烏珠の闇 追想花

晩霞

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本編 ─羽ばたき─

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 大海原の遥か上空で、少女は黒い翼に護られながら今しがた飛び立った船を振り返った。
 たった一人、残してしまった。また、助けられた。
 心落ち着く暇も無く、傷ついた男と清御鳥しんみちょう達の身を案じ、後ろ髪引かれる思いで俯いた。

(あの時と同じ。また、私は何も……)

 ──くぁぁぁ……

「……時雨しぐれ……」

 少女の心中を察してか、時雨の慰めが潮風に乗って小さく流れた。
 母のようにはなれないのか。強い脚と大きな翼で護ってくれた在りし日の記憶に、胸が苦しく締めつけられる。身体の中で丸まっている赤子には、いつかの自分のように護り手が必要で、何があっても幸せな道を歩んでもらいたかった。
 しかし今、未来の為に闘う重責を一人に担わせてしまっている。清御鳥の行く末までも、背負わせてしまっている。
 鉛が胸に詰まるよう、自分の身体全体が重く感じる。陸へ向かう追い風に掬われ、眼前で棚引く自身の黒髪を見つめながら、ふと海岸にいる存在に気がつき、目の焦点をそこに合わせた。

小毬こまりさん!」

 ──グァァァァァァァッッ……!!

 地上へと寄れば、自分を呼ぶ声が耳に届く。相手に呼応した時雨の鳴き声は澄み渡った空に広がり、大海を駆け抜けていく。安堵の叫びは男にも届いたかもしれない。
 佇んでこちらを見上げる者達の姿が明瞭になるにつれ、張り詰めていた糸が解れるように、肺に溜まった重い息が自然と口から吐き出された。
 汗で光る警守達の顔を見ながら降り立った少女は、すぐに援助を求めようと大きく口を開いた。が、出てきたのはよほど言葉とは言えない、金属を引っ掻いた呼気の音。早く伝えなければならないのに、この時になって言葉を好きに出来ない焦りと鬼気迫る状況に、力無くその場にへたりこんだ。
 まるで極寒の地から暖かい場所に移されて急激に感覚が舞い戻ってきたように、今になって震えが少女の身体を襲う。早く、早く──時間が惜しいのに。

「小毬さん、早く施設へ!」
「……っ、あ……」

 違う。望みはそうではない。自分を運ぶよりも一刻も早く船へ。男を助けてほしい。何倍もの傷を負ったあの人を、どうか救い出してほしい。
 肩を抱かれ、慎重に運ばれる。海から、男から離されてしまう。潮風では拭い切れない冷や汗が目に沁みる。

「大丈夫、もう大丈夫ですから……」

 呼吸を浅くして小刻みに震える少女を恐怖と体調悪化のせいだと認識した警守に、必死に首を振ってみせる。
 自分ではない。助けてほしいのは……でも。

(……あんなに遠い……)

 こうしている間にも、船は彼方へ流れていく。この場からどうやって駆けつければ良いのだろう。警守を船へ運ぶにしても、翼の無い清御鳥を運ぶにしても、時雨の怪我は無視できない。まだいるであろう敵を倒すには──。

「小毬さん……落ち着いて聴いてください。こうなってしまったからには、なのです」
「…………?」

 警守の言わんとしていること。分かるようで、分かりたくない。更に訊いてしまえば残酷な言葉が紡がれそうで、到底、自分には受け止められないだろう。それでも、言葉が口をついて出てしまう。

「何が……? ねぇ、教えて。教えてください」
「元より、私達は空を飛ぶのを想定した集まりではない。翼のある清御鳥を追うことはないからです。それにまさか……船を使われるとは……」

 あくまで翼を失った者達の保護を務めるだけ。強固な高い壁に護られた山中の施設では、海水を往く獣を飼い慣らすのも困難で。
 ならば方法はと口を開こうとした少女に、今度は警守が頭を降った。

「怪我をした時雨では多くを運び出すのは難しい。救えるのは幼鳥の数十羽でしょう。烏京うきょうさんが敵の目を惑わしている間に出来るのは、それくらいです」
「見捨てる……?」
「そう、思われても仕方ないですね……しかし、私達は少ない清御鳥よりも多くの清御鳥を救うことに重きを置きます。警備を離れている今だって、施設がいつ襲われるか分かりません。船にいる彼らよりも、壁内の者の方が多いのです」

 だから、全ては救えない。
 頭に隕石が落ちてきたような衝撃と、聞いてしまった内容に少女の口はぽっかりと開いた。確かに、そうするべきだと頭の中で別の自分が頷いている。全員を助けるのはそれなりの労力が必要で、しかしこちらは既に割くべき体力も時間もあまり残っていない。
 分かっている……そう、分かっている……。

「ごめんなさい……間に合わなくて……」

 絶句する少女に警守も沈痛な面持ちを隠せない。取捨選択は、いつだって残酷なもの。いくら判断を下してきても、今回ばかりは刺されたように辛く思う。

「大丈夫、烏京さんは帰ってきます。より多くの命の為なのです。許してください」
「……真鶸まひわさんは……?」

 歯の食い込んだ警守の唇から、耐え難い痛みに苦しむような、絞られた息の音がか細く洩れる。
 その様子に、彼女の底知れない葛藤を感じた。

「……時雨、私達のうち一人運んで……お願いです」

 目をきつく閉じて告鴉つげがらすに乞う警守から、少女は無理やり目を逸らす。淀む心はどろどろと、やるせなさが胸につかえる。
 水に突き落とされたように、とても息苦しい。

「……行きましょう」
「…………」

 船の輪郭がぼやけてきた。潤んだ瞳を瞬かせ、何度、視界を明瞭にさせようと、彼方の地平線に浮かぶ影は揺らめくまま。あの世へ誘う幽霊船。だが。

「……──!」

 海上の遠影に目を留めていた一同は、激しく変わった自然の表情に息を呑んだ。陽の反射する、波一つ立たないのどかだった水面が、異様な音と共に膨れ上がる。離れた地上にまでくっきりと見えるほどの、命を奪い去るに匹敵する爆発の威力。衝撃を内包した水が、船に襲いかかるのが目に飛び込んできた。

「……ぁ、ぁぁ……」

 悠然と進んでいた船は荒んだ波に浚われ均衡を崩し、抗う術もなく揉まれている。海の激動を目の当たりにして呆然としていた一同に爆発で生じた風が吹きつけ、生暖かく包み込んだ。

「烏京さま……嫌、皆がっ……!」

 船が傾く。大海に襲われる危うい光景に、少女は警守の腕を慌てて振りほどいた。

「時雨、私と飛びなさい」

 うちひしがれた表情とは打って変わり、まるで別人になった少女に警守達は揃って驚愕の目を向ける。身重の少女が、一体──。

「何をする気ですか!?」
「手を出さないでください」
「しかしっ!」
「無駄じゃない」

 これは、誰だ。それは、誰も知らないいんの顔。
 風が吹けば倒れてしまいそうな白い身体は別の命を宿し、誰かの手で支えなければ霞んで消えてしまいそうに儚げだ。警守達にとっては、他のどの清御鳥よりも護り手が必要なのだと……そんな印象を抱く存在。そのはずが。

「時雨と私にしか出来ないこと」

 風に靡く黒髪の綾なす陰影と、鋭く変わった目つきの気迫に警守の伸ばしかけた手が止まる。
 少女は尚も前を見据えたまま、左の薬指に手を添わせた。細い指の届いた先、蒼く煌めく指輪がするすると抜けていく。

「救わずして、何が妻よ」

 小さい身体から殻を割るようにして現れた白い羽毛。膨らみ、形を変え、骨の生える様は雛の成長を早送りにしているようで目が釘付けになる。

「私は母。強く在らなければ」

 生え揃う翼の動きに合わせ、少女の身体もゆらゆら揺れる。鼻の頭に皺を寄せ、鬼気迫る表情を浮かべる少女に、それでも子を孕んでいる身体を落ち着かせようと警守は説得を試みた。

「止めてください! 貴女が身を粉にする必要はありません! 私達が出来る限り手を尽くして──」
「私なら全て救える。あなたと私は違うもの。あなたに出来ないことは、私だったらやり遂げられる。この子だって……」

 険しい顔から一変、腹に注がれた眼差しは何処までも柔らかく、慈しみを向ける母の姿が現れた。

「私と烏京さまの子だもの。私は信じます。重荷は夫婦で背負うもの」

 瞳に生まれたのは激情。見事に生え揃った翼を潮風に乗せ、時雨を伴って山に向かう。別人に乗っ取られたような顔を更に険しくさせた少女は己に課した責務を全うしようと声を張り上げた。時雨との調和によって生まれた長い長い獣の咆哮。山が震え、海の果てまでも届く祈り。

 可憐で儚げだった少女は、夫と子を想う強い母の顔となった。
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