者ではなかった。どうやら女子プロレス界きってのメジャー団体・ジャパンなでしこプロレスの創設者。デンジャラス歌子をはじめとする名レスラーの生みの親。第一線を退いてからは、千葉県の柏市で隠遁生活を送っていたそうだが、やがてジョニーさんの生まれ故郷であるおてんば市内で、もうひと花咲かせるべく、謎の行動をとり続けていたようなのである。こうなったら、あとでそう。ジョニーさんのことをもっと詳しく調べてみるしかないわね。
ショー君のお父さんとジョニーさんが、小中学校から高校時代にかけての同級生という関係もあり、この日は“冥途のおみやげ”として、息子のショー君がジョニーさんのことをキャバクラに連れてきたらしい。そんな偶然のタイミングで、美羽がテーブルの指名を受けたのである。
たしか何かの映画で人と人が出会う確率は、それこそ〇・〇〇〇三パーセントぐらいでしかないという話を聞いたことがあるが、まさにこれこそが奇跡の出会いなのかもしれなかった。美羽にとっては、その後の運命を変えることになるジョニーさんとの出会い。天然のショー君が続けた。
「僕とジョニーさんには絶賛応援中の女子レスラーがいて、それがストロングマヤさんという女性なんだよね。マヤさんは地元の仲町商店街で、ごく普通にブックカフェを営んでいるんだけど、これがまた強いのなんのって。いっそのことブックカフェを閉じて、本物のプロレスラーになればいいのに」。
「えっ、マヤさんっていうお名前、たしか聞いたことがあるような――」と美羽は思ったが、よくよく聞けば、このショー君とマヤさんは同級生らしい。「中学生の頃は、本好きのおとなしい女子だったのに、まさかプロレスラーになっちゃうなんて思わなかったよ。ま、プロレスラーといっても、おてんば市内のイベントに出ているだけなんだけどさ」。
お酒は弱いと見えて、たかだかコップ一杯のビールで、顔をまっ赤にしながらショー君がしゃべり始めた。それなりのお年であるはずのジョニーさんの方が強いのか、こちらは早くも水割り三杯目であった。おっ、これは強いと思っていたら、案のじょう、ジョニーさんの口からは「次、チェイサーでね」という言葉が飛び出した。「ちぇっ、いいさー」とかなんとかいいながら、ショー君がおどけてみせたが、それを無視するかのようにジョニーさんが続けた。
「マヤ君のいいところは、天性の運動神経だろうな。おそらくは自分でも気づいていなかった機敏さ。それがリングの上で表現されている。彼女があと十歳若かったら、本物のプロレスラーとしてデビューできたかもしれないね。じつに惜しい」。
マヤさんという地元発の女子プロレスラー。たしかおてんば市の広報誌の「元気印の市民たち」のコーナーでとりあげられていたような気がする。
本物のプロレスラーというワードに、美羽の胸は高鳴った。そうそう。自分も本物のプロレスラーをめざせばいいのよ。このジョニーさんという男性が、ほんとうに女子プロレス界の名プロモーターだとすれば、お願いする価値はありそうだ。女一匹現役のキャバ嬢。弥生のためにも、自分のためにも――。
このタイミングでカミングアウトするのもどうかと思ったが、今を逃したら、もうあとはないだろうという想いから、美羽は心を決めた。
「お願いです! 私をほんまもんのプロレスラーとして売り出してください」といい、美羽がジョニーさんに頭を下げるまで、そう多くの時間はかからなかった。キャバクラという閉ざされた空間の中にあっては、ほとんど似つかわしくないアプローチであったが、美羽としては自分の想いをストレートに伝えただけであった。
「えっ、何!? 君はプロレスに興味あるの?」と問いただすジョニーさんに、美羽は想いのたけをぶつけた。
シングルマザーの自分には、目に入れてもいたくないほど、かわいくて仕方のないひとり娘がいる。娘のためになることであれば、たとえ火の中、水の中、自分はどうなってもいいと思っているのだが、一にも二にも生活ができない。働けど働けど――というよりも、働けば働くほど、託児にかかる費用がかさみ、生活費はおろか娘と過ごす時間もないという二重苦に陥っている。それこそが、今の自分の置かれた状況であること。
かくなるうえは一発逆転を狙って、ローカルプロレスのスターをめざしたい。おてんばプロレスの美央さんやジュリーさんのように、自らの夢を切り拓きながら、世間並み程度の幸せをつかみとりたい。自分の“女”が武器になるかどうかはわからないけど、現役のキャバ嬢でプロレスラーというプロフィールはおもしろいと思うんだけど――。
プロレス、プロレス。今はプロレスのことしか思い浮かばない。プロレスで成功し、必ずや娘のことを守ってみせる。
そんな美羽の話を聞きながら、冥途のおみやげに地元のキャバクラを体験したジョニーさんは冥途のおみやげに、もうひとりぐらいスター選手を育ててみるのもありかな、と考え始めていたのであった。ジャパンなでしこプロレスという団体を興(おこ)し、幾多の名選手を育てあげてきたジョニーさんの中には、どうやらスター育成のための方程式ができあがっているようであった。
「現役のキャバ嬢がプロレスラーだなんて、じつにおもしろい。だけど、何も“女”を武器にする必要はないんじゃないかな。女を超えた女。そんな立ち位置でいた方が受けるんじゃないの。
ほら、魚の中には、一生の間に性別が変わってしまう仲間がいるんだよ。雌として生まれたのに、途中から雄に変わる。これを雌性先熟(しせいせいじゅく)というらしいが、いってみれば強くて大きい雌だけが雄になれるんだ。その意味でいうと、君なんかは女子を圧倒するぐらいの雑草魂で、のしあがる姿が似合っている。一度はセンセーショナルなデビュー戦を果たしたのであれば、ひとまず消息を絶って、その後謎の覆面レスラーとして現れるのもおもしろいよなぁ」というジョニーさんの言葉に、「あっ、ジョニーさん、その気になったかも」とショー君が吠えた。二杯目のビール。ショー君は、早くもろれつがまわらなかった。
当のジョニーさんは目を細めながら、琥珀色の液体をのどに押しやるだけだったが、女子プロレス界のストーリーテラー、それがジョニーさんの真骨頂でもあるのだ。ロッキー美羽の出世物語。そんなおぼろげなビジュアルが、ジョニーさんのハートの中に浮かびあがっていた。
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