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二章
迷情(四)
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昼の水鶴は、夜とは違う賑わいを見せていた。
茶道の席が二部屋。地元の婦人会の昼懐石が一席。奥の離れでは、仲人を立てた見合いの席が、和やかに進んでいる。
葵は若女将代理として、客間を一つずつ回った。膝を折り、襖を静かに開け、挨拶をし、料理の運びを確かめ、仲居に目配せを送る。柔らかく笑いつつ、気配を乱さぬよう、場の空気を整える。その所作は自然で、迷いがない。
「本日は、ありがとうございます」
穏やかな声と控えめな笑み。
誰も、彼女の私生活を想像しない。帳場で簡単な確認を済ませる。日も落ちた廊下の足音はまばらで、庭の灯りだけが柔らかく揺れている。
今日は、このまま水鶴に泊まる予定だ。母屋の奥、私室に入るとようやく肩の力が抜ける。外の顔を外すように、しゅるりと帯を解いた。妹が面倒を見てくれていた息子はもう寝静まり、寝所の照明を落としてあった。薄手の部屋着に替え、髪をゆるく結ったところで、携帯が震えた。
画面に浮かぶ名前を見て、葵は小さく息を吸う。 無視はしない。ただ、少し気が重い。
「……もしもし」
口から出た声は、いつもより平坦になる。
『やあ。今、大丈夫か』
軽やかな宏雅の声。耳に落ちてくるだけで、胸のどこかがざわつく。
「……ほんまに、浮気者は嫌われますえ」
ちくりと言ってしまう。問い詰めるでもなく、責め立てるでもない。心が痛んだ分だけの、控えめな意地。
電話の向こうで、短い沈黙。
その後、宏雅はいつも通りの飄々とした調子で、言った。
『どうした、いきなり……何かあったのか』
「そうやで。花籠に来はりましたえ、あのゴルフの女の子。番組の打ち上げや、言うて」
わざと名前は言わない。
だって、その名を出すとき、どうしても喉の奥が焼け付く。
『ゴルフ……ああ、真理子?』
男は迷いなく言う。
他の女の名前を、こうも自然に口にされると……胸がずきっとする。
『そう言えばこの前、花籠ってどんな店ですか、って聞かれたな』
「へえ……お知り合い、やったんやね」
なるべく柔らかく。
けれど、どうしても声が低くなる。
「えらく榊さんのこと、お気に入りみたいでしたけど?」
『ふうん……俺のどこを気に入ったんだか』
何気ない口調の後――キン、と金属的な音。煙草に火をつけ吸い込む音が、携帯越しに伝わってくる。昔から馴れ親しんだ音。
けれど今夜は、その仕草すら、自分から距離を置いているように聞こえた。
葵は目を伏せ、静かに笑う。
「……さあ。うちには分かりませんわ」
本当は、聞きたいことなんて山ほどある。
けれど――聞かない。
昔からそうだった。問い詰めず、追い立てず、ただ静かに線を引く。宏雅のような男には、きっと居心地が良い……そして、それが葵自身を一番傷つける。
携帯の向こうで、煙を吐きながら宏雅が言う。
『怒ってる?』
「別に怒ってへんよ。ただ……うちは、浮気者は嫌いや、言うただけです」
柔らかい声。けれどその裏にある胸の苦さは、電話の向こうには届かない。向こうで、煙草の火が小さく揺れる気配。
宏雅は、わざと軽く、けれど困ったように言った。
『まあ……いつだったか、少しばかり一緒に過ごしたかな』
何でもないように。
まるで“たまたま”の出来事のように。
葵は、息をそっと吸い込む。
「そうどすか……」
声は静か。
怒りも嫉妬も表に出さない。
ただ、胸の奥に小さな棘が沈む。
宏雅はそれを感じ取ったのか、焦りを覆い隠すみたいに、甘い声を出す。
『……妬いた?』
「うちは……そんなこと、しません」
一呼吸、間を置いた答え。
“しない”というより “しても言わない”。そんな含みがあることに、宏雅はすぐ気づく。
『そっか。残念だな』
軽く笑ってみせる。けれどその裏には――自分が一番でいたい。葵に少しは心乱れて欲しい。そんな、わがままな男の本音が潜んでいる。
沈黙が、二人の間に落ちた。
夜の電話は、甘くもほろ苦く、繋がっているのに距離がある。
宏雅が、少し声を落として囁いた。
『俺さ、誰といても……結局、お前じゃないと落ち着かないんだよ』
きゅんと、葵の心が揺さぶられる。
『声、聞いたら余計にだ。なんか……会いたくなる』
「榊さんは……そうやって、うちを困らせはる」
かすかに笑いながら、葵は言う。
悔しいのに、嬉しい。
仕方のない人だ、と胸の内で呟く。
『お前に、抱きしめられながら眠りたい。そうすると落ち着くんだよ……なんでだろうな』
静かで深い声。本命に向ける甘い口調。
葵は、目を瞑って微笑んだ。
「……ほんま、仕方ない人や。そんな言い方されたら……うち、勝てませんわ」
宏雅が、小さく息を吐く。
『たまには負けてよ。俺だって……お前に甘えたい時がある』
「……ええけど」
少し照れた声で葵が言う。
「でもな、浮気する人は嫌どす」
『気をつける……お前に嫌われたら困る』
葵はその言葉に、胸の奥の棘がゆっくり抜けていくのを感じた。
「榊さん……ほんま、ずるい人や」
『言われなくても知ってるよ』
お互い少し笑った。
「……もう切りますえ。おやすみなさい」
葵がそう言った瞬間、携帯の向こうで、宏雅の声が少しだけ深く落ちた。
『葵』
呼ばれた名に、胸がわずかに震える。
「……何やの?」
短い沈黙。
宏雅の息が落ちるような音。
そして。
『俺のこと、たまには思い出してくれよ……おやすみ』
吐き出された息が混じるような、疲れた声だった。そのまま回線が切れる。耳元から静寂が落ちた瞬間、葵の胸の奥で押し込めていたものが、緩む。
「……たまに、て」
ぽつりと呟いた声は、震えていた。
堪えていた涙が、ひと筋だけ頬を伝う。
「うちは……いつもやのに」
夜の静けさの中で、葵はゆっくり目を閉じた。
榊さんのことばかり。
今日も、昨日も、ずっと。
たまになんて、とんでもない。
「……ほんま、あかん人や」
それでも、愛しい。
葵はそっと涙を拭い、誰にも見られぬように小さく微笑んだ。
茶道の席が二部屋。地元の婦人会の昼懐石が一席。奥の離れでは、仲人を立てた見合いの席が、和やかに進んでいる。
葵は若女将代理として、客間を一つずつ回った。膝を折り、襖を静かに開け、挨拶をし、料理の運びを確かめ、仲居に目配せを送る。柔らかく笑いつつ、気配を乱さぬよう、場の空気を整える。その所作は自然で、迷いがない。
「本日は、ありがとうございます」
穏やかな声と控えめな笑み。
誰も、彼女の私生活を想像しない。帳場で簡単な確認を済ませる。日も落ちた廊下の足音はまばらで、庭の灯りだけが柔らかく揺れている。
今日は、このまま水鶴に泊まる予定だ。母屋の奥、私室に入るとようやく肩の力が抜ける。外の顔を外すように、しゅるりと帯を解いた。妹が面倒を見てくれていた息子はもう寝静まり、寝所の照明を落としてあった。薄手の部屋着に替え、髪をゆるく結ったところで、携帯が震えた。
画面に浮かぶ名前を見て、葵は小さく息を吸う。 無視はしない。ただ、少し気が重い。
「……もしもし」
口から出た声は、いつもより平坦になる。
『やあ。今、大丈夫か』
軽やかな宏雅の声。耳に落ちてくるだけで、胸のどこかがざわつく。
「……ほんまに、浮気者は嫌われますえ」
ちくりと言ってしまう。問い詰めるでもなく、責め立てるでもない。心が痛んだ分だけの、控えめな意地。
電話の向こうで、短い沈黙。
その後、宏雅はいつも通りの飄々とした調子で、言った。
『どうした、いきなり……何かあったのか』
「そうやで。花籠に来はりましたえ、あのゴルフの女の子。番組の打ち上げや、言うて」
わざと名前は言わない。
だって、その名を出すとき、どうしても喉の奥が焼け付く。
『ゴルフ……ああ、真理子?』
男は迷いなく言う。
他の女の名前を、こうも自然に口にされると……胸がずきっとする。
『そう言えばこの前、花籠ってどんな店ですか、って聞かれたな』
「へえ……お知り合い、やったんやね」
なるべく柔らかく。
けれど、どうしても声が低くなる。
「えらく榊さんのこと、お気に入りみたいでしたけど?」
『ふうん……俺のどこを気に入ったんだか』
何気ない口調の後――キン、と金属的な音。煙草に火をつけ吸い込む音が、携帯越しに伝わってくる。昔から馴れ親しんだ音。
けれど今夜は、その仕草すら、自分から距離を置いているように聞こえた。
葵は目を伏せ、静かに笑う。
「……さあ。うちには分かりませんわ」
本当は、聞きたいことなんて山ほどある。
けれど――聞かない。
昔からそうだった。問い詰めず、追い立てず、ただ静かに線を引く。宏雅のような男には、きっと居心地が良い……そして、それが葵自身を一番傷つける。
携帯の向こうで、煙を吐きながら宏雅が言う。
『怒ってる?』
「別に怒ってへんよ。ただ……うちは、浮気者は嫌いや、言うただけです」
柔らかい声。けれどその裏にある胸の苦さは、電話の向こうには届かない。向こうで、煙草の火が小さく揺れる気配。
宏雅は、わざと軽く、けれど困ったように言った。
『まあ……いつだったか、少しばかり一緒に過ごしたかな』
何でもないように。
まるで“たまたま”の出来事のように。
葵は、息をそっと吸い込む。
「そうどすか……」
声は静か。
怒りも嫉妬も表に出さない。
ただ、胸の奥に小さな棘が沈む。
宏雅はそれを感じ取ったのか、焦りを覆い隠すみたいに、甘い声を出す。
『……妬いた?』
「うちは……そんなこと、しません」
一呼吸、間を置いた答え。
“しない”というより “しても言わない”。そんな含みがあることに、宏雅はすぐ気づく。
『そっか。残念だな』
軽く笑ってみせる。けれどその裏には――自分が一番でいたい。葵に少しは心乱れて欲しい。そんな、わがままな男の本音が潜んでいる。
沈黙が、二人の間に落ちた。
夜の電話は、甘くもほろ苦く、繋がっているのに距離がある。
宏雅が、少し声を落として囁いた。
『俺さ、誰といても……結局、お前じゃないと落ち着かないんだよ』
きゅんと、葵の心が揺さぶられる。
『声、聞いたら余計にだ。なんか……会いたくなる』
「榊さんは……そうやって、うちを困らせはる」
かすかに笑いながら、葵は言う。
悔しいのに、嬉しい。
仕方のない人だ、と胸の内で呟く。
『お前に、抱きしめられながら眠りたい。そうすると落ち着くんだよ……なんでだろうな』
静かで深い声。本命に向ける甘い口調。
葵は、目を瞑って微笑んだ。
「……ほんま、仕方ない人や。そんな言い方されたら……うち、勝てませんわ」
宏雅が、小さく息を吐く。
『たまには負けてよ。俺だって……お前に甘えたい時がある』
「……ええけど」
少し照れた声で葵が言う。
「でもな、浮気する人は嫌どす」
『気をつける……お前に嫌われたら困る』
葵はその言葉に、胸の奥の棘がゆっくり抜けていくのを感じた。
「榊さん……ほんま、ずるい人や」
『言われなくても知ってるよ』
お互い少し笑った。
「……もう切りますえ。おやすみなさい」
葵がそう言った瞬間、携帯の向こうで、宏雅の声が少しだけ深く落ちた。
『葵』
呼ばれた名に、胸がわずかに震える。
「……何やの?」
短い沈黙。
宏雅の息が落ちるような音。
そして。
『俺のこと、たまには思い出してくれよ……おやすみ』
吐き出された息が混じるような、疲れた声だった。そのまま回線が切れる。耳元から静寂が落ちた瞬間、葵の胸の奥で押し込めていたものが、緩む。
「……たまに、て」
ぽつりと呟いた声は、震えていた。
堪えていた涙が、ひと筋だけ頬を伝う。
「うちは……いつもやのに」
夜の静けさの中で、葵はゆっくり目を閉じた。
榊さんのことばかり。
今日も、昨日も、ずっと。
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