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二章
甘い香(六)
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夜、葵の店。
宏雅は、いつものカウンターでグラスを傾けていた。しかし、年代物のウイスキーの芳醇な香りすら、今は霞んでいる。
例の美月との写真を見た葵の笑顔は、氷のように冷たかった。
「ええご身分ですなぁ、榊さん」
冗談めかした声の奥に、刺のある嫉妬が含まれていた。
「……仕事の席だ」
俺に、落ち度は無い。
心の中で自分の言動を顧みて、宏雅はグラスから手を離した。
「仕事の席で、こんな顔して寄り添います?ほんまに、うちのことなんて放っておいてくれて、ええですよ」
ぷい、と葵は横を向いた。
俺のことを、見るのも嫌だとでも言うように。
宏雅は、静かに息を吸い瞳を細めて、獰猛な目つきで葵の横顔を見つめた。怒って尖った唇さえ美しい。それが余計に苛ついた。
「……そうやって俺を挑発して、何が言いたいんだよ」
声は低く、しかし底に火がある。
「別に」
「別に、じゃ済まないだろ」
カウンターに置かれた宏雅の手が、微かに震える。
――葵は知らない。
この一週間、誰も抱いていないことを。
女に困ったことのない人生で、それがどれほど異常なことかも。
「……俺は、誰も抱いてない」
低く抑えた声。
葵が驚いたように、目を見開いた。
店の空気も、止まった気がした。
「抱きたくないんだ――お前以外は」
次の瞬間、宏雅はぐいと彼女の手を引いた。カウンター越しの距離が、一気に消える。
「ちょ、榊さん?」
驚いた葵が、バランスを崩しそうになったところを抱きとめると、宏雅はそのまま外へ導いた。
冷たい夜風。
宏雅は、葵の腕を掴んで歩いて行く。
銀座六丁目の交差点。
横断歩道の前で、彼が急に振り返った。勢い余って、葵はその胸にぶつかる。
不意に、強く抱きすくめられた。
「さ、榊さ――」
言葉の途中で、唇を奪われた。
最初は甘く、けれどすぐに熱を帯びていく口づけ。何度も角度を変えて、息ができないくらい深く口づけられて、葵の呼吸は乱れ、膝が震える。
車のライトが二人の影を伸ばす。横断歩道のざわめき、誰かが冷やかすような声。それでも、宏雅は離さなかった。
信号が変わる頃、やっと唇を離した彼は、葵の耳元に顔を寄せ、掠れた声で囁いた。
「この続き……絶対、今夜だからな」
葵を抱きしめていた腕を荒々しく解くと、宏雅は一人で横断歩道を渡って行った。
立ち尽くす葵の耳には、あたりのざわめきよりも、自分の激しい心臓の音しか聞こえなかった。
*
どうせ、あんなの嘘やろ。
あるわけない……。
でも。
彼のことだから……本気かもしれん。
店から降りるエレベーターが、のろのろしているような気がする。葵は、そっと唇を指で押さえた。
まだ、唇が熱い。
交差点でのキス――人目も憚らず、あんなふうに奪われるなんて。
……怒ってはった。
なんでやろ……。
うちが、言い過ぎたんやろか。
だけど、あの眼差しの奥にあったのは、怒りだけやなかった。もっと、何か別の……焦燥……苛立ち?
わからん……。
……どうしよう。
あの後。
店に戻った葵の、心ここにあらずな様子を見た娘たちに「今日は、もうええから」と追い立てられるように、帰されてしまった。
……今夜って。
でも、そんなん……。
口喧嘩したせいで頭に血がのぼってたし、あの場限りの言葉かもしれへんし……。
エレベーターが一階につき扉が開いた。風が吹き込む。湿った雨の匂いに包まれた。
目の前に、銀座のネオンを弾く滑らかな車体。そこに、長い足を組んで腕組みしながら、優雅に寄りかかっている一人の男。
「榊さん……」
霧のような雨だった。
細かい水滴のせいで、彼の髪先まで銀色に発光して見えた。
どのぐらい……待っとってくれたのやろう?
葵の胸が、どきんと高鳴る。
ゆっくり身を起こした宏雅は、口を開いた。
「……俺は、約束を破らない。それを信条にしてる」
甘く低い美声。
「おいで、葵」
宏雅は、いつものカウンターでグラスを傾けていた。しかし、年代物のウイスキーの芳醇な香りすら、今は霞んでいる。
例の美月との写真を見た葵の笑顔は、氷のように冷たかった。
「ええご身分ですなぁ、榊さん」
冗談めかした声の奥に、刺のある嫉妬が含まれていた。
「……仕事の席だ」
俺に、落ち度は無い。
心の中で自分の言動を顧みて、宏雅はグラスから手を離した。
「仕事の席で、こんな顔して寄り添います?ほんまに、うちのことなんて放っておいてくれて、ええですよ」
ぷい、と葵は横を向いた。
俺のことを、見るのも嫌だとでも言うように。
宏雅は、静かに息を吸い瞳を細めて、獰猛な目つきで葵の横顔を見つめた。怒って尖った唇さえ美しい。それが余計に苛ついた。
「……そうやって俺を挑発して、何が言いたいんだよ」
声は低く、しかし底に火がある。
「別に」
「別に、じゃ済まないだろ」
カウンターに置かれた宏雅の手が、微かに震える。
――葵は知らない。
この一週間、誰も抱いていないことを。
女に困ったことのない人生で、それがどれほど異常なことかも。
「……俺は、誰も抱いてない」
低く抑えた声。
葵が驚いたように、目を見開いた。
店の空気も、止まった気がした。
「抱きたくないんだ――お前以外は」
次の瞬間、宏雅はぐいと彼女の手を引いた。カウンター越しの距離が、一気に消える。
「ちょ、榊さん?」
驚いた葵が、バランスを崩しそうになったところを抱きとめると、宏雅はそのまま外へ導いた。
冷たい夜風。
宏雅は、葵の腕を掴んで歩いて行く。
銀座六丁目の交差点。
横断歩道の前で、彼が急に振り返った。勢い余って、葵はその胸にぶつかる。
不意に、強く抱きすくめられた。
「さ、榊さ――」
言葉の途中で、唇を奪われた。
最初は甘く、けれどすぐに熱を帯びていく口づけ。何度も角度を変えて、息ができないくらい深く口づけられて、葵の呼吸は乱れ、膝が震える。
車のライトが二人の影を伸ばす。横断歩道のざわめき、誰かが冷やかすような声。それでも、宏雅は離さなかった。
信号が変わる頃、やっと唇を離した彼は、葵の耳元に顔を寄せ、掠れた声で囁いた。
「この続き……絶対、今夜だからな」
葵を抱きしめていた腕を荒々しく解くと、宏雅は一人で横断歩道を渡って行った。
立ち尽くす葵の耳には、あたりのざわめきよりも、自分の激しい心臓の音しか聞こえなかった。
*
どうせ、あんなの嘘やろ。
あるわけない……。
でも。
彼のことだから……本気かもしれん。
店から降りるエレベーターが、のろのろしているような気がする。葵は、そっと唇を指で押さえた。
まだ、唇が熱い。
交差点でのキス――人目も憚らず、あんなふうに奪われるなんて。
……怒ってはった。
なんでやろ……。
うちが、言い過ぎたんやろか。
だけど、あの眼差しの奥にあったのは、怒りだけやなかった。もっと、何か別の……焦燥……苛立ち?
わからん……。
……どうしよう。
あの後。
店に戻った葵の、心ここにあらずな様子を見た娘たちに「今日は、もうええから」と追い立てられるように、帰されてしまった。
……今夜って。
でも、そんなん……。
口喧嘩したせいで頭に血がのぼってたし、あの場限りの言葉かもしれへんし……。
エレベーターが一階につき扉が開いた。風が吹き込む。湿った雨の匂いに包まれた。
目の前に、銀座のネオンを弾く滑らかな車体。そこに、長い足を組んで腕組みしながら、優雅に寄りかかっている一人の男。
「榊さん……」
霧のような雨だった。
細かい水滴のせいで、彼の髪先まで銀色に発光して見えた。
どのぐらい……待っとってくれたのやろう?
葵の胸が、どきんと高鳴る。
ゆっくり身を起こした宏雅は、口を開いた。
「……俺は、約束を破らない。それを信条にしてる」
甘く低い美声。
「おいで、葵」
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