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序章
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■赤坂:料亭水鶴(すいかく)
「来たばかりで悪いんやけど、牡丹の間にお帰りの声、かけてくれへんやろか?」
大女将が、葵の訪問着の裾を整えながら言った。彼女は足が悪くなり、もう座敷へ上がることは少ない。
「はい。お車のご用意ができたと、お伝えしたらよろしおすな」
そう答え、髪の乱れを軽く直した葵は、廊下を進む。牡丹の間は、お得意様用の特別室――格式ある重厚な座敷だ。廊下を曲がると、若い仲居たちが困ったように立ちすくんでいた。
「どうしたん?」
葵が声をかけた瞬間――バシャッと水の音。続いて、カランとグラスの転がる音が響いた。
「……すみませんが、何か拭くものを」
申し訳なさそうに、初老の男性が廊下に顔を出した。グラスでも倒されたのだろう。葵は安心させるように微笑む。
「かしこまりました。おしぼりとタオル、すぐ持って来ておくれやす」
的確な指示を出すと「失礼いたします」と襖を開けた。正座して一礼し、すっと顔を上げる。卓の上には、見合いの釣書が十数冊積まれていた。
……すごい数やな。
卓の前に、あぐらをかいて座る若い男性がひとり。髪も上着もびしょ濡れで、まるで頭から水をかけられたようだった。
「車に戻る」
上座の男性が不機嫌そうに呟き、出て行った。初老の男性は、無言で深く頭を下げる。
ぽた、ぽた……髪先から雫が落ちる音。俯いたまま微動だにしない、若い男の姿。
見ていられず、葵は袂から手拭いを取り出す。
「……これ、使うてください」
葵の声に、彼の体がびくりと硬直した。
え?
葵が不思議に思った、そのとき。
ゆっくりと顔を上げた彼は――かつて、葵の心を甘く占めていた男。
榊宏雅だった。
いつも葵を翻弄するように、微笑んでいたあの美麗な瞳が、何の感情も映さず虚ろに見つめていた。
葵は、差し出しかけた手拭いを、震える手で卓の端へ置いた。
「宏雅様。こちら、一旦私がお預かりしておきます。また日を改めて、お目通り願います」
初老の男性――東堂が静かに言った。
「ああ」
葵から視線を外し、宏雅が短く頷く。
……宏雅“様”?
あれこれと交錯する思いを押し込んで、どうにか葵は心を立て直した。
「お車のご用意が、できております」
そう告げると、一礼して座敷を辞した。
■料亭の車寄せ
「乗って行かれますか?」
車の横で、東堂が宏雅に声をかけている。
「いや、タクシーを呼ぶから」
低く答えた宏雅の声に、東堂は葵の方をちらりと見た。
「……お知り合いで?」
「昔」
短くそう言って、宏雅は背を向ける。
滑るように黒塗りの車が、一台出ていく。
残されたのは、長身の男ひとり。
「……忘れ物、した」
背を向けたまま、宏雅が低く言う。
「え、何ですの?」
「携帯」
少し不貞腐れたような声音。その声の底に、どうしようもなく懐かしい響きがあった。葵は、胸の奥がきゅっと詰まるのを感じながら、微笑んだ。
「ほな、お部屋へ……どうぞ」
廊下を歩く二人の足音だけが響く。四年という月日が、まるで嘘みたいに遠くへ霞んでいく。
「ここは、ええよ」
控えていた係の者を下がらせる間、沈黙を続けている宏雅は、葵をじっと見つめる。記憶より少し痩せた彼は、かえって色気を増して、いかにも危険な男といった雰囲気が醸し出されていた。
「どこやろな、携帯」
そう言って探そうとした葵の手を、宏雅は不意に掴んだ。ぐい、と引き寄せられて、息が止まる。
「……携帯はある。話がしたくて」
胸の奥で、何かが壊れそうになる。
それでも葵は、精一杯笑った。
「何の話やろ。うちは……もう無いよ」
懐かしい匂い。煙草と、あの夜の残り香。
……気持ちに流されてはいけない。
頭の片隅で警鐘が鳴った、その瞬間。
「あおちゃん」
小さな声がした。
そちらへ目を向けると、次の間から四歳くらいの男の子が覗いている。宏雅が、思わず息を呑んで葵から手を離した。葵は、動揺を悟られぬよう柔らかく微笑むと、そっと膝をついた。
「どうしたん。こっち出てきはったら、あかんえ」
その声音の優しさに、宏雅の瞳が熱く揺れた。
「おやつ欲しい」
「お腹空いてはるん?」
「――ここにおったんか。えらいすみません」
慌てたように探しに来た店の若衆が、その子を連れて下がる。葵は立ち上がり、ふうと小さく息を吐いた。
「子どもに優しいんだな」
囁く声が、葵の背中に落ちる。
「ええ?普通のことやろ」
笑いながら振り返った葵は、はっとした。宏雅は、親からの愛情を知らん人やった。昔、ケーキを一緒に食べた夜のことが甦る。『関係ない日でもいいから』と、誕生日のようにロウソクを立てた宏雅の嬉しげな顔。
「良い母親、やってるってわけだ」
微笑んだ宏雅の顔は、あの夜と同じだった。胸の奥が、きゅんと鳴る。けれど、その甘い笑みの後に、宏雅の言葉が低く落ちた。
「……あれ、俺のじゃないよな?」
「え?」
「いや、だから……葵と俺の……」
口ごもる彼を、驚いたように見つめ返してから、葵は小さく吹き出した。
「あの子は……妹の子どす。うちは、お腹大きい妹の代わりに、嫁ぎ先を手伝うてるだけやの」
「……そうか」
整った宏雅の頬に、わずかな陰。
「今、ほっとした顔してはったわ。榊さん」
畳に視線を落としたまま葵は、拗ねたように呟いた。
「いや、逆だよ」
意外な返しに、思わず葵が顔を上げる。
「残念って思った……葵の子どもなら、幸せになれそうだから」
その口調の優しさに、胸が震えた。
「……もう、そないなこと言うたら、あかんえ」
葵の声が、かすかに揺れて先細る。
「葵」
名前を呼ぶ彼の声に、かあっと全身が熱くなる。
「抱きしめさせて」
返事もできずに、ただ目を瞑った。
次の瞬間、懐かしい腕の中に、すべてが戻ってくる。
彼への想いも、会えなかった距離さえも――その腕の中で溶けてゆく。
「来たばかりで悪いんやけど、牡丹の間にお帰りの声、かけてくれへんやろか?」
大女将が、葵の訪問着の裾を整えながら言った。彼女は足が悪くなり、もう座敷へ上がることは少ない。
「はい。お車のご用意ができたと、お伝えしたらよろしおすな」
そう答え、髪の乱れを軽く直した葵は、廊下を進む。牡丹の間は、お得意様用の特別室――格式ある重厚な座敷だ。廊下を曲がると、若い仲居たちが困ったように立ちすくんでいた。
「どうしたん?」
葵が声をかけた瞬間――バシャッと水の音。続いて、カランとグラスの転がる音が響いた。
「……すみませんが、何か拭くものを」
申し訳なさそうに、初老の男性が廊下に顔を出した。グラスでも倒されたのだろう。葵は安心させるように微笑む。
「かしこまりました。おしぼりとタオル、すぐ持って来ておくれやす」
的確な指示を出すと「失礼いたします」と襖を開けた。正座して一礼し、すっと顔を上げる。卓の上には、見合いの釣書が十数冊積まれていた。
……すごい数やな。
卓の前に、あぐらをかいて座る若い男性がひとり。髪も上着もびしょ濡れで、まるで頭から水をかけられたようだった。
「車に戻る」
上座の男性が不機嫌そうに呟き、出て行った。初老の男性は、無言で深く頭を下げる。
ぽた、ぽた……髪先から雫が落ちる音。俯いたまま微動だにしない、若い男の姿。
見ていられず、葵は袂から手拭いを取り出す。
「……これ、使うてください」
葵の声に、彼の体がびくりと硬直した。
え?
葵が不思議に思った、そのとき。
ゆっくりと顔を上げた彼は――かつて、葵の心を甘く占めていた男。
榊宏雅だった。
いつも葵を翻弄するように、微笑んでいたあの美麗な瞳が、何の感情も映さず虚ろに見つめていた。
葵は、差し出しかけた手拭いを、震える手で卓の端へ置いた。
「宏雅様。こちら、一旦私がお預かりしておきます。また日を改めて、お目通り願います」
初老の男性――東堂が静かに言った。
「ああ」
葵から視線を外し、宏雅が短く頷く。
……宏雅“様”?
あれこれと交錯する思いを押し込んで、どうにか葵は心を立て直した。
「お車のご用意が、できております」
そう告げると、一礼して座敷を辞した。
■料亭の車寄せ
「乗って行かれますか?」
車の横で、東堂が宏雅に声をかけている。
「いや、タクシーを呼ぶから」
低く答えた宏雅の声に、東堂は葵の方をちらりと見た。
「……お知り合いで?」
「昔」
短くそう言って、宏雅は背を向ける。
滑るように黒塗りの車が、一台出ていく。
残されたのは、長身の男ひとり。
「……忘れ物、した」
背を向けたまま、宏雅が低く言う。
「え、何ですの?」
「携帯」
少し不貞腐れたような声音。その声の底に、どうしようもなく懐かしい響きがあった。葵は、胸の奥がきゅっと詰まるのを感じながら、微笑んだ。
「ほな、お部屋へ……どうぞ」
廊下を歩く二人の足音だけが響く。四年という月日が、まるで嘘みたいに遠くへ霞んでいく。
「ここは、ええよ」
控えていた係の者を下がらせる間、沈黙を続けている宏雅は、葵をじっと見つめる。記憶より少し痩せた彼は、かえって色気を増して、いかにも危険な男といった雰囲気が醸し出されていた。
「どこやろな、携帯」
そう言って探そうとした葵の手を、宏雅は不意に掴んだ。ぐい、と引き寄せられて、息が止まる。
「……携帯はある。話がしたくて」
胸の奥で、何かが壊れそうになる。
それでも葵は、精一杯笑った。
「何の話やろ。うちは……もう無いよ」
懐かしい匂い。煙草と、あの夜の残り香。
……気持ちに流されてはいけない。
頭の片隅で警鐘が鳴った、その瞬間。
「あおちゃん」
小さな声がした。
そちらへ目を向けると、次の間から四歳くらいの男の子が覗いている。宏雅が、思わず息を呑んで葵から手を離した。葵は、動揺を悟られぬよう柔らかく微笑むと、そっと膝をついた。
「どうしたん。こっち出てきはったら、あかんえ」
その声音の優しさに、宏雅の瞳が熱く揺れた。
「おやつ欲しい」
「お腹空いてはるん?」
「――ここにおったんか。えらいすみません」
慌てたように探しに来た店の若衆が、その子を連れて下がる。葵は立ち上がり、ふうと小さく息を吐いた。
「子どもに優しいんだな」
囁く声が、葵の背中に落ちる。
「ええ?普通のことやろ」
笑いながら振り返った葵は、はっとした。宏雅は、親からの愛情を知らん人やった。昔、ケーキを一緒に食べた夜のことが甦る。『関係ない日でもいいから』と、誕生日のようにロウソクを立てた宏雅の嬉しげな顔。
「良い母親、やってるってわけだ」
微笑んだ宏雅の顔は、あの夜と同じだった。胸の奥が、きゅんと鳴る。けれど、その甘い笑みの後に、宏雅の言葉が低く落ちた。
「……あれ、俺のじゃないよな?」
「え?」
「いや、だから……葵と俺の……」
口ごもる彼を、驚いたように見つめ返してから、葵は小さく吹き出した。
「あの子は……妹の子どす。うちは、お腹大きい妹の代わりに、嫁ぎ先を手伝うてるだけやの」
「……そうか」
整った宏雅の頬に、わずかな陰。
「今、ほっとした顔してはったわ。榊さん」
畳に視線を落としたまま葵は、拗ねたように呟いた。
「いや、逆だよ」
意外な返しに、思わず葵が顔を上げる。
「残念って思った……葵の子どもなら、幸せになれそうだから」
その口調の優しさに、胸が震えた。
「……もう、そないなこと言うたら、あかんえ」
葵の声が、かすかに揺れて先細る。
「葵」
名前を呼ぶ彼の声に、かあっと全身が熱くなる。
「抱きしめさせて」
返事もできずに、ただ目を瞑った。
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