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二章
淡い幻(二)
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夕飯を食べ終えて、茶碗を片付けていたところだった。
妹と、子どもと、三人で食卓を囲むのは久しぶり。料亭の華やかな膳とは違う、家庭の匂いがした。味の染みた肉じゃがと青菜のおひたし、味噌汁の湯気。
「お姉ちゃん、これよう煮えてて美味しかったわ。子どもが喜ぶはずやわ」
そう妹が褒めてくれて、葵は「そうやろ」と笑い返した。こんな何気ない時間が、穏やかで――それでいて、少し寂しかった。
ふと携帯が震えた。
画面に映る名前を見て、胸が小さく鳴る。
……榊さん。
通話ボタンを押した。
「はい」
沈黙の後、少しだけ弾んだ声が届いた。
『やあ……飯、一緒に食べないか?』
その声を聞いた瞬間、胸が甘く締めつけられた。こないに遅うまで食べてへんなんて。仕事が、今終わったんやな……そう思った。
「あら、もう食べてしまいましたえ」
本当は、言いたくなかった。
でも、妹と子どもの前では、ついそう答えてしまっていた。電話の向こうの小さな沈黙。
『早いな』と落胆したような響きに、胸の奥がきゅっと痛んだ。
……違うのに。
ほんまは、“お疲れさま”を言いたかった。
思わず呼び止めていた。
「あ」
『うん?』と返ってきた声が優しくて、胸が熱くなる。
「水鶴……いま水鶴にいるんですけど、お店やなくて私室の方に」
葵が声を落とした。立ち上がった妹が、台所で茶碗を洗い出す音が、かすかに聞こえる。
『ああ、そうなのか』
きっと彼は、仕事帰りで疲れている。ゆっくり寛いで欲しい――そんな気持ちが混ざって、言葉がこぼれた。
「もし良かったら、こっちで……一緒に食べしまへん?大したもの出せまへんけど」
心臓が、どくんと鳴った。
一瞬、電話の向こうで静寂。
そして――
『行く』
その一言が、あまりにも真っ直ぐで、思わず可笑しくなる。
……子供みたい。
その無邪気さが、たまらなく愛おしくて、頬が熱くなった。
「待ってますえ」
小さく告げて通話を切った。
携帯を握ったまま、葵は息をついた。
「どうかしたの?」
妹が声をかけてきた。
「ううん。ちょっと……あの人、来はるかも」
窓の外では、夜風が庭木を揺らしていた。
彼に会える。
そう思うと、胸が高鳴った。
■水鶴・裏路地
路地の先、提灯の灯がふわりと揺れている。白地に“水鶴”と染め抜かれたその明かりを手にした葵が、背伸びして周囲を見回していた。
「……こっちです、榊さん」
控えめな声が夜気に溶けた。
宏雅は軽く頷き、足早に歩み寄る。料亭の裏口へ続く細い石畳。人通りはなく、雨上がりのようにしっとりとした空気が漂っていた。
「人に見られないように……こっち」
葵がそう言いながら、提灯を少し傾けて周囲を確認する。その仕草が秘密めいていて、思わず口の端が上がった。
「逢引みたいで、どきどきするな」
小声で言う。近寄ると、白檀の香が葵からした。
「もう、榊さん……そんな言い方……」
葵の頬が、提灯の光に淡く染まった。彼女はうつむいて笑いながら、木戸の閂を外す。
ギィ……と、軋んだ音を立てて木戸が開く。
中はまるで別世界だった。
夜の庭には風が通り抜け、竹の葉がさらさらと囁く。どこからか花の香りが漂う。
「足元に、気を付けておくれやす」
葵が小さく振り返り、そっと手を差し出した。
白い指が、提灯の明かりに照らされて浮かび上がる。
その手を握った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
温もりが指先から伝わり――次の瞬間、宏雅はそのまま葵を抱き寄せていた。
「榊さん」
腕の中に捉えた葵が、驚いたように目を見開く。宏雅は顔を寄せ、熱く口づけた。
「……会いたかった」
掠れた声。ほんの一言に、今日までの空白の夜が、すべて乗ってしまう。
「もう……お腹、空いてるんとちがうんどすか」
どぎまぎと笑いながらも、葵の声は震えていた。それでも、瞳の奥には確かに喜びがあった。
思わず、ぐっと強く抱きしめてしまう。柔らかな肢体が宏雅の体に沿うように、しなだれかかる。その甘い誘惑に、気持ちが昂ぶってゆく。
「ええ加減にしてください」
怒ったように言いつつ、宏雅の胸を押し返した葵の顔が、柔らかく綻ぶのが見えた。
妹と、子どもと、三人で食卓を囲むのは久しぶり。料亭の華やかな膳とは違う、家庭の匂いがした。味の染みた肉じゃがと青菜のおひたし、味噌汁の湯気。
「お姉ちゃん、これよう煮えてて美味しかったわ。子どもが喜ぶはずやわ」
そう妹が褒めてくれて、葵は「そうやろ」と笑い返した。こんな何気ない時間が、穏やかで――それでいて、少し寂しかった。
ふと携帯が震えた。
画面に映る名前を見て、胸が小さく鳴る。
……榊さん。
通話ボタンを押した。
「はい」
沈黙の後、少しだけ弾んだ声が届いた。
『やあ……飯、一緒に食べないか?』
その声を聞いた瞬間、胸が甘く締めつけられた。こないに遅うまで食べてへんなんて。仕事が、今終わったんやな……そう思った。
「あら、もう食べてしまいましたえ」
本当は、言いたくなかった。
でも、妹と子どもの前では、ついそう答えてしまっていた。電話の向こうの小さな沈黙。
『早いな』と落胆したような響きに、胸の奥がきゅっと痛んだ。
……違うのに。
ほんまは、“お疲れさま”を言いたかった。
思わず呼び止めていた。
「あ」
『うん?』と返ってきた声が優しくて、胸が熱くなる。
「水鶴……いま水鶴にいるんですけど、お店やなくて私室の方に」
葵が声を落とした。立ち上がった妹が、台所で茶碗を洗い出す音が、かすかに聞こえる。
『ああ、そうなのか』
きっと彼は、仕事帰りで疲れている。ゆっくり寛いで欲しい――そんな気持ちが混ざって、言葉がこぼれた。
「もし良かったら、こっちで……一緒に食べしまへん?大したもの出せまへんけど」
心臓が、どくんと鳴った。
一瞬、電話の向こうで静寂。
そして――
『行く』
その一言が、あまりにも真っ直ぐで、思わず可笑しくなる。
……子供みたい。
その無邪気さが、たまらなく愛おしくて、頬が熱くなった。
「待ってますえ」
小さく告げて通話を切った。
携帯を握ったまま、葵は息をついた。
「どうかしたの?」
妹が声をかけてきた。
「ううん。ちょっと……あの人、来はるかも」
窓の外では、夜風が庭木を揺らしていた。
彼に会える。
そう思うと、胸が高鳴った。
■水鶴・裏路地
路地の先、提灯の灯がふわりと揺れている。白地に“水鶴”と染め抜かれたその明かりを手にした葵が、背伸びして周囲を見回していた。
「……こっちです、榊さん」
控えめな声が夜気に溶けた。
宏雅は軽く頷き、足早に歩み寄る。料亭の裏口へ続く細い石畳。人通りはなく、雨上がりのようにしっとりとした空気が漂っていた。
「人に見られないように……こっち」
葵がそう言いながら、提灯を少し傾けて周囲を確認する。その仕草が秘密めいていて、思わず口の端が上がった。
「逢引みたいで、どきどきするな」
小声で言う。近寄ると、白檀の香が葵からした。
「もう、榊さん……そんな言い方……」
葵の頬が、提灯の光に淡く染まった。彼女はうつむいて笑いながら、木戸の閂を外す。
ギィ……と、軋んだ音を立てて木戸が開く。
中はまるで別世界だった。
夜の庭には風が通り抜け、竹の葉がさらさらと囁く。どこからか花の香りが漂う。
「足元に、気を付けておくれやす」
葵が小さく振り返り、そっと手を差し出した。
白い指が、提灯の明かりに照らされて浮かび上がる。
その手を握った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
温もりが指先から伝わり――次の瞬間、宏雅はそのまま葵を抱き寄せていた。
「榊さん」
腕の中に捉えた葵が、驚いたように目を見開く。宏雅は顔を寄せ、熱く口づけた。
「……会いたかった」
掠れた声。ほんの一言に、今日までの空白の夜が、すべて乗ってしまう。
「もう……お腹、空いてるんとちがうんどすか」
どぎまぎと笑いながらも、葵の声は震えていた。それでも、瞳の奥には確かに喜びがあった。
思わず、ぐっと強く抱きしめてしまう。柔らかな肢体が宏雅の体に沿うように、しなだれかかる。その甘い誘惑に、気持ちが昂ぶってゆく。
「ええ加減にしてください」
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