どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲

文字の大きさ
51 / 55

エレーヌのために2

しおりを挟む
エヴァンズ夫人は知性的で品が良く、嘘を言うような人には到底見えなかった。

そんな自分の第一印象を利用して、エヴァンズ夫人は、若く美しい女性に対してちょっとした意地悪をしてきた。

「そういうつもりではなかった」「あなたの勘違いよ」「私はあなたのためを思ってやったのよ」

知的な目でまっすぐに相手を見つめて、少し悲しげに言えば、周囲はエヴァンズ夫人が正しいと思う。

若くて経験の浅い令嬢は自己中心的に考えがちだ。きっとエヴァンズ夫人の親切による助言を悪いように受け取ってしまったのだろう、そして、悲劇のヒロインぶっているのだろう、と。

今回も逆に教えられたことにエレーヌが気づいても、エレーヌ一人どうとでも丸め込める、と高をくくっていた。

エレーヌへの授業が途絶え、王宮に呼ばれなくなり、そのうち、エレーヌが別宮へと遠ざけられたと噂が耳に届くと、胸がすくのを感じた。

若くて美しい娘が、また一人つらく悲しい思いをしたかと思えば、エヴァンズ夫人の気が晴れる。

エヴァンズ夫人は可哀そうな境遇の者には同情を感じ、惜しみなく親切にできるが、自分よりも多くを持つ者、若さに美しさを持つ者には、嫉妬を募らせ憎しみを抱いていた。

夫にも子どもたちにも目も向けられなくなったエヴァンズ夫人は不幸だった。境遇が不幸なのではなく、心の持ち方が不幸だった。

エヴァンズ夫人は、自分の苦しみが、若く美しい女性の苦しみで、凪いでいくような気がした。

しかし、エヴァンズ夫人はそれを決しては表には出さない。

「ブルガンの王女、遠ざけられて、良い気味ね」

「ホントよ、あんな傲慢な王女、陛下にも嫌われて当然よ」

誰かがそんなことを口に出せば、エヴァンズ夫人は、「そんなことをおっしゃってはなりませんわ。エレーヌさまが気の毒すぎます」と、悲しげな目で見るだけで、悪口や陰口には一切参加しない。

そのために、人格者だと思われていた。

王宮に呼ばれたとき、まさか、ゲルハルトがエレーヌの事で呼んだとは思ってもいなかった。エレーヌはとっくに別宮に遠ざけられたはずだ。

「どうして、『愛する』と『憎む』を逆に教えたのだ」

無表情のゲルハルトの短い問いに、咄嗟に何を意味するのか分からなかったが、エヴァンズ夫人は目に困惑と悲しみを浮かべてみせた。

「何のことでしょうか………?」

「あなたのやったことは許されないことだ」

ゲルハルトはそこで、見るのも不快だというように、エヴァンズ夫人から顔を背けた。

それから、エヴァンズ夫人は地下牢へと連れて行かれることになった。そのときになって、エヴァンズ夫人はゲルハルトが内側に静かな激昂を抱いていることに気づくことになった。

「ま、待ってください! へ、陛下、誤解です。エレーヌさまが何か勘違いされているのです……」

エヴァンズ夫人の声はゲルハルトに届かなかった。

エヴァンズ夫人の不運は、ディミーがいたことだった。ディミーがいなければ、エレーヌとゲルハルトのすれ違いは起きず、エヴァンズ夫人の意地悪も取るに足らずに終わったかもしれなかった。しかし、ディミーと相乗効果となって、致命的な打撃をエレーヌに与えることになった。そして、軽はずみな行為は明らかになった。

ちょっとした意地悪が、ついにエヴァンズ夫人から多くのものを失わせることになった。

***

ゲルハルトは、いろいろと調査を進めたものの、ヴァロア公爵の尻尾はなかなか掴めなかった。

ディミーなら何か知っているに違いなかったが、ディミーを簡単に死なせるわけにはいかなかった。ディミーにはきちんと償わせたい。そのために拷問で吐かせることもできずにいた。

そこへ、ミレイユの訪問があった。

***

現れた黒衣にゲルハルトは目を向けた。

ゲルハルトにとっては、幼い頃から王宮に出入りしていたミレイユは実の姉のような存在だった。

しかし、ヴァロア公爵とディミーとが通じているらしいことを知ってからは、ゲルハルトはミレイユへも疑いを持った。

いつもカトリーナを気遣っているミレイユには感謝の念を抱いていたために、ゲルハルトはヴァロア公爵の裏切りよりも、ミレイユの裏切りの可能性の方が何十倍も苦しかった。

「ゲルハルト、兄は明日から、領地に行くわ。ヴァロア家当主の持つ鍵をあなたに託すわ」

ミレイユは眉を苦し気にゆがめて、重厚な鍵を渡してきた。

「託す……? ミレイユ……、どうして俺にそれを……?」

「ふふっ……、ふふふっ………。ゲルハルト、あなたも気づいてたでしょうけど、私はあなたを恨んでた。どうして、夫は死んだのにあなたは生きているのか、と。どうして、もっと早く我が軍を勝利に導いて夫を助けてくれなかったのかと。ずっと八つ当たりしてた」

ゲルハルトは虚を突かれたような顔をしていた。ゲルハルトは、ミレイユの逆恨みに少しも気づいていなかった。ただ、亡き兄の妻がいまだに母を大切に思ってくれているのを、のん気にありがたく思っていただけだった。

そんなゲルハルトの顔つきを見て、ミレイユはまた笑った。

「ふふふふっ、ふふっ……。あなたは本当にそういう人。悪意が通じない人」

「ミレイユ……」

「私はずっと苦しんできたの。あなたを恨むことで耐えてきた。そして、今、私は本当に恨むべき相手が他にいるのではないか、と思っているの。ふふふっ、ふふふふふっ………」

ミレイユは壊れたように笑っていた。

***

ミレイユの兄への疑いは、エレーヌの不幸から自身の不幸へ飛び火した。

兄は常々、「神輿は軽い方が良い」と言っていた。

前国王は言動が立派で、政治にも明るく、廷臣からの信頼も厚かった。もちろん、国民にも人気があった。威厳のある国王だった。そんな国王が軽い神輿のはずもない。

兄にとって、「軽い神輿=ゲルハルト」であったとすれば。

(兄は、もしかして、私の夫を………?)

そう思い始めれば止められなかった。

いずれ兄はゲルハルトも殺して、エディーを擁して、摂政にでもなるつもりではないのか。

夫の死は、戦場で起きたことだ。今となっては真実は闇の中だが、エレーヌについてなら、まだ間に合うかもしれない。たとえエレーヌがこの世にいなくとも、兄の罪を問うのにはまだ。

そう思い、本来は当主しか手にしてはいけないはずの扉の鍵を持ちだした。

実家を王兵に荒らさせる真似などしたくはなかったが、兄への疑いは日増しに強くなるばかり。

兄がエレーヌの出奔に関与していなければ、これまで通り、静かにゲルハルトを恨むつもりだった。

「私はずっと苦しいの。夫を思って、あなたを恨んでずっと苦しかった」

ゲルハルトは何も言えなかった。ゲルハルトは理解不能とでもいうような顔でミレイユを見てきた。

(ああ、この単細胞は、人の悪意に無頓着なのだわ。攻撃でも受けない限り、悪意なんか気づかずに無傷で通り過ぎる)

「だから、あなたがエレーヌと幸せそうにしているのを見ると、恨みが募った。でも、エレーヌがもうこの世のどこにもいないとすれば、わたしは……」

ミレイユはそこで喉を詰まらせた。

(可哀想なエレーヌ……)

ミレイユはゲルハルトをキッと見た。自分でさえエレーヌのことで心を痛めているのに、どうしてこの単細胞は呑気な顔をしているのか。

「どうして? どうして、あなたはそんなに安穏としていられるの? エレーヌを失ったのに。おそらくエレーヌはもう……」

兄の手によって葬られているだろう。

なのに、ゲルハルトは、呑気どころか、どこか、幸福そうな顔つきをしている。すぐ目の先に大きな喜びが待ち構えているかのような………。












そう、ゲルハルトは待っている。

エレーヌが、ゲルハルトの愛に気づくことを。

もう一度、この愛に気づいてくれることを――。

しおりを挟む
感想 88

あなたにおすすめの小説

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス! ※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。 【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】

【完結】お世話になりました

⚪︎
恋愛
わたしがいなくなっても、きっとあなたは気付きもしないでしょう。 ✴︎書き上げ済み。 お話が合わない場合は静かに閉じてください。

結婚して5年、冷たい夫に離縁を申し立てたらみんなに止められています。

真田どんぐり
恋愛
ー5年前、ストレイ伯爵家の美しい令嬢、アルヴィラ・ストレイはアレンベル侯爵家の侯爵、ダリウス・アレンベルと結婚してアルヴィラ・アレンベルへとなった。 親同士に決められた政略結婚だったが、アルヴィラは旦那様とちゃんと愛し合ってやっていこうと決意していたのに……。 そんな決意を打ち砕くかのように旦那様の態度はずっと冷たかった。 (しかも私にだけ!!) 社交界に行っても、使用人の前でもどんな時でも冷たい態度を取られた私は周りの噂の恰好の的。 最初こそ我慢していたが、ある日、偶然旦那様とその幼馴染の不倫疑惑を耳にする。 (((こんな仕打ち、あんまりよーー!!))) 旦那様の態度にとうとう耐えられなくなった私は、ついに離縁を決意したーーーー。

旦那様は離縁をお望みでしょうか

村上かおり
恋愛
 ルーベンス子爵家の三女、バーバラはアルトワイス伯爵家の次男であるリカルドと22歳の時に結婚した。  けれど最初の顔合わせの時から、リカルドは不機嫌丸出しで、王都に来てもバーバラを家に一人残して帰ってくる事もなかった。  バーバラは行き遅れと言われていた自分との政略結婚が気に入らないだろうと思いつつも、いずれはリカルドともいい関係を築けるのではないかと待ち続けていたが。

恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ

恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。 王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。 長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。 婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。 ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。 濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。 ※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています

忘れられた幼な妻は泣くことを止めました

帆々
恋愛
アリスは十五歳。王国で高家と呼ばれるう高貴な家の姫だった。しかし、家は貧しく日々の暮らしにも困窮していた。 そんな時、アリスの父に非常に有利な融資をする人物が現れた。その代理人のフーは巧みに父を騙して、莫大な借金を負わせてしまう。 もちろん返済する目処もない。 「アリス姫と我が主人との婚姻で借財を帳消しにしましょう」 フーの言葉に父は頷いた。アリスもそれを責められなかった。家を守るのは父の責務だと信じたから。 嫁いだドリトルン家は悪徳金貸しとして有名で、アリスは邸の厳しいルールに従うことになる。フーは彼女を監視し自由を許さない。そんな中、夫の愛人が邸に迎え入れることを知る。彼女は庭の隅の離れ住まいを強いられているのに。アリスは嘆き悲しむが、フーに強く諌められてうなだれて受け入れた。 「ご実家への援助はご心配なく。ここでの悪くないお暮らしも保証しましょう」 そういう経緯を仲良しのはとこに打ち明けた。晩餐に招かれ、久しぶりに心の落ち着く時間を過ごした。その席にははとこ夫妻の友人のロエルもいて、彼女に彼の掘った珍しい鉱石を見せてくれた。しかし迎えに現れたフーが、和やかな夜をぶち壊してしまう。彼女を庇うはとこを咎め、フーの無礼を責めたロエルにまで痛烈な侮蔑を吐き捨てた。 厳しい婚家のルールに縛られ、アリスは外出もままならない。 それから五年の月日が流れ、ひょんなことからロエルに再会することになった。金髪の端正な紳士の彼は、彼女に問いかけた。 「お幸せですか?」 アリスはそれに答えられずにそのまま別れた。しかし、その言葉が彼の優しかった印象と共に尾を引いて、彼女の中に残っていく_______。 世間知らずの高貴な姫とやや強引な公爵家の子息のじれじれなラブストーリーです。 古風な恋愛物語をお好きな方にお読みいただけますと幸いです。 ハッピーエンドを心がけております。読後感のいい物語を努めます。 ※小説家になろう様にも投稿させていただいております。

探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?

雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。 最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。 ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。 もう限界です。 探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。

お認めください、あなたは彼に選ばれなかったのです

・めぐめぐ・
恋愛
騎士である夫アルバートは、幼馴染みであり上官であるレナータにいつも呼び出され、妻であるナディアはあまり夫婦の時間がとれていなかった。 さらにレナータは、王命で結婚したナディアとアルバートを可哀想だと言い、自分と夫がどれだけ一緒にいたか、ナディアの知らない小さい頃の彼を知っているかなどを自慢げに話してくる。 しかしナディアは全く気にしていなかった。 何故なら、どれだけアルバートがレナータに呼び出されても、必ず彼はナディアの元に戻ってくるのだから―― 偽物サバサバ女が、ちょっと天然な本物のサバサバ女にやられる話。 ※頭からっぽで ※思いつきで書き始めたので、つたない設定等はご容赦ください。 ※夫婦仲は良いです ※私がイメージするサバ女子です(笑) ※第18回恋愛小説大賞で奨励賞頂きました! 応援いただいた皆さま、お読みいただいた皆さま、ありがとうございました♪

処理中です...