この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

文字の大きさ
54 / 131
二章

淡い幻(一)

しおりを挟む
窓の外には、夜の街が広がっている。
煌々と光る高層ビルの灯りが、どこか遠くの世界のように見えた。


すでに藤原も帰り、静まり返ったオフィスに残るのは、時計の針の音と、薄く漂う煙草の匂いだけ。

帰り支度をしていた時、宏雅の携帯が震えた。
着信――ジェイド。

宏雅は短く息をつき、スピーカーにしてデスクに放り出す。ジェイドの少し低く掠れた美声が、執務室に響いた。

「相変わらず、死んでるか?」

一言目がそれかよ。
苦笑が零れる。懐かしい響きに、少しだけ口の端が上がった。

「……生きてるよ」

そう答えると、電話の向こうでくくっと笑う声がした。

「良かった」

ジェイドの声音は、笑っているのに、どこか優しかった。その柔らかさが、胸の奥に小さな温もりを残す。

「今度、東京で仕事があるんだ。そっちに寄るよ」

「そうか」

宏雅は、煙草を取り出して火を点ける。ライターのカキンという音が、やけに冷たく響いた。

「俺の新しい写真集、仕事の作品をまとめたやつなんだけど。東堂にも贈ってやろうと思ってさ」

ジェイドの写真集――その言葉に、ふと頬が緩む。ここ数年で撮影した作品は評価が高く、カメラマンとして日本よりもヨーロッパで、話題になっているようだった。

「東堂なら、お前がメールに添付してきた授賞式の写真、見ただけで泣いてたぞ……ご立派になられて、って」

東堂は、宏雅とジェイドの放蕩三昧の、若かりし日々を知っている。

「やばいな。ついに東堂も、耄碌したんじゃないのか」

ずけずけと言うジェイド。
年上への遠慮なんて、昔からない。

「夜はどうしてる?女を抱いてるか?」

まるで心の中を見透かすような問いに、宏雅は薄く笑った。ジェイドらしい。

「まあな」

「ふうん。決まった女ができたか?」

煙草の煙がゆらりと揺れた。

葵の顔が、不意に浮かぶ。
触れた時の体温、香り、息遣い――すべてが体に残っている。
それでも、彼女は朝までいてくれない。
抱いても、どこか遠い。

「……いや」

「できたんだな」

ジェイドの声音が、妙に嬉しそうに弾む。その軽さが、なぜか胸に刺さる。

「そんな事、言ってない」

「俺にはわかるんだよ。できたんだ、へえ……良い女か、日本人?」

「……そうだ」

彼女の名前を出すわけにはいかない。ジェイドが何を言うか、想像がつく。夜の女だの年上だの、きっと毒づく。
葵は、俺の中では確かに“特別”だが、それを他人に語れるほど整ってはいない。

「なのにお前は、こんな時間に、まだ会社……どうした?相手にされていないのか?」

ジェイドの冗談まじりの声に、思わず眉を寄せる。言葉に詰まった。

――相手にされていない?

「されてる、俺は……」

付き合っているのか?
いや、そう信じたいだけだ。

葵は、あの夜も帰ってしまった。
朝の光の中まで隣にいてくれることは、一度もない。もしかしたら俺は、やはり“朝まで過ごす価値のない男”に落ちたのかもしれない。

「おーい、聞いてるか、宏雅?」

その声に我に返り、宏雅は無言で通話を切った。ブツッという短い音。残ったのは、窓の外の夜景と、煙草の匂いだけだった。

窓の外に目をやる。
黒い夜に、東京の灯が滲んでいる。
まるで遠い惑星の光のようだ。
手の届かないところで、葵が笑っている――そんな錯覚。


時計を見ると、二十時少し前。
帰ろう、と思ったけれど……指が勝手に動いた。
葵の番号を押していた。

ふた呼吸で、彼女の声がした。

「はい」

その一言で、自分の中の空気が変わった。
柔らかく澄んでいて、静かな波のような葵の声に、心臓が跳ねる。

「やあ……飯、一緒に食べないか?」

思ったよりも声が弾んだ。
まるで中学生みたいに。
自分でも可笑しい。電話ひとつで、こんなに浮かれるなんて。

「あら、もう食べてしまいましたえ」

意外な答え。
柔らかな京言葉が、かえって胸に来る。

「早いな」

……沈黙。
冷たい現実のような間が流れる。
一緒にいたい気持ちは、俺だけか。
小さく息を吐く。

「……じゃ、切るぞ」

「あ」

一瞬の呼び止めに、指が止まった。

「うん?」

「水鶴……いま水鶴にいるんですけど、お店やなくて私室の方に」

ひそひそとした声になる。
少し、周囲を気にしているのがわかった。

「ああ、そうなのか」

今から仕事なのかな、と考える。
料亭は夜が本番……だが、その声は働く人のものではなかった。

「もし良かったら、こっちで……一緒に食べしまへん?大したもの出せまへんけど」

言いにくそうに、それでも確かに誘ってくれた。宏雅の胸に熱が灯る。

「行く」

即答だった。
電話を切った後、ふっと笑みが零れる。夜のオフィスに残るのは、自分の足音と、心臓の鼓動だけ。

もう一度、ネクタイを整え、コートを手に取る。ガラスに映る自分の顔は、久しぶりに生気を帯びていた。

――ようやく、呼吸が楽になった気がした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

ハイスペックでヤバい同期

衣更月
恋愛
イケメン御曹司が子会社に入社してきた。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

甘い束縛

はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。 ※小説家なろうサイト様にも載せています。

恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで

夏目萌
恋愛
過去の恋愛が原因で、「女にだらしない男」を何よりも嫌う向坂 来海(29)。 一方、御曹司で誰にでも優しく、来る者拒まず──けれど、誰にも本気になったことのない羽柴 充輝(29)。 本来なら交わるはずのなかった二人は、ある出来事をきっかけに関わるようになる。 他の女性とは違い媚びることも期待することもない来海の態度に、充輝は次第に強く惹かれていく。 「誰にも本気にならない」はずだった彼の、一途すぎる想いに触れ、恋を信じることを避けてきた来海の心は少しずつ揺らぎ始めていき――。 不器用で焦れったくて、簡単には進まない二人の恋の行方は……。 他サイト様にも掲載中

お兄様「ねえ、イケナイ事をしよっか♡」

小野
恋愛
父が再婚して新しく出来たお兄様と『イケナイ事』をする義妹の話。

その溺愛も仕事のうちでしょ?〜拾ったワケありお兄さんをヒモとして飼うことにしました〜

濘-NEI-
恋愛
梅原奏多、30歳。 男みたいな名前と見た目と声。何もかもがコンプレックスの平凡女子。のはず。 2ヶ月前に2年半付き合った彼氏と別れて、恋愛はちょっとクールダウンしたいところ。 なのに、土砂降りの帰り道でゴミ捨て場に捨てられたお兄さんを発見してしまって、家に連れて帰ると決めてしまったから、この後一体どうしましょう!? ※この作品はエブリスタさんにも掲載しております。

会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)

久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。 しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。 「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」 ――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。 なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……? 溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。 王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ! *全28話完結 *辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。 *他誌にも掲載中です。

処理中です...