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五章:おかしの国のハイ・ジャック(後編)

第17話 ハロウィン祭(4)

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 13時45分。


「トリック・オア・トリート」
「げっ」

 アリスがすごく嫌そうな声を漏らした。ちらっと横目で見れば、ガットがにやにやしながらアリスを見下ろしていた。

「やあ、ハートの女王様。ご機嫌麗しゅう?」
「ニコラ! ニコラ!!」

 アリスがあたしの腕を引っ張る。

「必殺技! 葉っぱカット!」
「無理。出来ない」
「駄目よ! ニコラ、諦めないで! ニコラだってガットさんに勝てるわ!」
「んふふふふ!」

 ガットが笑い、シルクハットを被り直す。

「アリス、俺に似合うお菓子を選んでおくれよ」
「えー……好きなの選んで買えばいいじゃないですか……」
「あんたのセンスは信じてるんだ。さ、選んでおくれ」
「えー……」

 アリスが表情を曇らせ、ガットを見上げる。

「今日はどうします?」
「そうだな。気違いなお菓子がいい」
「はい? 気違い?」
「だって、俺は気違いだ。そしてあんたも気違いだ」
「私、ガットさんよりはまともだと思います」
「それは違うな。俺の現実があんたの現実と違うんだ。だからあんたは俺を気違いだと思うのさ」
「結局、何が言いたいんですか?」
「お菓子が欲しいのさ」
「だから、どうします?」
「アリスのおすすめは?」
「パンプキンか、チェスナット」
「こっちを選ぶ人もいるし、あっちを選ぶ人もいる。とするならば、俺は近道を選ぼう」
「近道?」
「バニラとチョコのビスケット」
「はあ」

 アリスがうんざりしたように大袈裟に息を吐き、ビスケットを袋に詰める。ガットの元へ戻ってくる。

「100ワドル」
「これは巨大になるビスケットかい?」
「ガットさん、ビスケットは大きくなりません」
「これは細小になるビスケットかい?」
「ガットさん、ビスケットは小さくなりません」
「分からないよ。これを食べたら、感情が爆発して大きくも小さくもなるかもしれない。エネルギーを体に含めば、大きくも小さくも見えるものさ」
「はいはい。そうですね。はい、早くお金下さい」
「ふふっ。慌てん坊は煙突から落っこちてしまうよ」
「煙突なんか登りません」
「100ワドル」
「はい、頂戴します。お品物です」

 アリスがぺこりと頭を下げる。

「はい。さようなら」
「アリス、足元に、眠そうな鼠が」
「え!!!?」
「いないよ」

 アリスが怒りの仮面をつけて、立ち上がった。

「ガットさん!!」
「はっはっはっはっ! さて、ハロウィン祭を楽しむことにしよう」
「もう、最低!!」

 アリスが椅子に座り、あたしにムッとした顔を見せる。

「見た? ニコラ、あのにやにやした顔! むかつく!」

(気持ちは分かるわ。アリス……)

 からかわれるって大変よね……。

(さて、客が来るわ)

 きりっと待ち構えるふりをする。

「すみません」
「ハイ」

 見上げる。

「っ」

 穏やかな夫婦が、微笑んであたしを見守っている。

(わ)

 優しそうな夫人に、隣には、ジェフ。

「い、ら、っしゃ、い、ませ」

 思わぬ人物に、言葉が詰まる。夫人はふふっと笑い、ジェフが優しく微笑む。

「お菓子を頂きたい。猫のお嬢さん」
「あー……、……えっと……」

 あたしは棚を指差す。

「どれも美味しいんですけど、……あの……」
「ええ」
「パンプキンと」
「はい」
「チェスナットが」
「はあ」
「おすすめです」
「ハロウィンですからな」
「あなた」

 夫人がジェフに微笑んだ。

「どっちも買わない?」
「食べ比べか」
「そうよ」
「お前はどちらを買う?」
「そうね」

 夫人は少しの合間、棚を見て、あたしを見る。

「貴女は、どちらを食べてほしい?」
「えっと……」

 あたしは目をきょろきょろと泳がせながら、口を動かす。

「チョコとバニラ、どちらがお好きですか?」
「そうね。……バニラかしら」
「でしたら、パンプキンの方が。意外とすっきりしてるんです」
「あら、そう」
「では、私はチェスナットにして」
「私はパンプキンで」
「種類はどうする?」
「あなた、会社の人にも買って差し上げたら?」
「ああ、そうだな。社長も大いに喜ぶに違いない」

 ジェフが指を差した。

「お嬢さん、そこのチェスナット味のお菓子の詰め合わせと、パンプキンのお菓子の詰め合わせ、籠の物をいただけるかな?」
「ああ、はい」

 一気に緊張感が高まる。戸惑いながら籠に入った詰め合わせを大きめの袋に入れ、夫婦の元へ戻る。

「合ワセテ、2000ワドルデス」
「では、こちらで」
「ハイ」

 ジェフから、2000ワドルを貰う。

「丁度頂戴イタシマス」

 お金を箱に入れ、袋を夫婦に渡す。

「オ品物デス」

 ぺこりと頭を下げる。

「アリガトウゴザイマス」
「こちらこそ」

 夫人があたしに手を差し出した。あたしは顔を上げて、手を握る。夫人がふわりと微笑んだ。

「お嬢様、また改めてご挨拶に伺わせていただきますわ」
「ああ……その……また、……はい……また、今度……」
「やめないか。お前」
「だって」
「すみませんなあ。お嬢さん」

 ジェフが微笑み、夫人の肩を抱いてあたしから離した。

「素敵なお菓子をありがとうございます」
「……Mr.ジェフ」

 声をひそめて呼ぶと、ジェフがあたしに屈んだ。

「はい」
「今度、クレームの対応を知りたいの。また、時間のある時に」
「構いませんよ」
「良かったら、あの、……奥様にもご挨拶を」
「はっはっはっ! ええ、ぜひ、時間を作りましょう」
「今日はありがとう。わざわざ来てくれて」
「とんでもない。貴方様の働くお姿を見られて、ジェフは……」

 ジェフが、どばっと涙を流した。

「満足です!!!!!」
「あなた!」

 夫人がジェフを引っ張り、そのまま歩き出す。

「もう! お嬢様は正体を隠しているって、スノウ様があれほど言ってたじゃない! 迷惑になるでしょう!」
「ああ……! なんという素敵なお姿に……! テリー様! ああ、テリー様!!」
「いらっしゃいよ! もう! 貴方のそういうところが間抜けなのよ!」
「ああ……! お前っ! 涙がっ! 涙が止まらんっ!」
「もう、本当に馬鹿ね! いらっしゃいな!」

 夫人に引っ張られ、ジェフが引きずられていく。

(ジェフの奥様、初めて見たわ……)

 とても優しそうな人だった。

(彼は良い人を奥様にしたわね。やっぱり人を見る目がある)

 そんなジェフが仕切っている仕事案内紹介所は、この先も安泰だろう。

(あたしもあんな夫婦になりたいものね)

 笑い合って、怒って、それでも笑って、

(幸せなんだろうな)

 憧れる。

「すみません」
「ハイ」

 きりっと、接客モード。

「ばあば、あれ買って!」
「はいはい」
「トリック・オア・トリート!」
「ハートのお姫様だぁ!」
「うふふふ!」
「猫ちゃん! お手!」
「……チッ」
「150ワドルですぅ」
「カリン、そろそろ休憩いいよ」
「今日はずっと休憩みたいなものですから、大丈夫ですよぉ。……あ、でもぉ、痛み止めのお薬飲まなきゃぁ」
「水いるかい?」
「あ、奥さん、ありがとうございますぅ」
「お疲れ様っす!」
「ちわっす!」
「あらぁ、ブライアン君とスティーブ君」
「親方に頼まれました!」
「籠盛りの詰め合わせ下さい!」
「奥さん!」
「はいよ。一万ワドル!」
「え!?」
「ブライアン、一万ワドル持ってるか!?」
「やべえよ! 1000ワドルしか貰ってねえよ!」
「はっはっはっ! 冗談だよ! 持っていきな!」
「やめてくださいっすよ。奥さん!」
「ひでえや!」
「お菓子を貰ってないから、悪戯したのさ!」
「50ワドルデス」
「100ワドルです!」
「アリス、休憩は?」
「この後じゃない?」
「すみません」
「はい、いらっしゃいませ!」
「パパ! あの猫のお姉ちゃん、尻尾が揺れてる!」
「200ワドルデス」
「アリス」

 アリスがはっとする。

「父さん!」

 隣にいる女性を見て、立ち上がる。

「姉さん!」

 アリスがテーブルに膝を乗せ、カトレアに飛びついた。

「姉さん!」
「こら、アリス!」

 カトレアがアリスの腕を掴み、引き剥がす。

「お行儀が悪いわよ。せっかくのドレスが汚れちゃうでしょ」
「姉さん、もう大丈夫なの?」
「うふふ! 馬鹿ね。ハロウィン祭なのよ。楽しさをあんただけに独り占めされてたまるものですか」
「ああ、姉さん!」

 アリスが微笑み、カトレアを抱きしめた。

「姉さん!」
「こら。アリス」

 カトレアも嬉しそうに微笑み、アリスを引き離す。

「ニコラちゃん、この子をお願い」
「アリス」

 あたしはアリスの腰を引っ張り、座らせる。アリスは微笑み、嬉しそうにマッドとカトレアを見上げた。

「マッドさん」

 奥さんが声をかける。マッドが奥さんの前に行く。

「こんにちは。リタさん」
「こんにちは」
「昨日は素敵な贈り物をありがとうございました」
「とんでもないです」
「アリスのこと、よろしくお願いします」
「こちらこそ。本当に助かってますよ」
「姉さん!」

 アリスが微笑んで、棚に指を差す。

「ねえ、何にする?」
「そうね。でも、家にも……ほら、お菓子のバスケットがあるでしょう?」
「私が食べるからいいわ! ねえ、なんか買ってって!」
「ふふっ。分かった。何が食べたい?」
「どうしようかな。チェスナットのお菓子なかったわよね?」

 相談するアリスに、あたしが横から一言出す。

「ロールケーキは?」
「あ!!」

 アリスが目を輝かせた。

「姉さん、ロールケーキが良い! 私、食べたい!!」
「はいはい」

 カトレアが財布を取り出す。

「おいくら?」
「600ワドル!」
「はい」
「1000ワドル、お預かりします!」

 アリスがお釣りを箱から取り出す。

「400ワドル!」
「はい、ありがとう」
「ありがとうございます!」
「冷やしておくわね」
「やった!」
「アリス」

 奥さんがアリスに声をかけた。

「休憩行っておいで。そろそろリトルルビィが戻ってくるから」
「はーい!」

 アリスが速やかに鞄を持って、テントから出ていき、カトレアの腕を引っ張った。

「姉さん! アイス食べたい!」
「またこの子は」
「ね! 姉さん! アイス! 私! アイスが食べたいの!」
「はいはい」
「バニラの! 美味しい! アイスが食べたいの!!」
「分かったってば」
「ニコラ!」

 アリスが満面の笑みで、あたしに言う。

「休憩行ってくる!」
「行ってらっしゃい」

 手を振って見送る。
 マッドが奥さんにお辞儀をし、後ろから二人についていく。

「こらこら、アリス。人にぶつかるよ」
「父さん、アイス何がいい?」
「父さんは食べないよ。……紅茶はないのか?」
「アリス、大声で喋らないの」
「姉さん、姉さんは何がいい?」

 嬉しそうにはしゃぐアリスがマッドとカトレアの腕を組んで歩き出す。人混みに紛れていく。

(心配してたものね)

 カトレアのことを心配して、ハロウィン祭に参加することを迷うくらい。

(良かったじゃない)

 向日葵のような笑顔のアリスが戻ってきたようで、

(微笑ましい)

 自然と口元が緩んだ。

「戻りました!」
「お帰り。リトルルビィ」

 奥さんがリトルルビィに返事を返す。
 リトルルビィが鞄をテントの奥に置いて、空いたアリスの席に座る。

「……あんた、席あっちでしょ」
「いいの! アリスいないから!」

 にこにこして、あたしの隣を占領する。

「いらっしゃいませー!」

 リトルルビィが元気な大声を出した。


 14時。


「ふふふふふふふ……!」

 カリンが突然、笑い出した。

「ようやく14時……。この時を、待っていたのよぉ……」

 にやつくカリンがあたしにシールを渡す。

「ニコラちゃぁん、これを!」
「ん?」

 あたしはシールを受け取る。

「全部の値札に貼ってくれるぅ?」
「……はい」

 すぱっと、あたしの腕が振られた。一瞬で、全部の値札にシールが貼られる。見てた奥さんとリトルルビィが目を丸くした。

「「えーーーーーーーーーー!!?」」
「ニコラ!?」
「ニコラ、あんた、え!? 今、何やったんだい!?」
「ニコラ、私、知らない! 何それ! 私知らない!!」

(だから、シール貼りだけは慣れてるのよ。……何の役にも立たないけど……)

 口に出さず、シールの余った部分をカリンに返す。

「よし、準備完了ですぅ!」

 カリンがメガホンを構えた。

「カリン、行きますぅ!」

 カリンが車椅子の車輪を動かし、テントの横に移動する。そして、そのままメガホンを構え、息を吸い、――大声を出した。

『さあさあ!! 14時になりましたよーーーーー!! 10分だけの!! チャンスターーイムぅうう!!』

 タイムセール!

『10分間だけ、シールのお値段になりますよぉーーーー!!』

 普段おっとりしているカリンが、声に勢いをつける。

『さあさあ! さあさあ!! お買い得お買い得お買い得ぅううううう!!!』

 一瞬で、ぞろりと人が集まる。

(ひっ!!)

「ニコラ!」

 リトルルビィがあたしを見た。

「来るよ!!」
「上等よ!!」

 ドリーム・キャンディのテントが、人に囲まれた。

「それを!」
「はい!」
「あれを!」
「ハイ!」
「おばちゃん!」
「はいよお。ありがとうねえ」
「こっちを!」
「はい!」
「そっちを!」
「ハイ!」
『さあさあさあさあ! お買い得お買い得お買い得お買い得ですよぉーーーー!! お菓子が全品10分間だけお買い得ぅううう!! トリック・オア・トリートぉ! ジャックもびっくりこれはお買い得ってなもんでぇ、買いたいなら買い時が今ぁぁぁあああああ!!』
「それを!」
「ひぇっ!」
「あれを!」
「ハイ」
「はいよお。あちらねえ」
「100ワドル!」
「えっと、えっと」
「ニコラ、それ取っておくれ」
「はい! 奥さん!!」
『ジャック、ジャック、切り裂きジャックを知ってるかーい! 10分だけお買い得ぅううう!』
「そろばんー!」
「あれを」
「400ワドルデス!」
「それ」
「はいいいい!」
『寄ってらっしゃいぃ! 見てらっしゃいぃ!!』
「リトルルビィ、あれ取っておくれ」
「あばばばばば……!」
「ニコラ、落ち着いて!」
「あれ下さい!」
「はい!」
「コチラデスネ!」
「はい、100ワドル」
「50ワドル!」
「……アザシタ」
「100ワドルです!」
「はいよ、60ワドル」
『ジョージ君! 手伝ってぇー!!』
「はいはいはいはい! お猿のジョージが助っ人ですよ!」
「ジョージさん!」
「救世主!!」
「あんた!! 手伝いな!!」
「……いらっしゃいませー……」

(社長が接客してる!!)

 あ、子供が黙った。

『さあさあさあ! お買い得お買い得お買い得ぅううう!』
「……100ワドルです」
「はいはい! こちらが30ワドルね!」
「300ワドルデス!」
「20ワドルのお返しです!」
「リトルルビィ、あれ取っておくれ」
「はい! 奥さん!」
「……らっしゃいませー……」
「あんた、子供が怖がってるじゃないの! もっと笑顔で」
「……くくく……。……いらっしゃいませー……」
「あ、黙っちゃったよ」
『終わっちゃいますよぉーーー!!! あと数分んんん!!』
「60ワドル」
「はい、200ワドルで」
「お釣りが……」
「70ワドルデス」
「リタ、儲かってるねぇ」
「ふふふ! 泣き虫だったカリンも成長したもんさ!」
「400ワドル」
「ありがとうございます!」
「ありがとうございまーす!」
「ありがとさん!」
「アリガトウゴザイマス」

 ちりんちりんと、カリンがベルを鳴らした。

『しゅーーーりょーーーーー!!』

 カリンの車椅子がテントに戻ってくる。

「ジョージ君、シール回収してぇ」
「了解」
「あんた、お菓子作り頼んだよ」
「……」

 社長が売れたお菓子の様子を見て、犯罪が成功したような顔でにやついている。
 リトルルビィがあたしの背中を撫でた。

「終わったよ……! ニコラ……! 私達、生き残ったのよ!」
「……」
「ニコラ! 故郷に帰れるよ! ニコラ!!」

(……疲れた……)

 テーブルに突っ伏すると、歩いている子供の声が聞こえた。

「ねえ、見て! ママ! 猫ちゃんが寝てる!!」
「はいはい」

 セールが終わり、人の波が引いていく。

「ルビィちゃん、品を出すからちょっと手伝ってくれる?」
「はーい!」

 リトルルビィが元気に返事をし、ジョージについていく。奥さんが伸びたあたしを見て、げらげらと笑った。

「はっはっはっはっ! ニコラ、びっくりしたでしょ!」
「……はい」
「ちょっと休みな。でもお客さんに声かけられたら相手するんだよ?」
「……はい」

 猫耳が垂れる。

(疲れた……)

 息をする暇もなかった。

(疲れた……)

 深呼吸する。

(……疲れた)

 一度目のハロウィン祭では、あたしは働く側ではなくて、歩く側だった。馬車で人混みの多い所にあえて行って、美しい派手なドレスを着て、仮装して、物を買って、食べて、遊んで、楽しんでた。

(疲れた……)

 こんな状態で、そんな横暴で乱暴な貴族様が来たら、せっかくの祭が台無しよ。

(あたしはどうだったかしら)

 覚えてない。

(どんなことをしてきたかしら)

 覚えてない。

(覚えてなきゃいけないのに)

 自分がやったつまらないことは、何も覚えてない。

「……はー……」

 疲れて、息を吐いて、ゆっくりと起き上がる。すると、目の前から笑い声が聞こえた。

「ふふ!」

 可憐な少女の笑い声。

「見てみて! お爺ちゃん!」

 足元が見えた。可愛い靴が見えた。

「子猫ちゃんが起きましてよ!」

 ドレスの裾が見える。

「おはよう。子猫ちゃん!」

 ピナフォアドレスだわ。

「あら、大変」

 手があたしの頭に触れた。フードを直される。視界が開ける。あたしの目に、薄い青髪が映った。腰まで長く、ふわふわして、糸のように薄く綺麗な髪の毛。白い肌。形の良い輪郭。ピンクの口紅。ほんのり赤い頬。高い鼻。

(ん?)

 見上げる。目が合う。宝石のような、青い目と視線が重なる。闇に近い青い瞳。整われている前髪。リボンのカチューシャ。

 その姿は、まるで、クリスタル。

「ふふっ」

 少女が、美しく微笑んだ。



「お耳がずれておりましてよ。子猫ちゃん」



 不思議の国から迷い込んできたような、美しい少女。



(え)

 思わず、目を奪われる。

(え?)

 これは現実か?

(え?)

 美しい。

(あ)

 まるで夢の、幻の、幻覚のよう。

(あっ)

 この気持ちは、

(覚えがある)

 困惑当惑動揺混乱狼狽乱雑混沌警戒敬愛尊敬《こんわくとうわくどうようこんらんろうばいらんざつこんとんけいかいけいあいそんけい》。

「あ」

 言葉が出てこない。
 微笑む少女を見つめる。
 手が震える。
 少女の目に支配される。
 意識を奪われる。
 目が離せない。
 まるでクリスタル。
 美しい。
 美しすぎて、触れられていることが嘘のよう。
 これは夢かしら。
 こんな少女が現実にいるはずがない。
 あたしの目の前で、微笑んでいるわけがない。
 美しい。美しい美しい美しい。
 なんて美しい瞳なのかしら。
 なんて美しい微笑みなのかしら。
 なんて美しい声なのかしら。
 困惑当惑動揺混乱狼狽乱雑混沌警戒敬愛尊敬《こんわくとうわくどうようこんらんろうばいらんざつこんとんけいかいけいあいそんけい》。
 様々な想いが溢れ出そうで、
 様々な気持ちが溢れ出そうで、

(まさか)

 仮面舞踏会。

(まさか)

 あの時の、

(まさか)

 あたしは目を見開く。

(まさか)

 少女の手が、あたしの頬を撫でた。

「ニコラちゃん」

 にこりと微笑む。

「どうも、こんにちは」

 にこにこ笑う少女を見て、
 あたしの名前を呼ぶ声を聞いて、
 あたしににやにやしているその顔を見て、
 あたしの頬をいやらしく撫でるその手のぬくもりを感じて、
 きょとんとして、
 眉をひそめて、
 瞬きして、
 じっと相手を見て、


 ――サーーーーーーーと、血の気が引いていく。

(……え……?)

 この目はクリスタルなんかじゃない。
 この瞳は幻なんかじゃない。
 闇に近い青い目。にやにや笑ういやらしい笑み。
 美しく見えるその腹黒い笑顔。
 あたしは、一人、見覚えがあった。

(……)








 キッド。





「ひっっっっっっっっっっ!!!」

 声が漏れ、後ろに下がる。

「よし、きた」

 少女があたしの手首を掴んで、引き寄せた。顔が近くなる。少女が声をひそめて言った。

「俺の勝ち」
「は?」
「今、悲鳴をあげた」

 あたしは唇を固く結び、首を振った。

「俺の勝ちだ」

 あたしはぶんぶんと首を振った。

「だから言っただろ? お前は絶対悲鳴をあげるって」

 あたしは青い顔で、ぶんぶんぶんと首を振った。

「くくっ」

 少女が笑う。

「くっくっ」

 あたしは冷や汗を流して、少女を見つめる。

「くっくっくっ」

 肩を揺らして少女が笑う。

「くっくっくっくっくっ」

 愉快げに笑う。

「くくくく、あはははは!」

 少女が笑う。

「あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!」

 キッドが笑った。

「はぁーーーーはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!!!!」

 この勝負、

「俺の勝ちだーーーーーーー!!!!!」
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 腰を持ち上げて、慌てて後ろに下がるが、キッドの手が離れない。がしっと掴んで、再び引っ張ってくる。カリンがぽかんと見る。奥さんがきょとんと見る。キッドがにこにこ微笑む。

「ねえ、ニコラちゃん、お約束は守ってくれるわよね?」
「気持ち悪い! やめろ! お前、その口調! 気持ち悪い!!」
「人として、お約束は守らなきゃ。ね? ニコラちゃん」
「やめろ! お前! その猫撫で声やめろ!! 気持ち悪いのよ!!」
「ほらほら、また猫耳がずれておりましてよ。あたくしが直してさしあげますわ。大人しくしろ」
「いいいいいいい! やめろ! 触るな! 汚らわしい!!」
「またまたそんなこと言っちゃって。本当は嬉しいくせに」
「嬉しくない! 嬉しくない! 何も嬉しくない!!」
「にゃーにゃー。にゃんにゃん。にゃにゃんがにゃん。にゃめんぼにゃかいにゃにゃににゅにぇにょ」
「猫語を使うな! 鼠ちゃん語を使え!!」
「これ、やめなさい」

 じいじがキッドの肩を掴む。あたしは涙目でじいじを見上げる。

「じいじ! こいつ!! 気持ち悪い!!」
「失礼な奴だにゃ。せっかく来てやったのに」

 キッドがあたしから手を離し、腕を組んでにやにやする。

(見惚れたあたしが馬鹿だった)
(こいつもソフィアと一緒よ)

 顔だけイケメンのクズ野郎!!

「いい! そういうのいらないから早くどっか行って!」
「あーあ、俺、傷ついちゃったー。普段の格好に着替えようかにゃー?」
「じいじ! こいつやだ!! こいつ嫌い!!」
「やめないか。二人とも」
「俺、何もしてないよ」
「じいじぃ……!」
「からかってやるんじゃない」
「愛のあるスキンシップさ」

 じいじがあたしとキッドの間に入った。

「やれやれ、さっきは一気に混んだのう。近づけなかったわい」
「……見てたの?」
「セールだったのかい?」
「ん」

 頷くと、じいじが微笑んだ。

「そうかい。お疲れ様」
「……疲れた」
「喉は乾いてないかい?」
「乾いた」
「これを」

 じいじが水筒を差し出してきた。

「レモンティーが入ってるよ。隙を見て飲みなさい」
「……ありがとう……」

(……じいじのレモンティー……)

 水筒を見つめながら座ると、じいじがキッドと一緒に棚を眺める。

「お爺ちゃん、あたくし、あれがいい」
「苺のロールケーキ……」
「この時期に苺のロールケーキなんて珍しい。ぜひ買うべきだ」
「苺のクッキーも置いてあるぞ」
「それも買う」
「飴は?」
「買う」
「ニコラや、お前は何がいい?」
「あたし?」

 棚を眺める。じいじを見上げる。

「何でもいい?」
「いいよ」
「あれ」

 お菓子の詰め合わせ。

「色んなの入ってるの」
「いいよ。それも買おう」
「ニコラちゃん」

 キッドがにやにやして、あたしを見下ろす。

「さあ、算数の問題だ。足し算していくらかな?」
「なめるな。下種野郎」

 一つ一つ確実に足していけば、答えは出てくる。

「1200ワドル」
「正解」

 キッドがにぃ、と笑い、じいじが財布からお金を取り出す。

「ニコラや、練習の成果を見せてもらおうかの」

 じいじが微笑んで、お金を差し出す。あたしは受け取る。

「2000ワドル、オ預カリ、シマス」

 箱にお金を入れ、お釣りを手に取る。

「800ワドル、オ返シデス」

 じいじに返す。

「アリガトウゴザイマス」

 一礼。頭を上げる。じいじが微笑んで、頷いた。

「素晴らしい」

 あたしの頭を撫でた。

「ありがとう。よくやった」

 じっと、じいじを見つめる。じいじは微笑んでいる。棒読みのことは何も言わない。ただ、よくやったと褒めてくれた。あたしは褒められるようなことはしていない。ただ、働いてるだけ。でも、じいじは褒めてくれる。



 その言葉で、胸が温かくなるのは、なぜだろうか。



(悪い気分じゃない)

 どこか、胸の中がほかほかしている。

(変な気分)

 ふわふわしている、変な気持ちだ。

「お爺ちゃん、あたくしが持つよ」
「うぬ」

 キッドが袋を持った。
 奥さんが顔を覗かせ、じいじに声をかけた。

「お爺さん、どうも」
「おお、これはこれは」

 じいじが奥さんの方へ歩いて行った。カリンがキッドをぼーーーーっと見つめる。

「……ニコラちゃん、……この方、お姉さん?」
「はい!」

 キッドが微笑んで、屈み、あたしを抱きしめた。

「この子のお姉ちゃんです!」

 指を差す。

「ほら、この鋭い目元が似てないでしょう?」
「……似てないはおかしいでしょう」
「ニコラはこの後、大好きなお姉ちゃんと祭を歩くんだもんね! ねえ、お仕事は16時に終わるの?」

(……あたし、逃げ道を見つけるのよ)

 真剣に考える。言い訳を考える。思いつく。

(はっ! そうだ!!)

「残業があるかも。17時くらいだと思ってくれた方がいいかもしれない」
「17時ね」

 キッドが頷き、あたしの耳元でぼそりと囁いた。

「逃げるなよ」

(逃げるのよ!!!)

 16時で解散になったら、速攻で逃げてやる!!!!

「ふふふ! 楽しみねえ! ニコラーん!」

 キッドが笑いながらあたしから離れる。カリンがぼうっとキッドに見惚れる。じいじが奥さんと話を終わらせて、キッドの横に戻ってくる。

「行くよ」
「じゃあね、ニコラ。また後で」

 キッドが微笑んで手を振る。あたしは無視する。じいじが手を振る。あたしは手を振った。キッドがむすっとして、じいじの振る手を掴んだ。

「お爺ちゃん、あの子悪い子」
「お前もからかうからいけないんじゃぞ」
「この後、沢山虐めてやる」
「こら、そういうことを言うもんじゃない」
「お爺ちゃん、次、あっち」
「ああ」

 じいじとキッドが去っていく。

(……嵐が去った……)

「品物持ってきましたー!」

 物を沢山乗せた台車を押して、リトルルビィが戻ってきた。

「あらぁ。ルビィちゃん、今戻ってきたのぉ? もったいないわねぇ」
「え?」
「今ねぇ? ニコラちゃんのお姉さんが来たのよぉ?」
「え?」

 リトルルビィがぽかんとする。

「……アメリアヌ、午前中に来なかったっけ?」
「ニコラちゃん、羨ましいわ。すっごく綺麗なお姉様だったわねぇ! 私、見惚れちゃったぁ!」
「……」

 顔だけよ。

(顔だけは……いいのよ……)

 本気で、見惚れたあたしが馬鹿だったわ……。

(……くそ……)

 クリスタルの少女と、再会出来たと思ったのに。

(……)

 むすっとして手に顎を乗せると、リトルルビィが隣に戻ってくる。

「ニコラ、疲れた?」
「大丈夫」

 水筒を開けて、飲んでみる。

(……美味)

 じいじのレモンティーは、本当に美味しかった。

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