この恋で、夜を越えて

吉柳ひさめ

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二章

迷情(五)

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安心しきって眠りこんでいる息子の寝顔を覗き込み、布団をかけ直す。そのまま部屋を出ると、居間のテレビを消した妹が振り返った。

「お疲れさま……あおちゃん、目ぇ赤いで」

眉を寄せた妹に、葵は言葉を返した。

「……電話してただけや」

「榊さん?」

その名を言われた瞬間、葵は目を伏せてため息を溢す。

「はあ……ほんま、あの人は……」

ソファに腰を下ろすと、妹がひょいと隣に座った。

「何があったん?」

葵は少しだけ息を吸い、穏やかに話し始めた。

「この前、花籠に……ゴルファーの川崎真理子さんが来はって。挑発するみたいに、榊さんの名前ばっかり出して、うちのこと見てくるんよ……なんや、ああいう人やったんかなって」

「挑発?うわー、榊さんと絶対なんかあったやん」

目を丸くした妹は身を乗り出す。
葵は苦く笑った。

「電話で『少しばかり一緒に過ごしたかな』やて。そんなん……浮気しとるやろ、どう聞いても」

妹が大きくため息をつき、肩をすくめた。

「ほらな?うち、前から言うてたやん。あんな男前、誰も放っとかへんって」

「……それは、わかってるけど」

「考えてや、あのスペック!あの顔、あの声、あの財力、しかも独身。そらもう、どこ行っても狙われ放題の撃ち抜かれ案件やん!浮気のひとつやふたつ、するに決まっとる」

「……言い方がきついわ」

「でもさ!」

妹は勢いのまま、葵の手を掴んだ。

「浮気してるっぽいのに、それ認めて謝って、向こうからあおちゃんに、電話してきてんねんやろ?」

「……うん」

「それって逆に、あおちゃんが本命ってことちゃう?普通、遊び相手には、そんなこと言わんよ?『思い出してくれよ』とか……めちゃ本気モードやん」

葵は、胸の奥がぎゅっと詰まり、うつむいた。

「……そういう言い方、するんよ。あの人は」

「それ、好きってことじゃん」

「うちは、ようわからへん……」

「わからへんことないって」

妹は優しく笑いながら、葵の肩に手を置いた。

「だってあおちゃん……さっき泣いとったやん」

その言葉に、葵は目を閉じた。図星すぎて、返す言葉が出てこない。妹は、そんな葵の髪を撫でて、なだめるように言った。

「あおちゃんみたいな女、ほっとく男おらんよ……どんな遊びがあっても、榊さんの帰る場所は、あおちゃんなんちゃう?」

葵は、じんわりと胸が温かくなるのを感じながら、小さく微笑んだ。

「……もう、調子のええことばっかり言うて」

「でも当たってるやろ?」

「どうやろな」

そう言いながら、葵はほんの少しだけ、心が軽くなっていくのを感じていた。






真理子のやつ、葵を挑発したんだな。

電話越しの、あの少し棘のある言い方……わかりやすいくらい、葵は機嫌を損ねてた。
苦笑しか出ない。

サイドテーブルに携帯を置いた宏雅は、自宅のベッドでごろりと寝返りを打った。

……まあ、仕方ないか。
真理子は若いし、俺に気を引かれたら、そういう態度にもなるだろう。

『たまには思い出してくれよ』

思わず口にしていた言葉。

……葵は、妬いてくれない。
どれほど宏雅に女の影があっても、問い詰めることをしない。責めず、追わず、ただ受け止めて、少しだけ棘を見せて終わり。

……どう思っているのだろう、俺のこと。

他に男はいないって、言った――それは信じている。葵は、そういう嘘はつけない女だ。

でも、朝まで腕の中にいてくれない。
宏雅を、夜の闇に置き去りにする。

宏雅の口から、悩ましげなため息が出る。

……俺が欲しい女は、葵なのに。

他の誰でも埋まらない。

会いたい。
声が聞きたい。
髪に触れて……抱きたい。

ただ、それだけなのに――叶わない。





朝の台所には、パンの焼ける匂いと、少しだけ湿ったタオルの蒸気。妹が、電子レンジから取り出したそれを、ふわりと葵の目の上に当てる。

「目ぇ腫れとる時は、蒸しタオルがええらしいで。ほれ、当てとき」

「……ありがとう」

トーストを齧っていた息子が、タオルを顔に当てている葵を見て、首を傾げた。

「あおちゃん、ものもらい?」

「ちゃうよ。少し疲れてるだけや」

息子は、手にしたトーストを見て、ぽつりと言う。

「僕、マーマレード塗りたいなあ」

「何やの、そんな洒落たジャム、どこで知ったの?」

「幼稚園の給食や」

妹が、棚の中を覗きこむ。

「苺ジャムならあるよ?」

息子は、眉を寄せて首を左右に振った。

「苺は生がええんよ。ジャムは普通や」

その言い方が妙に真剣で、思わず葵は笑ってしまう。蒸しタオルの奥、目元にまだ熱が残っている。心の隙間から、ぽろりと言葉が漏れた。

「あの人も……苺、好きなのよね」

椅子に腰かけた妹が、両肘をついて微笑んだ。

「血は争えないものやね」

「僕、苺大好き!」

息子は、意味も分からずパンを頬張りながら、元気に言う。その無邪気な声に、葵の胸の痛みが少しだけ和らいだ。





行きつけのカフェ。
モーニングを求める朝の店内は、人もまばらだ。常連が、新聞をめくる静かなざわめきと、漂う焙煎の匂いが、心地良い。

いつものように宏雅は、車道の見える窓際の席に腰を下ろして、厚切りトーストに付けるジャムを選んだ。

「マーマレードを」

女性店員が、ふわっと頬を染めて笑った。それから、好意を隠さない柔らかい目つきで「お待ちくださいませ」と頭を下げ、奥へ下がっていく。

――見られるのも、好意を寄せられるのも、慣れている。

特別なことじゃない。
ただ自分を取り巻く、温度の高い空気。

運ばれてきたトーストに、たっぷりとマーマレードを塗り広げる。薄切りされた蜜柑の皮が、きらきらと光る。

ジャムは、マーマレードだろ。

子供の頃――執事の東堂が、教えてくれた味だ。

『紅茶に合うジャムでございます』

そう言って、大人の味を覚えさせてくれた。ブルーベリーでもなく、ピーナッツバターでもない。ほろ苦いピールの奥に、鈍く光る琥珀色の甘さ。

宏雅がトーストを齧ると、サクッと軽い音がして、甘さの混じった爽やかな香りが、口の中に広がる。

ほんの一瞬。

葵が好きな、苺ジャムの鮮やかな赤が、脳裏をよぎった。

――あいつは、甘いのが似合う。

そんなことを思いながら、宏雅は深煎りの珈琲を口にした。
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