蟲籠の島 夢幻の海 〜これは、白銀の血族が滅ぶまでの物語〜

二階堂まりい

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九章

2 絶海に死す

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 与半よはんは微笑んで、海の女神の元へと駆けて行く。


「かくれんぼの次はちゃんばらごっこか?」
 深夜美みやびの手の中に、念動で引き寄せた火掻き棒が降ってくる。
 アンティーク調の装飾が施されたそれをレイピアのように構え、
優雅な佇まいで笑みを浮かべる姿は余裕に満ちて見えた。

 復元の力を持つ路加ろかだけは、深夜美の腐食に人体や武器を溶かされることなく戦い続けられる。
 それだけでも深夜美の利点を大きく削いではいるのだ。
 後は、与半が忌風雷を手にするまで足止めを続けるしかない。

 銛に能力を流し込みながら、路加は突進する。
 蟲が全身に纏わりついて路加を押し戻そうとしてくるが、蟲たちを踏み潰しながらどうにか前進を続け、
僅かに見えた深夜美の姿へと切っ先を振り下ろす。
 しかし軽々と火掻き棒で受け流され、よろめいたところにまた蟲が集ってくる、という堂々巡りに陥る。


 与半は忌風雷いむふらへ向かってひた走っていた。
 帝雨荼の無数の目はその小さな影を追っており、まだ力が完全に戻ってはいないものの、
動き出せばすぐにこちらに襲いかかってくるだろうというほどの敵意を感じた。

 
 帝雨荼も元はと言えば、愛する者を喪って怒りに染まった神だ。
 彼女が暴れ狂う度に、与半は妻を、娘を、そして娘が愛した少年を思い出す。
 守らなくてはならなかった者たち、掌から零れ落ちていった命。
 帝雨荼の怒りは痛いほど分かる。

 全てを狂わせたのは深夜美だ。
 しかし与半はどうしても、深夜美を彼の自称するような絶対悪だと断じることが出来なかった。

 ならば誰がこの惨劇を引き起こした根源なのだろう。
 深夜美を追い詰めたという彼の父親か、息子に呪術を授けた赤松深海子みみこか、
それともルルーの民とカルーの民という因縁の種族をこの世に創造した神の過失なのか。
 どの考えも与半には納得出来なかった。

 かつて自分が真祈まきを憎んだ時のような犯人探しをしても仕方ない。
 今はただ、妻子を利用して奪っていった野郎が描くシナリオの駒になどなってたまるか、という意地が動力源だった。
 

 とうとう帝雨荼の左手に自由が戻る。
 しかし肩から腕にかけては未だ硬直しているし、与半が居るのは帝雨荼の右側だ。
 このまま駆け抜ければ忌風雷へ手が届く。


 背後でざわめいていた深夜美の蟲たちの擦れ合う音が、半音上がる。
 骨の髄を這い上がる嫌な予感に与半は振り向く。
 そこに広がっていた光景に、思わず足を止めそうになった。

 紅蓮の瞳と視線がかち合う。
 蟲に絡め取られ完封された路加、それに背を向けて与半へ笑いかけている深夜美。
 遠目からでも感じられる、眼球から放射される呪力の波。

 次はどんな攻撃が来る、と本能的な不安に襲われる。
 しかしすぐに異変に見舞われたのは与半ではなく、帝雨荼の方だった。

 帝雨荼の右半身が踏みしめている地盤が何の前触れもなく陥没し、その体が傾いだ。
 深夜美が地面を溶かしたのだろう。
 右からを下にして沈み込んだことで、左腕の触手がだらりと与半の方へ垂れ下がった。

 深夜美の思惑を悟った時にはもう、触手に胴を掴まれていた。
 一見軟体生物じみているが握力は凄まじく、与半の骨の軋む音が辺りに響く。

 やがて右腕からも忌風雷の力が抜けてきたのか、帝雨荼は起き上がって地上へ這い出る。
 そしてたてがみを逆立てながら空へ向かって吼えた。

 与半を捕えている触手が仄かに光りだす。
 塩だ、と直感した。
 真祈が見抜いた帝雨荼の能力――高濃度の塩水を体に流し込み、与半の細腕を脱水症状に陥らせるつもりだ。

「スワローディアナ!」
 自分に向かってくる液体を押し返すイメージをする。
 帝雨荼と与半、二つの能力が押し合うことで行き場を失った塩水が、帝雨荼の皮膚を裂いて溢れ出る。
 萎む触手から逃れ、与半は走り出した。
 四方八方から別の触手が襲い来るが、もう対策は分かっているのだ。
 あとはただ、忌風雷を手にするだけ――。


 触手に巻き付かれた腹が、ちくりと痛む。
 知覚出来た瞬間はごく小さかった痛みはみるみるうちに増幅し、与半がある可能性に思い至った時には、遅かった。


 樹木の生長を早送りしたかのように、塩の柱が与半の体内で育ち、臓腑を、肌を突き破った。


 高血圧で悩んでいた祖父や、尿管結石が出来てしまった友人のことを思い出して、理解していた。
 帝雨荼は塩水を送り込むだけではなく、元々人間の体内に含まれている塩を増殖、形成させることも出来たのだ。


路加の泣き叫ぶ声が聞こえる。
 忌風雷は目の前だ。
 伸ばそうとした右手は、腕の先には無く、足元に転がっていた。
 
 血と共に熱が流れ出ていき、暗黒が迫る。

落ちてくる目蓋の裏に、小町の姿が見える気がした。
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