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三章
燭光(六)
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表参道を歩いていた。
青山のオフィスから自宅へ戻る前、車に乗る気分になれず、ただ歩きたくなった。
理由は、はっきりしている。
考えないようにしていた名前が、ふとした拍子に浮かんでくるからだ。
洒落たブティックの並びに、場違いなほど年季の入った店が挟まっている。
その一角、鄙びた本屋の前で足が止まった。
店先に置かれた、ポストカードスタンド。
何の気もなく、指でくるりと回す。
観光地、街並み、夜景――ありふれた写真の中で、一枚だけ心に引っかかった。
……東京タワー。
橙色の光。
あの夜、三十九階から見下ろした景色。
百合佳の横顔と一緒に、不意に鮮明に蘇る。
衝動的だった。
小銭でカードを買い、そのままコンビニで切手を一枚。エアメール用だと気づいて、自分でも少し苦笑した。今時、こんなものを使う人間、少ないだろうに。
近くのカフェに入り、テラス席に腰を下ろす。
煙草を取り出しかけて、やめた。
彼女といる時、煙草の本数が妙に減っていた。
間が持っていたのか。
取り繕う必要がなかったのか。
……理由は、考えないようにした。
「そのペン、少し貸して貰えるかな?」
珈琲を置いた若い店員に、声をかける。ペンを受け取った指が、一瞬だけ迷った。
書く言葉は、もう決まっている。
柔らかな燭光の写真の端に、走り書き。
自宅近くのポストの前で、少しだけ立ち止まる。
……これで終わりだ。
自分に言い聞かせるように、カードを投函する。カタン、と乾いた音。
東京タワーが、ポストへ飲み込まれていった。胸の奥に残ったのは、後悔でも未練でもない。
ただ、忘れられない夜があった。
*
ポストカードが届いてから、数日が経っていた。
仕事は忙しく、ようやく毎日に慣れてきていたが、ふとした瞬間に、あの一枚が脳裏をよぎる。
東京タワーの夜景。
そして、短い言葉。
『応援しています H.S』
それ以上、何も書かれていないのに、不思議と胸の奥が温かくなる。
……だからだと思う。
キャスターという仕事柄、リサーチはほとんど職業病のようなものだ。
気になった名前があれば、最初の十件だけで満足することはない。検索結果の五頁目くらいまでは、反射的に目を走らせ、頭に入れてしまう。
〈榊宏雅〉
検索欄に名前を打ち込んだ瞬間、一拍だけ指が止まった。
――いけない、と思う。
でも、もう遅かった。
並ぶ記事は、予想通りだった。
有名女優。
モデル。
密会。
深夜。
熱烈なキス。
恋愛絡みのゴシップばかりが、彼の名前と一緒に踊っていた。
「お盛んね……やっぱり」
思わず零れた自分の言葉に、苦笑する。
当たり前じゃない。あんなに素敵な人なんだもの。
一夜でも一緒に過ごしてしまったら、どんな女でも、彼の腕の中にいたくなる。
そう思いながら、ブラウザを閉じようとした、その時。
古い記事に、指が止まった。
――訃報『喪主:榊宏雅』。
胸の奥が、ひゅうっと縮む。
震える指で、記事をスクロールした。
海外での飛行機事故。若い妻子が事故死。簡潔すぎるほど短い文章。
彼の名前の横に、さらりと添えられた肩書。
“財閥次期当主”
……知らないことだらけだった。
記事は、ごく短い。普通なら、読み飛ばしてしまう類いのものだった。
けれど、百合佳は全てを読んでから、あの日の彼を思い出す。
『嫌というか、幸せすぎて……つらい。幸せな昔の時間を夢に見る。でも起きるとそれは過去の話で、俺は一人この世界で……息も、できなくなる』
――夢を見たくない。
そう言った時の、宏雅の横顔が、はっきりと脳裏に浮かんだ。あの時は、深く聞いてはいけない気がして、笑って流した。
けれど、今ならわかる。
自然と涙が溢れた。
……彼は、眠れているのだろうか?
夜の孤独に、誰かの体温は、今も必要なのだろうか?
百合佳は、机の引き出しから、あのポストカードを取り出す。
東京タワーの橙色。短い言葉。
それだけで充分だった。
彼は、きっと前に進んでいる。
そして自分も、この想いを“思い出”にして、胸の奥に仕舞えばいい。
危ういほど優しい夜だったからこそ、これ以上、近づかない方がいい。
百合佳は、カードをそっと戻し、深く息を吐いた。
青山のオフィスから自宅へ戻る前、車に乗る気分になれず、ただ歩きたくなった。
理由は、はっきりしている。
考えないようにしていた名前が、ふとした拍子に浮かんでくるからだ。
洒落たブティックの並びに、場違いなほど年季の入った店が挟まっている。
その一角、鄙びた本屋の前で足が止まった。
店先に置かれた、ポストカードスタンド。
何の気もなく、指でくるりと回す。
観光地、街並み、夜景――ありふれた写真の中で、一枚だけ心に引っかかった。
……東京タワー。
橙色の光。
あの夜、三十九階から見下ろした景色。
百合佳の横顔と一緒に、不意に鮮明に蘇る。
衝動的だった。
小銭でカードを買い、そのままコンビニで切手を一枚。エアメール用だと気づいて、自分でも少し苦笑した。今時、こんなものを使う人間、少ないだろうに。
近くのカフェに入り、テラス席に腰を下ろす。
煙草を取り出しかけて、やめた。
彼女といる時、煙草の本数が妙に減っていた。
間が持っていたのか。
取り繕う必要がなかったのか。
……理由は、考えないようにした。
「そのペン、少し貸して貰えるかな?」
珈琲を置いた若い店員に、声をかける。ペンを受け取った指が、一瞬だけ迷った。
書く言葉は、もう決まっている。
柔らかな燭光の写真の端に、走り書き。
自宅近くのポストの前で、少しだけ立ち止まる。
……これで終わりだ。
自分に言い聞かせるように、カードを投函する。カタン、と乾いた音。
東京タワーが、ポストへ飲み込まれていった。胸の奥に残ったのは、後悔でも未練でもない。
ただ、忘れられない夜があった。
*
ポストカードが届いてから、数日が経っていた。
仕事は忙しく、ようやく毎日に慣れてきていたが、ふとした瞬間に、あの一枚が脳裏をよぎる。
東京タワーの夜景。
そして、短い言葉。
『応援しています H.S』
それ以上、何も書かれていないのに、不思議と胸の奥が温かくなる。
……だからだと思う。
キャスターという仕事柄、リサーチはほとんど職業病のようなものだ。
気になった名前があれば、最初の十件だけで満足することはない。検索結果の五頁目くらいまでは、反射的に目を走らせ、頭に入れてしまう。
〈榊宏雅〉
検索欄に名前を打ち込んだ瞬間、一拍だけ指が止まった。
――いけない、と思う。
でも、もう遅かった。
並ぶ記事は、予想通りだった。
有名女優。
モデル。
密会。
深夜。
熱烈なキス。
恋愛絡みのゴシップばかりが、彼の名前と一緒に踊っていた。
「お盛んね……やっぱり」
思わず零れた自分の言葉に、苦笑する。
当たり前じゃない。あんなに素敵な人なんだもの。
一夜でも一緒に過ごしてしまったら、どんな女でも、彼の腕の中にいたくなる。
そう思いながら、ブラウザを閉じようとした、その時。
古い記事に、指が止まった。
――訃報『喪主:榊宏雅』。
胸の奥が、ひゅうっと縮む。
震える指で、記事をスクロールした。
海外での飛行機事故。若い妻子が事故死。簡潔すぎるほど短い文章。
彼の名前の横に、さらりと添えられた肩書。
“財閥次期当主”
……知らないことだらけだった。
記事は、ごく短い。普通なら、読み飛ばしてしまう類いのものだった。
けれど、百合佳は全てを読んでから、あの日の彼を思い出す。
『嫌というか、幸せすぎて……つらい。幸せな昔の時間を夢に見る。でも起きるとそれは過去の話で、俺は一人この世界で……息も、できなくなる』
――夢を見たくない。
そう言った時の、宏雅の横顔が、はっきりと脳裏に浮かんだ。あの時は、深く聞いてはいけない気がして、笑って流した。
けれど、今ならわかる。
自然と涙が溢れた。
……彼は、眠れているのだろうか?
夜の孤独に、誰かの体温は、今も必要なのだろうか?
百合佳は、机の引き出しから、あのポストカードを取り出す。
東京タワーの橙色。短い言葉。
それだけで充分だった。
彼は、きっと前に進んでいる。
そして自分も、この想いを“思い出”にして、胸の奥に仕舞えばいい。
危ういほど優しい夜だったからこそ、これ以上、近づかない方がいい。
百合佳は、カードをそっと戻し、深く息を吐いた。
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