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九章
4 碧の牢獄
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長い、長い物語を見ていた気がする。
しかし脳が蕩けてしまったように、その間のことを何も思い出せない。
鎮神の最後の記憶は、真祈やムシュフシュと共に深夜美の攻撃を受けて海へ落ちたところだ。
団に路加、与半を残して死んでしまうのかという懸念。
真祈を守れなかった悔しさ。
死や消滅への恐怖。
沈んでいく自身から、血の煙が水面に向かって立ち上る。
その反対側、底なしに広がる神の領域から、重なり合って轟く無数の音色が聞こえる。
あるものは心地快く、あるものは不快で、か細い笛のような音もあれば、エンジンを噴かすような轟音もある。
霞んだ目で辺りを見回し、冷えていく手を必死に動かして真祈を探すが、
目に映るのは闇と微かな星明りばかりで、手には赤子のように生温かくて柔らかい透明な生き物が絡みついてくる。
苦しい。
痛い。
せめて真祈と一緒に居たい。
死を選び取った時、救いとなったのは真祈だ。
ならば今も、また――。
そう考えているうちに、神の領域に含まれる膨大な情報によって脳がパンクして意識が飛んでいたらしい。
そしてここに流れ着いた。
青白いと形容される色の他は何もない世界。
全身に開いていたはずの風穴は跡形もなくなっている。
やはりこれは死後の世界なのだろうか。
だとしたら、なんて寂しいところ。
ぼうっとしていた鎮神の目に、燃える鳥のようなものが映る。
それはのろのろとよろめきながら飛んで来る。
なんとなく苦しんでいるように見えるそれが放っておけず、地面も液体も無い、
強いて言えば少し固くなった空気のようなもので満たされた空間を掻き分けるように進んで、鎮神はその鳥へ向かって行った。
やがてその姿がはっきりしてくる。
ムシュフシュであった。
彼も傷が癒えてはいるが、何やら息苦しそうにしている。
「どうしたの? 痛むの?
……その、おれたちって、死んだはずじゃ……」
嘴の奥から喘鳴を漏らしているムシュフシュの背を擦ってやる。
しかし彼は、慰めは不要とばかりに、鎮神を尾で絡めとると背中の上へと導いた。
されるがままに乗ったところで、ムシュフシュは舞い上がる。
重い空気を切り裂いて、どこかへ向かっている。
しばらくムシュフシュの体調を気にしていたが、次第に良くなってきたらしく、飛行にぶれが無くなりスピードが増す。
ほっと息を吐いた鎮神は、何気なく下の方を見て驚愕した。
自身の踝より先が、半透明になって消えかかっていたのだ。
触ってみると、微かな抵抗は感じるものの、軽々と手がすり抜けてしまう。
身につけている靴も同様に透けていた。
「あの、おれ、なんか体が消えてきてるんだけど……何か知らない?」
訊ねてみるがムシュフシュは答えない。
不安だが、死後の世界なら消滅するのは当然かもしれないと思い直し、
前方へ目を遣ると、一面の青は雲が晴れるように失せていき、
辺りは澄んだ星空と群青の大海へ変わった。
波一つ無く生命力が感じられない海に、よく見れば緯度経度の線が引かれており巨大な星図となっている天空。
帝雨荼の呪いに覆われた島とはまた違った形で不思議な光景が広がっている。
そして海の只中に、明らかに人工的な角度をもった立方体が鎮座していた。
海中に基礎があるようには見えず、静まり返った水面に底をぴったりと貼りつけているそれは、
底面だけが白銀のフロアになっていて、あとの五つの面は全て乳白色のベールのようなもので構成されているため、内部が窺えた。
大砲のように聳える、プラネタリウム用の二球式の投影機と、
それを取り囲む五本の柱のほかは何も無い、美しいが寂しい空間。
ムシュフシュが飛行の高度を下げ、立方体へ迫っていくと、柱の陰から人影が現れた。
ヴィクトリア朝のドレスを現代風にアレンジしたようなものを纏った、紫色の光を放つ銀髪の持ち主。
ああ、やっぱり似合っている。
「真祈さん!」
思わず叫んでいた。
鎮神が贈った服に身を包んだ真祈も、手を振って答えてくれる。
「鎮神!」
その時、鎮神の掌から銀色の蝶が飛び出した。
蝶は水面にとまり、硝子のゴンドラへと姿を変える。
鎮神をゴンドラに下ろして、ムシュフシュは立方体の中へ入って行く。
鎮神も後を追おうとするが、柔らかそうに見えていたベールは何故か鎮神を拒んだ。
疲れ切っていたのか、ムシュフシュはプラネタリウムの下に蹲ると微睡みはじめた。
ベールを隔てて、困惑する鎮神と、いつも通り落ち着いた様子の真祈が向かい合う。
「真祈さんもあの時、死んじゃった……ですよね」
「ええ。
星図に書かれた古代文字いわく、今の私は魂だけでこの座標nに縛り付けられ、
亜空間神殿ノーデンスというこの構造物へ幽閉されているようです」
この立方体は神殿らしい。
同じ死者であるならば、どうして鎮神は神殿へ入ることが出来ないのか。
手を押し付けていると、真祈は頭を振った。
「無理ですよ。
えりしゅの力で縛り付けられた者しか、神殿には入れない。
貴方は一度死にましたが、少しずつ生者へ戻りつつある。
いずれ座標nからも出て行かなくてはならない。現世へ帰るのです」
「真祈さんを置いて、ですか⁉
そんな、絶対に嫌だ!」
共に死ねるならばまだ良かった。
しかしこんな訳の分からない、出て行ってしまえば二度と辿り着けないかもしれない場所に真祈を置いて行くなんて。
「せっかく仲良くなれたのに……会えなくなるなんて……」
狼狽しきっていた頭の片隅に、ふと先程の真祈の言葉が引っかかった。
「えりしゅ……えりしゅってことはまさか」
しかし脳が蕩けてしまったように、その間のことを何も思い出せない。
鎮神の最後の記憶は、真祈やムシュフシュと共に深夜美の攻撃を受けて海へ落ちたところだ。
団に路加、与半を残して死んでしまうのかという懸念。
真祈を守れなかった悔しさ。
死や消滅への恐怖。
沈んでいく自身から、血の煙が水面に向かって立ち上る。
その反対側、底なしに広がる神の領域から、重なり合って轟く無数の音色が聞こえる。
あるものは心地快く、あるものは不快で、か細い笛のような音もあれば、エンジンを噴かすような轟音もある。
霞んだ目で辺りを見回し、冷えていく手を必死に動かして真祈を探すが、
目に映るのは闇と微かな星明りばかりで、手には赤子のように生温かくて柔らかい透明な生き物が絡みついてくる。
苦しい。
痛い。
せめて真祈と一緒に居たい。
死を選び取った時、救いとなったのは真祈だ。
ならば今も、また――。
そう考えているうちに、神の領域に含まれる膨大な情報によって脳がパンクして意識が飛んでいたらしい。
そしてここに流れ着いた。
青白いと形容される色の他は何もない世界。
全身に開いていたはずの風穴は跡形もなくなっている。
やはりこれは死後の世界なのだろうか。
だとしたら、なんて寂しいところ。
ぼうっとしていた鎮神の目に、燃える鳥のようなものが映る。
それはのろのろとよろめきながら飛んで来る。
なんとなく苦しんでいるように見えるそれが放っておけず、地面も液体も無い、
強いて言えば少し固くなった空気のようなもので満たされた空間を掻き分けるように進んで、鎮神はその鳥へ向かって行った。
やがてその姿がはっきりしてくる。
ムシュフシュであった。
彼も傷が癒えてはいるが、何やら息苦しそうにしている。
「どうしたの? 痛むの?
……その、おれたちって、死んだはずじゃ……」
嘴の奥から喘鳴を漏らしているムシュフシュの背を擦ってやる。
しかし彼は、慰めは不要とばかりに、鎮神を尾で絡めとると背中の上へと導いた。
されるがままに乗ったところで、ムシュフシュは舞い上がる。
重い空気を切り裂いて、どこかへ向かっている。
しばらくムシュフシュの体調を気にしていたが、次第に良くなってきたらしく、飛行にぶれが無くなりスピードが増す。
ほっと息を吐いた鎮神は、何気なく下の方を見て驚愕した。
自身の踝より先が、半透明になって消えかかっていたのだ。
触ってみると、微かな抵抗は感じるものの、軽々と手がすり抜けてしまう。
身につけている靴も同様に透けていた。
「あの、おれ、なんか体が消えてきてるんだけど……何か知らない?」
訊ねてみるがムシュフシュは答えない。
不安だが、死後の世界なら消滅するのは当然かもしれないと思い直し、
前方へ目を遣ると、一面の青は雲が晴れるように失せていき、
辺りは澄んだ星空と群青の大海へ変わった。
波一つ無く生命力が感じられない海に、よく見れば緯度経度の線が引かれており巨大な星図となっている天空。
帝雨荼の呪いに覆われた島とはまた違った形で不思議な光景が広がっている。
そして海の只中に、明らかに人工的な角度をもった立方体が鎮座していた。
海中に基礎があるようには見えず、静まり返った水面に底をぴったりと貼りつけているそれは、
底面だけが白銀のフロアになっていて、あとの五つの面は全て乳白色のベールのようなもので構成されているため、内部が窺えた。
大砲のように聳える、プラネタリウム用の二球式の投影機と、
それを取り囲む五本の柱のほかは何も無い、美しいが寂しい空間。
ムシュフシュが飛行の高度を下げ、立方体へ迫っていくと、柱の陰から人影が現れた。
ヴィクトリア朝のドレスを現代風にアレンジしたようなものを纏った、紫色の光を放つ銀髪の持ち主。
ああ、やっぱり似合っている。
「真祈さん!」
思わず叫んでいた。
鎮神が贈った服に身を包んだ真祈も、手を振って答えてくれる。
「鎮神!」
その時、鎮神の掌から銀色の蝶が飛び出した。
蝶は水面にとまり、硝子のゴンドラへと姿を変える。
鎮神をゴンドラに下ろして、ムシュフシュは立方体の中へ入って行く。
鎮神も後を追おうとするが、柔らかそうに見えていたベールは何故か鎮神を拒んだ。
疲れ切っていたのか、ムシュフシュはプラネタリウムの下に蹲ると微睡みはじめた。
ベールを隔てて、困惑する鎮神と、いつも通り落ち着いた様子の真祈が向かい合う。
「真祈さんもあの時、死んじゃった……ですよね」
「ええ。
星図に書かれた古代文字いわく、今の私は魂だけでこの座標nに縛り付けられ、
亜空間神殿ノーデンスというこの構造物へ幽閉されているようです」
この立方体は神殿らしい。
同じ死者であるならば、どうして鎮神は神殿へ入ることが出来ないのか。
手を押し付けていると、真祈は頭を振った。
「無理ですよ。
えりしゅの力で縛り付けられた者しか、神殿には入れない。
貴方は一度死にましたが、少しずつ生者へ戻りつつある。
いずれ座標nからも出て行かなくてはならない。現世へ帰るのです」
「真祈さんを置いて、ですか⁉
そんな、絶対に嫌だ!」
共に死ねるならばまだ良かった。
しかしこんな訳の分からない、出て行ってしまえば二度と辿り着けないかもしれない場所に真祈を置いて行くなんて。
「せっかく仲良くなれたのに……会えなくなるなんて……」
狼狽しきっていた頭の片隅に、ふと先程の真祈の言葉が引っかかった。
「えりしゅ……えりしゅってことはまさか」
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