烏珠の闇 追想花

晩霞

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本編 ─羽ばたき─

彼方

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「赤ちゃん……私の赤ちゃん……」

 生き死にの駆け引きに苦悩した末、無事に帰った少女は歓喜に震え、咽び泣きながら我が子に触れた。
 身の内に収まっていた時は重く感じたのに、いざ対面すれば容易く壊れてしまいそうなほど小さい赤子に愛しさが込み上げる。柔らかく、目を離せばすぐに消えてしまいそうな、まだ弱々しい命。覚束なげに自分を探す手にそっと小指をあてがえば、思いのほか強い力で握られる。

「可愛い、可愛い……私の子……」

 そんな我が子に、かつて無理を強いた。男と同族を助けたい一心で空を駆けたあの日、ズキリと腹を襲った痛みはこの子の悲鳴だったのだと強く思い知る。
 辛かったね、痛かったねと……喜びに代わって流れる懺悔の涙に、指を握る赤子の力が強くなった。

小毬こまりちゃん……大丈夫よ」

 嬉しさと、愛おしさと、哀しみと後悔。複雑に絡まった想いが少女の首を締めるように大きくなっていくのを感じ取り、真鶸まひわはそっと囁いた。機微に触れ、指先で優しく少女の肩を撫でる。

「この子だって、小毬ちゃんの子供になりたいから産まれてきたんだよ。ね?」

 そう、思ってくれているだろうか。許してくれているだろうか。腫れぼったい瞼で、自分もあなたが良いと小さく笑いかけてみる。

「……ずっと護るからね……」

 苦しませてしまった過去を償えるように。この世に宿ってくれたことに応えられるように。生きて、共に在りたい。
 あなたは望まれて産まれてきたのだと思いながら赤子を見つめていると、まだ開けきらない瞼の隙間から吸い込まれそうな深い蒼を湛えた瞳が覗いた。少し癖のある白髪と、切れ長な目。既にどこか鋭さを帯びる面立ちの赤子が唯一少女と同じなのは、清御鳥しんみちょうの証である鳥の脚のみ。いくらまさぐろうと、その背には羽毛すら生えていない。

烏京うきょうさんにもさ、こんな可愛い時期があったってことよね……真砂まさご……」
「えぇ……そういうことになるわね」

 一連の騒ぎに駆けつけた真砂の声には安堵が含まれているものの、やはり何度目にしても父親の面影しか感じられない赤子に驚きを隠せないでいるらしい。
 しかし、まじまじと見つめられていても微睡んでいる赤子は可愛らしく、男と瓜二つなことに少女の心は温かくなった。

「幼い頃の烏京さまに会えた気がします……」

 自分の知らない愛しい人の、愛らしい姿。成長を見守ると共に、男の過去に寄り添える気がして胸に花が咲いたような心地になる。
 男に似れば良いと、そんな願いが見事に叶った少女は笑みを広げて赤子に頬擦りをした。だが、次の瞬間──。

「なら、次はお前に似た子を産め」
「……!」

 いくらこちらが騒ごうが、一切口を挟むことなく視線を注ぐのみだった男の急な要望に、思わず息を止める。

「お前ばかり良い思いをするのは不公平だろう」

 ほくそ笑む男に、こちらを凝視する真砂と真鶸。
 みるみる内に熱が集まっていく自身の頬に、少女は言葉が出なかった。

「安心しろ。そう時間はかからないはずだ」
「……う、烏京さまっ……」

 それは、これまでと同じように身を愛されるという含みの宣言。
 人目を気にせず物言う男に抗議の声を上げたものの、響いている様子は全く感じられない。自分の反応を見て楽しんでいる男に対し、口を開閉させることしかできない少女は目を背けようとするも相手の表情に翳りが生じたのを認め、はたと動きを止めた。

「……だが、お前が苦しむのはもう御免だ……」

 先ほどまで朗らかにしていた男の周りに、薄闇が立ち込める。ぽつりと落ちた言葉は水滴のように静かなものだが、許容を超えた痛みに息を吐くこともままならない苦しみを訴えられているようで、自然と胸が締めつけられた。

「でも、傍にいてくれるのでしょう?」

 だから何も怖くはないと微笑む少女。
 そんな様子に、男は目を見開く。

「一番嫌なのは、あなたと離れること」

 つがいとは、二つ組み合わさったもの。雌雄の想いが実り、芽吹いた命を共に慈しむ。一方が欠けてしまえば意味を為さない。
 父と母は、最期まで番でいることを許されなかった。娘の成長の楽しみを心半ばにして儚くなってしまった無念さは、親となった今では痛いほどに想像できる。暗い世界でまみえたのはきっと、娘にだけは同じ思いはさせまいと死して尚、淵より救ってくれようとしたから。ならば、自分も同じことを思う。一緒になる為に生まれてきたのだから。

「私は絶対に、あなたからもこの子からも離れません」
「……誓ってくれるか」
「はい」
「……お前は何度でも俺の手をすり抜ける」
「でも、いつだって必ず捕まえてくれるでしょう?」
「……当たり前だ……」

 逃げられないことは“幸せ”だと、いつから毒されてしまったのだろう。この人にずっと囚われていたいと、何があっても連れ戻してくれるという安心に変わったのは溺れきっている証。喘ぐ苦しみさえ心地好いと感じてしまったが最後、もう後戻りはできなかった。知ってしまった。沁みついて、時には何も見えなくなるほど夢中になってしまった。番の真の在り方はこんなにも歪で甘美な毒なのだと虜になる。身体と心を重ねる夜は、自分にとって喜懼きくの宴だった。

「また、愛してね……?」
「あぁ、泣くほどに」

 互いに囚われてしまった異種の囁き合いに真砂と真鶸は苦笑を洩らすより他はなく、毎度の戯れを眺める立場に置かれている身としては、羞恥よりもまたこの光景を見られる嬉しさの方が勝った。

「……ところで、もう名前は決めているの?」

 水を差さないよう、なるべく控えめに問う真鶸に、男と少女は揃って顔を向ける。
 赤子は泣きじゃくっていたのが嘘のように機嫌を取り戻し、少女の腕の中で両親を見上げている。

「…………彼方かなた

 ややあって、灯るように生まれた優しい言の葉。
 やっとの思いで授かった息子に相応しい名前をと思案していた少女は、男の低い呟きに顔を上げる。
 真剣な表情で、しかし同時に愛しさの籠った眼差しを赤子に注ぐ男は、やがて周囲の沈黙に応えるよう語り始めた。

「待ち焦がれた。遥か遠い処から深く望まれてやって来た。そして、小毬こまり……お前を彼方の世から連れ戻してくれた。この名は俺からの礼でもある」

 この子のおかげで帰りたいと思えた。居るべき世界を思い出せたのは、この子が産まれてきてくれたから。彼方、彼方と囁けば、無垢な瞳がこちらに移る。母を救ったことなど露知らず、口をもにょもにょとさせる愛しき玉。

「今は十分に浸ってくれて構いませんが、これからが肝心ですからね。赤ん坊のお世話は身を削る戦いです。烏京殿も覚悟しておかなければなりません」
「当然だ」

 真砂の忠告に男は変わらず赤子に視線を向けるのみで、見ていた真鶸の胸には心配と疑いが生じた。

「本当に? 烏京さん、寝かしつけも食事も……おしめだってあるんだよ?」

 闇を纏ったような出で立ちの狩人が、自ら進んで育児に参加するなど想像もつかない。
 断言しても尚、訝しげな色を浮かべる真鶸に男は目を向けると、そんな心配事を払拭するようにフッと口角を吊り上げた。

「手に入れておいて心を向けない、そんな腐った奴にはならん。形だけではない力の伴った父親になるさ。それに……」

 悪戯な瞳が一瞬だけ少女を映し、赤子に戻される。
 意味ありげなその仕草に小首を傾げつつ少女は赤子をあやしていたが、次に発せられた言葉にピタリと手が止まった。

「食べさせるのは、もう練習済みだ」
「……っ!」

 徐々に熱を帯びる顔。男の言わんとしていることが、ある記憶を呼び覚ます。

「ぅ……烏京さま……」

 二人で出かけた、甘味処の温かさ。美しい情景と共に人目のある場でされたを思い出し、羞恥の声を上げたものの男は笑みを深めるばかりで応えようとしない。むしろ、更に面白がっている。

「愛しているぞ、小毬」
「……ぅ……」

 柔和な声音に耳をくすぐられ、少女はビクリと身を震わせる。
 緊迫から一変、いつもの調子でいる二人に平和を感じながら真砂がふと窓へ視線を移せば、空を遊ぶ時雨しぐれの姿が見えた。

 高く高く……何処までも渡る妙声は、雲間から覗く陽光を伴い赤子を祝福していた。
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