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五章:おかしの国のハイ・ジャック(前編)

第6話 10月1日(2)

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 16時。

 午後からは午前でやった品出しの復習だった。
 一人で店内を回ってみて、二階に行ったり一階に行ったり、棚に穴が空いてないかを確認する。分からなければ近くにいるアリスに訊いて、メモをとって、そんなこんなをしているうちに、初日の勤務時間はあっという間に終わった。

(無事に終わったわ! あたしはやり遂げたのよ!)

「ニコラ、お疲れ様!」

 アリスがあたしの背中を叩いた。

「初日、どうだった?」
「……腕が痛い……」
「あはは! 最初は、皆、そんなものよ。私なんて緊張しまくって、最近までダメダメだったんだから! でも、これでお金貰うんだから、精いっぱいやんないとね」

 アリスがニッ! と微笑む。一日中ニコニコしていた気がする。よくもそんなに笑えるなと思うほど笑っている気がする。あたしは眩しい希望のスポットライトに、顔の前に手をかざして目を細める。

(笑顔が眩しい……)

「また明日も頑張りましょう!」
「ええ。今日はありがとう。アリス」

 お礼を言うと、アリスが首を振った。

「いいのよ! だって、私は優しい先輩だもの!」

 また笑って、あたしと一緒に店の裏へと行く。荷物置き場に行けば、リトルルビィが鞄を持って立っていた。置いていた鞄をアリスも手に持ち、あたしもリュックを背負う。今度は三人で売り場に戻り、カウンターにいる奥さんに体を向け、アリスが声を出す。

「奥さん、お先に失礼します!」
「はい、お疲れ様でした」

 頭を下げたアリスに奥さんが頷いた。そして、あたしを見る。

「ニコラ、どう? 働けそうかい?」
「はい。何とかなりそうです」
「そうかい。なら、明日もよろしく頼むね」
「はい。お疲れ様でした」

 あたしも頭を下げると、よしよし、と呟いて、奥さんが微笑んだ。それから三人で店を出て、アリスがぐっと伸びをした。

「あー、疲れたー! じゃあね、二人とも。私、こっちだから!」

 反対の道を指差し、アリスが微笑んだ。リトルルビィがアリスに手を振る。

「また明日ね、アリス」
「うん! お疲れ様! じゃあね!」

 アリスが軽くあたしたちに別れを言って、パタパタと道の奥に駆けていき、どんどん見えなくなる。

 そこで、あたしの肩の力も、一気に抜けた。

(……終わった……)
(……短いようで、長い一日だった……)
(すごく濃厚な一日だった……)

「どうだった?」

 リトルルビィがあたしを見上げて訊いてくる。あたしも溜まった息を吐き、うなだれた。

「疲れた」
「やっていけそう?」
「週五日の土日休日。一ヶ月だけだもの。まあ……大丈夫よ」
「良かった。何か困ったことがあったら相談してね?」

 リトルルビィと一緒にまた歩き出す。

「ちょっと心配してたの。テリー、働いたことないし……」
「ニコラ」
「ふふっ」

 リトルルビィが笑って、言い直す。

「ニコラ、働いたことないし、貴族のお嬢様だから、こういう立ち仕事大丈夫かなって」
「ええ。立ち仕事は辛い。でも、仕事ってそんなものでしょ」

 工場では、10時間、歩きっぱなし、立ちっぱなしだった。足が棒になるんじゃないかと思ったけれど、慣れたらそれも平気になった。それよりも、囚人の先輩、後輩からの嫌がらせを回避するのに苦労していた。皆が敵だった。毎日が戦場だった。だから、こんなに温かい職場で、焦らなくていいよと言われて、背中を叩かれて、励まされて、かなり戸惑ってるのだ。

 ふと、向日葵のように光り輝く笑顔を浮かべていた先輩の少女を思い出す。

「アリスは良い子ね」
「でしょ? ちょっとうるさいけど」
「ええ。キッドのメモ帳見せられた時は悲鳴上げるかと思った」
「ふふっ! そうそう。アリスはね、キッドの大ファンなのよ。……だから言えないのよね。実は、アリスの大好きな、キッド様の直属の部下だって」

 リトルルビィがおどけた表情を浮かべた。

「まあ、仕事内容は本当にあんな感じ。レジは奥さんかカリンさんだし、たまに手の空いた人がやる感じで回してるから、誰でも気軽に働けると思う」
「良い所を紹介してくれたみたいね。本当にありがとう。リトルルビィ」
「ふふっ! テリーのためならこれくらい……!」
「ニコラ」
「あちゃ」

 リトルルビィがぷぷっと笑う頃、噴水通りに入った。

「テリー、……じゃなかった。ニコラ、このまま、まっすぐ帰るの?」
「ううん、ちょっとこの辺を歩こうと思って」
「道に慣れるの大変だもんね! ねえねえ、私ついていって案内しようか?」
「一人で平気よ」

(惨劇が起きる現場を見に行きたいだけだもの。一人で行きたい)

 すると、リトルルビィの足が止まった。

(……ん?)

 あたしも止まって振り向くと、リトルルビィがむくれて、赤い目であたしを睨んでいる。あたしはきょとんとして、リトルルビィを見た。

「どうかした?」
「……なんか、ニコラ」

 リトルルビィが、ぽつりと呟いた。

「最近、冷たい」

 思わず、あたしは顔をしかめる。

「はあ?」
「だって!」

 リトルルビィが眉をへこませた。

「ニコラにお仕事紹介した時も、近寄らないでって言われたし! 部屋の相談だってしてくれなかったし! 今だって断られた! 私がニコラと二人きりになりたいって、どうして分かってくれないの!?」

(二人きり?)

 あたしは眉をひそめ、眉間が皺だらけになる。

「今、二人きりじゃない」
「そうじゃないの! 違うの!」
「何が違うのよ」
「だから!」

 リトルルビィが、はっとしたように、目をぱちぱちさせて、顔を赤く染める。

「だ、だから……」

(ん?)

 あたしがきょとんとすれば、リトルルビィは顔を染める。真っ赤になって、眉をへこませて、目を揺らして、唇を震わして、深呼吸して、あたしを見つめる。

「だから……テリーと……テリーの傍に……」
「リトルルビィ、……あんた、……熱あるんじゃないの?」

(変なこと言うし、妙に顔赤いと思ったら!)

 リトルルビィに近づき、リトルルビィの前髪に触って、上に上げる。

「え」

 リトルルビィが声を出した同じタイミングで、あたしの額をリトルルビィの額にこつんと当てた。暖かい熱が額から伝わってくる。

「あ、やっぱり熱い」
「っ」

 リトルルビィの息が、止まった。

「季節の分かれ目だものね。ほら、子供はさっさと帰って休みなさい」

 離れて、リトルルビィのお尻をぱしっと叩く。

「きゃっ」

 リトルルビィが小さく悲鳴を上げて、赤い顔でお尻を押さえた。

「あわ、わわわ、て、テリーに! お尻、触られた! 触ってもらっちゃった!! 私のお尻を! テリーが! テリーが!!」
「ほら帰る。さっさと帰る。あんたね、今日入ったばかりのあたしを置いて、明日休んだら承知しないわよ」
「は、はい! 帰ります! 帰ります!!」

 リトルルビィが真っ赤な顔と目を見開いて、鞄を握りしめて、帰り道へ駆けていく。そして、また止まり、あたしに振り向く。

「……テリー……! あの、また、……また、明日ね……!」
「ニコラ」
「また明日ね! ニコラ!!」

 叫ぶように言って、一瞬でリトルルビィがいなくなった。と思えば、びゅんと風が猛烈に吹く。噴水通りにいた女性陣のスカートとドレスが、老若男女関係なくめくれあがった。悲鳴をあげ、慌てて押さえる人々。

(また瞬間移動なんか使って!)

 リトルルビィが呪いの後遺症として残った力。

「熱が上がったらどうするのよ。あの子ったら」

 ――さて。

 辺りを見回す。

(どこを回ろうかしら)

 馬車に乗って、あたし、どこを回ったんだっけ?

 ふらりと足が動く。噴水前から、道を外れ、進む。

(屋敷があるのはあっちの道。だからあっちから馬車を拾って来たとして……)

 視線をたどり、その道に足を動かす。

(ここを馬車で進んで……)

 この道を歩いて。

(あ。この店の壁に血がついてた気がする)

 違うかしら?

(それとも、こっちの店?)

 違うかしら?

(あっちかしら?)

 うろ覚えの記憶を無理矢理思い出す。でも、確かにこの道に血はついていた。ここら辺で事件が起きるのだろうか。

(ここを進んで)

 倒れこむ死体があって、

(ここを進んで)

 倒れこむ怪我人がいて、

(ここを進んで)

 ああ、そうだ。リオン様が、あそこに立っていた。

 中央区域の商店街の前。リオン様が、落ち込み、怪我をして痛がって、知り合いが死んで、家族が死んで、絶望する人々を、励ました場所。

(向こうにいた)

 足が進んだ。

(あそこにいた)

 足が進んだ。

(ここに立ってた)

 あたしは立ち止まった。

 あたしの立っている場所に、リオン様がいた。

(……リオン様……)

 ここに立つリオン様を見て、どれだけに人が、励まされたことか。

(リオン様)

 かっこよかった。とてもかっこよかった。

(リオン様)

 その背中を見るだけで、胸がどきどきした。

(リオン様)

 王子様だから、ハンサムで、素敵だと思った。

(リオン様)

 隣にいたかった。

(リオン様)

 あの頃は、そんな想いに身を寄せていた。

(リオン様)





 あたしの、


 永遠の初恋。












 時計台の鐘が鳴った。



 はっと我に返り、時計台を見上げる。

「……まだ時間があるわね」

 まだまだ歩ける。

「まだ歩こう」

 あたしの足が、一歩進んだ。そこから離れた。あたしの足が、もう一歩進んだ。そこから離れた。また、足が進む。進む。帰り道に、歩き出す。リオン様がいた、その場所から、離れていった。

 不審な点は、どこにもない。





(*'ω'*)



 18時。


 家の扉を開けると、いい匂いがした。

「……ただいま」

 こそりと呟いて、扉を閉め、廊下を歩く。明かりのついたリビングに入り、キッチンに顔を覗かせると、じいじが既に料理をしていた。あたしに気づき、振り向いて、その皺だらけの頬を緩ませる。

「お帰り、ニコラや。遅かったのう」
「道に迷っちゃったのよ。ちゃんと帰れてよかった」

 嘘ではない。あたしは広場を歩き回っていた。

「お腹空いた」

 呟くと、じいじが鍋に蓋をした。

「手を洗ってきなさい。もうすぐで出来る」
「はーい」

 返事をして、リュックをソファーに置いて、洗面所で手を洗う。かけられたタオルで手を拭いて、おさげを揺らしながらリビングに戻る。じいじが皿の準備をしていた。

(媚を売っておこう)

 あたしは笑顔で声をかける。

「じいじ、手伝うわ。何したらいい?」
「じゃあ、グラスを出してくれ」
「わかった。グラスね」

 キッチンから二人分のグラスを出して、じいじに訊く。

「飲み物は?」
「バナナミルクは好きかの?」
「好き」
「それはよかった」

 じいじの視線がキッチンに置かれているミキサーに移動した。

「もう出来ている。入れてくれ」
「はーい」

 ミキサーの蓋を開けて、グラスに入れる。その間で、テーブルの中心にじいじが鍋を持ってきた。トマトクリームの中に焼いた魚や野菜が入っている。

「じいじ、あたしが盛り付けるわ」
「ほう。出来るのか?」
「これくらいならね」

 じいじの皿に鍋のものを盛り付け、テーブルに置く。あたしの分も盛り付け、自分の前に置いて座る。準備が整ったら手を握って挨拶。

「我らが母の祈りに感謝して、いただきます」

 フォークで刺し、煮込まれた野菜を食べる。

(……美味……)

 それはそれは、疲れが吹っ飛ぶくらい、そうね。言うなれば、美味ってやつよ。ああ、お腹空いてるから、より美味しく感じるわ。……あら?

「まあ! 盛り付けたのにあっという間に無くなってしまったわ! 量が少なかったのかしら! これはしょうがないわね! おかわりをしてもよくって?」
「自由にどうぞ」
「はあ、しょうがないわね! 量が少なかったんだから、仕方なくおかわりをするのよ。あたしったらドジっ子ね!」

 大盛りに盛って皿を置く。

「よいしょ」
「初日はどうだった?」

 あたしは首を振った。

「気疲れしたわ」

 食べながら喋る。

「このあたしが商品を出したりしたのよ」
「ほう」
「重たいものも持って運んだ」
「どうじゃ。やっていけそうか?」
「初日だからまだ分かんないけど、嫌でも11月まで屋敷に戻れないもの。なんとかやっていかないと。……でも、そうね、良い人達が多かったわ。皆、優しかった」
「良かったじゃないか」
「お菓子屋なんだけど、二階建てで、奥に厨房もあって、社長がケーキ作ってるの」
「ほう」
「一つ年上のアリスって子が先輩でね、色々親切にしてくれたわ。お昼も奢ってくれたの」
「ほう。それは良かったのう」
「隣に喫茶店があって、そこでサンドウィッチ食べたの。リトルルビィも一緒だったわ」
「美味しかったかい?」
「ええ」
「アリスにはお礼を言ったか?」
「言った。本物のお金持ちは奢ってくれた人には丁寧にお礼を言えるのよ」
「ふぉふぉふぉ。そうかい」
「アリスはね、家が帽子屋なんだって。今度おいでって誘われた」
「休みの日にでも行けばいいさ」
「そうね。まあ、……暇だったら行ってもいいかも」

 あ、でも、

「自慢したいって言ってたわね……」
「ん?」

 苦い顔をするあたしに、ビリーがきょとんとした。

「アリスったら何を血迷ったのか、キッドのファンクラブに入ってるのよ」
「ほう」

 じいじがくすりと笑う。

「今日、あたしに仕事の内容教える時に、キッドの絵が描かれたメモ帳使ってたのよ。もう最悪よ。朝からあいつのキャラクターイラストを見ることになるなんて思わなかった」
「それはそれは」
「あたし思わず反応しちゃって……。そしたら、アリス、あたしをキッドのファンだって勘違いしだして、違うって言いたかったんだけど、あの子相当押しが強くて言える隙がなかった……」
「ふふっ。そうかい」
「お昼もキッドの話が続くのよ。こんなところが好きで魅力的でって話。あたし、婚約者の座をアリスに譲りたかったわ」

 バナナミルクを飲み、ふう、と一息。

「じいじ、キッドのグッズって本人が承知して出してるものなの?」
「ああ。本人自ら承知済みじゃ」
「……よく許可するわね。あいつも」

 焼いた魚をもぐもぐと食べる。

「ま、キッドなんかどうだっていいのよ。国を放って帰ってこないんだし。そんな奴放っておいて、あたしはあたしで明日も頑張るわ」
「あまり気張らずにな」

 じいじがそう言って微笑み、パンツのポケットに手を入れた。

「それと、ニコラ。これを」
「ん?」

 取り出したそれをテーブルに置く。きらきら光る、長細い鍵。

「この家の鍵じゃ。合鍵を作ってきたから、私が家にいない時はこれで好きに出入りしなさい」
「あら、助かるわ。ありがとう、じいじ。失くさないように大切に持っておくわね」

 鍵を受け取り、傍に置く。

「お風呂に入ったら、今日のメモを見返さないと」
「そうじゃのう。復習と予習は大事だぞ」
「……あ……」

 復習、予習で思い出す。青い顔をすれば、じいじがジャガイモを食べながら、首を傾げた。

「どうした?」
「……思い出した……。あたし、クロシェ先生から山ほど問題集を渡されてるのよ……」
「ほう。リヴェ殿は元気にやっとるようじゃな」
「元気すぎるわよ。野獣みたいな不審者に襲われて怯える美女だった先生はもういないわ。彼女こそ野獣そのものになって、問題集の山という悪夢をあたしに見せてきやがるのよ。それも、一ヶ月で全部終わらせなかったら雷が降ってくる」
「15分程度やるといい。短時間でも毎日やるのが鉄則じゃ」
「15分」

(ああ、そうか)

 毎日やれば、短時間で済むのね。

「……なるほど」
「そうじゃ。溜まりに溜まって泣きを見るくらいなら、短時間でも数ページやっておいた方がいい」
「そうね。じゃあこれを食べて、お風呂に入って、それから……」

 嫌だけど、すごく面倒くさいけど、

「15分だけ勉強して、メモ帳で仕事の復習して、それから自由時間ね」
「ふむ。それがいい」
「なんか本当に規則正しい生活だわ。普段だったらこの後、自分の部屋でだらけてたもの」
「ここにいる間は私がいるからな。口うるさいぞ?」
「短時間だけ勉強なら全然いいわ。さっさと問題集と仕事の復習終わらせて、ボードゲームで遊ぶことにする。キッドの部屋、結構面白そうなもの揃えてるのよ」

 じいじがふふっと笑った。

「ああ、好きなだけ遊ぶといい。ただし、皿洗いは忘れんようにな」
「あー……」

 にこりと微笑む。

「……やります……」
「ふむ」

(……忘れてた)

 あたしは内心うな垂れて、一方、じいじは満足そうに頷いた。

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