限界社畜、異世界に連れ去られてよしよしされる

海野ことり

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【3】まるで絵に描いたような午後-①

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 自分の作った味噌汁を飲んで、身を震わせて感動する日影を見た瞬間、折原の心に強い衝動が駆け巡った。それは言葉にならない、熱い想いだった。

「日影さん……」
 報われた。自己満足に過ぎなかった料理への熱い想いが、確かに誰かに届いた。自分の作ったものが人を感動させた。それが、こんなにも嬉しかった。

 この感動と喜びを、彼にもっと与えたい。
 もっともっと、美味しいものを。
 そして、もっともっと、自由な心を。

「ねぇ、やっぱり髪を切らせてよ。少しだけで良いから。揃えるだけにするからさ」
 突発的な思いつきだった。だが、彼の視界が開ければ、彼が受け取る世界はもっとクリアに輝くはずだ。
 髪を切ることは、彼が抱える恐怖や不安を一つずつ乗り越える、最初の一歩に過ぎない。
 心が自由でないと、楽しむことすらできない。
 ほんの少しでも、彼を縛る鎖を解き、新しい世界を共に語り、分かち合いたい。
 そう、これは彼への恩返しであり、折原自身の強い願いだった。
 しかし日影はなかなかに頑固だった。

「髪は……嫌だ」
「どうして?」
「鏡が……怖い」
「……」
 いい年をした男が鏡を怖いと言う(因みに日影は三十三歳だ)。

「理由を聞いてもいい?」
「俺の……顔はブサイクだろ。せっかく隠しているのに、なかったことにしてるのに、あからさまにするなんて! 俺は俺の醜さを、わざわざ直視したくない。それも人前で!」
 涙ぐんだ日影を見て、折原がぽりぽりとこめかみを掻いた。
 急に饒舌になったのは、日影自身にも誰かに話したい、気持ちをぶちまけたいという思いがあったからだろう。

「俺はあなたを醜いとは思わない。でも鏡を見たくないならいいよ。日影さんが目を瞑っている間に終わらせる」
「……少しだけ?」
「少しだけ」
「いっぱいは切らない?」
「ほんのちょっと、傷んだ毛先を切って揃えるだけ」
「……ならいい」
 日影はそう言ったものの、すぐに後悔したかのように言葉を飲み込んだ。
 折原が安心したように息を吐くのを見て、日影はますます居心地が悪くなる。
 本当にいいのか? 俺の顔を晒したりしていいのか?
 しかし、折原の真剣なまなざしを前に、お前を信じていないとは言いづらい。

 「いや……やっぱり、」
 日影が言い淀むと、折原は優しく頷いた。

 「うん。あなたが嫌なら、やっぱりやめようか。でもほんのちょっとだけ、試してみるのはどう?」
 その言葉に、日影はとうとう観念したように小さく頷いた。

 「……わかった。少し、だけ」
 涙ぐんでしまった日影を見て、折原は可哀想になる。
 でもこの一歩は超えさせてあげたい。
 彼が本当は超えたいと思っていることを、自分は知っているから。

「食事が終わってからにしようか」
 折原は食べ終えた日影にほうじ茶を出し、広いベランダに椅子を置いた。そこに日影を座らせ、くるりと白いシーツを巻く。

「この髪の色って、地毛だよね?」
 折原が髪を掻き分けながらそう訊き、日影は黙って頷いた。
 濃いブラウンの髪は少し赤みがかっていて、手入れをすると銅鍋みたいにピカピカと輝いた。
 前髪の奥に隠された瞳はよく見たら少し茶色いし、日に当たらず不摂生が祟った肌は病的なまでに蒼白い。
 きちんとすれば魅力的なそれらも、磨かなければ日影を歪で変わり者に見せるだけだった。

「染めた色じゃないから、梳かすと艶が出て綺麗だね」
 折原はそう言いながら日影の髪を少しずつ、丁寧にくしけずっていった。
 髪を地肌から掬い上げるように掻き上げられ、日影の首筋にぞくりとしたものが走る。
 髪に感覚は無い筈なのに、と日影は不思議に思う。

「適当でいいから、さっさと切ろよ!」
「ん~? まあまあ、やるからには全力を尽くすよ」
 折原は居心地の悪そうな日影を無視してマイペースに作業を進めた。
 やっと髪を梳かし終えると芝居がかった仕草で腕まくりをし、軽やかに口笛を吹く。
 ふわふわとパーマの掛かった髪が楽しそうに風に揺れた。

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