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濡れた灯
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執務室の窓の外では、東京の街が朱と金の光を纏いはじめていた。
宏雅はジャケットを羽織り、ネクタイを緩めたまま、机の上の書類を片づけていた。静かな部屋に、時計の針の音と紙を束ねる音だけが響く。
「藤原……今夜の付き添いに、誰か適任の人間いたか?」
宏雅に聞かれて、秘書の藤原は眼鏡のブリッジを指で押し上げると、すぐに冷静な口調で答えた。
「そうですね。風間が良いかと」
「風間って……あの警務課あがりのガタイの良い奴か?」
宏雅は片眉を上げ、意外そうな表情を浮かべる。長い足を組み、椅子へ沈み込む怠惰な姿は、貴族めいた優雅さがあった。
「お忘れですか?前回の事を考えれば、私より腕力のある者が必要でしょう」
「……前回?」
その言葉に、宏雅の視線が宙を彷徨う。
思い出すのは、二年前。
ジェイドが、ふらりと日本に戻ってきた時――まだ自分も、自由気ままな時期だった。
夜ごと美しい女達に囲まれ、誰よりも色事を楽しんでいた。宏雅と華やかなジェイドが並べば、それはまるで二つの災厄。彼らに惹かれた女たちは、抗う術もなく堕ちていった。酒と煙草と女。そんな夜が何度続いたか、もう覚えてもいない。結局、ホテルからクレームが入り、藤原が頭を下げて事を収めた。
「……そうだったな」
苦い笑みを浮かべる宏雅に、藤原は少しだけ恨めしげな目を向けた。
「忘れられると報われません」
「悪かった……人選は、お前に任せる」
藤原は、手元のタブレットを立ち上げ、予定を淡々と読み上げた。
「今夜は、西麻布のイタリアンを押さえてあります。地下は人気DJのイベント日。VIP席を確保済みです。二軒目は銀座のクラブを予定。その後は成り行きで」
「……俺も行かなきゃ駄目か?」
わずかにうんざりした声音。藤原は、軽くため息をつきながらも、言葉を選んだ。
「ええ。本音を言えば、全て同行していただきたいくらいです。社長でないと、あの方の手綱は取れませんから」
「やれやれ。あの自由人に、朝まで付き合う元気……もう俺にはないよ」
宏雅は、背もたれに体を預け、首筋を指で揉む。沈みかけの西日が、彼の横顔を黄金色に染めていた。
「では、せめて二軒目までお願いします」
「わかった」
吐息まじりに宏雅が頷く。
「ちなみに、二軒目の銀座のクラブですが……」
藤原は一拍置いて、慎重に言葉を続けた。
「“着物姿”“英語堪能”“日本的演出”という条件を満たすとなると……クラブ華籠(はなかご)が最適です」
その名を聞いた瞬間、宏雅の動きが止まった。しばしの沈黙。そして、低く掠れた声で尋ねる。
「……他の店は?」
「キャパ的に厳しいです。ジェイドさんのスタッフも入れると十名以上。女性がつくタイプの店で通訳を入れるのは、まず不可能ですね」
「……そうか」
指先で眉間を押さえ、目を閉じる。
――葵の顔が脳裏に浮かんだ。
もう過去の女。
それでも、名前を聞くだけで胸の奥がざらつく。
「俺が、行かないわけには、いかないよな?」
「そうですね……急病になるとか?」
冗談めかした藤原の提案に、宏雅は微かに笑った。
「そんな情けない理由で、逃亡できるかよ」
「ですよね」
短い沈黙の後、宏雅は深く息を吸い込んだ。
「……いい。店を予約してくれ」
「承知しました」
そう言うと、宏雅は椅子から立ち上がり、上着のポケットに煙草を滑り込ませた。
「吸ってくる……気合を入れないと」
その背を、藤原は静かに見送った。窓の外では、もう夜の帳が下りてきていた。
宏雅は、しばらく迷うように指先で煙草を転がしていた。火をつけるか否か――その些細な決断に躊躇いが生まれる。結局、ライターの音が夜気に小さく弾けた。
ゆっくりと吸い込む。
肺の奥へ落ちていく煙が、冷えた身体の隅々まで沁みていくようだった。指先がわずかに震える。久しぶりの一本が、痛いほど現実を思い出させる。
……本数は減らしていた。
菫と付き合うようになってから、自然とそうなったのだ。
『煙草なんて、体に良くないですよ』
案じるように見つめてくる年下の恋人の顔が、ぼんやりと心に浮かぶ。それでも今夜ばかりは、どうしても何かで呼吸を繋がなければ、やりきれなかった。
オフィスの屋上。
眼下に広がる夜景は、まだ宵の口で、都会の灯が濡れたように瞬いている。煙の向こうに、それが霞んでゆく。
「最悪だな」
そう呟いた声が、風に攫われて消えていった。自嘲の笑みが漏れる。
葵の店――クラブ華籠。
真剣に菫を想う宏雅の心に気づき、静かに身を引いた銀座の女。その彼女の店に、今夜は“客”として足を運ぶ。
葵の気持ちを思えば、とても顔を合わせる勇気などない。だが、行かなければならない……感情を抑えて。
煙草の火が、細く赤く光る。
夜風が頬を撫で、彼はゆっくりと目を閉じた。
宏雅はジャケットを羽織り、ネクタイを緩めたまま、机の上の書類を片づけていた。静かな部屋に、時計の針の音と紙を束ねる音だけが響く。
「藤原……今夜の付き添いに、誰か適任の人間いたか?」
宏雅に聞かれて、秘書の藤原は眼鏡のブリッジを指で押し上げると、すぐに冷静な口調で答えた。
「そうですね。風間が良いかと」
「風間って……あの警務課あがりのガタイの良い奴か?」
宏雅は片眉を上げ、意外そうな表情を浮かべる。長い足を組み、椅子へ沈み込む怠惰な姿は、貴族めいた優雅さがあった。
「お忘れですか?前回の事を考えれば、私より腕力のある者が必要でしょう」
「……前回?」
その言葉に、宏雅の視線が宙を彷徨う。
思い出すのは、二年前。
ジェイドが、ふらりと日本に戻ってきた時――まだ自分も、自由気ままな時期だった。
夜ごと美しい女達に囲まれ、誰よりも色事を楽しんでいた。宏雅と華やかなジェイドが並べば、それはまるで二つの災厄。彼らに惹かれた女たちは、抗う術もなく堕ちていった。酒と煙草と女。そんな夜が何度続いたか、もう覚えてもいない。結局、ホテルからクレームが入り、藤原が頭を下げて事を収めた。
「……そうだったな」
苦い笑みを浮かべる宏雅に、藤原は少しだけ恨めしげな目を向けた。
「忘れられると報われません」
「悪かった……人選は、お前に任せる」
藤原は、手元のタブレットを立ち上げ、予定を淡々と読み上げた。
「今夜は、西麻布のイタリアンを押さえてあります。地下は人気DJのイベント日。VIP席を確保済みです。二軒目は銀座のクラブを予定。その後は成り行きで」
「……俺も行かなきゃ駄目か?」
わずかにうんざりした声音。藤原は、軽くため息をつきながらも、言葉を選んだ。
「ええ。本音を言えば、全て同行していただきたいくらいです。社長でないと、あの方の手綱は取れませんから」
「やれやれ。あの自由人に、朝まで付き合う元気……もう俺にはないよ」
宏雅は、背もたれに体を預け、首筋を指で揉む。沈みかけの西日が、彼の横顔を黄金色に染めていた。
「では、せめて二軒目までお願いします」
「わかった」
吐息まじりに宏雅が頷く。
「ちなみに、二軒目の銀座のクラブですが……」
藤原は一拍置いて、慎重に言葉を続けた。
「“着物姿”“英語堪能”“日本的演出”という条件を満たすとなると……クラブ華籠(はなかご)が最適です」
その名を聞いた瞬間、宏雅の動きが止まった。しばしの沈黙。そして、低く掠れた声で尋ねる。
「……他の店は?」
「キャパ的に厳しいです。ジェイドさんのスタッフも入れると十名以上。女性がつくタイプの店で通訳を入れるのは、まず不可能ですね」
「……そうか」
指先で眉間を押さえ、目を閉じる。
――葵の顔が脳裏に浮かんだ。
もう過去の女。
それでも、名前を聞くだけで胸の奥がざらつく。
「俺が、行かないわけには、いかないよな?」
「そうですね……急病になるとか?」
冗談めかした藤原の提案に、宏雅は微かに笑った。
「そんな情けない理由で、逃亡できるかよ」
「ですよね」
短い沈黙の後、宏雅は深く息を吸い込んだ。
「……いい。店を予約してくれ」
「承知しました」
そう言うと、宏雅は椅子から立ち上がり、上着のポケットに煙草を滑り込ませた。
「吸ってくる……気合を入れないと」
その背を、藤原は静かに見送った。窓の外では、もう夜の帳が下りてきていた。
宏雅は、しばらく迷うように指先で煙草を転がしていた。火をつけるか否か――その些細な決断に躊躇いが生まれる。結局、ライターの音が夜気に小さく弾けた。
ゆっくりと吸い込む。
肺の奥へ落ちていく煙が、冷えた身体の隅々まで沁みていくようだった。指先がわずかに震える。久しぶりの一本が、痛いほど現実を思い出させる。
……本数は減らしていた。
菫と付き合うようになってから、自然とそうなったのだ。
『煙草なんて、体に良くないですよ』
案じるように見つめてくる年下の恋人の顔が、ぼんやりと心に浮かぶ。それでも今夜ばかりは、どうしても何かで呼吸を繋がなければ、やりきれなかった。
オフィスの屋上。
眼下に広がる夜景は、まだ宵の口で、都会の灯が濡れたように瞬いている。煙の向こうに、それが霞んでゆく。
「最悪だな」
そう呟いた声が、風に攫われて消えていった。自嘲の笑みが漏れる。
葵の店――クラブ華籠。
真剣に菫を想う宏雅の心に気づき、静かに身を引いた銀座の女。その彼女の店に、今夜は“客”として足を運ぶ。
葵の気持ちを思えば、とても顔を合わせる勇気などない。だが、行かなければならない……感情を抑えて。
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夜風が頬を撫で、彼はゆっくりと目を閉じた。
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