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二章
甘い香(五)
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〈次世代経営者フォーラム 登壇記念レセプション〉
知人を通し名前を滑り込ませて、美月は招待客として今夜ここを訪れていた。
会場の照明が落ち、拍手が広がる。
壇上でマイクを置いた榊宏雅の姿を、美月は壁際から見つめていた。
隙のない立ち振る舞い、よく通る低い声、軽やかな笑み。いつ見ても変わらない。
一級品の輝きを゙放つ男。
壇上から降りて、ドリンクを受け取った宏雅の元へ、美月はためらいなく近寄った。
「榊社長。先日は、お疲れ様でした」
一瞬、彼の眉がわずかに動いた。
だがすぐに、あの落ち着いた笑みで返してくる。
「君も、こういう場所に来るとは、思わなかった」
「勉強熱心ですから。経営者として、次のステップを踏みたいんです」
美月は柔らかく笑い、姿勢をわずかに傾けた。
黒いドレスの布が肩を滑り、鎖骨が露わになる。視線がそこを辿り、宏雅が軽く息を吸ったのがわかった。
――手応え。
気分よく差し出した美月の名刺には、企業向けPR業。そう記された肩書きがあった。夜の世界で見る派手さは、きれいに削ぎ落とされている。代わりにあるのは、表向きの場にふさわしい、抑えた華やぎだった。
昼と夜の顔を、美月は使い分けている。
今や“美人インフルエンサー”としても知られ、経済誌や業界紙に、顔写真が載ることも珍しくない。
「榊社長のファンなんです。経営のお話、いつも興味深く拝見しています」
そう言った瞬間だった。
「おお――」
宏雅の隣にいた主催者が、嬉々として割って入る。
「美しいと有名な方じゃないか。最近は経済誌にも出ているでしょう?榊社長、ぜひ一緒に記念写真を!」
一瞬の間。
断る理由は、どこにもない。
「……そうですね」
宏雅が頷くと、美月は自然な所作で一歩近づいた。さり気なく彼の腕に触れる。寄り添う角度は、絶妙だった。距離は保っているのに、写真に切り取られれば――まるで肩に頭を預けているようにも見える。
フラッシュが焚かれる。
その一瞬だけ、美月は顔をわずかに傾けた。恋人ではない。けれど、他人とも言い切れない。写るのは、夜の女ではなく、“榊宏雅の隣に立っても不自然ではない女”。
それで十分だった。
パーティーが終わり「食事でも」という空気になる。主催者がまとめたグループに、当然のように美月も加わった。
食事会で隣に座った美月の手が、何度も宏雅に触れてくる。脚も触れ合う距離。香水がわずかに甘く鼻をくすぐる。
「若い頃、学費の為にバイトしてたんです。お金もなくて……でも夢があって」
美談として語られるその姿に、場の空気は好意的だった。誰も、彼女が銀座で店を持とうとしていて、そのために“榊宏雅”という男を狙っていることを、知らない。
一週間前、銀座の道端で唇を奪ってきた女だ。
あの夜、葵にお預けをくらった帰り、心身ともに限界で、それでも踏みとどまった自分。あの“誘惑を断ち切った夜”を思い出すたび、宏雅は苦笑いしかできなかった。
今夜も、美月は巧みに距離を詰めてきた。
「もう一軒だけ。昔、よく行ってたバーがあるんです」
甘えるような誘う声に、宏雅はふっと笑ってグラスを置いた。
「また今度にしよう」
周囲に挨拶をして、一人で店を出る。追いすがる美月を横目に、タクシーのドアを閉めた。
その翌日。
インターネットの業界誌に、フォーラムのスナップが載った。“若きカリスマ経営者と美貌のインフルエンサー”。寄り添うように並んだ写真。
銀座の女たちがざわめくのに、時間はかからなかった。
■銀座:花籠
控室の空気は、開店前特有の静けさに包まれていた。鏡の前で、葵は口紅を引き直している。
その背後で、同伴明けの娘が携帯を手に、足を止めた。
「……ママ」
呼ばれて、葵は鏡越しに視線を向ける。
「これ……今日、出たみたいです」
差し出された画面には、見慣れた男の名があった。
〈次世代経営者フォーラム 登壇記念レセプション〉〈カリスマ若手実業家の榊宏雅氏、美貌のインフルエンサーと、会場で注目のツーショット〉
「見せんでええ」
苦笑しながら言いかけたのに、携帯を受け取ってしまった。そこに写っていたのは――間違えようのない、宏雅だった。
そして、その隣。
黒いドレスに、控えめな装い。
彼の腕に触れている指。寄り添う角度が――宏雅の肩に、頭を預けているように見える。
……また、あの女。
『榊社長と美月がキスしてた』
噂好きたちの囁く言葉が、葵の耳に蘇る。
「ほんまや……」
思わず声が漏れた。
残像みたいに、宏雅の姿が脳裏に浮かぶ。
『二人の時間、作ってくれよ――待てない』
自分が口づけた唇。
抑えきれない熱を、確かに感じたはずの夜。
「葵ママ?」
店の娘の案じる声に、葵は小さく首を振った。
「なんでも、あらへん」
そう言いながら、画面から目を離せずにいる。
記事の本文は、淡々としていた。
仕事。レセプション。関係者の一人。
――せやけど。
写真は、嘘をつかへん。
銀座は狭く、噂は早い。
きっともう、黒服も他の店も、皆この写真を見ている。
携帯を返すと、葵は深く息を吸った。
信じている。
榊さんが、軽い男やないこと。
それでも。
“ほんまに、待ってくれてるんやろか”
震える手を当てた胸の中で、暗い嫉妬と不安が、ゆっくりと広がっていった。
知人を通し名前を滑り込ませて、美月は招待客として今夜ここを訪れていた。
会場の照明が落ち、拍手が広がる。
壇上でマイクを置いた榊宏雅の姿を、美月は壁際から見つめていた。
隙のない立ち振る舞い、よく通る低い声、軽やかな笑み。いつ見ても変わらない。
一級品の輝きを゙放つ男。
壇上から降りて、ドリンクを受け取った宏雅の元へ、美月はためらいなく近寄った。
「榊社長。先日は、お疲れ様でした」
一瞬、彼の眉がわずかに動いた。
だがすぐに、あの落ち着いた笑みで返してくる。
「君も、こういう場所に来るとは、思わなかった」
「勉強熱心ですから。経営者として、次のステップを踏みたいんです」
美月は柔らかく笑い、姿勢をわずかに傾けた。
黒いドレスの布が肩を滑り、鎖骨が露わになる。視線がそこを辿り、宏雅が軽く息を吸ったのがわかった。
――手応え。
気分よく差し出した美月の名刺には、企業向けPR業。そう記された肩書きがあった。夜の世界で見る派手さは、きれいに削ぎ落とされている。代わりにあるのは、表向きの場にふさわしい、抑えた華やぎだった。
昼と夜の顔を、美月は使い分けている。
今や“美人インフルエンサー”としても知られ、経済誌や業界紙に、顔写真が載ることも珍しくない。
「榊社長のファンなんです。経営のお話、いつも興味深く拝見しています」
そう言った瞬間だった。
「おお――」
宏雅の隣にいた主催者が、嬉々として割って入る。
「美しいと有名な方じゃないか。最近は経済誌にも出ているでしょう?榊社長、ぜひ一緒に記念写真を!」
一瞬の間。
断る理由は、どこにもない。
「……そうですね」
宏雅が頷くと、美月は自然な所作で一歩近づいた。さり気なく彼の腕に触れる。寄り添う角度は、絶妙だった。距離は保っているのに、写真に切り取られれば――まるで肩に頭を預けているようにも見える。
フラッシュが焚かれる。
その一瞬だけ、美月は顔をわずかに傾けた。恋人ではない。けれど、他人とも言い切れない。写るのは、夜の女ではなく、“榊宏雅の隣に立っても不自然ではない女”。
それで十分だった。
パーティーが終わり「食事でも」という空気になる。主催者がまとめたグループに、当然のように美月も加わった。
食事会で隣に座った美月の手が、何度も宏雅に触れてくる。脚も触れ合う距離。香水がわずかに甘く鼻をくすぐる。
「若い頃、学費の為にバイトしてたんです。お金もなくて……でも夢があって」
美談として語られるその姿に、場の空気は好意的だった。誰も、彼女が銀座で店を持とうとしていて、そのために“榊宏雅”という男を狙っていることを、知らない。
一週間前、銀座の道端で唇を奪ってきた女だ。
あの夜、葵にお預けをくらった帰り、心身ともに限界で、それでも踏みとどまった自分。あの“誘惑を断ち切った夜”を思い出すたび、宏雅は苦笑いしかできなかった。
今夜も、美月は巧みに距離を詰めてきた。
「もう一軒だけ。昔、よく行ってたバーがあるんです」
甘えるような誘う声に、宏雅はふっと笑ってグラスを置いた。
「また今度にしよう」
周囲に挨拶をして、一人で店を出る。追いすがる美月を横目に、タクシーのドアを閉めた。
その翌日。
インターネットの業界誌に、フォーラムのスナップが載った。“若きカリスマ経営者と美貌のインフルエンサー”。寄り添うように並んだ写真。
銀座の女たちがざわめくのに、時間はかからなかった。
■銀座:花籠
控室の空気は、開店前特有の静けさに包まれていた。鏡の前で、葵は口紅を引き直している。
その背後で、同伴明けの娘が携帯を手に、足を止めた。
「……ママ」
呼ばれて、葵は鏡越しに視線を向ける。
「これ……今日、出たみたいです」
差し出された画面には、見慣れた男の名があった。
〈次世代経営者フォーラム 登壇記念レセプション〉〈カリスマ若手実業家の榊宏雅氏、美貌のインフルエンサーと、会場で注目のツーショット〉
「見せんでええ」
苦笑しながら言いかけたのに、携帯を受け取ってしまった。そこに写っていたのは――間違えようのない、宏雅だった。
そして、その隣。
黒いドレスに、控えめな装い。
彼の腕に触れている指。寄り添う角度が――宏雅の肩に、頭を預けているように見える。
……また、あの女。
『榊社長と美月がキスしてた』
噂好きたちの囁く言葉が、葵の耳に蘇る。
「ほんまや……」
思わず声が漏れた。
残像みたいに、宏雅の姿が脳裏に浮かぶ。
『二人の時間、作ってくれよ――待てない』
自分が口づけた唇。
抑えきれない熱を、確かに感じたはずの夜。
「葵ママ?」
店の娘の案じる声に、葵は小さく首を振った。
「なんでも、あらへん」
そう言いながら、画面から目を離せずにいる。
記事の本文は、淡々としていた。
仕事。レセプション。関係者の一人。
――せやけど。
写真は、嘘をつかへん。
銀座は狭く、噂は早い。
きっともう、黒服も他の店も、皆この写真を見ている。
携帯を返すと、葵は深く息を吸った。
信じている。
榊さんが、軽い男やないこと。
それでも。
“ほんまに、待ってくれてるんやろか”
震える手を当てた胸の中で、暗い嫉妬と不安が、ゆっくりと広がっていった。
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