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九章
3 赤き侵略者、歪む時空
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纏わりつく蟲たちの向こうに、与半が倒れる光景が見える。
嗚咽を漏らす路加の胸に、火掻き棒の先がひたりと突きつけられた。
「小虫潰しは、貴様で終いのようだな」
目的達成を目前にしてもなお油断とは無縁の、
冷酷な殺戮者の威容を深夜美は保つ。
復元という戦闘に不向きな能力ではもはや何も為せないと悟ったのか、蟲で編まれた棺の中で路加は項垂れた。
至近距離で瞳孔から放たれた呪力は、宇津僚の血による防御を貫通し、路加の胸に酸の道を穿つ。
その中に火掻き棒が沈み込み、心臓を突き刺した。
突如、路加は急に前へつんのめった。
自ら凶器を深く、柄まで呑み込んでいく。
深夜美は異常を感じて退るが間に合わず、
ぐずぐずに溶けた肉に彼の腕が沈んだところで、路加が血を吐きながら叫んだ。
「アパリシオン……レーヌ!」
路加の負傷が、深夜美の腕を巻き込みながら修復されていく。
一瞬で憤怒に染まる深夜美の頭上に、暗い影が落ちた。
帝雨荼が、こちらへ狙いを定めているのだ。
既に深夜美の右腕は肘の辺りまで路加の胸に吸収され、元の形に戻ろうと蠢く肉で挟み込まれて固定されている。
再三の戦闘で、深夜美の弱点なら把握している。
深夜美もそれを理解しているらしく、白皙の顔に焦りが滲んだ。
蟲の拘束が緩んだ際に、路加は深夜美の左手をも掴む。
「腐食と治癒があれば私から逃れられるだろう。
出来るものなら、やってみろ!」
先ほどまで絶望に包まれていたかに見えた表情は、凛と深夜美を睨みつけている。
深夜美は再び腐食の能力を送り込むが、今度は片端から傷が修復されていき、全く歯が立たない。
深夜美がこの状況から助かる方法ならば、ある。
しかしそれは自ら世界で最も大切な人の似姿を、損なうこと。
迷っている間にも、影が濃くなる。
帝雨荼が迫ってきている。
死が、復讐と栄光の旅路の途絶が、耳に息を吹きかける。
肩の上でクロヒカゲが翅を震わせた。
「――我が覚悟、見せてやる」
深夜美の周囲を、彼自身の眼が無数に取り巻いた。
紅い瞳に凝視された深夜美の腕の半ばが白い煙をあげて溶け、滴った血が地面を焼く。
脂汗が浮かぶが、悲鳴を漏らしはしない。
腕を切り離して拘束から逃れた深夜美は、素早く後退った。
空洞になった袖が風に翻る。
肩で息をする彼に、路加は叫んだ。
「思い知ったか、有沙が味わった痛み……!」
「ああ、分かったとも。
こんなに痛ければ、彼女はさぞ私を恨んで死んでいったに違いない。
蠱毒として非常に効果的な殺し方だった、と分かったよ」
返ってきた答えに路加が愕然とした瞬間、二人の居た所に帝雨荼が右前脚を振り下ろし叩きつけた。
塵が帝雨荼の頭を越えて舞い上がる。
敵を全て排除した帝雨荼は、静まり返った中、真っ直ぐに首を擡げた。
珊瑚のように婉麗なシルエットの女神は、自らが統べる海水、その波の音だけが響く清らかな刻の中で想う。
暗く長く孤独だった封印から目覚め、出会った二人のカルーの民。
愛する作品たちは、再び私に刃を向けた。
かつての天留津のように。
殺し合うしかない。
どう足掻けど、楽園はこの手から零れ落ちていく。
帝雨荼の無数の眼が、彼女の背後に異様なものを捉えた。
帝雨荼の視線より遥か下に、赤い影がある。
矮小な、しかし天を衝くほどの膨大な呪力を全身に絡ませた血塗れの男。
その血統は、神代よりの宿敵。
踏み潰したはずなのに、と手をどける。
全身から血を流して死んでいるのは、復元の力を持つ黒頭ただ一人。
そしてその側の地面にはコンクリートを溶かして穿たれた穴。
深夜美も、帝雨荼と似たように地中を溶かして進んで、
圧殺されかかったところを脱出していたのだ。
その間に、失われていた両腕は復活している。
「――やっと、叶うよ――母さん」
深夜美の手が恭しく、礎石に突き刺さっていた忌風雷を引き抜く。
剣を手に大いなる海へ立ち向かうのが、英雄ではなく悪魔とは。
あまりの残酷さに、深夜美は笑う。
これこそが二ツ河島の神話。
自ら切り拓き、紡いだ物語。世界そのもの。
「さあ、我が糧となれ!」
蟲を、眼を周囲に展開しながら、全力で忌風雷を振るう。
放たれた光の波が真っ直ぐに帝雨荼を狙って進む。
逃れようとする帝雨荼を、大量の蟲が、念動で飛来する凶器が、光の軌道上に押し留める。
為す術なく銀色の身体は再び焦がされた。
ただ一つの電気信号――怒りだけが帝雨荼の脳髄を駆け巡る。
そしてそれは全て深夜美へと注がれた。
それがこの眇たる生物の呪力を増すことになるなど知らず、
彼女は土のついた肘を必死に起こし、敵を目掛けて突き進む。
迎え撃つために、深夜美も走り出す。
両者がいよいよ接近した時、帝雨荼は勢いそのままに前腕の触手を振り上げた。
先ほどのように地に叩きつければ小細工をされてしまう、それなら宙へ放り上げれば見失うことは無いだろう。
しかし触手には何の感触も無かった。
確かに攻撃したはずなのに、深夜美はまだ帝雨荼の足元に無傷で居た。
初めて、帝雨荼が逡巡した。
神は戦いにおいて策を練ることなど無い。
歩めばその後には屍の山と文明の廃墟が勝手に積み上がるものだ。
だというのに、戸惑ってしまった。
まずい現象が目前で起きていると、本能で悟ったのだ。
「神の怒りが生み出した、新しい力……」
呟く深夜美の眼が、偽の星月よりも、島を取り囲む海の星々よりも激しく光る。
瞳からあふれ出た紅い光が、漂う線となり、未知の文様と化し、島全土を呪文で覆い尽くす。
「時空歪曲の力! コンケートルージュ!」
呪文を叫ぶ深夜美の足元から大量の蟲が沸き上がり、深夜美を帝雨荼と同じ目線にまで押し上げる。
長い首を鞭のように薙ぎ払うが、自身を異なる時間、異なる空間に置いた深夜美はそれもまたすり抜けてしまう。
斜めを向いた帝雨荼の首へ、深夜美の細い両腕が渾身の力で忌風雷を突き刺す。
歓喜を叫ぶようにクロヒカゲが舞う。
「見せてやる、悪の勝利を!」
俄かに、島全域で異変が起こった。
今までは微かなものだった風が突如激しく吹き荒れ、岸に打ち寄せる波は速く多くなる。
同時に深夜美の鼓動も速くなり、異常な動悸が彼を襲った。
汗が伝い、息が詰まり、視界が歪む。
時空を歪め、帝雨荼を除いた島全体の時間を加速させたためだ。
しかしそれは同時に、忌風雷の力が一瞬で帝雨荼に注ぎ込まれるということを示す。
鎮神と真祈が同じことをした時とは比べ物にならないような速さで、
神の身体からは輝きが失われていき、ものの数秒で灰色のオブジェと化した。
深夜美はとどめに、一旦引き抜いた剣で帝雨荼の首を斬りつける。
ぶよぶよした頭が胴を離れて転がり、同時に忌風雷は折れた。
加速していた世界が元に戻り、後には歪んだ笑みを浮かべる深夜美ただ一人が、二ツ河島で唯一の生ける者として立っていた。
太母の屍と折れた剣は、使役する蟲たちによって覆われ、蟲が去った跡には屍も剣も消えていた。
あらゆる蟲が詰め込まれた器。
勝ち残った蟲は、自らが踏み躙ってきたものたちの恨みを糧に、最強の呪物となる。
「――やっと……始まる……」
嗚咽を漏らす路加の胸に、火掻き棒の先がひたりと突きつけられた。
「小虫潰しは、貴様で終いのようだな」
目的達成を目前にしてもなお油断とは無縁の、
冷酷な殺戮者の威容を深夜美は保つ。
復元という戦闘に不向きな能力ではもはや何も為せないと悟ったのか、蟲で編まれた棺の中で路加は項垂れた。
至近距離で瞳孔から放たれた呪力は、宇津僚の血による防御を貫通し、路加の胸に酸の道を穿つ。
その中に火掻き棒が沈み込み、心臓を突き刺した。
突如、路加は急に前へつんのめった。
自ら凶器を深く、柄まで呑み込んでいく。
深夜美は異常を感じて退るが間に合わず、
ぐずぐずに溶けた肉に彼の腕が沈んだところで、路加が血を吐きながら叫んだ。
「アパリシオン……レーヌ!」
路加の負傷が、深夜美の腕を巻き込みながら修復されていく。
一瞬で憤怒に染まる深夜美の頭上に、暗い影が落ちた。
帝雨荼が、こちらへ狙いを定めているのだ。
既に深夜美の右腕は肘の辺りまで路加の胸に吸収され、元の形に戻ろうと蠢く肉で挟み込まれて固定されている。
再三の戦闘で、深夜美の弱点なら把握している。
深夜美もそれを理解しているらしく、白皙の顔に焦りが滲んだ。
蟲の拘束が緩んだ際に、路加は深夜美の左手をも掴む。
「腐食と治癒があれば私から逃れられるだろう。
出来るものなら、やってみろ!」
先ほどまで絶望に包まれていたかに見えた表情は、凛と深夜美を睨みつけている。
深夜美は再び腐食の能力を送り込むが、今度は片端から傷が修復されていき、全く歯が立たない。
深夜美がこの状況から助かる方法ならば、ある。
しかしそれは自ら世界で最も大切な人の似姿を、損なうこと。
迷っている間にも、影が濃くなる。
帝雨荼が迫ってきている。
死が、復讐と栄光の旅路の途絶が、耳に息を吹きかける。
肩の上でクロヒカゲが翅を震わせた。
「――我が覚悟、見せてやる」
深夜美の周囲を、彼自身の眼が無数に取り巻いた。
紅い瞳に凝視された深夜美の腕の半ばが白い煙をあげて溶け、滴った血が地面を焼く。
脂汗が浮かぶが、悲鳴を漏らしはしない。
腕を切り離して拘束から逃れた深夜美は、素早く後退った。
空洞になった袖が風に翻る。
肩で息をする彼に、路加は叫んだ。
「思い知ったか、有沙が味わった痛み……!」
「ああ、分かったとも。
こんなに痛ければ、彼女はさぞ私を恨んで死んでいったに違いない。
蠱毒として非常に効果的な殺し方だった、と分かったよ」
返ってきた答えに路加が愕然とした瞬間、二人の居た所に帝雨荼が右前脚を振り下ろし叩きつけた。
塵が帝雨荼の頭を越えて舞い上がる。
敵を全て排除した帝雨荼は、静まり返った中、真っ直ぐに首を擡げた。
珊瑚のように婉麗なシルエットの女神は、自らが統べる海水、その波の音だけが響く清らかな刻の中で想う。
暗く長く孤独だった封印から目覚め、出会った二人のカルーの民。
愛する作品たちは、再び私に刃を向けた。
かつての天留津のように。
殺し合うしかない。
どう足掻けど、楽園はこの手から零れ落ちていく。
帝雨荼の無数の眼が、彼女の背後に異様なものを捉えた。
帝雨荼の視線より遥か下に、赤い影がある。
矮小な、しかし天を衝くほどの膨大な呪力を全身に絡ませた血塗れの男。
その血統は、神代よりの宿敵。
踏み潰したはずなのに、と手をどける。
全身から血を流して死んでいるのは、復元の力を持つ黒頭ただ一人。
そしてその側の地面にはコンクリートを溶かして穿たれた穴。
深夜美も、帝雨荼と似たように地中を溶かして進んで、
圧殺されかかったところを脱出していたのだ。
その間に、失われていた両腕は復活している。
「――やっと、叶うよ――母さん」
深夜美の手が恭しく、礎石に突き刺さっていた忌風雷を引き抜く。
剣を手に大いなる海へ立ち向かうのが、英雄ではなく悪魔とは。
あまりの残酷さに、深夜美は笑う。
これこそが二ツ河島の神話。
自ら切り拓き、紡いだ物語。世界そのもの。
「さあ、我が糧となれ!」
蟲を、眼を周囲に展開しながら、全力で忌風雷を振るう。
放たれた光の波が真っ直ぐに帝雨荼を狙って進む。
逃れようとする帝雨荼を、大量の蟲が、念動で飛来する凶器が、光の軌道上に押し留める。
為す術なく銀色の身体は再び焦がされた。
ただ一つの電気信号――怒りだけが帝雨荼の脳髄を駆け巡る。
そしてそれは全て深夜美へと注がれた。
それがこの眇たる生物の呪力を増すことになるなど知らず、
彼女は土のついた肘を必死に起こし、敵を目掛けて突き進む。
迎え撃つために、深夜美も走り出す。
両者がいよいよ接近した時、帝雨荼は勢いそのままに前腕の触手を振り上げた。
先ほどのように地に叩きつければ小細工をされてしまう、それなら宙へ放り上げれば見失うことは無いだろう。
しかし触手には何の感触も無かった。
確かに攻撃したはずなのに、深夜美はまだ帝雨荼の足元に無傷で居た。
初めて、帝雨荼が逡巡した。
神は戦いにおいて策を練ることなど無い。
歩めばその後には屍の山と文明の廃墟が勝手に積み上がるものだ。
だというのに、戸惑ってしまった。
まずい現象が目前で起きていると、本能で悟ったのだ。
「神の怒りが生み出した、新しい力……」
呟く深夜美の眼が、偽の星月よりも、島を取り囲む海の星々よりも激しく光る。
瞳からあふれ出た紅い光が、漂う線となり、未知の文様と化し、島全土を呪文で覆い尽くす。
「時空歪曲の力! コンケートルージュ!」
呪文を叫ぶ深夜美の足元から大量の蟲が沸き上がり、深夜美を帝雨荼と同じ目線にまで押し上げる。
長い首を鞭のように薙ぎ払うが、自身を異なる時間、異なる空間に置いた深夜美はそれもまたすり抜けてしまう。
斜めを向いた帝雨荼の首へ、深夜美の細い両腕が渾身の力で忌風雷を突き刺す。
歓喜を叫ぶようにクロヒカゲが舞う。
「見せてやる、悪の勝利を!」
俄かに、島全域で異変が起こった。
今までは微かなものだった風が突如激しく吹き荒れ、岸に打ち寄せる波は速く多くなる。
同時に深夜美の鼓動も速くなり、異常な動悸が彼を襲った。
汗が伝い、息が詰まり、視界が歪む。
時空を歪め、帝雨荼を除いた島全体の時間を加速させたためだ。
しかしそれは同時に、忌風雷の力が一瞬で帝雨荼に注ぎ込まれるということを示す。
鎮神と真祈が同じことをした時とは比べ物にならないような速さで、
神の身体からは輝きが失われていき、ものの数秒で灰色のオブジェと化した。
深夜美はとどめに、一旦引き抜いた剣で帝雨荼の首を斬りつける。
ぶよぶよした頭が胴を離れて転がり、同時に忌風雷は折れた。
加速していた世界が元に戻り、後には歪んだ笑みを浮かべる深夜美ただ一人が、二ツ河島で唯一の生ける者として立っていた。
太母の屍と折れた剣は、使役する蟲たちによって覆われ、蟲が去った跡には屍も剣も消えていた。
あらゆる蟲が詰め込まれた器。
勝ち残った蟲は、自らが踏み躙ってきたものたちの恨みを糧に、最強の呪物となる。
「――やっと……始まる……」
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