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二章
訪問(一)
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「しまった……今日だったか?」
宏雅は、ハンドルを指でトントンと叩いた。運転しながら、スピーカーで通話中だった。
「さようでございます。明日になると、会長が九州からお戻りになられます」
言外に“顔を会わせる事になりますよ?”という控え目な老執事の助言が、車内に響く。
宏雅は、ちらと横目で助手席に座る葵を見てから、答えた。
「……わかった。今から、そっちに寄る」
「かしこまりました」と通話が切れた。
「悪い。少し寄り道させてくれるか?」
「うちは……別に、かまへんけど」
そう言いながらも、行き先が宏雅の実家だとわかると、葵は居住まいを正してしまう。
南麻布の住宅街。
高台にある白い外壁沿いに車が進み、やがて高い鉄門が音もなく開いたとき、葵の顔から血の気が引いた。
「……豪邸、やね……」
「そんな顔するなよ」
硬くなった葵を横目で見てから、宏雅は面白そうに微笑む。
「今なら東堂しかいないし、問題無いよ」
門が閉まる音が背後でした瞬間、葵は思わずびくっと肩を震わせた。宏雅が、玄関前に車を停めエンジンを切る。
「あの……うち、車から降りんでもええやろ?」
その声は、思った以上に小さく震えていた。
宏雅が目を瞬かせてから、艷やかに微笑む。そして、笑い出すのを我慢するように、唇の端を上げて囁いた。
「弱虫」
「……うち、弱虫やあらへん」
葵は、怒ったように唇を尖らせたが、視線は落としたままだった。
「そうか?」
宏雅は、身を乗り出して助手席の葵に、顔を寄せた。
「じゃあ、勇気の出るおまじない……」
軽く唇を重ねる。
優しい触れ方なのに、心臓が焼けるほど熱い口づけ。
――咳払いが、ひとつ。
いつの間にか、運転席の横に執事の東堂が佇んでいた。
「お帰りなさいませ、宏雅様」
車から降りる宏雅に、東堂が深く一礼する。
「うん」
キスを見られようが、全く意に介さない。誰に見られても構わない、と思っているのだ。生まれながらに注目される立場。常に視線に晒されて生きてきた男の、自然な振る舞いだった。
助手席から降りた葵に、宏雅が言う。
「葵、東堂だ。会ってるだろ……水鶴で」
その一言だけで、葵の胃がずんと重くなった。背筋に冷たい汗が伝う。
「ええ……お久しぶりです」
小さく会釈し、目を伏せて挨拶する。
「あの折は、大変失礼を致しました」
東堂が静かに頭を下げた。
牡丹の間――あの日の“水浸し事件”が蘇り、葵の胸がきゅっと痛んだ。
「別に東堂は、何もしてないだろ」
軽く笑いながら言う宏雅。
その無頓着さに、東堂がわずかに眉を動かす。葵は慌てて深く頭を下げた。料亭側の人としての礼節が、体に染みついている。
「いえ……こちらこそ、菓子折りまでお届けして頂いて、ご足労おかけしました」
言葉の端々に、かすかな緊張が滲む。東堂は丁寧に頷き、黙って応じた。二人の間に、まるで社交の仮面を貼り合わせたような空気が流れる。
その横で――。
「俺、先に家に入るぞ」
宏雅は、まるで空気を読まぬように言い残し、さっさと玄関へ歩き出す。
「ちょ、ちょっと、待ちいや……」
葵は、思わず口の中で呟いたが、声にはならなかった。背を向けた彼の後ろ姿を、唇を噛みながら見送る。
……ほんま、自由な人や。
その瞬間、ふと脳裏をかすめたのは――今よりも幼かったあの子が、似たように背中を向けて駆けていった日の光景だった。胸の奥が、静かに痛んだ。
「お飲み物は、いかがでしょうか?」
二人を部屋へ導き、そう言った東堂に対して、宏雅は首を振った。
「いや、長居はしない。したら……後で、葵に絞られそうだからな」
軽く笑いながら、悪戯めいた眼差しを傍らに投げる。いかにも年上女の尻に敷かれている男、といった口ぶりで。
「うち、そんな事……しませんけど」
葵は、思わず言い返す。
けれど声はか細く、どこか弱々しい。東堂の視線の前では顔を上げられず、葵は体の前で組んだ自分の指先を見ていた。
「宏雅様、例のものが書斎に届いております」
東堂が小声で告げると、宏雅は頷き「わかった」と短く答えた。そのまま二人は扉の外へと出ていった。
応接室に残された葵は、ひとりきりになって、ふう……と小さく息を吐いた。
……すごいとこやな。
思わず、心の中で本音が出る。
磨き上げられた大理石の床が、光を返して淡く足元を照らしている。壁際のテーブルに飾られた白い胡蝶蘭は、どの花も、ひとつの欠けもなく美しく咲いている。この家の“完璧”を象徴しているようで、胸が痛むくらいだった。
窓の向こうには、手入れの行き届いた庭。常緑樹が風に揺れて、影を落としている。柔らかそうな芝生の周りを、刈り込まれた庭木が生垣のように囲っていた。
葵は、目を細めてその光景を見つめた。
壁に掛けられた絵は、どれも抽象的で家具は深い色の木目で統一されている。柔らかいはずのソファさえ、どこか座ることを拒むような、緊張した気配を放っていた。
……ここで、榊さん育ちはったんや。
そう思った瞬間、心に寂しさが、ふっと差し込む。この完璧すぎる空間に、幼い彼がどんな顔で座っていたのか――想像すると、なぜか息が詰まりそうになる。
「……綺麗すぎて、息苦しいわ」
葵は、そっと膝の上で手を握り合わせ、微かに震える指先を隠すようにして、自分でも気づかぬほど小さく呟いた。
宏雅は、ハンドルを指でトントンと叩いた。運転しながら、スピーカーで通話中だった。
「さようでございます。明日になると、会長が九州からお戻りになられます」
言外に“顔を会わせる事になりますよ?”という控え目な老執事の助言が、車内に響く。
宏雅は、ちらと横目で助手席に座る葵を見てから、答えた。
「……わかった。今から、そっちに寄る」
「かしこまりました」と通話が切れた。
「悪い。少し寄り道させてくれるか?」
「うちは……別に、かまへんけど」
そう言いながらも、行き先が宏雅の実家だとわかると、葵は居住まいを正してしまう。
南麻布の住宅街。
高台にある白い外壁沿いに車が進み、やがて高い鉄門が音もなく開いたとき、葵の顔から血の気が引いた。
「……豪邸、やね……」
「そんな顔するなよ」
硬くなった葵を横目で見てから、宏雅は面白そうに微笑む。
「今なら東堂しかいないし、問題無いよ」
門が閉まる音が背後でした瞬間、葵は思わずびくっと肩を震わせた。宏雅が、玄関前に車を停めエンジンを切る。
「あの……うち、車から降りんでもええやろ?」
その声は、思った以上に小さく震えていた。
宏雅が目を瞬かせてから、艷やかに微笑む。そして、笑い出すのを我慢するように、唇の端を上げて囁いた。
「弱虫」
「……うち、弱虫やあらへん」
葵は、怒ったように唇を尖らせたが、視線は落としたままだった。
「そうか?」
宏雅は、身を乗り出して助手席の葵に、顔を寄せた。
「じゃあ、勇気の出るおまじない……」
軽く唇を重ねる。
優しい触れ方なのに、心臓が焼けるほど熱い口づけ。
――咳払いが、ひとつ。
いつの間にか、運転席の横に執事の東堂が佇んでいた。
「お帰りなさいませ、宏雅様」
車から降りる宏雅に、東堂が深く一礼する。
「うん」
キスを見られようが、全く意に介さない。誰に見られても構わない、と思っているのだ。生まれながらに注目される立場。常に視線に晒されて生きてきた男の、自然な振る舞いだった。
助手席から降りた葵に、宏雅が言う。
「葵、東堂だ。会ってるだろ……水鶴で」
その一言だけで、葵の胃がずんと重くなった。背筋に冷たい汗が伝う。
「ええ……お久しぶりです」
小さく会釈し、目を伏せて挨拶する。
「あの折は、大変失礼を致しました」
東堂が静かに頭を下げた。
牡丹の間――あの日の“水浸し事件”が蘇り、葵の胸がきゅっと痛んだ。
「別に東堂は、何もしてないだろ」
軽く笑いながら言う宏雅。
その無頓着さに、東堂がわずかに眉を動かす。葵は慌てて深く頭を下げた。料亭側の人としての礼節が、体に染みついている。
「いえ……こちらこそ、菓子折りまでお届けして頂いて、ご足労おかけしました」
言葉の端々に、かすかな緊張が滲む。東堂は丁寧に頷き、黙って応じた。二人の間に、まるで社交の仮面を貼り合わせたような空気が流れる。
その横で――。
「俺、先に家に入るぞ」
宏雅は、まるで空気を読まぬように言い残し、さっさと玄関へ歩き出す。
「ちょ、ちょっと、待ちいや……」
葵は、思わず口の中で呟いたが、声にはならなかった。背を向けた彼の後ろ姿を、唇を噛みながら見送る。
……ほんま、自由な人や。
その瞬間、ふと脳裏をかすめたのは――今よりも幼かったあの子が、似たように背中を向けて駆けていった日の光景だった。胸の奥が、静かに痛んだ。
「お飲み物は、いかがでしょうか?」
二人を部屋へ導き、そう言った東堂に対して、宏雅は首を振った。
「いや、長居はしない。したら……後で、葵に絞られそうだからな」
軽く笑いながら、悪戯めいた眼差しを傍らに投げる。いかにも年上女の尻に敷かれている男、といった口ぶりで。
「うち、そんな事……しませんけど」
葵は、思わず言い返す。
けれど声はか細く、どこか弱々しい。東堂の視線の前では顔を上げられず、葵は体の前で組んだ自分の指先を見ていた。
「宏雅様、例のものが書斎に届いております」
東堂が小声で告げると、宏雅は頷き「わかった」と短く答えた。そのまま二人は扉の外へと出ていった。
応接室に残された葵は、ひとりきりになって、ふう……と小さく息を吐いた。
……すごいとこやな。
思わず、心の中で本音が出る。
磨き上げられた大理石の床が、光を返して淡く足元を照らしている。壁際のテーブルに飾られた白い胡蝶蘭は、どの花も、ひとつの欠けもなく美しく咲いている。この家の“完璧”を象徴しているようで、胸が痛むくらいだった。
窓の向こうには、手入れの行き届いた庭。常緑樹が風に揺れて、影を落としている。柔らかそうな芝生の周りを、刈り込まれた庭木が生垣のように囲っていた。
葵は、目を細めてその光景を見つめた。
壁に掛けられた絵は、どれも抽象的で家具は深い色の木目で統一されている。柔らかいはずのソファさえ、どこか座ることを拒むような、緊張した気配を放っていた。
……ここで、榊さん育ちはったんや。
そう思った瞬間、心に寂しさが、ふっと差し込む。この完璧すぎる空間に、幼い彼がどんな顔で座っていたのか――想像すると、なぜか息が詰まりそうになる。
「……綺麗すぎて、息苦しいわ」
葵は、そっと膝の上で手を握り合わせ、微かに震える指先を隠すようにして、自分でも気づかぬほど小さく呟いた。
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