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②年下の船頭−2
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「ああ、用意が整ったようだ。今日はお前も一緒に食っていきな。たまには奢るぜ」
「いえ、俺は……両親が家で待っていますので」
「……そうか。待つ人がいるなら帰ってやらなくちゃな」
そっと微笑んだ表情の美しさに慶太郎はつと胸を打たれた。
この人は自分をこんなにも堪らない気持ちにさせるのに、なのに触れる事は叶わない。
峻厳な山の頂にある雪のような人だから。
触れたらきっと溶けてしまうのだと、慶太郎は自分の無骨な熱さを懼れた。
そうこうしているうちに、座敷の準備が出来ましたと中居に呼ばれる。
信乃はそちらへ席を移し、慶太郎は黒子のようにひっそりと己の場所へ帰っていった。
程なくして三津弥が女中に運ばせてきた皿には、薄いお造りと散らされた菊の花弁が乗っていた。
「随分と派手だな」
皿の色が透けるくらい薄く切られた白身魚はほんのりとピンク色で艶かしく、鮮やかな菊の花弁の黄色がいっそう華やいで見えた。
信乃は一切れ口に入れ、それからニ枚、三枚と纏めて口に放り込んだ。その後でべろりと唇を舐めるところまで含め、乱暴な癖に妙に人目を引く仕草だった。
「料理人を呼びな」
信乃に言われて三津弥は控えていた女中にちらりと目線で指図をした。
直ぐに白い作業着姿の大柄な男が現れた。
「あんた、大した腕だな」
信乃は先ずは男の腕を褒めた。
「春先の柔らかい魚の身をこれだけ薄く引くには技術がいるだろう」
「仕事ですから」
当然だ、と控えめに言った男に信乃は頷いてから斜に視線を送って言い放った。
「西じゃあ刺身料理に唐辛子を使うのも当然なのかい?」
信乃の言葉に男がぎくりと身を竦めた。信乃は容赦なく続ける。
「この店じゃ唐辛子を使わない。そうだよな? 三津弥」
「ええ。辛いものはうちでは出さない。それが初代の決めた事ですから」
「それを料理人が知らなかった訳はないよな?」
「勿論、最初に説明してあります。使いたがる料理人も多いですからね」
「あんたもその使いたがる料理人の一人だったって事か」
信乃の言葉に項垂れていた男が弾かれたように顔を上げた。
「使ってみたいから使ったんじゃない。これがこの魚の一番旨い食い方だから使ったんだ」
食材は少しでも旨く食べる。その事しか頭に無く、それだけが正義。料理人はそんな目をしていた。
信乃は皿に目を戻し、ひょいひょいと箸で摘んでどんどん口に放り込んで行く。
「確かに旨い。うん、旨い旨い。他の食い方は一段落ちるだろうなぁ」
柔らかく甘い身にほんのりと微かに舌を刺激する辛味。唐辛子自体の爽やかな香りも鼻に抜けて心地好い。
「だがよぅ、菊の花は余計だったな。お前自身の保身の匂いしかしない」
全く遠慮のない物言いに料理人がカッと頬を染めた。それを見て三津弥は面白そうな色を目に浮かべ、けれどぴしゃんと厳しく言った。
「それほどに自信があるなら使うという一言を先に言って欲しかったな」
「……申し訳ございませんでした」
「とは言え、それは信頼されていないこちらの落ち度もあるから不問にしよう。この後で女将とわたしにも同じものを出しとくれ」
「分かりました」
背の高い料理人はすっと膝を曲げて立ち上がった。会釈して出て行こうとする男に信乃が訊ねた。
「お前の名前は?」
「……善一と言いやす」
「可笑しな名前だ」
笑われて、けれど男は黙ったまま頭を下げて出て行った。自分が信乃によって救われた事を了承していた。
「信乃さんは舌も確かですよね。煙草呑みの癖して」
「煙草ならみっちゃんだって吸うだろう」
「少しですよ」
煙草に淫して止めようにも止められない。そんな自分が三津弥は少々後ろめたい。
「あいつの前じゃおぼこぶって吸わない癖に」
信乃に揶揄されて三津弥の頬が赤く染まった。
自分が子供の頃から店に来ている男に懸想していると、まさか気付かれていたのか。
「信乃さんっ!」
「ははは、怒るな怒るな。ああ、そういやあいつと芝居に行く事になってんだよ。みっちゃんも一緒に行くかい?」
信乃に誘われて三津弥は喜色を顔に浮かべたが、日付を聞いて直ぐにがっくりと肩を落とした。
「その日は母の代理で会合に出る事になっています」
「それは残念」
三津弥がいたらあの鬱陶しい男も我慢出来ると思ったのに、と信乃は本気で残念がった。
「あの人に会ったらたまには店にも顔を出すよう、伝えて下さいね」
三津弥の強請る言葉に信乃は一応は頷いたが、何せ件の男は気紛れな性分なので然とは言えない。
それに下手に伝えたら取り引き材料にされてしまいかねない。
「まあ、期待しないでいてくれ」
信乃の言葉に三津弥は悲しそうに薄い肩を落とした。
「いえ、俺は……両親が家で待っていますので」
「……そうか。待つ人がいるなら帰ってやらなくちゃな」
そっと微笑んだ表情の美しさに慶太郎はつと胸を打たれた。
この人は自分をこんなにも堪らない気持ちにさせるのに、なのに触れる事は叶わない。
峻厳な山の頂にある雪のような人だから。
触れたらきっと溶けてしまうのだと、慶太郎は自分の無骨な熱さを懼れた。
そうこうしているうちに、座敷の準備が出来ましたと中居に呼ばれる。
信乃はそちらへ席を移し、慶太郎は黒子のようにひっそりと己の場所へ帰っていった。
程なくして三津弥が女中に運ばせてきた皿には、薄いお造りと散らされた菊の花弁が乗っていた。
「随分と派手だな」
皿の色が透けるくらい薄く切られた白身魚はほんのりとピンク色で艶かしく、鮮やかな菊の花弁の黄色がいっそう華やいで見えた。
信乃は一切れ口に入れ、それからニ枚、三枚と纏めて口に放り込んだ。その後でべろりと唇を舐めるところまで含め、乱暴な癖に妙に人目を引く仕草だった。
「料理人を呼びな」
信乃に言われて三津弥は控えていた女中にちらりと目線で指図をした。
直ぐに白い作業着姿の大柄な男が現れた。
「あんた、大した腕だな」
信乃は先ずは男の腕を褒めた。
「春先の柔らかい魚の身をこれだけ薄く引くには技術がいるだろう」
「仕事ですから」
当然だ、と控えめに言った男に信乃は頷いてから斜に視線を送って言い放った。
「西じゃあ刺身料理に唐辛子を使うのも当然なのかい?」
信乃の言葉に男がぎくりと身を竦めた。信乃は容赦なく続ける。
「この店じゃ唐辛子を使わない。そうだよな? 三津弥」
「ええ。辛いものはうちでは出さない。それが初代の決めた事ですから」
「それを料理人が知らなかった訳はないよな?」
「勿論、最初に説明してあります。使いたがる料理人も多いですからね」
「あんたもその使いたがる料理人の一人だったって事か」
信乃の言葉に項垂れていた男が弾かれたように顔を上げた。
「使ってみたいから使ったんじゃない。これがこの魚の一番旨い食い方だから使ったんだ」
食材は少しでも旨く食べる。その事しか頭に無く、それだけが正義。料理人はそんな目をしていた。
信乃は皿に目を戻し、ひょいひょいと箸で摘んでどんどん口に放り込んで行く。
「確かに旨い。うん、旨い旨い。他の食い方は一段落ちるだろうなぁ」
柔らかく甘い身にほんのりと微かに舌を刺激する辛味。唐辛子自体の爽やかな香りも鼻に抜けて心地好い。
「だがよぅ、菊の花は余計だったな。お前自身の保身の匂いしかしない」
全く遠慮のない物言いに料理人がカッと頬を染めた。それを見て三津弥は面白そうな色を目に浮かべ、けれどぴしゃんと厳しく言った。
「それほどに自信があるなら使うという一言を先に言って欲しかったな」
「……申し訳ございませんでした」
「とは言え、それは信頼されていないこちらの落ち度もあるから不問にしよう。この後で女将とわたしにも同じものを出しとくれ」
「分かりました」
背の高い料理人はすっと膝を曲げて立ち上がった。会釈して出て行こうとする男に信乃が訊ねた。
「お前の名前は?」
「……善一と言いやす」
「可笑しな名前だ」
笑われて、けれど男は黙ったまま頭を下げて出て行った。自分が信乃によって救われた事を了承していた。
「信乃さんは舌も確かですよね。煙草呑みの癖して」
「煙草ならみっちゃんだって吸うだろう」
「少しですよ」
煙草に淫して止めようにも止められない。そんな自分が三津弥は少々後ろめたい。
「あいつの前じゃおぼこぶって吸わない癖に」
信乃に揶揄されて三津弥の頬が赤く染まった。
自分が子供の頃から店に来ている男に懸想していると、まさか気付かれていたのか。
「信乃さんっ!」
「ははは、怒るな怒るな。ああ、そういやあいつと芝居に行く事になってんだよ。みっちゃんも一緒に行くかい?」
信乃に誘われて三津弥は喜色を顔に浮かべたが、日付を聞いて直ぐにがっくりと肩を落とした。
「その日は母の代理で会合に出る事になっています」
「それは残念」
三津弥がいたらあの鬱陶しい男も我慢出来ると思ったのに、と信乃は本気で残念がった。
「あの人に会ったらたまには店にも顔を出すよう、伝えて下さいね」
三津弥の強請る言葉に信乃は一応は頷いたが、何せ件の男は気紛れな性分なので然とは言えない。
それに下手に伝えたら取り引き材料にされてしまいかねない。
「まあ、期待しないでいてくれ」
信乃の言葉に三津弥は悲しそうに薄い肩を落とした。
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