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本編 ─羽ばたき─
食文化
しおりを挟む生まれた雛は、どう贔屓目に見ても可愛らしいとは言えなかった。「可愛い」という感情があまり心に浮かばない男でも、少女と雛を並べて見れば、その「可愛い」の差は天地ほど離れているのが分かる。これは烏だけに言えることではなく他の鳥類もそうなのだが、羽毛の生えていない皮膚はツルツルとしていながら細かい皺も刻まれており、動きに合わせてブヨブヨと伸縮し、まるで老いさらばえた得体の知れない生物に見えた。
よろよろとしている身体に不釣り合いな大きい頭、細い首。てっぺんから爪先まで、混じり気のない黒だった。
「……小毬……」
そんな雛鳥を、少女は我が子のように愛おしげに包んでいる。その場から動くことも、いっかな離れようともせず素肌に抱いていた。ずっと自分が守り続けていた卵が孵ったのだから当然の反応だとは思うが、よくこの見た目の雛とああも接し得る立場に在れると……これは我ながら酷い感想だと自覚し、男は考えるのをやめた。
「やっぱり女の人の声で鳴きました。一生懸命嘴を開いて、こんな弱々しそうなのに、力いっぱい鳴いたんです」
すっかり母の顔になった少女は、ずっと押し黙ったままの男に向かって嬉しそうに話をする。
雛を撫でる少女の笑顔を眺めていた男は、ふと疑問に思ったことを口にした。
「お前達、清御鳥は鳥も補食するらしいが、雛を旨そうだとは思わないのか」
以前、少女は鶏の天ぷらを作ったことがあった。ただの肉食の鳥ならば同じ鳥類相手でも平気で狩るだろうが、人間の感情を併せ持つ清御鳥の少女が、自分と似た部類の動物を平気で調理しているのを見て意外に思った。
人間の烏京は基本、自分と似た種である猿を食べ物だとは認識していない。他の大陸では猿も貴重な食糧としている人間も少なからずいるだろうが、独自の文化を築いてきたこの島国では話が違う。
同種を食べようとしない人間の思想を持っているはずの少女が、美味しそうに鶏の天ぷらを口にしているのを見て、男はつい『いいのか……?』と訊いた過去がある。そんな珍しい様子で問いかけてきた男に少女は……『基本、狩りですので……家畜を飼うほど定住出来ないですし、貴重な栄養分を摂るためなら鳥でも食べます。獣人はさすがに食べませんが……』と返答したのだ。
日々、人間に追われる清御鳥は食を選り好みする訳にはいかず、羽ばたく体力をつける為に、似た種の鳥でも猿でも食べるらしかった。
そんな会話を思い出した男は先ほどの疑問、雛が旨そうか否かを少女に尋ねたのだが、訊かれた少女は眉を下げ、困ったような笑みを浮かべた。
「確かに鳥は食べますが、一応理性はあるつもりです。これから一緒に住むこの子を、動物のように補食したいとはこれっぽっちも思いません」
そもそも少女に卵を託したのは自分の方だ。それなのに補食の心配をするなど変な話だとは思う。しかし、例え翼が生えていようが、目の前の少女を完全な人間だと思うことに抵抗を感じなくなってきている男は清御鳥の複雑な食文化に対して興味深いとも思った。
鳥の身体と人間の身体。人間と同じ感情を持ち、人間を天敵としている本能は、つくづく不思議な生き物だ。自分の知らない少女の一面と清御鳥の中の食に対する線引きは非常に好奇心をそそられる。これほどまでに自然体でいる清御鳥と触れ合えているのは恐らく自分だけだろう。
「烏は沢山食べる生き物……ですよね?」
「ああ。空を飛ぶ為と、高い体温を保つ為に相当な体力がいる。常に身体を軽くする必要もあるから消化も早い」
その上、成鳥になったら虎ほどの大きさにもなる告鴉だ。雛でいる今も普通の烏の成鳥の大きさとほぼ変わらず、その食欲は計り知れない。
「心配するな」
少女の曇った表情から何を気に病んでいるのかを察し、安心させるように言った。その言葉通り、男にとっては告鴉一羽分の食糧を調達することなど造作もないのだ。
「そこまでの実力が無いならば獣を迎える資格などない」
猛獣は敵にもなるし、御すれば相棒にもなり得る。
「見栄を張り、自分の実力以上の獣を従わせようとした輩が最期には骨も残さず喰われる。馬鹿な話だ」
面白がるように言う男は、生まれたばかりの雛の顔を少女に向け、そのままの態勢を維持させた。
「顔をしっかり覚えさせておけ。母親だと信じ込ませておけば、こいつはお前を傷つけようとはしない」
孵った雛は最初に見た物体を親だと認識する。男はその習性を利用し、少女を護らせようという。
謂わば“すりこみ”。
「人語を理解するのはもう少し先だな」
「あの、私はどうすれば……?」
「羽が生え揃うまではそのまま素肌で温めてやれ。肉は加工して持ってくるから、そいつ好みに調理して与えておけば良い。それと、雛を温めている間も伽はやめない」
最後の言葉に、恥ずかしさで少女の身体は体温が一気に上がり、頬にサッと朱が差した。
「出来るだろう? お母さん」
「な……っ!?」
この男から「母親」ではなく「お母さん」と呼ばれるとは夢にも思わなかった少女は口を開けたまま固まった。
今年で齢十八になったばかりの、まだ大人になりきれていない少女だ。いくら男の精を胎内に注がれていようとも、幼い雰囲気はなかなか拭えない。
「じゃ、じゃあ、烏京さまはお父さんですねっ」
「ふん、誰が獣の父親だと。俺は躾をするだけだ……だが、お前にそう呼ばれるのは悪くない」
かつて効いた少女の言葉は、二度目には無効となってしまった。それどころか更に羞恥心を煽ってくる物言いに少女は遂に何も言えなくなり、ぷるぷると恥ずかしく震えるしかなかった。
朱に染まった顔をプイッと背け、雛を胸元へ抱き寄せる。視線が絡み、つぶらな瞳がこちらを覗いた。見上げてくる雛の目は、青色をしている。
「これを返す」
男が懐から取り出した白い布に、俯いていた少女は顔を上げて目を見張る。懐かしい、見間違えるはずのない、湖で置き去りにしてしまっていた形見。
もう着られることのないはずだった、大切な母の衣。
「どうして……」
母の衣は背中が大きく開いており、翼の邪魔をしないような作りになっている。しかし、少女に翼を還すことになるとは、男も想定外だったはずだ。衣を置き去りにしたのは無い翼を考慮した服など要らないと判断したから。それなのに、まるでずっと大切に保管されていたかのような……。
「……綺麗」
汚れなど見当たらず、刺繍の紅い花は紅いまま。
いや、一層美しく見える。
「……っ」
目で訴えても男は何も答えてくれない。
少女の考えることをいつも当てる男が、少女の言わんとしていることを分からないはずがない。
「取りに行って……くれたのですか……」
「いずれ必要になるだろう」
少女の涙が降り注ぎ、雛はくすぐったそうに身じろぎした。頭に落ちてくる温かい液体を興味津々で見上げては、きらきらした雫を飲んでみようと嘴を開閉させる。
男と少女との間に漂う甘い空気など露知らず、尚も落ちてくる温かい雫に不思議そうに頭を傾げていた。
かつて夢に魘されていた少女は、亡くなった母の代わりに男にすり寄り、夢現と救いを求めていた。当時、唯一見せた無意識な甘えが、男の心をひどく掻き乱していたことなんて、少女は知らない。男の心に在る自分が、男にどんな影響を与えているかなんて、少女は知らない。
かつて夢に魘されながら、母の代わりに自分にすがってくる少女に抱いたあの感情を、男は知らない。それがきっかけで、いつか少女に返そうと衣を補修したのだが、何故そこまで気に掛けてしまうのか。少女の笑顔を見たいと思ってしまうのか。男は知らない。
──支配する者、される者。
そんな関係だったはずなのに。ゆっくりと、確実に変わっていった。
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