どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲

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エレーヌのために2

エヴァンズ夫人は知性的で品が良く、嘘を言うような人には到底見えなかった。

そんな自分の第一印象を利用して、エヴァンズ夫人は、若く美しい女性に対してちょっとした意地悪をしてきた。

「そういうつもりではなかった」「あなたの勘違いよ」「私はあなたのためを思ってやったのよ」

知的な目でまっすぐに相手を見つめて、少し悲しげに言えば、周囲はエヴァンズ夫人が正しいと思う。

若くて経験の浅い令嬢は自己中心的に考えがちだ。きっとエヴァンズ夫人の親切による助言を悪いように受け取ってしまったのだろう、そして、悲劇のヒロインぶっているのだろう、と。

今回も逆に教えられたことにエレーヌが気づいても、エレーヌ一人どうとでも丸め込める、と高をくくっていた。

エレーヌへの授業が途絶え、王宮に呼ばれなくなり、そのうち、エレーヌが別宮へと遠ざけられたと噂が耳に届くと、胸がすくのを感じた。

若くて美しい娘が、また一人つらく悲しい思いをしたかと思えば、エヴァンズ夫人の気が晴れる。

エヴァンズ夫人は可哀そうな境遇の者には同情を感じ、惜しみなく親切にできるが、自分よりも多くを持つ者、若さに美しさを持つ者には、嫉妬を募らせ憎しみを抱いていた。

夫にも子どもたちにも目も向けられなくなったエヴァンズ夫人は不幸だった。境遇が不幸なのではなく、心の持ち方が不幸だった。

エヴァンズ夫人は、自分の苦しみが、若く美しい女性の苦しみで、凪いでいくような気がした。

しかし、エヴァンズ夫人はそれを決しては表には出さない。

「ブルガンの王女、遠ざけられて、良い気味ね」

「ホントよ、あんな傲慢な王女、陛下にも嫌われて当然よ」

誰かがそんなことを口に出せば、エヴァンズ夫人は、「そんなことをおっしゃってはなりませんわ。エレーヌさまが気の毒すぎます」と、悲しげな目で見るだけで、悪口や陰口には一切参加しない。

そのために、人格者だと思われていた。

王宮に呼ばれたとき、まさか、ゲルハルトがエレーヌの事で呼んだとは思ってもいなかった。エレーヌはとっくに別宮に遠ざけられたはずだ。

「どうして、『愛する』と『憎む』を逆に教えたのだ」

無表情のゲルハルトの短い問いに、咄嗟に何を意味するのか分からなかったが、エヴァンズ夫人は目に困惑と悲しみを浮かべてみせた。

「何のことでしょうか………?」

「あなたのやったことは許されないことだ」

ゲルハルトはそこで、見るのも不快だというように、エヴァンズ夫人から顔を背けた。

それから、エヴァンズ夫人は地下牢へと連れて行かれることになった。そのときになって、エヴァンズ夫人はゲルハルトが内側に静かな激昂を抱いていることに気づくことになった。

「ま、待ってください! へ、陛下、誤解です。エレーヌさまが何か勘違いされているのです……」

エヴァンズ夫人の声はゲルハルトに届かなかった。

エヴァンズ夫人の不運は、ディミーがいたことだった。ディミーがいなければ、エレーヌとゲルハルトのすれ違いは起きず、エヴァンズ夫人の意地悪も取るに足らずに終わったかもしれなかった。しかし、ディミーと相乗効果となって、致命的な打撃をエレーヌに与えることになった。そして、軽はずみな行為は明らかになった。

ちょっとした意地悪が、ついにエヴァンズ夫人から多くのものを失わせることになった。

***

ゲルハルトは、いろいろと調査を進めたものの、ヴァロア公爵の尻尾はなかなか掴めなかった。

ディミーなら何か知っているに違いなかったが、ディミーを簡単に死なせるわけにはいかなかった。ディミーにはきちんと償わせたい。そのために拷問で吐かせることもできずにいた。

そこへ、ミレイユの訪問があった。

***

現れた黒衣にゲルハルトは目を向けた。

ゲルハルトにとっては、幼い頃から王宮に出入りしていたミレイユは実の姉のような存在だった。

しかし、ヴァロア公爵とディミーとが通じているらしいことを知ってからは、ゲルハルトはミレイユへも疑いを持った。

いつもカトリーナを気遣っているミレイユには感謝の念を抱いていたために、ゲルハルトはヴァロア公爵の裏切りよりも、ミレイユの裏切りの可能性の方が何十倍も苦しかった。

「ゲルハルト、兄は明日から、領地に行くわ。ヴァロア家当主の持つ鍵をあなたに託すわ」

ミレイユは眉を苦し気にゆがめて、重厚な鍵を渡してきた。

「託す……? ミレイユ……、どうして俺にそれを……?」

「ふふっ……、ふふふっ………。ゲルハルト、あなたも気づいてたでしょうけど、私はあなたを恨んでた。どうして、夫は死んだのにあなたは生きているのか、と。どうして、もっと早く我が軍を勝利に導いて夫を助けてくれなかったのかと。ずっと八つ当たりしてた」

ゲルハルトは虚を突かれたような顔をしていた。ゲルハルトは、ミレイユの逆恨みに少しも気づいていなかった。ただ、亡き兄の妻がいまだに母を大切に思ってくれているのを、のん気にありがたく思っていただけだった。

そんなゲルハルトの顔つきを見て、ミレイユはまた笑った。

「ふふふふっ、ふふっ……。あなたは本当にそういう人。悪意が通じない人」

「ミレイユ……」

「私はずっと苦しんできたの。あなたを恨むことで耐えてきた。そして、今、私は本当に恨むべき相手が他にいるのではないか、と思っているの。ふふふっ、ふふふふふっ………」

ミレイユは壊れたように笑っていた。

***

ミレイユの兄への疑いは、エレーヌの不幸から自身の不幸へ飛び火した。

兄は常々、「神輿は軽い方が良い」と言っていた。

前国王は言動が立派で、政治にも明るく、廷臣からの信頼も厚かった。もちろん、国民にも人気があった。威厳のある国王だった。そんな国王が軽い神輿のはずもない。

兄にとって、「軽い神輿=ゲルハルト」であったとすれば。

(兄は、もしかして、私の夫を………?)

そう思い始めれば止められなかった。

いずれ兄はゲルハルトも殺して、エディーを擁して、摂政にでもなるつもりではないのか。

夫の死は、戦場で起きたことだ。今となっては真実は闇の中だが、エレーヌについてなら、まだ間に合うかもしれない。たとえエレーヌがこの世にいなくとも、兄の罪を問うのにはまだ。

そう思い、本来は当主しか手にしてはいけないはずの扉の鍵を持ちだした。

実家を王兵に荒らさせる真似などしたくはなかったが、兄への疑いは日増しに強くなるばかり。

兄がエレーヌの出奔に関与していなければ、これまで通り、静かにゲルハルトを恨むつもりだった。

「私はずっと苦しいの。夫を思って、あなたを恨んでずっと苦しかった」

ゲルハルトは何も言えなかった。ゲルハルトは理解不能とでもいうような顔でミレイユを見てきた。

(ああ、この単細胞は、人の悪意に無頓着なのだわ。攻撃でも受けない限り、悪意なんか気づかずに無傷で通り過ぎる)

「だから、あなたがエレーヌと幸せそうにしているのを見ると、恨みが募った。でも、エレーヌがもうこの世のどこにもいないとすれば、わたしは……」

ミレイユはそこで喉を詰まらせた。

(可哀想なエレーヌ……)

ミレイユはゲルハルトをキッと見た。自分でさえエレーヌのことで心を痛めているのに、どうしてこの単細胞は呑気な顔をしているのか。

「どうして? どうして、あなたはそんなに安穏としていられるの? エレーヌを失ったのに。おそらくエレーヌはもう……」

兄の手によって葬られているだろう。

なのに、ゲルハルトは、呑気どころか、どこか、幸福そうな顔つきをしている。すぐ目の先に大きな喜びが待ち構えているかのような………。












そう、ゲルハルトは待っている。

エレーヌが、ゲルハルトの愛に気づくことを。

もう一度、この愛に気づいてくれることを――。

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