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③千両役者−2

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 信乃を連れて楽屋に顔を出した蓮治を、先ほどの舞台で子役を務めていた少年が出迎えてくれた。

「喜多屋の旦那、来て下さったんですね」
「当たり前だろう。駒の可憐な姿を見逃す筈がない」
「旦那ったら」
 ぽっ、と頬を染めた小柄な少年を見て、信乃は唾でも吐きたくなる。

(この男の口の上手さだけはどうにも肌が痒くなって仕方ねぇ。大店の主なんかじゃなく、ヒモでもやってりゃあお似合いなのに。誰にでもお愛想を言いやがって)
 そこに小さな嫉妬が含まれていると、信乃は自分では全く意識していなかった。

「蓮治さん、どうでした?」
 白粉を落としながら気安い口調で話し掛けてきた彦十郎に、蓮治もざっくばらんに言い返す。

「ああ、良かったよ。よくもまあ、あの男らしい若者が儚げな美姫に化けられるものだ」
「はは、それは心が違えば姿も変わる」
 あっさりと別人だと言ってのけた彦十郎に信乃が目を瞠る。
 それに気付いた彦十郎がにこりと笑って問い掛けた。

「どちら様でしょう? 蓮治さんの新しい愛人?」
「っざっけんな! 俺はこの馬鹿とは何の関係もねえ!」
 蓮治が何か言う前に信乃が激しく反応して言い返した。その激しさに、彦十郎がぽかんと口を開けて瞬きをした。

「これはまた、毛色の違うのを連れてきてまぁ……」
「毛色が違くて悪かったな!」
 茶色い髪を揶揄されたと思い、信乃が更に噛み付いた。彦十郎は少し困ってはんなりと首を傾げ、それから自分の前に座るよう座布団を勧めた。

「まあ、ちょっとお座りなさいよ。あたしはあなたの名前も知らないんだから、少し落ち着いておくんなさい」
 ゆったりと諭されて信乃の頬が赤らんだ。いつもならば初対面の人間にこんな物言いはしないのだが、少し酔っているのかもしれない。
 酒だけではなく、舞台の余韻にも。

「俺は単なる顔見知りで、蓮治にはちょっとした義理があるから付き合っただけだ。騒がせて悪かったな」
 そう言うと名乗りもせずに帰ろうとする信乃を、脇に控えていた少年が止めた。

「あの、お待ち下さい。今日の舞台は気に入らなかったでしょうか。僕の芝居が不味かったからでしょうか」
 それが気が気で仕方が無い、と心配そうな少年に信乃はがりがりと頭を掻いて答えた。

「芝居は気に入ったよ。筋も良かったし、あんたも――そっちのあんたも、てぇしたもんだと感心した」
「そんな、兄さんと一緒にしないで下さい!」
 一座の看板役者である彦十郎と、ほんの端役に過ぎない自分が一緒にされるのは恐れ多いとばかりに少年が身を縮めた。

「駒、そんなに小さくなる事は無いんだよ。お前はいい役者だと言ってるだろう」
 彦十郎がそう励ませば、蓮治も声に力を入れて同意した。

「そうだよ、役者が全部彦十郎みたいな華々しい手合いだったら、舞台が重苦しくて敵わない。ホッと息をつけるような、気持ちを和らげてくれる人が舞台には必要だよ」
「おや、語ってくれるねぇ」
 彦十郎に冷やかされて蓮治がばつが悪そうに扇子で顔を隠した。その扇の模様が彦十郎の使っている手ぬぐいの柄と一緒で、信乃はおや、と思った。

「珍しい模様だが……誂えさせたのか?」
 信乃に指摘されて蓮治は目敏いなぁと苦笑しながら扇子をよく見えるように彼に差し出した。

「それ、何だと思う?」
 蓮治に訊ねられて信乃は扇子を表から裏からまじまじと見た。しかし辛うじて何か動物を模してるらしいとしか分からない。

「カエルか?」
 信乃の答えに蓮治が声をあげて笑った。その横で彦十郎が赤い顔をして蓮治を色っぽく睨んだ。

「猫なんだよ。彦十郎が下絵を描いた」
「……猫?」
 こんな不気味な猫がいるならいっそ見てみたい、と思いながら信乃は扇子を蓮治に返した。

「蓮治さん、趣味が悪いですよ。俺は捨ててくれと言ったのに、わざわざ手ぬぐいと扇子を誂えさせるだなんて」
「いや、可愛いじゃない。わたしは好きだよ」
 にこにこと笑った男に皆が毒気を抜かれる。特に『可愛い』という感覚の希薄な信乃は理解するのを諦めた。

「絵を見ればその為人ひととなりの凡そは分かる。あんたが通常とは掛け離れた感性を持っている事だけはよく分かったよ」
 信乃の言葉に彦十郎は参ったと顔を覆った。

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