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③千両役者−1
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信乃が歌舞伎座に着いて名前を告げたら桟敷席に案内されて、先に寛いでいた蓮治に隣に座るよう目線で示された。
信乃は遠慮なく濃紫の分厚い座布団にどかりと座った。
「逃げ出さずにちゃんと来たね」
慣れた仕草で煙管を吹かしながらそう言った男に、機嫌を損ねた信乃が唇を尖らせて言い返す。
「俺は言った事は守るよ」
「うん、そうだった。ごめん」
あっさりと謝る男を見て、信乃は自分ばかりがムキになっているようで面白くない。
「顔は見せたから帰る」
「またそんな子供じみた事を言って」
男に呆れ顔を見せられて、失敗したとばかりに信乃の唇が益々尖る。
「ああ、そんなに口を尖らせるものじゃないよ。啄ばんで欲しいのかい?」
「……俺にそういう趣味はねぇ」
修行時代もそういう輩はいたが、信乃は今よりもっと髪や目の色が明るかったから誘われる事は無かった。
白過ぎる肌と明るい髪色は気味悪がられて疎んじられるばかりで、懇ろになる相手などいる筈も無くそちら方面には酷く初心だった。
「済まない。こういう冗談は嫌いだったな」
「ふん」
(俺になんて誰も目を留めやしない。幾ら冗談でも気を持たせるような事を言うのは止めちくれ)
信乃は気のある素振りをされて少しでも嬉しいと思ってしまいそうな自分が嫌だった。
二人は暫らく場内の他の客を眺めたりしながら黙って過ごした。信乃が気を取り直した頃、蓮治が杯と徳利を取り出した。
「少しずつやりながら待とうじゃないか」
「なんだ、酒があるならさっさと出せよ」
蓮治の持ってくる酒は上等で、信乃の機嫌がすっかり良くなる。
「大体、俺は芝居なんかよりみっちゃんのところで飲んでいる方が良いんだ」
「それはそれ、これはこれだよ」
三津弥のところの酒も食事もいいけれどね、と蓮治がお追従を口にした。
「そういやお前、板前が新しくなってから行ったか?」
「いや、まだだな」
「ちょっと新鮮だから行ってみろよ。腕は俺が保証するぜ」
「へぇ、君がね」
口の奢ったこの男が言うのだから相当だろうと、蓮治は直ぐにその気になった。
「それなら早速、帰りにでも予約を入れておこう」
蓮治は信乃など比較にならないほどの金を落とすが、それでも信乃のように予約なしでふらりと訪ねる事は出来ない。本来はそれほど格式の高い店なのだ。
自分がどれ程優遇されているか信乃本人だけが知らず、三津弥も気付かせるような真似はしなかった。
やがてちょんちょんと拍子木が鳴らされ、芝居の幕が上がった。
本当に興味の無い信乃は手酌で酒をやっていたが、わっと座が沸いたのでついつい舞台に目をやった。
するとそこには出て来ただけで客を沸かせる看板役者の姿があった。
色の白い男だ、というのが信乃の彼に対する第一印象だった。
自分とも違う乳白の肌が、濃く塗った白粉の下からも匂い立つようだった。
『父はいないものと思い定めてきたが、逢えるものなら逢ってみてぇ』
朗々と謳い上げられた切ない台詞に心を掴まれる。
(父親なんて……俺もいないものと思って生きてきた。でも本当は、心の中ではあの人のことをそう思っていた。今でも逢えるものなら逢いたい。師匠……逢いてぇよ)
信乃の大きな瞳が瑞々しく濡れ、今にも溢れてしまいそうに見えた。
蓮治はちらりと横目で様子を窺い、見てはいけないもののように直ぐに目を逸らした。
『男の形が悪いなら、女の形で逢えばいいじゃねぇか』
舞台の上で、すらりと背の高い男が素早く美姫に化けた。その見事さに信乃は感心し、けれどスッと冷えた頭の片隅でそんな訳が無いだろうと思う。
(普通の男は女になんて化けられねぇよ。ましてや鬼みてぇに目鼻のでかい俺じゃあな。師匠が驚いて、二度死んじまうぜ)
自嘲気味の笑いを零し、信乃は残りの酒を飲み干した。
「れんじィ、酒が切れた」
少し酔いの回った信乃に囁かれ、蓮治の胸がいよいよ騒ぐ。
「余り飲み過ぎるなよ。後で楽屋に挨拶に行くんだから」
「その頃までには抜けらぁ。な、酒ぇ……」
腕に掛けられた骨っぽい手の感触に、首元に掛かった生ぬるい吐息に、蓮治がああこれはいけないと思う。
自分が幾ら博愛主義者だからといって、彼だけは相手にしてはいけない。何せ命の恩人に、直々にその行く末を頼まれたのだ。
彼の才能を必ず世に出してやってくれ、埋もれさせないでくれと頼まれた。その頼みを無視する事は出来ない。
(本当は抱いて可愛がってしまえば彼は幸せになれるのかもしれないが、一時の心の平穏くらいは与えられるのかもしれないが、それと引き換えにするには過ぎた才能だから――わたしが自分を抑えるしかないんだ)
蓮治は咥えていた煙管をキリリと噛み、酒の代わりに折り詰めの箱を拡げた。
「新しく出来た店の折り詰めだ。酒もいいが、一つ味を見てごらんよ」
「なんだよ、唐変木め」
文句を付けつつも信乃は大人しく料理を摘み、酔った眼差しで可愛らしい子役の演技を楽しそうに眺めた。
その様子をそろりと脇目に留め、今のところ思惑は当たっているようだが、と思いつつ蓮治は何となく溜め息を吐いた。
「れんじ?」
「何でもない」
何故だか今日はいつになく心の騒いで仕方が無い蓮治だった。
信乃は遠慮なく濃紫の分厚い座布団にどかりと座った。
「逃げ出さずにちゃんと来たね」
慣れた仕草で煙管を吹かしながらそう言った男に、機嫌を損ねた信乃が唇を尖らせて言い返す。
「俺は言った事は守るよ」
「うん、そうだった。ごめん」
あっさりと謝る男を見て、信乃は自分ばかりがムキになっているようで面白くない。
「顔は見せたから帰る」
「またそんな子供じみた事を言って」
男に呆れ顔を見せられて、失敗したとばかりに信乃の唇が益々尖る。
「ああ、そんなに口を尖らせるものじゃないよ。啄ばんで欲しいのかい?」
「……俺にそういう趣味はねぇ」
修行時代もそういう輩はいたが、信乃は今よりもっと髪や目の色が明るかったから誘われる事は無かった。
白過ぎる肌と明るい髪色は気味悪がられて疎んじられるばかりで、懇ろになる相手などいる筈も無くそちら方面には酷く初心だった。
「済まない。こういう冗談は嫌いだったな」
「ふん」
(俺になんて誰も目を留めやしない。幾ら冗談でも気を持たせるような事を言うのは止めちくれ)
信乃は気のある素振りをされて少しでも嬉しいと思ってしまいそうな自分が嫌だった。
二人は暫らく場内の他の客を眺めたりしながら黙って過ごした。信乃が気を取り直した頃、蓮治が杯と徳利を取り出した。
「少しずつやりながら待とうじゃないか」
「なんだ、酒があるならさっさと出せよ」
蓮治の持ってくる酒は上等で、信乃の機嫌がすっかり良くなる。
「大体、俺は芝居なんかよりみっちゃんのところで飲んでいる方が良いんだ」
「それはそれ、これはこれだよ」
三津弥のところの酒も食事もいいけれどね、と蓮治がお追従を口にした。
「そういやお前、板前が新しくなってから行ったか?」
「いや、まだだな」
「ちょっと新鮮だから行ってみろよ。腕は俺が保証するぜ」
「へぇ、君がね」
口の奢ったこの男が言うのだから相当だろうと、蓮治は直ぐにその気になった。
「それなら早速、帰りにでも予約を入れておこう」
蓮治は信乃など比較にならないほどの金を落とすが、それでも信乃のように予約なしでふらりと訪ねる事は出来ない。本来はそれほど格式の高い店なのだ。
自分がどれ程優遇されているか信乃本人だけが知らず、三津弥も気付かせるような真似はしなかった。
やがてちょんちょんと拍子木が鳴らされ、芝居の幕が上がった。
本当に興味の無い信乃は手酌で酒をやっていたが、わっと座が沸いたのでついつい舞台に目をやった。
するとそこには出て来ただけで客を沸かせる看板役者の姿があった。
色の白い男だ、というのが信乃の彼に対する第一印象だった。
自分とも違う乳白の肌が、濃く塗った白粉の下からも匂い立つようだった。
『父はいないものと思い定めてきたが、逢えるものなら逢ってみてぇ』
朗々と謳い上げられた切ない台詞に心を掴まれる。
(父親なんて……俺もいないものと思って生きてきた。でも本当は、心の中ではあの人のことをそう思っていた。今でも逢えるものなら逢いたい。師匠……逢いてぇよ)
信乃の大きな瞳が瑞々しく濡れ、今にも溢れてしまいそうに見えた。
蓮治はちらりと横目で様子を窺い、見てはいけないもののように直ぐに目を逸らした。
『男の形が悪いなら、女の形で逢えばいいじゃねぇか』
舞台の上で、すらりと背の高い男が素早く美姫に化けた。その見事さに信乃は感心し、けれどスッと冷えた頭の片隅でそんな訳が無いだろうと思う。
(普通の男は女になんて化けられねぇよ。ましてや鬼みてぇに目鼻のでかい俺じゃあな。師匠が驚いて、二度死んじまうぜ)
自嘲気味の笑いを零し、信乃は残りの酒を飲み干した。
「れんじィ、酒が切れた」
少し酔いの回った信乃に囁かれ、蓮治の胸がいよいよ騒ぐ。
「余り飲み過ぎるなよ。後で楽屋に挨拶に行くんだから」
「その頃までには抜けらぁ。な、酒ぇ……」
腕に掛けられた骨っぽい手の感触に、首元に掛かった生ぬるい吐息に、蓮治がああこれはいけないと思う。
自分が幾ら博愛主義者だからといって、彼だけは相手にしてはいけない。何せ命の恩人に、直々にその行く末を頼まれたのだ。
彼の才能を必ず世に出してやってくれ、埋もれさせないでくれと頼まれた。その頼みを無視する事は出来ない。
(本当は抱いて可愛がってしまえば彼は幸せになれるのかもしれないが、一時の心の平穏くらいは与えられるのかもしれないが、それと引き換えにするには過ぎた才能だから――わたしが自分を抑えるしかないんだ)
蓮治は咥えていた煙管をキリリと噛み、酒の代わりに折り詰めの箱を拡げた。
「新しく出来た店の折り詰めだ。酒もいいが、一つ味を見てごらんよ」
「なんだよ、唐変木め」
文句を付けつつも信乃は大人しく料理を摘み、酔った眼差しで可愛らしい子役の演技を楽しそうに眺めた。
その様子をそろりと脇目に留め、今のところ思惑は当たっているようだが、と思いつつ蓮治は何となく溜め息を吐いた。
「れんじ?」
「何でもない」
何故だか今日はいつになく心の騒いで仕方が無い蓮治だった。
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