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第十七話
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起きた時にはもう、新幹線ギリギリの時間だった。ばあちゃんが使い捨ての容器で持たせてくれたお弁当を手に、じいちゃんの車に乗せてもらって、名残惜しさを感じるには慌ただしい出立になった。
どうしても、と頼まれ、昼からバイトが入ってしまったので、久瀬とは駅で解散だった。またファミレスかどこかで集まって課題をしよう、と約束し、引き裂かれるような気持ちで、タクシーに乗り込んでいく久瀬を見送ったのだった。
お盆が終わってしまえば、後の十日弱の夏休みは本当にあっという間だった。バイトと勉強と、疎かになっていたことをこなしていき、橋本に呼び出されて夏課題消化合宿に付き合わされたり、模試を受けたりと、何だかんだ、最終日になるまで久瀬には会えずじまいだった。
それでも、毎晩寝る前に通話を繋げて、とりとめのない話をして、最終日は一日中一緒にいようと約束した。それも、久瀬の家にお呼ばれしたのだ。
何でも、外注でデスクトップのパソコンを組んだはいいが、肝心のゲームのダウンロードや、設定が分からないとのことで、色々見て教えてほしいと依頼されたのである。
夜はそのまま泊まって、翌朝は一緒に学校に行こう、なんて……そんな楽しそうな誘い、快諾する以外にあるだろうか。憂鬱な始業式さえ、途端に楽しみになるくらいである。
朝の有酸素運動を済ませ、シャワーを浴びて、気持ち念入りに全身を洗って、デオドラントと貰い物のボディミストを吹きかける。既に、祖父母宅で過ごした間で、汗臭い自分の体臭なんかさんざんお見舞いしてしまった後だが、それでも、お呼ばれとなれば、話は違うのである。
さて、身支度を済ませ、着替えなんかを入れたリュックを背負い、家を出ようという時、今起きてきたという風体の妹と玄関で鉢合わせた。妹はキョトン、と呆気に取られたように目を見開いた。
「あ、悪い、いろは。朝飯、机に置いてあるから。適当にチンして食べてくれ」
「ああ……え、またどっか行くの?」
「あの、松本のじいちゃんちに連れて行った人の家に、遊びに……そのまま泊まってくる」
「……ふぅん。友達……なんだよね? 本当に」
ああ、何と言ったものか。友達、と言ってしまうのは簡単だ。でも、なんだか釈然としなかった。特別な人……付き合ってる相手なのだから、久瀬は。
何も、隠すことなどない。しかし、何かネガティブな反応が返ってきたら、きっとやるせない。久瀬のことが好きであるという自分の心には、例え誰であっても、踏み入らせたくないと思ってしまう。
「お前がそこまで俺のこと気にするなんて珍しくないか? なんか変なもん食った?」
「は? 別に、どうでもいいし……わかったからさっさと行けば!」
「おう、行ってくるわ」
妹はフンと鼻を鳴らし、踵を返してリビングへと入っていった。ドタドタとやかましい。女の子なんだからもっとお淑やかに、なんて、時代遅れな感想なのだろうが。
にしても、俺ってそんなに分かりやすいのだろうか。それとも、多感な中学生女子である妹が鋭すぎるのか。いままで、人を好きにはなれど、成就したことはなかったので、俺はそこのところ疎いのだ。
とまあ、そんなことを色々と考えながら、家の最寄りまでを歩き、何駅か電車に揺られる。改札を出て見回せば、ちょうど、久瀬がこちらに向かって歩いているのが見えたので、俺はすぐに駆け寄った。
「おはよう、久瀬」
久瀬はコクコクとうなずき、俺の手を取って意気揚々と歩き出す。ぐいぐい、と引っ張られる力が、そのまま久瀬の待ちきれないという心を表しているようで、面映ゆかった。
久瀬の家は駅からほど近いマンションだった。それも、新築の高層マンションというやつ。前々からひそかに思っていたが、久瀬の財力がすごい。流石は大人気アイドルだ。
エレベーターを降りるや否や、ズンズンとマンションの廊下を進み、キーをドアノブに認証させて、押し入るみたいに部屋の中へ入った久瀬。ガチャ、とオートロックのかかった音が鳴った瞬間、久瀬は俺にひし、と抱き着いて、深く息を吸いこんだ。
「会いたかった……久しぶり、カイリくん」
「久しぶりって……まあでも、そうか、ごめんな、全然都合つかなくて、結局今日まで……」
「うん、寂しかった……でも、かわりに今日はずっとカイリくんを独り占めだ」
ゆっくりと身体を離しながら、うっとりと微笑む久瀬。片手はずっと俺の腕を握ったままだ。流れるように靴を脱いで俺の腕を引っ張るので、俺も少しまごつきながらそれに従った。
久瀬の部屋は想像以上に広々としていて、モデルルームみたいだった。しかし、ここでひとり暮らしをしているのかと思えば、どこか肌寒さを感じるような気もした。
「自分の家だと思って、ゆっくりして。本当に自分の家にしてもらってもいいんだけどね」
「久瀬も冗談とか言うんだな……」
「本気だよ? 部屋余ってるし、学校も近いし……不自由はさせないから」
「うーん……俺は、できるだけ久瀬と対等でいたいから。一緒に住むとかは、ちゃんと自分で稼げるようになってから、真剣に考えたいかな」
いつまでも、こんな幸運が続くとは限らないわけだし。もし久瀬がアイドルに復帰したら、俺は久瀬にとって特別でも何でもなくなる。そうなったときに、荷物をまとめてすごすごと出ていく羽目になるのは惨めだ。俺の他に特別を見つける可能性だってあるしな。
「じゃあ、せめて、毎週泊まりに来てほしい……曜日を決めて、週に一度は僕がカイリくんを独占できる日を作りたいな。ここに帰って来てから、カイリくんがいないベッドが寂しくて、うまく眠れなかったんだ。ね、お願い」
「そういう、ことなら……」
言われてみれば、確かに……祖父母宅では、一泊目以外はずっとくっ付いて寝てたような。こっちに帰って来てから何日か、妙に寝つきが悪いと思っていれば、そういうことだったのか。申し訳ないような、こそばゆいような。
「月曜の朝、一緒に学校行けたら、週の初めが嫌にならなさそうだよね。カイリくんの日曜日、僕がもらっていい?」
「あ、ああ……わかった。でも、無理が出てきたらいつでも言ってな。いくら彼氏でも、誰かを家に泊めるって結構負担になるかもしれないし。嫌なことはちゃんと嫌って教えて」
「カイリくんに遠慮されるのは嫌だね。気を遣われるのも嫌」
「そうきたか……」
そんなこと言ったって、久瀬だって、祖父母の家にいたときは色々気を遣ってくれてただろうに。まあ、遠慮せずくつろいでくれる瞬間もあって、それが分かったときは嬉しかったけど。できるだけ居心地の良い滞在にしてほしかったし。
なんとなく荷物を置いても景観を害さないだろう場所にリュックを置く。久瀬は薄手のヘアバンドで前髪を上げ、キッチンへ入っていく。
「コーヒー淹れるね。ゆっくりしてて。すぐだから」
「あ、なんか手伝……」
「ううん、マシンがあるから、ボタン押すだけ。えへ」
「すご……」
「カイリくんと喫茶店とか行くようになってから、コーヒーに目覚めちゃってさ、ついポチっちゃった。銘柄とかはまだよく分かってないから、豆は普通にマイルドカルディなんだけど」
「あ、じゃあ、次はお勧めのコーヒー豆持ってくる。もちろん、マイルドカルディも好きだけど」
「ほんと? ありがと、楽しみにしてる」
ガラスのテーブルに置かれる、シンプルなコーヒーカップとソーサー。広いソファで、久瀬は沢山の余白をものともせず、俺のすぐ隣に座って、ふうと息をつく。本当に俺のこと好きなんだなって、毎度新鮮に驚きを得ているところだ。
「やっぱり、落ち着くな、カイリくんが傍にいると」
「俺も、やっぱり久瀬といるのが一番心地よいかな……全然疲れなくて、一緒にやりたいこととか、話したいこととか、どんどん沸いてくる」
あんまり比較するのってよくないとは思うのだが、やはり、他の人と一緒にいると、合わせる、という感覚が強くなってしまうのだ。次から次に小さいタスクがやって来て、ずっと何かに追われている感じ。楽しいけど、余裕がない。
筋トレを始めたのも、体力がないからだと思ってのことだが、特に変化はなかった。きっと脳の負荷の問題なのだろうと結論付け、何にせよ筋トレはメンタルリセットにちょうどいいから続けている。
「カイリくんはさ、もう、大学、具体的にどこ目指すか決めてる?」
「ん~……法曹コースがある国公立ってとこかな。時間がかかればかかるだけお金もかかるし、一旦最短ルート目指しとくかって感じ。どこに行きたいとかは、今のところ……できるだけ偏差値伸ばしといたほうが苦労しないかな、とは思ってる」
「……あのね、カイリくんはさ、さっき、自分で稼げるようになったらって言ってたけど、僕は、出来るだけ早いうちに実現したくて。大学生になって、もし、ひとり暮らしになりそうだったら、同棲考えてほしいなって。僕は、それが出来そうな大学を選ぶから」
「久瀬……大学選びはもっと慎重になった方が……久瀬にも将来があるわけだし、何も俺にばっかり合わせることもないと思う、けど」
「カイリくんと離れ離れになる将来は、今のところ考えたくない。ずっと一緒にいる将来のことを考えたい」
どうして久瀬はそこまで焦るのだろう。俺なんか頑張って捕まえようとしなくても、俺の意思でずっと傍にいるのにな。少なくとも、久瀬が俺から離れたいと思うまでは。
「まあでも、何にせよ、その時になってから考えるってことで。お互いに無理なく実現できそうだったら、是非そうしよう。もしかしたら、お泊り重ねていくうちに、俺のなんか無理だなってところが見えてくるかもしれないしさ。そうならないように気を付けるけど」
「うん……」
あからさまに、納得いかない、という声で、久瀬はうなずいた。気分に水を差したかな、と後ろめたい気持ちになり、どうしたことかな、と思いながら久瀬の頬を撫でた。すると久瀬は不満げな猫みたいに唸りながら抱き着いて、覆いかぶさってきた。
「わっ、あははっ……ごめんごめん、真剣に考えてないわけじゃなくてさ。むしろ、そんなに先のことまで考えてくれて、すごく嬉しいんだよ。だからこそ、その嬉しさだけで受け取って、流したくないって言うか。じっくり、慎重に考えたいんだ」
「だって、悠長にしてたら、カイリくんが誰かに取られちゃうかも……」
「誰も取らないって、俺みたいなやつ! アハハ!」
久瀬がボソリと、わかってないなぁ、と呟いた。何が分かっていないというのか。
逆に、久瀬よりも魅力的な人間なんてなかなかいないだろう。こんなにも魅力的な人間が、一緒にいてこんなに居心地良くて、さらには俺のことが好きなんて、百年に一度の奇跡みたいな現象だ。きっと、俺の人生最大の奇跡だろう。
少なくとも、俺からは絶対に手放せない。そうしないといけないと思うような事情でもない限り、絶対に。
「これでも、我慢してるんだからね? 分かってね、もしカイリくんが他の人のところに行こうとしたら、何するか分からないからね」
「解き放たれる? 獣が」
「解き放つよ、それはもう、盛大に」
「じゃあもう、モフるしかないね、盛大に」
「解き放たれないよう努力してくれるかな?」
「だって、ずっと閉じ込められたままも可哀想かなって」
俺は久瀬の力んだ背中をさすってやった。ちょっとだけ、解き放たれたビーストモードの久瀬も見てみたいな、と思ったのは、ここだけの秘密だ。
どうしても、と頼まれ、昼からバイトが入ってしまったので、久瀬とは駅で解散だった。またファミレスかどこかで集まって課題をしよう、と約束し、引き裂かれるような気持ちで、タクシーに乗り込んでいく久瀬を見送ったのだった。
お盆が終わってしまえば、後の十日弱の夏休みは本当にあっという間だった。バイトと勉強と、疎かになっていたことをこなしていき、橋本に呼び出されて夏課題消化合宿に付き合わされたり、模試を受けたりと、何だかんだ、最終日になるまで久瀬には会えずじまいだった。
それでも、毎晩寝る前に通話を繋げて、とりとめのない話をして、最終日は一日中一緒にいようと約束した。それも、久瀬の家にお呼ばれしたのだ。
何でも、外注でデスクトップのパソコンを組んだはいいが、肝心のゲームのダウンロードや、設定が分からないとのことで、色々見て教えてほしいと依頼されたのである。
夜はそのまま泊まって、翌朝は一緒に学校に行こう、なんて……そんな楽しそうな誘い、快諾する以外にあるだろうか。憂鬱な始業式さえ、途端に楽しみになるくらいである。
朝の有酸素運動を済ませ、シャワーを浴びて、気持ち念入りに全身を洗って、デオドラントと貰い物のボディミストを吹きかける。既に、祖父母宅で過ごした間で、汗臭い自分の体臭なんかさんざんお見舞いしてしまった後だが、それでも、お呼ばれとなれば、話は違うのである。
さて、身支度を済ませ、着替えなんかを入れたリュックを背負い、家を出ようという時、今起きてきたという風体の妹と玄関で鉢合わせた。妹はキョトン、と呆気に取られたように目を見開いた。
「あ、悪い、いろは。朝飯、机に置いてあるから。適当にチンして食べてくれ」
「ああ……え、またどっか行くの?」
「あの、松本のじいちゃんちに連れて行った人の家に、遊びに……そのまま泊まってくる」
「……ふぅん。友達……なんだよね? 本当に」
ああ、何と言ったものか。友達、と言ってしまうのは簡単だ。でも、なんだか釈然としなかった。特別な人……付き合ってる相手なのだから、久瀬は。
何も、隠すことなどない。しかし、何かネガティブな反応が返ってきたら、きっとやるせない。久瀬のことが好きであるという自分の心には、例え誰であっても、踏み入らせたくないと思ってしまう。
「お前がそこまで俺のこと気にするなんて珍しくないか? なんか変なもん食った?」
「は? 別に、どうでもいいし……わかったからさっさと行けば!」
「おう、行ってくるわ」
妹はフンと鼻を鳴らし、踵を返してリビングへと入っていった。ドタドタとやかましい。女の子なんだからもっとお淑やかに、なんて、時代遅れな感想なのだろうが。
にしても、俺ってそんなに分かりやすいのだろうか。それとも、多感な中学生女子である妹が鋭すぎるのか。いままで、人を好きにはなれど、成就したことはなかったので、俺はそこのところ疎いのだ。
とまあ、そんなことを色々と考えながら、家の最寄りまでを歩き、何駅か電車に揺られる。改札を出て見回せば、ちょうど、久瀬がこちらに向かって歩いているのが見えたので、俺はすぐに駆け寄った。
「おはよう、久瀬」
久瀬はコクコクとうなずき、俺の手を取って意気揚々と歩き出す。ぐいぐい、と引っ張られる力が、そのまま久瀬の待ちきれないという心を表しているようで、面映ゆかった。
久瀬の家は駅からほど近いマンションだった。それも、新築の高層マンションというやつ。前々からひそかに思っていたが、久瀬の財力がすごい。流石は大人気アイドルだ。
エレベーターを降りるや否や、ズンズンとマンションの廊下を進み、キーをドアノブに認証させて、押し入るみたいに部屋の中へ入った久瀬。ガチャ、とオートロックのかかった音が鳴った瞬間、久瀬は俺にひし、と抱き着いて、深く息を吸いこんだ。
「会いたかった……久しぶり、カイリくん」
「久しぶりって……まあでも、そうか、ごめんな、全然都合つかなくて、結局今日まで……」
「うん、寂しかった……でも、かわりに今日はずっとカイリくんを独り占めだ」
ゆっくりと身体を離しながら、うっとりと微笑む久瀬。片手はずっと俺の腕を握ったままだ。流れるように靴を脱いで俺の腕を引っ張るので、俺も少しまごつきながらそれに従った。
久瀬の部屋は想像以上に広々としていて、モデルルームみたいだった。しかし、ここでひとり暮らしをしているのかと思えば、どこか肌寒さを感じるような気もした。
「自分の家だと思って、ゆっくりして。本当に自分の家にしてもらってもいいんだけどね」
「久瀬も冗談とか言うんだな……」
「本気だよ? 部屋余ってるし、学校も近いし……不自由はさせないから」
「うーん……俺は、できるだけ久瀬と対等でいたいから。一緒に住むとかは、ちゃんと自分で稼げるようになってから、真剣に考えたいかな」
いつまでも、こんな幸運が続くとは限らないわけだし。もし久瀬がアイドルに復帰したら、俺は久瀬にとって特別でも何でもなくなる。そうなったときに、荷物をまとめてすごすごと出ていく羽目になるのは惨めだ。俺の他に特別を見つける可能性だってあるしな。
「じゃあ、せめて、毎週泊まりに来てほしい……曜日を決めて、週に一度は僕がカイリくんを独占できる日を作りたいな。ここに帰って来てから、カイリくんがいないベッドが寂しくて、うまく眠れなかったんだ。ね、お願い」
「そういう、ことなら……」
言われてみれば、確かに……祖父母宅では、一泊目以外はずっとくっ付いて寝てたような。こっちに帰って来てから何日か、妙に寝つきが悪いと思っていれば、そういうことだったのか。申し訳ないような、こそばゆいような。
「月曜の朝、一緒に学校行けたら、週の初めが嫌にならなさそうだよね。カイリくんの日曜日、僕がもらっていい?」
「あ、ああ……わかった。でも、無理が出てきたらいつでも言ってな。いくら彼氏でも、誰かを家に泊めるって結構負担になるかもしれないし。嫌なことはちゃんと嫌って教えて」
「カイリくんに遠慮されるのは嫌だね。気を遣われるのも嫌」
「そうきたか……」
そんなこと言ったって、久瀬だって、祖父母の家にいたときは色々気を遣ってくれてただろうに。まあ、遠慮せずくつろいでくれる瞬間もあって、それが分かったときは嬉しかったけど。できるだけ居心地の良い滞在にしてほしかったし。
なんとなく荷物を置いても景観を害さないだろう場所にリュックを置く。久瀬は薄手のヘアバンドで前髪を上げ、キッチンへ入っていく。
「コーヒー淹れるね。ゆっくりしてて。すぐだから」
「あ、なんか手伝……」
「ううん、マシンがあるから、ボタン押すだけ。えへ」
「すご……」
「カイリくんと喫茶店とか行くようになってから、コーヒーに目覚めちゃってさ、ついポチっちゃった。銘柄とかはまだよく分かってないから、豆は普通にマイルドカルディなんだけど」
「あ、じゃあ、次はお勧めのコーヒー豆持ってくる。もちろん、マイルドカルディも好きだけど」
「ほんと? ありがと、楽しみにしてる」
ガラスのテーブルに置かれる、シンプルなコーヒーカップとソーサー。広いソファで、久瀬は沢山の余白をものともせず、俺のすぐ隣に座って、ふうと息をつく。本当に俺のこと好きなんだなって、毎度新鮮に驚きを得ているところだ。
「やっぱり、落ち着くな、カイリくんが傍にいると」
「俺も、やっぱり久瀬といるのが一番心地よいかな……全然疲れなくて、一緒にやりたいこととか、話したいこととか、どんどん沸いてくる」
あんまり比較するのってよくないとは思うのだが、やはり、他の人と一緒にいると、合わせる、という感覚が強くなってしまうのだ。次から次に小さいタスクがやって来て、ずっと何かに追われている感じ。楽しいけど、余裕がない。
筋トレを始めたのも、体力がないからだと思ってのことだが、特に変化はなかった。きっと脳の負荷の問題なのだろうと結論付け、何にせよ筋トレはメンタルリセットにちょうどいいから続けている。
「カイリくんはさ、もう、大学、具体的にどこ目指すか決めてる?」
「ん~……法曹コースがある国公立ってとこかな。時間がかかればかかるだけお金もかかるし、一旦最短ルート目指しとくかって感じ。どこに行きたいとかは、今のところ……できるだけ偏差値伸ばしといたほうが苦労しないかな、とは思ってる」
「……あのね、カイリくんはさ、さっき、自分で稼げるようになったらって言ってたけど、僕は、出来るだけ早いうちに実現したくて。大学生になって、もし、ひとり暮らしになりそうだったら、同棲考えてほしいなって。僕は、それが出来そうな大学を選ぶから」
「久瀬……大学選びはもっと慎重になった方が……久瀬にも将来があるわけだし、何も俺にばっかり合わせることもないと思う、けど」
「カイリくんと離れ離れになる将来は、今のところ考えたくない。ずっと一緒にいる将来のことを考えたい」
どうして久瀬はそこまで焦るのだろう。俺なんか頑張って捕まえようとしなくても、俺の意思でずっと傍にいるのにな。少なくとも、久瀬が俺から離れたいと思うまでは。
「まあでも、何にせよ、その時になってから考えるってことで。お互いに無理なく実現できそうだったら、是非そうしよう。もしかしたら、お泊り重ねていくうちに、俺のなんか無理だなってところが見えてくるかもしれないしさ。そうならないように気を付けるけど」
「うん……」
あからさまに、納得いかない、という声で、久瀬はうなずいた。気分に水を差したかな、と後ろめたい気持ちになり、どうしたことかな、と思いながら久瀬の頬を撫でた。すると久瀬は不満げな猫みたいに唸りながら抱き着いて、覆いかぶさってきた。
「わっ、あははっ……ごめんごめん、真剣に考えてないわけじゃなくてさ。むしろ、そんなに先のことまで考えてくれて、すごく嬉しいんだよ。だからこそ、その嬉しさだけで受け取って、流したくないって言うか。じっくり、慎重に考えたいんだ」
「だって、悠長にしてたら、カイリくんが誰かに取られちゃうかも……」
「誰も取らないって、俺みたいなやつ! アハハ!」
久瀬がボソリと、わかってないなぁ、と呟いた。何が分かっていないというのか。
逆に、久瀬よりも魅力的な人間なんてなかなかいないだろう。こんなにも魅力的な人間が、一緒にいてこんなに居心地良くて、さらには俺のことが好きなんて、百年に一度の奇跡みたいな現象だ。きっと、俺の人生最大の奇跡だろう。
少なくとも、俺からは絶対に手放せない。そうしないといけないと思うような事情でもない限り、絶対に。
「これでも、我慢してるんだからね? 分かってね、もしカイリくんが他の人のところに行こうとしたら、何するか分からないからね」
「解き放たれる? 獣が」
「解き放つよ、それはもう、盛大に」
「じゃあもう、モフるしかないね、盛大に」
「解き放たれないよう努力してくれるかな?」
「だって、ずっと閉じ込められたままも可哀想かなって」
俺は久瀬の力んだ背中をさすってやった。ちょっとだけ、解き放たれたビーストモードの久瀬も見てみたいな、と思ったのは、ここだけの秘密だ。
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