忘八侍そばかす半兵衛

北部九州在住

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延宝六年 節分  豪商河村十右衛門と高尾選び

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 まだ寒い吉原の昼。節分の豆を口に入れながら半兵衛は『蓬莱楼』に向けて歩く。

「何だか今日はえらく気合が入っているな」

 半兵衛が呼ばれた『蓬莱楼』は、夜の宴に向けてその準備に勤しんでいた。
 全ての遊女が呼ばれ、山海の珍味が集められ、吉原の芸者すら借り切るというその豪胆さに、これはどこのお大尽かと呆れ顔の半兵衛に冬花が苦笑しながら今日の旦那を告げる。

「河村十右衛門様が遊びにいらっしゃるそうで」
「ああ。霊岸島の旦那か。
 そりゃ、お前も呼ばれるわな」

 河村十右衛門は江戸の豪商であり政商であった。
 材木商として財を成し、江戸の町の工事にも絡み、さらに江戸に運ばれる米の航路開設にも多大な尽力をしたという江戸商人の中でも随一の豪商。
 そんな彼が楼閣一つを借り切って遊ぶのだから、当然これぐらいの事はするのだろう。

「噂だけどね、今晩の遊びにお忍びでお武家様が来るかもって噂しているみたい」

 だから、金はいくらかかっても構わんって急ぎ仕事が弥九郎から来る訳だ。
 仕掛けの仕事ではなく簪職人としての仕事である簪の入った小箱を取り出して半兵衛はぼやく。

「今日は当然ここに残るんでしょう?
 いいもの食べていきなさいよ」

 着飾る冬花の衣装も新しい。
 この手の着飾りも全て河村十右衛門が出しているのだ。
 借り切っての豪遊で溢れんばかりの山海の珍味たちが食べきれる訳もなく。
 その手の食事は下げられると捨てられる事無く裏方の食事として振舞われる。
 それもお大尽の粋な遊びであった。

「……で、お前は。高尾になりたいのか?」

 冬花はその問いにかけにわざと半兵衛の周りを一回りしてその着物を見せつけながら笑った。

「ふふ、あんたが聞くの?
 そうね……私は、いいかな」

 その笑みと仕草は高尾太夫にふさわしいと思いながら、半兵衛は心にもない事を口に出してしまう。

「名を売れば、楽になるぞ。座敷も減るし、客も選べる。」

 分かったような顔をしたまま冬花は半兵衛に抱き着く。
 真新しい着物につけられた香の匂いが半兵衛の鼻をくすぐる。

「名を貰えば楽にはなる。けど、こういう事はできなくなる。
 夜の相手は選べても、昼の夢は見られなくなるの。……それに、私、
 男に尽くすのは好きだけど、媚びるのは嫌いなの」

 冬花が離れて半兵衛が冬花の残り香を追っているのを分かって冬花は笑った。

「それに……高尾の名前が欲しいくらいなら、もっと旦那に媚びを売っていたわよ」

 それに返事をする前に、手に持っていた小箱の重みが半兵衛を仕事に戻す。
 視線を逸らし、頭をかきながら半兵衛は冬花に手を振って離れた。

「さあな。
 とりあえず、これを渡してくるよ」

 冬花と別れて楼主である蓬莱弥九郎の部屋に入る。
 お大尽が来るので浮かれているかと思えば、その顔は実に浮かない。
 いやな予感がした半兵衛だが、頼まれた簪の小箱を弥九郎に差し出す。

「ほら。頼まれた品だ。
 べっ甲をこんなに扱えるとは思わなかったよ」

「こっちもだ。
 職人に片っ端から声をかけてなお手が足りんからお前すら呼ぶ羽目になっちまった。
 うちだけじゃなく、吉原全ての遊郭に声をかけて一番を持ってこいという仰せだ。
 楼主間じゃあ、高尾選びをするんじゃないかと言われている」

「あの人ならそれぐらいしても困らない銭があるんだろうな」

「ああ。明暦の大火で財を成したお方だ。
 大火が鎮火する前に人を木曽にやって材木を買いあさったそうな。
 これで終わるようならそのあたりの豪商と同じだが、あの旦那はその時に幕府のお偉方と繋がったのさ。
 ご老中稲葉美濃守様と昵懇で、大老酒井雅楽頭様とも繋がりは深い。
 この高尾選びに大老酒井雅楽頭様がお忍びで来られる事が既に決まっている」

 仙台高尾と呼ばれた二代目高尾大夫が吉原を去った後、その名を巡って吉原の遊女と楼主の意地と誇りをかけた三代目襲名の暗闘は激しく行われており、吉原内で決まらない以上は吉原外の権威に裁定してもらうしかなく、その裁定にふさわしいのが江戸一番の豪商である河村十右衛門であり、幕府大老である酒井忠清という訳だ。
 そんな世間話をしているのにも関わらず、弥九郎の顔は楼主ではなく仕掛人の顔のままだった。

「何だ。えらく浮かない顔だな」
「……この間の仕掛け、覚えているか?」
「仙台藩に向かう早飛脚を撃ったやつか?」
「あれを盗賊改が調べている」
「!?」

 盗賊改とは、明暦の大火以後急速に増えた盗賊を捕らえる幕府の役所で、老中が直轄する組織である。
 ある意味公儀隠密に近い公儀仕掛人を幕府盗賊改が調べている。
 それだけでも臭うのに、弥九郎の顔は実に苦々しくその続きを口にする。

「で、あの件を盗賊改の中村勘解由様に直訴したのが、あの河村十右衛門ときたもんだ。
 俺がこんな顔をしているのが分かったか?」

「まぁな。
 じゃあ、俺は逃げた方がいいかい?」

「それも困る。
 言っただろう。この高尾選びに大老酒井雅楽頭様がお忍びで来られる事が既に決まっていると。
 俺たちは既にお白洲に座らされているのさ」

 弥九郎が無理して笑う。
 出てきた言葉は彼の覚悟でもあった。

「山海の珍味を届けさせる。
 市中引き回しの前の食事ぐらいは豪勢にいこうじゃないか」



 その夜の宴は後の江戸に残る華やかなものとなった。
 高尾の名を継ぎたい大店楼閣の遊女たちは総勢八人。
 大老酒井忠清がお忍びで来ている事はすぐに吉原の住人達にも知れ渡り、三代目高尾がこの夜選ばれると噂し、集まった蓬莱楼では八人の遊女たちが美と体と芸を競っていた。
 節分の夜という事もあって、遊女たちの『鬼は外、福は内』の艶声に吉原は湧いたが、その宴に出された山海の珍味の味については、半兵衛と弥九郎は味わえる余裕がある訳もなく。

「中々の余興だったぞ。十右衛門」
「雅楽頭様に喜んでいただけて何よりでございます」

 もちろん、幕府大老と江戸随一の豪商が顔を合わせれば遊びだけで済む訳がない。
 余人を外した部屋にて、二人の男は密談を進める。

「で、ここまで金をかけて儂を呼び出した、十右衛門は何を話してくれるのかな?」

「たいした事ではございません。
 老中首座の稲葉美濃守様には既にお願いしたのでございますが、最近江戸郊外の治安がよろしくなく早飛脚が襲われているのでございます。
 なにとぞこれについてお力を賜りたく……」

 こういう密談が行われるので、隠し部屋がない訳がなく、半兵衛と弥九郎は隠し部屋の中で二人の密談に耳を澄ませていた。
 自らの死刑宣告が出るかもと思うと二人とも聞き耳を立てたまま動こうともしない。

「たかが早飛脚と言いたい所だが、十右衛門がそれほどまでに気に掛ける訳を聞こう」

「この江戸の町は仙台からの米がなければ飢えてしまいます。
 そして、仙台から江戸に送られる船の指示は、早飛脚によって行われているのでございます。
 早飛脚が無ければ、仙台で米が腐り、江戸の町は飢えてしまいます」

 河村十右衛門ほどの豪商ともなれば、幕府中枢で行われている次期将軍を巡る酒井と堀田の激しい争いを知らぬ訳がない。
 それでもこうして諫言を行ったのは、その争いが巡って江戸の町が飢える兆候が見えたからに他ならない。
 早飛脚を撃てば、仙台からの米が入らず、江戸の米相場が大混乱に陥る。
 それに比べたら今夜の豪遊など安いというのが河村十右衛門がこの場を設けた理由なのだろう。

「一介の町人にご政道の事は分かりませぬ。
 ですが、民を飢えさせる事が正しいご政道とも思えませぬ。
 どうか酒井様のお力添えで、江戸の民を救っていただけますでしょうか」

 河村十右衛門の懇願に、酒井忠清の返事はしばらくかかった。
 その返事までの間、隠し部屋の半兵衛と弥九郎は生きた心地がしなかったのは言うまでもない。

「十右衛門違うぞ」

 酒井忠清の声は穏やかだった。

「あくまでご政道は、四代将軍徳川家綱様によって行われるのだ。
 我々幕閣はその補佐をしているに過ぎぬ。
 だが、そのご政道に民からの不信が出ているのは、補佐する我々幕閣の責任よ。
 すまぬ」

 この瞬間、半兵衛と弥九郎は生き残った事を悟った。
 知らぬ存ぜぬと言われて二人を切り捨てる事もできたのに、道具に過ぎない半兵衛と弥九郎の仕掛けを酒井忠清が詫びたのだ。
 同時に、酒井忠清に大きな大きな借りができた事を意味する。
 
「仙台家中にも儂から話をしておこう。
 酒井雅楽頭忠清が約束する。
 江戸の町を飢えさせるような真似をしてご政道を語るつもりはないという事をな」

「……ありがとうございまする。
 そろそろ宴に戻りましょう。
 余興とはいえ、江戸の町民は三代目高尾を見たがっております故」

「そうだな。
 で、誰にしようか……」

 二人が部屋を出る。
 酒井忠清が誰も居ない部屋に声をかけた。

「小栗美作が言っていた。
 長谷川長兵衛の葬儀は無事に終わり、妻子は小栗美作がきちんと面倒を見るそうだ。
 下馬公方へのやっかみも知れば中々粋だろう?」



「……半兵衛。楼主様と一緒に何やってんの?」

 宴も終わり一仕事終わった襦袢姿の冬花が楼主の部屋に入ると、半兵衛と弥九郎が寝っ転がって何をする訳でなく生を実感していた。
 半兵衛が冬花を見ずに口を開く。

「腹が減った」
「……あんた、楼主様と一緒に山海の珍味食べたじゃない」
「俺は、冬花の料理が食いたいんだ」
「……もぉ、茶漬けぐらいしか作れないわよ!」
「冬花。半兵衛と同じやつを俺にも頼む」

 ぷりぷりしながら冬花が出て行った障子を見て半兵衛が笑い、弥九郎もつられて笑う。
 二人は茶漬けを持ってきた冬花が戻るまで笑い続け、冬花をあきれさせたという。
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