この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

文字の大きさ
48 / 131
二章

甘い香(六)

しおりを挟む
夜、葵の店。

宏雅は、いつものカウンターでグラスを傾けていた。しかし、年代物のウイスキーの芳醇な香りすら、今は霞んでいる。
例の美月との写真を見た葵の笑顔は、氷のように冷たかった。

「ええご身分ですなぁ、榊さん」

冗談めかした声の奥に、刺のある嫉妬が含まれていた。

「……仕事の席だ」

俺に、落ち度は無い。
心の中で自分の言動を顧みて、宏雅はグラスから手を離した。

「仕事の席で、こんな顔して寄り添います?ほんまに、うちのことなんて放っておいてくれて、ええですよ」

ぷい、と葵は横を向いた。
俺のことを、見るのも嫌だとでも言うように。
宏雅は、静かに息を吸い瞳を細めて、獰猛な目つきで葵の横顔を見つめた。怒って尖った唇さえ美しい。それが余計に苛ついた。

「……そうやって俺を挑発して、何が言いたいんだよ」

声は低く、しかし底に火がある。

「別に」

「別に、じゃ済まないだろ」

カウンターに置かれた宏雅の手が、微かに震える。

――葵は知らない。

この一週間、誰も抱いていないことを。
女に困ったことのない人生で、それがどれほど異常なことかも。


「……俺は、誰も抱いてない」

低く抑えた声。
葵が驚いたように、目を見開いた。
店の空気も、止まった気がした。

「抱きたくないんだ――お前以外は」

次の瞬間、宏雅はぐいと彼女の手を引いた。カウンター越しの距離が、一気に消える。

「ちょ、榊さん?」

驚いた葵が、バランスを崩しそうになったところを抱きとめると、宏雅はそのまま外へ導いた。


冷たい夜風。
宏雅は、葵の腕を掴んで歩いて行く。

銀座六丁目の交差点。
横断歩道の前で、彼が急に振り返った。勢い余って、葵はその胸にぶつかる。

不意に、強く抱きすくめられた。

「さ、榊さ――」

言葉の途中で、唇を奪われた。
最初は甘く、けれどすぐに熱を帯びていく口づけ。何度も角度を変えて、息ができないくらい深く口づけられて、葵の呼吸は乱れ、膝が震える。
車のライトが二人の影を伸ばす。横断歩道のざわめき、誰かが冷やかすような声。それでも、宏雅は離さなかった。

信号が変わる頃、やっと唇を離した彼は、葵の耳元に顔を寄せ、掠れた声で囁いた。

「この続き……絶対、今夜だからな」


葵を抱きしめていた腕を荒々しく解くと、宏雅は一人で横断歩道を渡って行った。

立ち尽くす葵の耳には、あたりのざわめきよりも、自分の激しい心臓の音しか聞こえなかった。



 *

どうせ、あんなの嘘やろ。

あるわけない……。

でも。
彼のことだから……本気かもしれん。


店から降りるエレベーターが、のろのろしているような気がする。葵は、そっと唇を指で押さえた。

まだ、唇が熱い。
交差点でのキス――人目も憚らず、あんなふうに奪われるなんて。
 
……怒ってはった。

なんでやろ……。
うちが、言い過ぎたんやろか。

だけど、あの眼差しの奥にあったのは、怒りだけやなかった。もっと、何か別の……焦燥……苛立ち?

わからん……。
……どうしよう。


あの後。
店に戻った葵の、心ここにあらずな様子を見た娘たちに「今日は、もうええから」と追い立てられるように、帰されてしまった。

……今夜って。

でも、そんなん……。
口喧嘩したせいで頭に血がのぼってたし、あの場限りの言葉かもしれへんし……。

エレベーターが一階につき扉が開いた。風が吹き込む。湿った雨の匂いに包まれた。

目の前に、銀座のネオンを弾く滑らかな車体。そこに、長い足を組んで腕組みしながら、優雅に寄りかかっている一人の男。

「榊さん……」

霧のような雨だった。
細かい水滴のせいで、彼の髪先まで銀色に発光して見えた。

どのぐらい……待っとってくれたのやろう?

葵の胸が、どきんと高鳴る。
ゆっくり身を起こした宏雅は、口を開いた。

「……俺は、約束を破らない。それを信条にしてる」

甘く低い美声。

「おいで、葵」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

ハイスペックでヤバい同期

衣更月
恋愛
イケメン御曹司が子会社に入社してきた。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで

夏目萌
恋愛
過去の恋愛が原因で、「女にだらしない男」を何よりも嫌う向坂 来海(29)。 一方、御曹司で誰にでも優しく、来る者拒まず──けれど、誰にも本気になったことのない羽柴 充輝(29)。 本来なら交わるはずのなかった二人は、ある出来事をきっかけに関わるようになる。 他の女性とは違い媚びることも期待することもない来海の態度に、充輝は次第に強く惹かれていく。 「誰にも本気にならない」はずだった彼の、一途すぎる想いに触れ、恋を信じることを避けてきた来海の心は少しずつ揺らぎ始めていき――。 不器用で焦れったくて、簡単には進まない二人の恋の行方は……。 他サイト様にも掲載中

その溺愛も仕事のうちでしょ?〜拾ったワケありお兄さんをヒモとして飼うことにしました〜

濘-NEI-
恋愛
梅原奏多、30歳。 男みたいな名前と見た目と声。何もかもがコンプレックスの平凡女子。のはず。 2ヶ月前に2年半付き合った彼氏と別れて、恋愛はちょっとクールダウンしたいところ。 なのに、土砂降りの帰り道でゴミ捨て場に捨てられたお兄さんを発見してしまって、家に連れて帰ると決めてしまったから、この後一体どうしましょう!? ※この作品はエブリスタさんにも掲載しております。

お兄様「ねえ、イケナイ事をしよっか♡」

小野
恋愛
父が再婚して新しく出来たお兄様と『イケナイ事』をする義妹の話。

甘い束縛

はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。 ※小説家なろうサイト様にも載せています。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...