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第一章 復讐とカリギュラの恋

(1)残忍な生き物

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堕天使は嗤う。

アイドよ
お前たちは
神を嘲りながら生きて
神を嘲る為に死ぬ

甘やかな滅びを辿る
そのアイド劇場で
小生を楽しませてくれ
愚者たちよ

ふははは、神よ
あなたはなんと残忍な生き物を
創造したことか

アイドは自ら産み出した
武器の恩恵にすがろうとして
自らを淘汰する愚かな生き物

あなたが創造した
アイドを道連れにして
その憐れみ深いみ心に
痛手を負わせてみせよう

痺れるほどの快感だ

神の存在を信じる者がいなくなり
神自らアイド社会に滅びをもたらす

それがあなたに見棄てられ
天から堕とされた我々の復讐だ


光の声が過る。

愚かなのはお前だ
堕天使ベルエーロよ
滅びはお前自身に対して
もたらされるもの

アイドとは幼く儚い生き物だ
神は滅多なことでは憤りを表さず
また寛大に許したもう

お前はアイドを何度もつまづかせれば
神を貶められるとでも思っているのか

滅びはお前たち堕天使の行く手にある
心しておけ


  アナザーワールドの自治歴百九十七年は、芸術国革命から遡ること二年。軍事強国サザンダーレア王国の四月下旬。年中霧に覆われた魔の地帯を抜けて、ザカリー地方の泥濘む田舎道を四頭立ての馬車が三台、ゆっくり進む。

  まだ雪の残る北の林道は、洗われたような空気が清々しく、進むにしたがって木漏れ日に鮮やかな緑が芽吹く。その向こうは視界の開けた段々畑だ。人影も見える。

  馬車は静かに進み、暫くして酷い泥濘みを抜けると勢いよく走り出した。

  魔の地帯の深い霧を三日も迷い、地図にない薔薇の村で逗留し馬を替えて日が二度沈み、また登った。芸術国から遠い親戚を頼りに疾ってきた。そしてもう週も終わりに、幾度となく泥濘と段々畑の同じ道を巡っている。

  国境のザカリー警備兵には勿論、ザカリー領主の封印のある手紙を見せた。かの芸術国が国民全員に身分証代わりのパスポートを取得させる何年も前のことだ。国境を越えるのに特別な手続きはいらない。親交を示す手紙だけで、ザカリー領主の賓客と見なされた馬車は簡単にアントローサ大公国に入国できた。

  しかし馬の息も上がり、とうとう歩かせるしかない。

「ヴェトワネット奥様、水浴の出来る泉がございます。如何なさいますか」

  走り続けた馬を休ませるために、森の開けた場所に停まると、馬車の窓から召し使いのアネットがご用を聞く。

「まさかこんなに寒いのに水浴だなんてっ。今日も香水でいいわ。疲れているの。一時間でも早く到着したいのよ。兎に角走らせて」

  薔薇の村でも風呂に入らなかった。ブランデーを含んだ絹で首回りを拭き、脇に差し込んで何度も拭う。芸術国を出てからもうずっとそれだけで過ごして、香水で体臭を誤魔化す。だが、それも一週間ともなると侍女の鼻も苦しくなってきた。

  芸術国の貴族は、見た目が美しくセンスさえあればゲスでも強姦魔でもうまく誤魔化して生きているだけで文化的経済活動の権化と見なされ崇められる。

  が、シリアルキラーだとバレて捕まれば、当然だが処刑人の刃に倒れることになる。革命後は多くの貴族がギロチンに散ったが、その中にシリアルキラーがいたかもしれない。

  上辺だけ白く塗り込めた生ける墓石のような女は、崩れた化粧もあざとく色気を振り撒く毒となって、その上から更に白粉をはたいた。 

  今までにない恐ろしい夜だった。大理石の床が真っ赤な血で滑る。悪夢の中を血飛沫を浴びて逃れて来た。ドレスは赤黒く染まり、やがて異臭を伴う鉄さびの色に変わった。それでもベトワネットは着替えようとはしない。変色したドレスは捨てるしかない代物と化していたのにも関わらず、ベトワネットにとっては皮膚の一部のようにいくら勧めても脱ごうとしなかった。

  馬車の全ての屋根と、そのうちの一台の馬車には宝飾品と衣装と少しの豪華な美術品が詰まっている。前もって準備しておいたのが、今の全財産だ。

  やがて開けた場所から林の向こうに、レンガを漆喰で塗り固めた塔が見えた。領主ザカリー伯爵家の館だ。馬車が止まる。

「旦那様、そろそろ到着のようです」

  若い執事のリトワールが蝋人形のような無表情で乱れた衣服を整える。

「あっ、あっ」頂点に達したゲイルの喉から声が漏れた。一晩中ゲイルと交互にやられたが、ゲイルが達すると「うう」と化け物が呻いた。とうとう化け物も果てる時がきたか。

  ゲイルは頸を絞められて息絶えた。息絶える前にその残忍な手をゲイルの頸から離そうとしたが、リトワールは力も立場も化け物には敵わない。

「おおぉぉぉ」ぐったりと息をしなくなったゲイルの背中にしがみついて、長い金髪の主が叫ぶ。密着した部分から白いものが溢れ出て異様な匂いを放った。

  嫌な匂いだ。リトワールはあからさまに眉目を歪めて、逃げ場のない馬車の中でこっそり溜め息をついた。

  ヘドを吐きたくなるほど無惨で哀れだが、前向きに考えればゲイルはもうルネの餌食にされずにすむ。こんな化け物に仕えて母国を脱出しなければならなかったのも私の不徳の致すところ、ではないな。早く死ね、我が主ルネよ。いつか必ずお前のヘテロ狩りを断罪してやる。
  
  今まで私は跪いて何度も神に祈ったが、誰に対しても神の怒りは遅いのだと悟ることになった。なんと憐れみ深い神。なんと忍耐強い神。私は項垂れながらも心の中で叫ぶ。早く死ね、ルネ、死ね。

  いくら主の上に呪いを呼び求めてはいけないと云われていても私は叫ぶ。私は邪悪な執事だ。ルネ、お前に仕えながら呪い続けてやる。神が聞き届けてくれるまで。
  いや、再びお前たちの命を狙うまでだ。


  
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