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火の粉(一)
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■銀座・クラブ花籠
目の前の恰幅の良い男性は、いかにも成功者らしい風格を漂わせていた。紳士的で、言葉の端々に余裕があり羽振りも良い。
葵は、そんな客の調子に合わせ、艶やかな笑みを浮かべながら、時折相槌を打つ。
――それが仕事。
客を愉しませるのが、花籠の“女主人”としての務めだった。
すっと背後に現れた黒服が、静かに膝をついた。
「葵ママ、少しよろしいですか」
「えぇ、なんやの?」
笑顔のままグラスを置く。黒服は、葵の耳元に顔を寄せて囁いた。
「先ほど、お電話で……ご予約が入りまして」
「え?」
聞き間違いかと思った葵に、黒服は困ったようにもう一度繰り返した。
「ご予約名は……藤原様でございます」
「……そんなん、間違いちゃうん?」
浮かんでいた笑みが、少しだけ強張る。
「いえ、きちんと社名も確認しました。間違いありません」
「……そう」
グラスの中の氷が、かすかに音を立てて溶けていく。
まさか……。
胸の奥に、ざわりと波が立つ。
来るはずが無い。
あの人が、どの面さげて。
別れた女の店へ――そんなこと、できるはずないやないの。
葵は、心の中で言い聞かせるように、微笑を保つ。
私は、彼を好きやった。
けれど、それでも……身を引いたんや。
あの人のために。
思い出すのも、痛い。
不器用に優しくて、ずるくて、けれど心の奥ではちゃんと人を想う男。榊宏雅とは、そういう男のはずや。
――せやけど、もしかしたら。
秘書の藤原はんが、接待で誰か連れて来はるだけかもしれへん。それやったら納得できる。そうよ、それに違いないわ……。
けれど、その思考はほどなく、打ち砕かれる。
「すみませんでした。急な予約を受けて頂いて」
店の入り口のほうから、落ち着いた声。生真面目な表情をした、藤原の背後に――。
黒いコートを羽織った、背の高い男。
榊宏雅。
「……」
一瞬、息を呑む。
言葉が、喉の奥で凍りついた。
彼が、クロークにコートを預ける。
その仕草ひとつまで、変わらず洗練されている。長い指が軽くコートの襟を整え、係に微笑を向けた。伏せ気味の眼差しに、夜の光がやわらかく反射する。ネクタイもせずシャツのボタンを二つ外し、無造作なようで計算された着こなし。
香水ではない、彼そのものの香りが、ふっと流れてきたような気がした。
「やあ」
低く甘い声。
しばらくぶりの響きに、胸の奥が震える。
葵は一瞬だけ視線を伏せ、それから――完璧に微笑んだ。
「ようお越しやしたなぁ、榊さん。本日はご予約、ありがとうございます」
視線が交わる、その一瞬、どきんと心臓が強く打った。
「奥のお席へ、ご案内しますえ」
すれ違うとき、ほんのわずかに肩が触れた気がして、息が詰まった。
「へぇ、凄いね」
「写真集で見たことがある。イメージ通りだ」
「これは何て書いてあるの?」
賑やかに声を上げる、外国人スタッフ達。
宏雅は、流暢な英語で通訳をしながら、軽く笑っている。冗談に柔らかく返す、その笑顔――懐かしい、優しい笑顔。
胸が痛い。どうしよう。
まだ……うち、あかんかもしれへん。
葵は、唇を噛んでグラスを持ち上げた。手がわずかに震えていた。
店内のざわめきの中、ジェイドが隣についた店の娘の髪に、唇を寄せて言った。
低く柔らかい声で、フランス語を奏でる。
「Tu me regardes comme si j’étais à toi……まるで俺が、貴女のものみたいだね」
一瞬だけ、その音の流れに耳を傾けた娘たちが首を傾げる。意味はわからない。ただ、艶やかな響きだけが、空気を甘く震わせた。
宏雅の口元が、わずかに緩む。
多言語を扱う彼は、それを正確に聞き取れている。ジェイドは、そんな悪友の反応を楽しむように、今度はオランダ語で言葉を重ねた。
「Alleen jij begrijpt me, nietwaar?
……お前だけが俺を理解してくれる、そうだろう?」
周囲には、ただ異国の旋律としてしか届かない。だがその意図――挑発にも似た親密さを、宏雅だけが受け取っていた。
そしてジェイドは、葵に視線を向ける。
上から下まで、静かに値踏みするように眺め――微かに笑った。
「なるほど。確かに……魅力的だ」
今度は日本語で。葵を見つめたまま、ゆっくりとその言葉を落とした。囁くような熱っぽい声に、一瞬その場の空気が止まる。ジェイドの瞳には、酷薄な光が一瞬だけ宿り、すぐに消えた。
ジェイドの、引き締まった体に品のある所作。
優雅にソファへ身を預ける姿は、様になっている。先ほど、宏雅と共に店へ入ってきたとき、花籠の娘たちがざわめいたのも無理はない。
二人並んで座るだけで、上等な絵画のよう――艶やかで、危うく、美しい……と、葵は感じていた。
ジェイドは、隣の宏雅の肩に肘をかけると、耳打ちした。
「別れるとは、勿体ないな」
宏雅は、ふっと笑ってフランス語で返す。
「Laisse tomber……放っておけ」
その響きは冷ややかで……だが、葵には意味まではわからなかった。
「榊社長、英語以外もできるんですか?素敵ですね」
店の娘が感嘆の声を上げる。
宏雅は、あの変わらぬ穏やかな微笑を浮かべたまま。ただ、その瞳には、暗い陰が落ちていた。
……葵には、それがはっきりと見えた。
ジェイドがくすくすと笑い、今度はオランダ語で囁く。
「Misschien laat je me proeven……俺が味見させて貰おうかな」
瞬間、宏雅の纏う空気が、ぴんと張りつめた。
宏雅は剣呑な眼差しのまま、明確な力でジェイドの肘をどけた。場の空気を壊さぬように、穏やかに――それでも怒りを抑えきれずに。
ジェイドは、楽しそうに肩をすくめ、フランス語で挑発する。
「Si c’est ton reste, il doit être bien formé……お前のおさがりなら、上等に仕込まれてそうだ」
その言葉を聞き、宏雅の頬が微かに引き攣った。
「No one will take anything home from here……ここからは、誰も持ち帰りさせない」
宏雅は、押し殺すように低く、英語で囁いた。
「――わかったか?」
最後の念押しだけ、日本語で鋭く突きつけた。
ジェイドは小さく両手を上げ、微笑んだまま降参の仕草。
「怖いね、相変わらず」
ゆっくり宏雅は立ち上がり、短く告げた。
「……電話してくる」
その声の奥に、静かな怒りが滲んでいた。廊下の向こうへと、背中が遠ざかる。
「榊社長、どうしはったんやろね?」
店の娘たちが囁きあう。語学堪能な子が、こっそりと葵に耳打ちした。
「“ここからは、誰も持ち帰りさせない”って社長が言ってました。たぶんジェイドさんが、何か言ったんだと思います」
葵の胸が、ずきんっと痛む。
あの人……怒ってはる。
たまらず笑顔を繕いながら「キッチンの様子、見て来るわ」と言い訳をして席を立った。
目の前の恰幅の良い男性は、いかにも成功者らしい風格を漂わせていた。紳士的で、言葉の端々に余裕があり羽振りも良い。
葵は、そんな客の調子に合わせ、艶やかな笑みを浮かべながら、時折相槌を打つ。
――それが仕事。
客を愉しませるのが、花籠の“女主人”としての務めだった。
すっと背後に現れた黒服が、静かに膝をついた。
「葵ママ、少しよろしいですか」
「えぇ、なんやの?」
笑顔のままグラスを置く。黒服は、葵の耳元に顔を寄せて囁いた。
「先ほど、お電話で……ご予約が入りまして」
「え?」
聞き間違いかと思った葵に、黒服は困ったようにもう一度繰り返した。
「ご予約名は……藤原様でございます」
「……そんなん、間違いちゃうん?」
浮かんでいた笑みが、少しだけ強張る。
「いえ、きちんと社名も確認しました。間違いありません」
「……そう」
グラスの中の氷が、かすかに音を立てて溶けていく。
まさか……。
胸の奥に、ざわりと波が立つ。
来るはずが無い。
あの人が、どの面さげて。
別れた女の店へ――そんなこと、できるはずないやないの。
葵は、心の中で言い聞かせるように、微笑を保つ。
私は、彼を好きやった。
けれど、それでも……身を引いたんや。
あの人のために。
思い出すのも、痛い。
不器用に優しくて、ずるくて、けれど心の奥ではちゃんと人を想う男。榊宏雅とは、そういう男のはずや。
――せやけど、もしかしたら。
秘書の藤原はんが、接待で誰か連れて来はるだけかもしれへん。それやったら納得できる。そうよ、それに違いないわ……。
けれど、その思考はほどなく、打ち砕かれる。
「すみませんでした。急な予約を受けて頂いて」
店の入り口のほうから、落ち着いた声。生真面目な表情をした、藤原の背後に――。
黒いコートを羽織った、背の高い男。
榊宏雅。
「……」
一瞬、息を呑む。
言葉が、喉の奥で凍りついた。
彼が、クロークにコートを預ける。
その仕草ひとつまで、変わらず洗練されている。長い指が軽くコートの襟を整え、係に微笑を向けた。伏せ気味の眼差しに、夜の光がやわらかく反射する。ネクタイもせずシャツのボタンを二つ外し、無造作なようで計算された着こなし。
香水ではない、彼そのものの香りが、ふっと流れてきたような気がした。
「やあ」
低く甘い声。
しばらくぶりの響きに、胸の奥が震える。
葵は一瞬だけ視線を伏せ、それから――完璧に微笑んだ。
「ようお越しやしたなぁ、榊さん。本日はご予約、ありがとうございます」
視線が交わる、その一瞬、どきんと心臓が強く打った。
「奥のお席へ、ご案内しますえ」
すれ違うとき、ほんのわずかに肩が触れた気がして、息が詰まった。
「へぇ、凄いね」
「写真集で見たことがある。イメージ通りだ」
「これは何て書いてあるの?」
賑やかに声を上げる、外国人スタッフ達。
宏雅は、流暢な英語で通訳をしながら、軽く笑っている。冗談に柔らかく返す、その笑顔――懐かしい、優しい笑顔。
胸が痛い。どうしよう。
まだ……うち、あかんかもしれへん。
葵は、唇を噛んでグラスを持ち上げた。手がわずかに震えていた。
店内のざわめきの中、ジェイドが隣についた店の娘の髪に、唇を寄せて言った。
低く柔らかい声で、フランス語を奏でる。
「Tu me regardes comme si j’étais à toi……まるで俺が、貴女のものみたいだね」
一瞬だけ、その音の流れに耳を傾けた娘たちが首を傾げる。意味はわからない。ただ、艶やかな響きだけが、空気を甘く震わせた。
宏雅の口元が、わずかに緩む。
多言語を扱う彼は、それを正確に聞き取れている。ジェイドは、そんな悪友の反応を楽しむように、今度はオランダ語で言葉を重ねた。
「Alleen jij begrijpt me, nietwaar?
……お前だけが俺を理解してくれる、そうだろう?」
周囲には、ただ異国の旋律としてしか届かない。だがその意図――挑発にも似た親密さを、宏雅だけが受け取っていた。
そしてジェイドは、葵に視線を向ける。
上から下まで、静かに値踏みするように眺め――微かに笑った。
「なるほど。確かに……魅力的だ」
今度は日本語で。葵を見つめたまま、ゆっくりとその言葉を落とした。囁くような熱っぽい声に、一瞬その場の空気が止まる。ジェイドの瞳には、酷薄な光が一瞬だけ宿り、すぐに消えた。
ジェイドの、引き締まった体に品のある所作。
優雅にソファへ身を預ける姿は、様になっている。先ほど、宏雅と共に店へ入ってきたとき、花籠の娘たちがざわめいたのも無理はない。
二人並んで座るだけで、上等な絵画のよう――艶やかで、危うく、美しい……と、葵は感じていた。
ジェイドは、隣の宏雅の肩に肘をかけると、耳打ちした。
「別れるとは、勿体ないな」
宏雅は、ふっと笑ってフランス語で返す。
「Laisse tomber……放っておけ」
その響きは冷ややかで……だが、葵には意味まではわからなかった。
「榊社長、英語以外もできるんですか?素敵ですね」
店の娘が感嘆の声を上げる。
宏雅は、あの変わらぬ穏やかな微笑を浮かべたまま。ただ、その瞳には、暗い陰が落ちていた。
……葵には、それがはっきりと見えた。
ジェイドがくすくすと笑い、今度はオランダ語で囁く。
「Misschien laat je me proeven……俺が味見させて貰おうかな」
瞬間、宏雅の纏う空気が、ぴんと張りつめた。
宏雅は剣呑な眼差しのまま、明確な力でジェイドの肘をどけた。場の空気を壊さぬように、穏やかに――それでも怒りを抑えきれずに。
ジェイドは、楽しそうに肩をすくめ、フランス語で挑発する。
「Si c’est ton reste, il doit être bien formé……お前のおさがりなら、上等に仕込まれてそうだ」
その言葉を聞き、宏雅の頬が微かに引き攣った。
「No one will take anything home from here……ここからは、誰も持ち帰りさせない」
宏雅は、押し殺すように低く、英語で囁いた。
「――わかったか?」
最後の念押しだけ、日本語で鋭く突きつけた。
ジェイドは小さく両手を上げ、微笑んだまま降参の仕草。
「怖いね、相変わらず」
ゆっくり宏雅は立ち上がり、短く告げた。
「……電話してくる」
その声の奥に、静かな怒りが滲んでいた。廊下の向こうへと、背中が遠ざかる。
「榊社長、どうしはったんやろね?」
店の娘たちが囁きあう。語学堪能な子が、こっそりと葵に耳打ちした。
「“ここからは、誰も持ち帰りさせない”って社長が言ってました。たぶんジェイドさんが、何か言ったんだと思います」
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