39 / 131
二章
訪問(二)
しおりを挟む
「まったく、あの方は……」
またしても新調したであろう派手な車が、玄関前に停まったと思い近寄ったら、助手席の女と――平然と唇を重ねておられる。
あの榊宏雅が、実家の前で……である。
一瞬、何かの冗談かと思ったが、その眼差しには遊びでも挑発でもない、妙に柔らかな色が宿っていた。
先妻を失って以来、あれほど荒んでおられた方が、ようやく人間の温もりを取り戻しつつあるのだとすれば――それは、同伴してきた葵という女のおかげなのだろう。
秘書の藤原様も話していた。
「最近、あの人、少し戻ってきましたね」と。
正直、安堵していた。
だが。
水商売の女、である。
実家にまで連れてくるとは、思わなかった。
ましてや、玄関先であのような真似を。
……いや。あれはきっと、宏雅様なりの照れ隠しなのだろう。
それにしても、あの方の心を射止めたということは、只者ではない女だ、と警戒心が湧く。遊び慣れた男を手玉に取る――その手腕を、あの穏やかな眼差しの裏に、隠しているのかもしれない。
「お待たせいたしました」
トレーに紅茶をのせ、応接室へ戻る。
庭からの午後の光が反射して、ソファに腰掛ける彼女の黒髪を艷やかに照らしていた。
「ありがとうございます」
葵が小さく会釈した。向けられた笑顔に、ぎこちなさが滲む。その姿が、どうにも“水商売”の女には見えなかった。
急に連れて来られたのだろう。
そう悟る。
装いも簡素で、髪もまとめただけ。それでも、所作の端々に品がある。
料亭で見かけたときは、確か和装だった。立ち姿が落ち着いて見え、後で宏雅様よりも年上と聞いて、納得したものだ。
今の彼女は、やや違う。洋服に包まれた体の線がどこか頼りなく、瞳の奥にある緊張が、そのまま初々しさを際立たせている。
……不思議な方ですね。
紅茶を注ぐと、葵はそっと湯気を見つめながら、微笑んだ。
「ええ香りやね」
祇園育ちと聞いていた。和のほうが馴染み深いだろうに、こうして紅茶の香りを素直に褒めるその声に、ふと先妻の面影が重なった。
――紅茶がお好きで、よく私と銘柄の話をされた、可愛らしい方だった。懐かしさに心が和む。
「お口に合うとよろしいのですが」
そう言うと、葵は控えめに笑った。
「はい……美味しゅうございます」
嘘のない、まっすぐな声音。
その響きに、心が少しだけざわつく。
……この方は、先妻とは違う。
けれど、なぜか似た空気を纏っておられる。
危ういほどに真っ直ぐで、そして――宏雅様が惹かれるのも、無理はないと思ってしまうほどに。
東堂は、彼女の手元のティーカップに、視線を落とした。赤褐色の液面に揺れる光が、まるで記憶の底に沈んだ先妻の笑顔を、呼び起こすようだった。
ポロン……ポロン……と、柔らかな音が響いた。
葵が「あら?」と小さく顔を上げる。その瞳が、音に吸い寄せられるように揺れた。
「宏雅様ですね」
東堂が言うと、葵は小さく頷いた。指ならしが終わり、本格的に旋律が紡がれ始める。
ノクターンの調べ――ここに戻られると、必ず弾かれる一曲だ。東堂が昔「この曲は好みですね」と言って以来、ピアノに触れると、必ず最初に弾いてくださる。自然と、頬の筋肉がゆるむ。あの冷静な青年が、音だけは昔のままだ。
「こんなに弾けるんですね……」
葵が感嘆の息を漏らす。その声音には、尊敬が混じっていた。
「幼少の頃に、先生をつけておられましたから」
そう答えると、葵は納得したように頷いた。やがて、曲調が変わる。次は、Misty。ジャズ調にアレンジして弾くとは珍しい――と思った矢先、葵の表情がふわりと柔らかくなった。
……なるほど。彼女の店で、よく流れている曲だな。
ふむ。
第一印象として、人柄は悪くない。
気がかりなのは彼女の職業――それだけかもしれない。
「お仕事は、お忙しいのですか?」
尋ねると、葵は少し戸惑いながら、両手を膝の上に置いた。
「お陰様で……あ、あの……水鶴は、私は手伝いでたまに入るだけでして。本来は……」
言い淀むその声を、東堂がさらりと引き取る。
「藤原様から聞いて、お店の事は存じ上げております」
その一言で、葵はみるみるうちに頬を染めた。
……おや?と思う。
「あ、では……もう全部、ご存知なんですね」
なるほど。
自らを“水商売の女”と位置づけ、日なたを歩けぬことを心得ている。それを恥じもせず卑下もしない。思ったより、常識的でしっかりとした人だ――少なくとも、あの“異母弟”よりは。
「宏雅様には、お立場があります」
その一言に、東堂の意図を悟ったのだろう。葵はきゅっと口を引き結び、けれど怯むことなく、真っすぐこちらを見据えた。
「……勿論、理解しているつもりです」
その答え方に、思わず胸の奥がざらついた。誠実というものは、ときに人を刺す。
その時――。
「東堂に虐められてる?俺の援護射撃が必要か?」
楽しげな声がして、扉が開いた。宏雅が、いつもの軽やかな足取りで入ってくる。
「なかなかの腕前でしたね。ですが……三小節目、ひとつ音を飛ばしておられましたよ」
「半年くらいは、ピアノに触ってないんだから、上出来だろう」
紅茶の横にあった焼菓子を、何の遠慮もなく手で掴み取って、口に放る。ぺろりと指まで舐めた。眉をひそめた東堂に宏雅が笑いかけた。
「七十五点と言ったところですね。もう少し、指を柔らかく使いませんと」
そう言うと、宏雅は唇の端を上げて、嬉しそうに瞳を煌めかせた。
「俺の指は、女を奏でるのに忙しくて……ね、葵?」
含みを持たせたその言葉に、葵が盛大に咽せた。紅茶が喉に引っかかり、思わず口元を押さえる。
「も、もうっ……そないなこと言わはるん、やめてください……っ」
耳まで真っ赤に染めている葵と、声をあげて笑う宏雅のやり取りを見て、東堂は静かにため息をついた。
色めいた言葉で、人をからかうのは宏雅様の悪い癖だ。けれど、彼に笑顔が戻ったのは……この女のおかげだろう。
そう思うと、叱責の言葉を飲み込んだ。
またしても新調したであろう派手な車が、玄関前に停まったと思い近寄ったら、助手席の女と――平然と唇を重ねておられる。
あの榊宏雅が、実家の前で……である。
一瞬、何かの冗談かと思ったが、その眼差しには遊びでも挑発でもない、妙に柔らかな色が宿っていた。
先妻を失って以来、あれほど荒んでおられた方が、ようやく人間の温もりを取り戻しつつあるのだとすれば――それは、同伴してきた葵という女のおかげなのだろう。
秘書の藤原様も話していた。
「最近、あの人、少し戻ってきましたね」と。
正直、安堵していた。
だが。
水商売の女、である。
実家にまで連れてくるとは、思わなかった。
ましてや、玄関先であのような真似を。
……いや。あれはきっと、宏雅様なりの照れ隠しなのだろう。
それにしても、あの方の心を射止めたということは、只者ではない女だ、と警戒心が湧く。遊び慣れた男を手玉に取る――その手腕を、あの穏やかな眼差しの裏に、隠しているのかもしれない。
「お待たせいたしました」
トレーに紅茶をのせ、応接室へ戻る。
庭からの午後の光が反射して、ソファに腰掛ける彼女の黒髪を艷やかに照らしていた。
「ありがとうございます」
葵が小さく会釈した。向けられた笑顔に、ぎこちなさが滲む。その姿が、どうにも“水商売”の女には見えなかった。
急に連れて来られたのだろう。
そう悟る。
装いも簡素で、髪もまとめただけ。それでも、所作の端々に品がある。
料亭で見かけたときは、確か和装だった。立ち姿が落ち着いて見え、後で宏雅様よりも年上と聞いて、納得したものだ。
今の彼女は、やや違う。洋服に包まれた体の線がどこか頼りなく、瞳の奥にある緊張が、そのまま初々しさを際立たせている。
……不思議な方ですね。
紅茶を注ぐと、葵はそっと湯気を見つめながら、微笑んだ。
「ええ香りやね」
祇園育ちと聞いていた。和のほうが馴染み深いだろうに、こうして紅茶の香りを素直に褒めるその声に、ふと先妻の面影が重なった。
――紅茶がお好きで、よく私と銘柄の話をされた、可愛らしい方だった。懐かしさに心が和む。
「お口に合うとよろしいのですが」
そう言うと、葵は控えめに笑った。
「はい……美味しゅうございます」
嘘のない、まっすぐな声音。
その響きに、心が少しだけざわつく。
……この方は、先妻とは違う。
けれど、なぜか似た空気を纏っておられる。
危ういほどに真っ直ぐで、そして――宏雅様が惹かれるのも、無理はないと思ってしまうほどに。
東堂は、彼女の手元のティーカップに、視線を落とした。赤褐色の液面に揺れる光が、まるで記憶の底に沈んだ先妻の笑顔を、呼び起こすようだった。
ポロン……ポロン……と、柔らかな音が響いた。
葵が「あら?」と小さく顔を上げる。その瞳が、音に吸い寄せられるように揺れた。
「宏雅様ですね」
東堂が言うと、葵は小さく頷いた。指ならしが終わり、本格的に旋律が紡がれ始める。
ノクターンの調べ――ここに戻られると、必ず弾かれる一曲だ。東堂が昔「この曲は好みですね」と言って以来、ピアノに触れると、必ず最初に弾いてくださる。自然と、頬の筋肉がゆるむ。あの冷静な青年が、音だけは昔のままだ。
「こんなに弾けるんですね……」
葵が感嘆の息を漏らす。その声音には、尊敬が混じっていた。
「幼少の頃に、先生をつけておられましたから」
そう答えると、葵は納得したように頷いた。やがて、曲調が変わる。次は、Misty。ジャズ調にアレンジして弾くとは珍しい――と思った矢先、葵の表情がふわりと柔らかくなった。
……なるほど。彼女の店で、よく流れている曲だな。
ふむ。
第一印象として、人柄は悪くない。
気がかりなのは彼女の職業――それだけかもしれない。
「お仕事は、お忙しいのですか?」
尋ねると、葵は少し戸惑いながら、両手を膝の上に置いた。
「お陰様で……あ、あの……水鶴は、私は手伝いでたまに入るだけでして。本来は……」
言い淀むその声を、東堂がさらりと引き取る。
「藤原様から聞いて、お店の事は存じ上げております」
その一言で、葵はみるみるうちに頬を染めた。
……おや?と思う。
「あ、では……もう全部、ご存知なんですね」
なるほど。
自らを“水商売の女”と位置づけ、日なたを歩けぬことを心得ている。それを恥じもせず卑下もしない。思ったより、常識的でしっかりとした人だ――少なくとも、あの“異母弟”よりは。
「宏雅様には、お立場があります」
その一言に、東堂の意図を悟ったのだろう。葵はきゅっと口を引き結び、けれど怯むことなく、真っすぐこちらを見据えた。
「……勿論、理解しているつもりです」
その答え方に、思わず胸の奥がざらついた。誠実というものは、ときに人を刺す。
その時――。
「東堂に虐められてる?俺の援護射撃が必要か?」
楽しげな声がして、扉が開いた。宏雅が、いつもの軽やかな足取りで入ってくる。
「なかなかの腕前でしたね。ですが……三小節目、ひとつ音を飛ばしておられましたよ」
「半年くらいは、ピアノに触ってないんだから、上出来だろう」
紅茶の横にあった焼菓子を、何の遠慮もなく手で掴み取って、口に放る。ぺろりと指まで舐めた。眉をひそめた東堂に宏雅が笑いかけた。
「七十五点と言ったところですね。もう少し、指を柔らかく使いませんと」
そう言うと、宏雅は唇の端を上げて、嬉しそうに瞳を煌めかせた。
「俺の指は、女を奏でるのに忙しくて……ね、葵?」
含みを持たせたその言葉に、葵が盛大に咽せた。紅茶が喉に引っかかり、思わず口元を押さえる。
「も、もうっ……そないなこと言わはるん、やめてください……っ」
耳まで真っ赤に染めている葵と、声をあげて笑う宏雅のやり取りを見て、東堂は静かにため息をついた。
色めいた言葉で、人をからかうのは宏雅様の悪い癖だ。けれど、彼に笑顔が戻ったのは……この女のおかげだろう。
そう思うと、叱責の言葉を飲み込んだ。
1
あなたにおすすめの小説
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
夏目萌
恋愛
過去の恋愛が原因で、「女にだらしない男」を何よりも嫌う向坂 来海(29)。
一方、御曹司で誰にでも優しく、来る者拒まず──けれど、誰にも本気になったことのない羽柴 充輝(29)。
本来なら交わるはずのなかった二人は、ある出来事をきっかけに関わるようになる。
他の女性とは違い媚びることも期待することもない来海の態度に、充輝は次第に強く惹かれていく。
「誰にも本気にならない」はずだった彼の、一途すぎる想いに触れ、恋を信じることを避けてきた来海の心は少しずつ揺らぎ始めていき――。
不器用で焦れったくて、簡単には進まない二人の恋の行方は……。
他サイト様にも掲載中
その溺愛も仕事のうちでしょ?〜拾ったワケありお兄さんをヒモとして飼うことにしました〜
濘-NEI-
恋愛
梅原奏多、30歳。
男みたいな名前と見た目と声。何もかもがコンプレックスの平凡女子。のはず。
2ヶ月前に2年半付き合った彼氏と別れて、恋愛はちょっとクールダウンしたいところ。
なのに、土砂降りの帰り道でゴミ捨て場に捨てられたお兄さんを発見してしまって、家に連れて帰ると決めてしまったから、この後一体どうしましょう!?
※この作品はエブリスタさんにも掲載しております。
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる