この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

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火の粉(二)

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――廊下の奥。静けさに包まれた壁際。
そこに宏雅がいた。

片手を壁につき、額をその手に預けて深く息を吐いている。何かを押し殺すような気配と、緊張感に包まれている後ろ姿だった。

「榊さん……大丈夫どすか?」

近づいた葵は、控えめに声をかけた。
宏雅の肩がびくりと動く。振り返らないまま、ただ沈黙。葵は躊躇いながらも、そっと彼の背に手を当てた。

「ほんま……怒りん坊やなぁ。皆にはバレてへんけど……ずっと怒ってはったやろ?」

優しく背を撫でながら、穏やかに言う。宏雅は小さく笑ったような、息をこぼしたような声を出した。
そのまま葵は、彼の背中に頬を寄せた。温もりが懐かしくて、胸がいっぱいになる。

「……嬉しかったわ。榊さんの顔、また見られて。ほんま、それだけで充分どす」

沈黙の後、宏雅の声が掠れる。  

「……ごめん。上手く立ち回れない。お前の顔を見ると……駄目なんだ」

その声に、葵の瞳から静かに、涙がこぼれ落ちた。


――振り向いて顔を見たら、全てが崩れてしまう。彼の背中からは、そんな気配が立ちのぼっていた。
暫くして、柔らかく背中に寄り添う葵に、宏雅が身じろぐのが伝わってきた。

「さっき、なんて言われたんや?」
緊張した声で葵が尋ねると、宏雅は壁についていた手を外して口元にやり、咳払いをした。
「……オランダ語だから、良くわからないな」
少し掠れた声で告げた。その答えに、葵は宏雅から身を離すと、くすりと笑った。
「オランダ語なんや……それは、ちゃんとわかってはるんやな」
苦笑した宏雅は、肩越しに振り向き……でも葵と視線を合わせないように、さっきまで座っていた席の方を見つめて、低い声で言う。
「とにかく……店の女の子、誰もついて行かせないでくれよ」
宏雅は、片手で自分の髪をかき上げながら、不貞腐れたような口調で念押しした。
「あいつ、女癖悪いから……持ち帰りなんかされないように、ちゃんと皆に言い聞かせて」

……女癖悪いって、自分のこと棚にあげてはりません?

そう思うと、可笑しくなった葵は、思わず笑いながら頷いた。
「はいはい、わかってますえ」

軽い返事に、宏雅がすっと顔を上げ、視線が葵の瞳をとらえた。じり、と火傷しそうな男の瞳。

「だから、絶対に……葵、お前だけはついて行」

宏雅は、すぐ口を噤む。
頬が、わずかに赤く染まる。
しまった、とでも言うように目を瞑ってから、呻くように囁いた。

「煙草、吸って戻るから……席、先に行っててくれ」




……こんな面白い見世物、久しぶりだ。

ジェイドは、長い足を組み替え、ゆるりと唇の端を上げた。
その笑みは、まるで氷の刃のように冷たく、そして妖しく美しかった。周囲の女の子達が、その横顔に見惚れてしまうほどだった。
しなやかな指、組まれた脚の角度――ひとつひとつが、計算された艶を帯びている。

ふと、視界の端に黒いスーツの影が、映った。

……戻ってきた。

煙草を片手に、宏雅がゆっくりと歩いてくる。歩き方は、獲物を決して焦らず追い詰める、肉食獣のように優美だった。

ただの実業家ではない。
あの男は、野生を上品に纏う術を知っている。もう戻って来ないと思っていたのに、宏雅は戻ってきた。そして、微塵も怒りを感じさせない。
いつも通りの甘い微笑み――その笑みだけで、場の空気を掌握する。

ジェイドは、軽く肩をすくめ呟いた。

「Well… that’s boring……なんだ、つまらないな」

「日本語で話せよ。お前、半分は日本人だろ」
宏雅が呆れたように言って、ジェイドの隣に腰を下ろした。ソファの背に片肘を置いて、ゆったりと煙草を吸う。
「えー、そうなんですか?」
店の娘たちが、黄色い声を上げて目を輝かせる。ジェイドは、一本煙草を取り出すと軽やかに笑った。
「英語の方が、日本人にはモテるからね」
その言葉に含まれる色気で、女の子たちは賑わっていく。

「ふふ、悪かったよ。ふざけただけさ」
ジェイドの軽い口調に、宏雅が静かに応じる。
「わかってる。お前が悪ふざけするのは、いつものことだよな」
柔らかな声音の奥に、上手く抑えた怒りがまだ残っている。ジェイドはそれを見抜いて、愉快そうに目を細めた。

「火、貸して」
ジェイドは煙草を唇に挟み、わざとゆっくり宏雅へ顔を寄せる。指先が触れるほどの距離。
ジジッ……と音を立てて、煙草に火が移る。赤い炎の向こうに、宏雅の瞳がある。一瞬だけ、互いの呼吸が重なった。その瞬間を切り取るように、パシャリとシャッターの音が響く。スタッフが撮影していた。
「イケてる絵が撮れたぜ!」
軽口と笑い声が夜に散っていく。銀座の空気が少し冷たくなり、グラスの氷がかすかに鳴った。

ジェイドは、ゆっくりと煙を吐きながら、目を伏せた。

――怒るほどに、惚れている。

そう思うと、妙に可笑しかった。
この男が自分に牙を剥くのは、誰かの為だけだ。そして今夜、その“誰か”を確認できた。

思わず笑みが浮かぶ。
あの宏雅が、こんなに怒るなんて……。

ジェイドは、薄く笑いながらグラスを傾けた。氷の音が静かに鳴り、琥珀色の液体がわずかに揺れる。

周囲に聞かせたくない話を、宏雅がフランス語で返してきているのは分かっていた。あの抑えた声色と流暢な発音。まるで“怒り”をもエレガンスに包み隠そうとしているようだった。

――何年も前、この男と共にパリの夜を遊び歩いた事がある。

金にも時間にも困らず、退屈を紛らわせるように女を抱き、シャンゼリゼの夜風に、二人して煙草をくゆらせた。互いに笑い、似たような虚無を抱えながら。あの頃の宏雅は、もっと自由で、もっと冷たかった。情なんて、何の役にも立たないと思っていたはずだ。
ジェイドもそうだった。だから気が合ったし、傷の舐め合いのような友情も成立していた。

それが今夜。
女のために、本気で怒るとは。

「ふふ……」
笑いが喉の奥から零れる。あれほど女を“消耗品”のように扱ってきた男が、まるで女を守るようにジェイドへ警告した。
その姿が、なんとも滑稽だった。

甘い微笑みを見て、宏雅を“優しい”と評する者も多い。だがジェイドに言わせれば、あれは仮面だ。

――誰にも本心を見せず、己を守るために被った、完璧な社交のマスク。

あの空っぽの冷たい家で育ったからこそ、人との距離の取り方を、誰よりも心得ている。
その仮面を剥がすことができた女がいるとすれば……それは、葵という名の“夜の女”。

……夜の女ごときのために?

唇の端が、ゆっくりと持ち上がる。嘲りとも羨望ともつかない笑みだった。


――愛なんてものは、ただの幻想だ。

知る事も信じる事もなく、生きてきた。
かつての宏雅も同じだった。
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