情熱のカフェ・アロマ~甘くほろ苦い恋とコーヒーの群像劇~

海野ことり

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本編

6.冬の足音がもうすぐそこまで

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 カランコロンカラン──
 木枯らしに背中を押され、理央はカフェ・アロマの扉を開けた。
 秋の終わりを告げる風に、ジャケットの前を掻き合わせる。コーヒーの香りがかじかんだ指先を緩めるが、胸の中はまだ冷たいままだ。

 昨日のレストランで、志貴が廉に向けた安心しきった笑みが、胸の奥でくすぶっている。
 志貴の淹れるコーヒーの香りに癒されるのに、それだけでは足りないと思う自分がいる。
 この人は他の人のものなのに、自分では駄目だと知っているのに。それでも求める気持ちを止められない。
 理央は諦めの悪い自分を持て余した。そしてカウンター越しに見えた志貴の仕草に、また胸が甘く疼く。

 志貴は長い睫毛を伏せて、指に摘んだものを見つめている。それからキラリと光ったそれに口付けるように、そっと唇に当てた。
「……冷たくて気持ちいい。キスし過ぎなんだよ」
 ぽつりと漏れた独り言に、赤く染まったその唇が目に留まる。
 キスで熱を持った口元を冷やすように、あるいはまだ足りないと求めるように、押し当てられた砂糖菓子。
 その仕草が、酷く艶めかしい。

 あんな風に砂糖菓子が使われるなんて、とショックを受けていたらハッと気付いた。
 あれは店には並んでいなかった菓子だ。自分が贈ったものではない。
 志貴が自分で買ってきたのか、それとも……小毬が、もうこの店に来たのか?
 瞬間、胸の奥を熱いものが突き上げる。
 知らないところで、入り込まれている。
 志貴の世界に、自分のいないところで他の誰かが入り込み、唇で触れられるほど近付いた。自分は我慢してるのに。自分では駄目なのに!
 嫉妬に頭が煮え滾る。

「なんでそれが、ここにあるの……!」
 問い質す声が震えた。
 志貴が驚いて目を上げた。

「理央、何を怒ってるんだ?」
 幼い子に言い聞かせるような口調が、さらに癇に障る。
 彼は全くわかっていない。理央の気持ちなど、少しも考えない。
 知ってはいても、独り相撲だと思い知らされるのは苦しい。

 ――志貴さんを、諦めたはずなのに。
 それでも、彼の目に他の誰かが映るのが嫌だった。
 他の人に向ける優しさが、まだどうしても耐えられない。
 まるで溶けきらない砂糖みたいに、胸でざらついて不快だ。

 ああやって、何の気なしに人を惑わせるのはやめてほしい。
 他意がない分、たちが悪い。
 素っ気ないくせに無防備で、気を許した相手には案外するりと懐いてしまう。
 そんな彼を見ていると、言葉にできない感情が喉に絡まって、苦しくなる。

 自分が知らない熱を、たかが砂糖菓子に分け与えた。
 他の何かがあの人の温度を知っている。
 それがただ、悔しかった。

 ***

 カランコロン、というカウベルの音が静寂を破る。

「あ……志貴さんだけだと、思った」
 ふいに扉が開き、燕司がカフェに入って来た。
 理央に気づくと、彼はバツの悪そうな顔で視線を逸らした。吐く息が少し震えている。
 その仕草に、もしかしたら彼もまた、辛い恋をしているのかとハッとした。

「あいつから、何か言ってきた?」
「洸なら、明日帰るって。お前んとこにも、連絡が来たろ?」
 志貴が軽く告げると、燕司は低く吐き捨てた。
「……勝手なんだよ! いきなり帰って来るな!」
 燕司はとても怒っていた。
 なのに瞳の奥は、今にも泣きそうに揺れている。
 それを見た理央の胸が締め付けられた。
 帰って来るな、という憎まれ口の後ろに隠された本心が見える。
 本当は会いたい。でも会ったらまた気持ちが動きそうで、それが怖い。
 動揺させるな――その心が、燕司の強がった言葉に滲んでいた。

「でも『来る』じゃなくて『帰る』なんだろ?」
 志貴がぽつりと呟いた。

「それがお前の本当の気持ちだよ」
 志貴の声は、まるで幼馴染みの矛盾を見透かしたように、優しく、それでいて容赦がなかった。
「違う! 今のは単なる言葉の綾だ!」
「ムキになって、お前は可愛いな」
  「……ふざけるな!」
 いつものように志貴の軽口を受け流せない燕司が痛々しい。
 燕司は怒っている。
 でもそれと同じくらい、悲しんで、苦しんでいる。
 誰かを嫌いになれない。諦めきれない。
 ──そういう気持ちは、俺にもよくわかる。
 理央が同調して沈み込んだそのとき。
 志貴が静かに、空になったコンフィズリーの皿を見つめながら呟いた。

「洸のことになると、あいつはいつも自分を壊しそうになる」
 そんな風に心配する顔すら、綺麗でずるいと思った。
 理央が見惚れていたら、志貴は続けて思わぬ言葉を告げる。

「これなら、うちに置いてもいいな」
 それを聞いて、理央の背中に冷たい風が吹いた。
 小毬。あの砂糖菓子の店で出会った、小さくて可愛い菓子職人。あの子の甘い菓子が、志貴さんのカフェに並ぶのか。
 彼がこの店に出入りするようになると思うと、不安に胸が締め付けられるようだった。

 ──俺の居場所が、キラキラとしたもので埋められてしまう。
 コーヒーの薫りに包まれていたはずの空間が、知らない匂いに侵されるようで怖い。
 嫌だけど、どうしたらこの場所を守れるのかわからない。
 ただ立ち尽くすだけの情けない自分が、一番嫌だった。

 そのとき、再び扉が開いた。
「たまたま近くに来たから寄ってみた」
 奏太がひょっこり顔を出し、そのまま理央の隣に腰を下ろす。
 視界の端に、キャメル色のコートが映る。暖かそうで、つい目が引き寄せられた。
 恐る恐る顔を上げたら、優しい視線に触れた。

「寒そうな顔をしてるな」
 そう言って、理央の手ごとカップを包むように掌が重なる。
 その温もりが、瞬時に心を蕩かす。

「こうしてれば、寒くないだろう?」
 奏太の手が、そっと包み込むように力を込める。太刀打ちできない安心感に、包み込まれる。

 (寒いどころか、熱いくらいだよ)
 俯いたまま、理央の鼻先が赤くなっている。
 顔を上げたら、きっと泣いてしまう。
 まだ親友になりたてなのに。好きだと言われたからって、すぐに甘えていいの?
 手だけでこんなにあたたかいのに、じゃあ丸ごと包み込まれたら、君はどんなに熱いのか。激しい熱に、憧れる。

「理央」
 名前を呼ばれた瞬間、涙がにじんだ。
 呼んで欲しかったのは別の人のはずなのに、それでも奏太に呼ばれて嬉しかった。
 それが、裏切りみたいで後ろめたかった。

 ――俺は誰でもいいの? 恋でも友情でも、あたたかければそれでいいの?
 理央は自分の心がわからない。戸惑って、でも手は離せない。やっと感じた熱を離すなんて、できやしない。
 そんな二人を見て、志貴がぽつりと呟く。

「甘酸っぱいなあ。廉もあんな目で俺を見てたかな」
 いつも強気の彼が、少しだけ羨ましそうな顔だった。

 理央は汗をかき出した手が恥ずかしくなって、慌ててコーヒーを飲み干し、勢いよく立ち上がる。
 動揺を誤魔化すように、重たい扉を肩で押した。

 その瞬間、外から冷たい風が吹き込み、カウベルがガランと激しく鳴って床に落ちた。

「理央、大丈夫かっ?」
 志貴と奏太が慌てて駆け寄ってくる。
 けれど理央は、床に転がるカウベルから目が離せなかった。

 ──カウベルが床に落ちた音が、胸に不安をかき立てた。
 決定的な瞬間が訪れたようで。
 新たな不安を運んできたようで。
 冬の息吹が、心に影を差す。

 変わらないと思ったカフェの空気、志貴の淹れる温かなコーヒー、奏太の熱い手、燕司の揺れる瞳。
 全てがモザイクのように胸の中で絡み合う。

 そして理央は、ようやく気づいた。
 人形ばかりと向き合ってきたから、誰かに触れられることが、こんなにも温かいなんて知らなかった。
 人肌に慰められる心地よさを、理央は初めて知った。

 理央はたくさんの想いを胸に抱えて、歩き出す。
 季節は冬へと向かっていた。
 その足音が、もうすぐそこまで来ていた。
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