この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

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逃避する男

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~四年前~

SAVIA MUSE HOLDINGS株式会社(サヴィア・ミューズ・ホールディングス)。
舞台や映画、音楽といった芸術分野を軸に事業を広げる、新進気鋭の企業だ。
「SAVIA=生命力」「MUSE=芸術の女神」。
人と才能が息づき、受け継がれていく――そんな理想を掲げ、業界の注目を集めていた。

その代表を務める男が、榊宏雅である。


■執務室

秘書課長の藤原理仁は、いつものように朝からタブレットを開き、席に着いていた。

「おはよう」

今朝も、周囲を惑わすような美声と共に、長身の男が執務室に入ってくる。

整った顔立ちに、どこか甘く微笑んだ表情。
それでいて――襟元のシャツのボタンがひとつ多く外れている。形ばかりに結ばれたような、緩んだネクタイ。

「おはようございます、社長。また……朝帰りですか」
言葉尻を、やや声を潜めてしまう。
「ん?」
軽く片眉を上げる社長こと――榊宏雅。
その仕草すら、やけに色っぽい。
「ネクタイ、昨日と同じような気がしますが」
「気のせいじゃないかな」
涼しい顔で返されて、藤原は自分の眼鏡のブリッジを指で押し上げた。

社内では、すでに噂が立っている。

『社長、笑顔がやけに色気ある』
『誰か良い人が、いるんじゃない?』

羨望と嫉妬の入り混じった甘い囁き。
だが藤原には、表面的な話ではないと分かっている。

――宏雅は変わった。
華やかな女優やモデルたちを渡り歩いていた頃の、どこか虚ろで飽き足らぬ表情ではなくなった。今の彼の瞳には、誰かへの熱い想いが宿っている。

ああ……社長は、本気で恋をしているのだ。

その相手が誰か。
藤原には、とうにわかっている。

――星野菫。
執務室の向こうにある秘書課ブース。
ガラス越しに見える彼女の姿を、藤原は何気なく追った。静かな集中力。誰にでも丁寧で明るい笑顔。あの純真さが、宏雅の荒んだ部分をやわらげている。

あの子を社長直属にしたのは、自分だ。
まさか、こうなるとは……。

デスクの書類をまとめる菫の横顔に、どこか柔らかな艶が差しているのに気づき、藤原は軽く目を見張った。以前より、ずっと女らしい。
愛される歓びに満ち、ふとした瞬間、思わず庇護欲を誘うような――危うさを帯びている。

その時、背後から低い声が聞こえた。

「……藤原。よこしまな目で見つめるなよ」

背筋が瞬時に凍る。
だが、咳払いをして返事をした。
「社長ほど、淫らがましい目つきではありません」
「言ってくれる」
宏雅の声が笑いを含む。
振り向けば、デスクの端に腰かけて、ネクタイを結び直しながら、彼女を見つめていた。

どこか飢えたような、危険な眼差し。
不意に、耐えきれないといった苦しげな感じで、短く息を吐いて……目を逸らした。


――全部、分かっている。

宏雅が、どれほど菫を大切に思っているか。
そして、同じだけ恐れていることも。

“本気で抱けないだろ、あんな汚れてない子を……俺みたいな男が、壊しちゃ駄目だ”

以前、ふと漏らしたあの言葉。
あれこそが、宏雅の本心だと藤原は思っている。

本気でぶつからないと、何も手に入らないのに。相手を大切にしすぎて、傷つけることを恐れている。

「なぜボタンを掛け違えてしまうんですか、社長」

思わずそう言ってしまった夜があった。
宏雅は一瞬だけ目を伏せ、苦笑して煙草をくわえたまま、何も答えなかった。

藤原は、ずっと見てきた。
享楽的に生きてきた宏雅が、菫に出会ってから変わっていく姿を。

最初は、ただの気まぐれだと思っていた。
だが――いつしか、彼の視線は真剣に。彼女が隣にいる時だけ、宏雅の中の虚勢が消える。

不釣り合いだと思っていた。
遊び慣れた男と、世間知らずのお嬢様。
けれど、互いに引き寄せ合うように、視線が絡むあの瞬間――どちらが先に恋に落ちたのか、もう分からないほどだった。

……誰よりも、藤原は願っている。
宏雅と菫が、真っすぐに結ばれてほしいと。


それなのに、だ。

彼は今日も、違う女の部屋から出社してくる。
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