この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

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二章

訪問(二)

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「まったく、あの方は……」

またしても新調したであろう派手な車が、玄関前に停まったと思い近寄ったら、助手席の女と――平然と唇を重ねておられる。
あの榊宏雅が、実家の前で……である。

一瞬、何かの冗談かと思ったが、その眼差しには遊びでも挑発でもない、妙に柔らかな色が宿っていた。
先妻を失って以来、あれほど荒んでおられた方が、ようやく人間の温もりを取り戻しつつあるのだとすれば――それは、同伴してきた葵という女のおかげなのだろう。

秘書の藤原様も話していた。

「最近、あの人、少し戻ってきましたね」と。

正直、安堵していた。

だが。
水商売の女、である。
実家にまで連れてくるとは、思わなかった。
ましてや、玄関先であのような真似を。

……いや。あれはきっと、宏雅様なりの照れ隠しなのだろう。

それにしても、あの方の心を射止めたということは、只者ではない女だ、と警戒心が湧く。遊び慣れた男を手玉に取る――その手腕を、あの穏やかな眼差しの裏に、隠しているのかもしれない。

「お待たせいたしました」

トレーに紅茶をのせ、応接室へ戻る。
庭からの午後の光が反射して、ソファに腰掛ける彼女の黒髪を艷やかに照らしていた。

「ありがとうございます」

葵が小さく会釈した。向けられた笑顔に、ぎこちなさが滲む。その姿が、どうにも“水商売”の女には見えなかった。

急に連れて来られたのだろう。

そう悟る。
装いも簡素で、髪もまとめただけ。それでも、所作の端々に品がある。

料亭で見かけたときは、確か和装だった。立ち姿が落ち着いて見え、後で宏雅様よりも年上と聞いて、納得したものだ。
今の彼女は、やや違う。洋服に包まれた体の線がどこか頼りなく、瞳の奥にある緊張が、そのまま初々しさを際立たせている。

……不思議な方ですね。

紅茶を注ぐと、葵はそっと湯気を見つめながら、微笑んだ。

「ええ香りやね」

祇園育ちと聞いていた。和のほうが馴染み深いだろうに、こうして紅茶の香りを素直に褒めるその声に、ふと先妻の面影が重なった。

――紅茶がお好きで、よく私と銘柄の話をされた、可愛らしい方だった。懐かしさに心が和む。

「お口に合うとよろしいのですが」

そう言うと、葵は控えめに笑った。

「はい……美味しゅうございます」

嘘のない、まっすぐな声音。
その響きに、心が少しだけざわつく。

……この方は、先妻とは違う。
けれど、なぜか似た空気を纏っておられる。

危ういほどに真っ直ぐで、そして――宏雅様が惹かれるのも、無理はないと思ってしまうほどに。

東堂は、彼女の手元のティーカップに、視線を落とした。赤褐色の液面に揺れる光が、まるで記憶の底に沈んだ先妻の笑顔を、呼び起こすようだった。


ポロン……ポロン……と、柔らかな音が響いた。

葵が「あら?」と小さく顔を上げる。その瞳が、音に吸い寄せられるように揺れた。

「宏雅様ですね」

東堂が言うと、葵は小さく頷いた。指ならしが終わり、本格的に旋律が紡がれ始める。

ノクターンの調べ――ここに戻られると、必ず弾かれる一曲だ。東堂が昔「この曲は好みですね」と言って以来、ピアノに触れると、必ず最初に弾いてくださる。自然と、頬の筋肉がゆるむ。あの冷静な青年が、音だけは昔のままだ。

「こんなに弾けるんですね……」

葵が感嘆の息を漏らす。その声音には、尊敬が混じっていた。

「幼少の頃に、先生をつけておられましたから」

そう答えると、葵は納得したように頷いた。やがて、曲調が変わる。次は、Misty。ジャズ調にアレンジして弾くとは珍しい――と思った矢先、葵の表情がふわりと柔らかくなった。

……なるほど。彼女の店で、よく流れている曲だな。

ふむ。
第一印象として、人柄は悪くない。
気がかりなのは彼女の職業――それだけかもしれない。

「お仕事は、お忙しいのですか?」

尋ねると、葵は少し戸惑いながら、両手を膝の上に置いた。

「お陰様で……あ、あの……水鶴は、私は手伝いでたまに入るだけでして。本来は……」

言い淀むその声を、東堂がさらりと引き取る。

「藤原様から聞いて、お店の事は存じ上げております」

その一言で、葵はみるみるうちに頬を染めた。
……おや?と思う。

「あ、では……もう全部、ご存知なんですね」

なるほど。
自らを“水商売の女”と位置づけ、日なたを歩けぬことを心得ている。それを恥じもせず卑下もしない。思ったより、常識的でしっかりとした人だ――少なくとも、あの“異母弟”よりは。

「宏雅様には、お立場があります」

その一言に、東堂の意図を悟ったのだろう。葵はきゅっと口を引き結び、けれど怯むことなく、真っすぐこちらを見据えた。

「……勿論、理解しているつもりです」

その答え方に、思わず胸の奥がざらついた。誠実というものは、ときに人を刺す。

その時――。

「東堂に虐められてる?俺の援護射撃が必要か?」

楽しげな声がして、扉が開いた。宏雅が、いつもの軽やかな足取りで入ってくる。

「なかなかの腕前でしたね。ですが……三小節目、ひとつ音を飛ばしておられましたよ」

「半年くらいは、ピアノに触ってないんだから、上出来だろう」 

紅茶の横にあった焼菓子を、何の遠慮もなく手で掴み取って、口に放る。ぺろりと指まで舐めた。眉をひそめた東堂に宏雅が笑いかけた。

「七十五点と言ったところですね。もう少し、指を柔らかく使いませんと」

そう言うと、宏雅は唇の端を上げて、嬉しそうに瞳を煌めかせた。

「俺の指は、女を奏でるのに忙しくて……ね、葵?」

含みを持たせたその言葉に、葵が盛大に咽せた。紅茶が喉に引っかかり、思わず口元を押さえる。

「も、もうっ……そないなこと言わはるん、やめてください……っ」


耳まで真っ赤に染めている葵と、声をあげて笑う宏雅のやり取りを見て、東堂は静かにため息をついた。

色めいた言葉で、人をからかうのは宏雅様の悪い癖だ。けれど、彼に笑顔が戻ったのは……この女のおかげだろう。

そう思うと、叱責の言葉を飲み込んだ。
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