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二章
淡い幻(一)
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窓の外には、夜の街が広がっている。
煌々と光る高層ビルの灯りが、どこか遠くの世界のように見えた。
すでに藤原も帰り、静まり返ったオフィスに残るのは、時計の針の音と、薄く漂う煙草の匂いだけ。
帰り支度をしていた時、宏雅の携帯が震えた。
着信――ジェイド。
宏雅は短く息をつき、スピーカーにしてデスクに放り出す。ジェイドの少し低く掠れた美声が、執務室に響いた。
「相変わらず、死んでるか?」
一言目がそれかよ。
苦笑が零れる。懐かしい響きに、少しだけ口の端が上がった。
「……生きてるよ」
そう答えると、電話の向こうでくくっと笑う声がした。
「良かった」
ジェイドの声音は、笑っているのに、どこか優しかった。その柔らかさが、胸の奥に小さな温もりを残す。
「今度、東京で仕事があるんだ。そっちに寄るよ」
「そうか」
宏雅は、煙草を取り出して火を点ける。ライターのカキンという音が、やけに冷たく響いた。
「俺の新しい写真集、仕事の作品をまとめたやつなんだけど。東堂にも贈ってやろうと思ってさ」
ジェイドの写真集――その言葉に、ふと頬が緩む。ここ数年で撮影した作品は評価が高く、カメラマンとして日本よりもヨーロッパで、話題になっているようだった。
「東堂なら、お前がメールに添付してきた授賞式の写真、見ただけで泣いてたぞ……ご立派になられて、って」
東堂は、宏雅とジェイドの放蕩三昧の、若かりし日々を知っている。
「やばいな。ついに東堂も、耄碌したんじゃないのか」
ずけずけと言うジェイド。
年上への遠慮なんて、昔からない。
「夜はどうしてる?女を抱いてるか?」
まるで心の中を見透かすような問いに、宏雅は薄く笑った。ジェイドらしい。
「まあな」
「ふうん。決まった女ができたか?」
煙草の煙がゆらりと揺れた。
葵の顔が、不意に浮かぶ。
触れた時の体温、香り、息遣い――すべてが体に残っている。
それでも、彼女は朝までいてくれない。
抱いても、どこか遠い。
「……いや」
「できたんだな」
ジェイドの声音が、妙に嬉しそうに弾む。その軽さが、なぜか胸に刺さる。
「そんな事、言ってない」
「俺にはわかるんだよ。できたんだ、へえ……良い女か、日本人?」
「……そうだ」
彼女の名前を出すわけにはいかない。ジェイドが何を言うか、想像がつく。夜の女だの年上だの、きっと毒づく。
葵は、俺の中では確かに“特別”だが、それを他人に語れるほど整ってはいない。
「なのにお前は、こんな時間に、まだ会社……どうした?相手にされていないのか?」
ジェイドの冗談まじりの声に、思わず眉を寄せる。言葉に詰まった。
――相手にされていない?
「されてる、俺は……」
付き合っているのか?
いや、そう信じたいだけだ。
葵は、あの夜も帰ってしまった。
朝の光の中まで隣にいてくれることは、一度もない。もしかしたら俺は、やはり“朝まで過ごす価値のない男”に落ちたのかもしれない。
「おーい、聞いてるか、宏雅?」
その声に我に返り、宏雅は無言で通話を切った。ブツッという短い音。残ったのは、窓の外の夜景と、煙草の匂いだけだった。
窓の外に目をやる。
黒い夜に、東京の灯が滲んでいる。
まるで遠い惑星の光のようだ。
手の届かないところで、葵が笑っている――そんな錯覚。
時計を見ると、二十時少し前。
帰ろう、と思ったけれど……指が勝手に動いた。
葵の番号を押していた。
ふた呼吸で、彼女の声がした。
「はい」
その一言で、自分の中の空気が変わった。
柔らかく澄んでいて、静かな波のような葵の声に、心臓が跳ねる。
「やあ……飯、一緒に食べないか?」
思ったよりも声が弾んだ。
まるで中学生みたいに。
自分でも可笑しい。電話ひとつで、こんなに浮かれるなんて。
「あら、もう食べてしまいましたえ」
意外な答え。
柔らかな京言葉が、かえって胸に来る。
「早いな」
……沈黙。
冷たい現実のような間が流れる。
一緒にいたい気持ちは、俺だけか。
小さく息を吐く。
「……じゃ、切るぞ」
「あ」
一瞬の呼び止めに、指が止まった。
「うん?」
「水鶴……いま水鶴にいるんですけど、お店やなくて私室の方に」
ひそひそとした声になる。
少し、周囲を気にしているのがわかった。
「ああ、そうなのか」
今から仕事なのかな、と考える。
料亭は夜が本番……だが、その声は働く人のものではなかった。
「もし良かったら、こっちで……一緒に食べしまへん?大したもの出せまへんけど」
言いにくそうに、それでも確かに誘ってくれた。宏雅の胸に熱が灯る。
「行く」
即答だった。
電話を切った後、ふっと笑みが零れる。夜のオフィスに残るのは、自分の足音と、心臓の鼓動だけ。
もう一度、ネクタイを整え、コートを手に取る。ガラスに映る自分の顔は、久しぶりに生気を帯びていた。
――ようやく、呼吸が楽になった気がした。
煌々と光る高層ビルの灯りが、どこか遠くの世界のように見えた。
すでに藤原も帰り、静まり返ったオフィスに残るのは、時計の針の音と、薄く漂う煙草の匂いだけ。
帰り支度をしていた時、宏雅の携帯が震えた。
着信――ジェイド。
宏雅は短く息をつき、スピーカーにしてデスクに放り出す。ジェイドの少し低く掠れた美声が、執務室に響いた。
「相変わらず、死んでるか?」
一言目がそれかよ。
苦笑が零れる。懐かしい響きに、少しだけ口の端が上がった。
「……生きてるよ」
そう答えると、電話の向こうでくくっと笑う声がした。
「良かった」
ジェイドの声音は、笑っているのに、どこか優しかった。その柔らかさが、胸の奥に小さな温もりを残す。
「今度、東京で仕事があるんだ。そっちに寄るよ」
「そうか」
宏雅は、煙草を取り出して火を点ける。ライターのカキンという音が、やけに冷たく響いた。
「俺の新しい写真集、仕事の作品をまとめたやつなんだけど。東堂にも贈ってやろうと思ってさ」
ジェイドの写真集――その言葉に、ふと頬が緩む。ここ数年で撮影した作品は評価が高く、カメラマンとして日本よりもヨーロッパで、話題になっているようだった。
「東堂なら、お前がメールに添付してきた授賞式の写真、見ただけで泣いてたぞ……ご立派になられて、って」
東堂は、宏雅とジェイドの放蕩三昧の、若かりし日々を知っている。
「やばいな。ついに東堂も、耄碌したんじゃないのか」
ずけずけと言うジェイド。
年上への遠慮なんて、昔からない。
「夜はどうしてる?女を抱いてるか?」
まるで心の中を見透かすような問いに、宏雅は薄く笑った。ジェイドらしい。
「まあな」
「ふうん。決まった女ができたか?」
煙草の煙がゆらりと揺れた。
葵の顔が、不意に浮かぶ。
触れた時の体温、香り、息遣い――すべてが体に残っている。
それでも、彼女は朝までいてくれない。
抱いても、どこか遠い。
「……いや」
「できたんだな」
ジェイドの声音が、妙に嬉しそうに弾む。その軽さが、なぜか胸に刺さる。
「そんな事、言ってない」
「俺にはわかるんだよ。できたんだ、へえ……良い女か、日本人?」
「……そうだ」
彼女の名前を出すわけにはいかない。ジェイドが何を言うか、想像がつく。夜の女だの年上だの、きっと毒づく。
葵は、俺の中では確かに“特別”だが、それを他人に語れるほど整ってはいない。
「なのにお前は、こんな時間に、まだ会社……どうした?相手にされていないのか?」
ジェイドの冗談まじりの声に、思わず眉を寄せる。言葉に詰まった。
――相手にされていない?
「されてる、俺は……」
付き合っているのか?
いや、そう信じたいだけだ。
葵は、あの夜も帰ってしまった。
朝の光の中まで隣にいてくれることは、一度もない。もしかしたら俺は、やはり“朝まで過ごす価値のない男”に落ちたのかもしれない。
「おーい、聞いてるか、宏雅?」
その声に我に返り、宏雅は無言で通話を切った。ブツッという短い音。残ったのは、窓の外の夜景と、煙草の匂いだけだった。
窓の外に目をやる。
黒い夜に、東京の灯が滲んでいる。
まるで遠い惑星の光のようだ。
手の届かないところで、葵が笑っている――そんな錯覚。
時計を見ると、二十時少し前。
帰ろう、と思ったけれど……指が勝手に動いた。
葵の番号を押していた。
ふた呼吸で、彼女の声がした。
「はい」
その一言で、自分の中の空気が変わった。
柔らかく澄んでいて、静かな波のような葵の声に、心臓が跳ねる。
「やあ……飯、一緒に食べないか?」
思ったよりも声が弾んだ。
まるで中学生みたいに。
自分でも可笑しい。電話ひとつで、こんなに浮かれるなんて。
「あら、もう食べてしまいましたえ」
意外な答え。
柔らかな京言葉が、かえって胸に来る。
「早いな」
……沈黙。
冷たい現実のような間が流れる。
一緒にいたい気持ちは、俺だけか。
小さく息を吐く。
「……じゃ、切るぞ」
「あ」
一瞬の呼び止めに、指が止まった。
「うん?」
「水鶴……いま水鶴にいるんですけど、お店やなくて私室の方に」
ひそひそとした声になる。
少し、周囲を気にしているのがわかった。
「ああ、そうなのか」
今から仕事なのかな、と考える。
料亭は夜が本番……だが、その声は働く人のものではなかった。
「もし良かったら、こっちで……一緒に食べしまへん?大したもの出せまへんけど」
言いにくそうに、それでも確かに誘ってくれた。宏雅の胸に熱が灯る。
「行く」
即答だった。
電話を切った後、ふっと笑みが零れる。夜のオフィスに残るのは、自分の足音と、心臓の鼓動だけ。
もう一度、ネクタイを整え、コートを手に取る。ガラスに映る自分の顔は、久しぶりに生気を帯びていた。
――ようやく、呼吸が楽になった気がした。
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