115 / 131
三章
黙過
しおりを挟む
結婚。
その言葉が、あの人の口から零れた瞬間。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
嬉しさより先に、恐ろしさが来た。
……あかん。
うちは、その言葉に応えたら、あかん。
宏雅には、まだ言うてへんことがある。
黙って、産んだ子がいる。
あの人の子。
たった一つの宝物。
あの子がおるから、うちは息をして生きてこられた。
でも――榊家の名を聞くだけで、
背筋が寒うなる。
跡継ぎ。
血筋。
正統。
もし知られたら、あの子は取り上げられる。
“榊家の孫”として。
うちから引き離されて。
……そんなこと、耐えられへん。
あの子を失うくらいやったら、
命の方が先に尽きる。
料亭で、耳にした噂が脳裏をよぎる。
『榊会長、最近えらい厳しいらしいえ』
『息子は独身のまま、嫁も孫もおらんて』
『亡くなった奥さんとお子さんのこと、まだ引きずってはるんやろな』
宏雅が、独身でおること自体が、あの人にとっては、罪みたいなもんなんや。
その上で。
水商売あがりで、年上で、祇園育ちの女が、財閥の次期当主の妻?
……なれるわけ、ない。
うちは、そこまで世間知らずの小娘やない。
もし、ここで「結婚したい」なんて言うたら、あの人のことや。
会長と決裂してでも、全部捨ててでも……うちを選ぼうとするやろ。
それが、どれだけ取り返しのつかへんことか。
妻子を失って、地獄みたいな時間を、生き抜いてきた人に――今度は、親との縁まで引き裂かせるなんて。
……うちには、できひん。
だから。
結婚については、何も言えへん。
好きや、は言える。
そばにおりたい、も言える。
でも――。
未来を縛る言葉だけは。
喉の奥で、静かに飲み込む。
「……今は」
そう言って。
結局、微笑むだけ。
言葉にしたら、全部、壊れてしまいそうで。
この人を守るために、黙ることを選ぶ。
それが、うちの覚悟や。
山積みの釣書。
料亭で、四年ぶりに再会した時。
宏雅の傍らに、何でもない顔で置かれていた、あの山みたいな見合い案件。
――あれが、現実や。
榊宏雅は、数多の良家の娘さんらに、
“結婚相手”として望まれる男。
男と手を繋いだことも無いような、箱入りのお嬢さんも、おるやろ。
そんな人なら、財閥次期当主の妻として、何の引っ掛かりもなく祝福される。
……宏雅の先妻さんと、同じように。
どれだけ銀座で遊ぼうとも、どれだけ行きずりの女を抱こうとも。最後に“妻”にできる女は、夜の女からは選ばれへん。
それが、常識的な現実や。
うちは、それを分かった上で、この世界で生きてきた。夢見て、壊れて、現実を知って、立ってきた。
せやから。
結婚、なんて言葉を向けられても、素直に頷くほど、もう若うない。
……せやけど。
もし。
もしも、や。
この常識を、全部、踏み越えて。
非常識やと笑われても。
敵を作ってでも、家を敵に回してでも。
それでもなお、“選ぶ”と決める男がおるとしたら。
それは――榊宏雅、ただ一人やと思う。
あの人は、そういう人や。
だからこそ、うちは怖い。
だからこそ、今は何も言われへん。
けど。
この人が、いつか本当に“非常識”を選ぶ日が来るなら。
その時こそ――。
運命は、もう後戻りできひんのやろな。
その言葉が、あの人の口から零れた瞬間。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
嬉しさより先に、恐ろしさが来た。
……あかん。
うちは、その言葉に応えたら、あかん。
宏雅には、まだ言うてへんことがある。
黙って、産んだ子がいる。
あの人の子。
たった一つの宝物。
あの子がおるから、うちは息をして生きてこられた。
でも――榊家の名を聞くだけで、
背筋が寒うなる。
跡継ぎ。
血筋。
正統。
もし知られたら、あの子は取り上げられる。
“榊家の孫”として。
うちから引き離されて。
……そんなこと、耐えられへん。
あの子を失うくらいやったら、
命の方が先に尽きる。
料亭で、耳にした噂が脳裏をよぎる。
『榊会長、最近えらい厳しいらしいえ』
『息子は独身のまま、嫁も孫もおらんて』
『亡くなった奥さんとお子さんのこと、まだ引きずってはるんやろな』
宏雅が、独身でおること自体が、あの人にとっては、罪みたいなもんなんや。
その上で。
水商売あがりで、年上で、祇園育ちの女が、財閥の次期当主の妻?
……なれるわけ、ない。
うちは、そこまで世間知らずの小娘やない。
もし、ここで「結婚したい」なんて言うたら、あの人のことや。
会長と決裂してでも、全部捨ててでも……うちを選ぼうとするやろ。
それが、どれだけ取り返しのつかへんことか。
妻子を失って、地獄みたいな時間を、生き抜いてきた人に――今度は、親との縁まで引き裂かせるなんて。
……うちには、できひん。
だから。
結婚については、何も言えへん。
好きや、は言える。
そばにおりたい、も言える。
でも――。
未来を縛る言葉だけは。
喉の奥で、静かに飲み込む。
「……今は」
そう言って。
結局、微笑むだけ。
言葉にしたら、全部、壊れてしまいそうで。
この人を守るために、黙ることを選ぶ。
それが、うちの覚悟や。
山積みの釣書。
料亭で、四年ぶりに再会した時。
宏雅の傍らに、何でもない顔で置かれていた、あの山みたいな見合い案件。
――あれが、現実や。
榊宏雅は、数多の良家の娘さんらに、
“結婚相手”として望まれる男。
男と手を繋いだことも無いような、箱入りのお嬢さんも、おるやろ。
そんな人なら、財閥次期当主の妻として、何の引っ掛かりもなく祝福される。
……宏雅の先妻さんと、同じように。
どれだけ銀座で遊ぼうとも、どれだけ行きずりの女を抱こうとも。最後に“妻”にできる女は、夜の女からは選ばれへん。
それが、常識的な現実や。
うちは、それを分かった上で、この世界で生きてきた。夢見て、壊れて、現実を知って、立ってきた。
せやから。
結婚、なんて言葉を向けられても、素直に頷くほど、もう若うない。
……せやけど。
もし。
もしも、や。
この常識を、全部、踏み越えて。
非常識やと笑われても。
敵を作ってでも、家を敵に回してでも。
それでもなお、“選ぶ”と決める男がおるとしたら。
それは――榊宏雅、ただ一人やと思う。
あの人は、そういう人や。
だからこそ、うちは怖い。
だからこそ、今は何も言われへん。
けど。
この人が、いつか本当に“非常識”を選ぶ日が来るなら。
その時こそ――。
運命は、もう後戻りできひんのやろな。
0
あなたにおすすめの小説
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
夏目萌
恋愛
過去の恋愛が原因で、「女にだらしない男」を何よりも嫌う向坂 来海(29)。
一方、御曹司で誰にでも優しく、来る者拒まず──けれど、誰にも本気になったことのない羽柴 充輝(29)。
本来なら交わるはずのなかった二人は、ある出来事をきっかけに関わるようになる。
他の女性とは違い媚びることも期待することもない来海の態度に、充輝は次第に強く惹かれていく。
「誰にも本気にならない」はずだった彼の、一途すぎる想いに触れ、恋を信じることを避けてきた来海の心は少しずつ揺らぎ始めていき――。
不器用で焦れったくて、簡単には進まない二人の恋の行方は……。
他サイト様にも掲載中
その溺愛も仕事のうちでしょ?〜拾ったワケありお兄さんをヒモとして飼うことにしました〜
濘-NEI-
恋愛
梅原奏多、30歳。
男みたいな名前と見た目と声。何もかもがコンプレックスの平凡女子。のはず。
2ヶ月前に2年半付き合った彼氏と別れて、恋愛はちょっとクールダウンしたいところ。
なのに、土砂降りの帰り道でゴミ捨て場に捨てられたお兄さんを発見してしまって、家に連れて帰ると決めてしまったから、この後一体どうしましょう!?
※この作品はエブリスタさんにも掲載しております。
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる