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第一章 復讐とカリギュラの恋
(5)血玉
しおりを挟むジグヴァンゼラは明るい気分で雪の残る森を抜けた。冷たい風が何故か心地好い。
(リトワールか、男装の麗人かと思うほど綺麗だ。あんなに綺麗な男の人は初めて見た。妖精。天使。泥濘みのような、大理石のような、頑なな暗い目をしてるけれど美しい。優雅な仕草、優しい手、素敵だな。うちに来るんだ、あの人が。リトワール、色々話せるかな。教えてもらおう、芸術国のこととかそれから、ワインだ。僕も少しは飲める。夕食の後にリトワールに勧めたら喜んでもらえるかな)
何故か人間らしさに出会った気がして、足取りも軽くなった。
目の前に、長い歴史を持つ館が聳え立つ。建国前から十五代もの歴史を重ね度々増築して久しい館は、古草臥れた幽霊屋敷の風情が漂う。
ジグヴァンゼラは裏手に回って厨房を覗いた。奥で荒々しい音を立てて気の触れた男が包丁を振り回す。
「肉は何処に逃げた、肉は。チューチュー鳴くあの可愛い肉はお嬢様に差し上げる肉だぞ。お前たち、肉を捕まえて来い。お昼に出すのだ」
(ううっ。パフッチョの奴、あれを肉だなどとっ。捕まえる度に捨ててやる。どうしてお姉様にもちゃんとした肉を出さないのだ)
ジグヴァンゼラはふいと厨房に入った。
「パブッチョ、早くお昼の用意をしないとお客様が来るよ。お茶もお菓子も用意万端整えて。異世界からのお客様だからね」
「これはこれは、千年万年も光輝く我らの太陽、ジグヴァンゼラお坊っちゃま。異世界おフォランセのお客様でしたら何をお出しすればよろしいのでございましょうか」
パブッチョは怒鳴るのをやめておべっか笑いを浮かべた。
ザカリー領の貴族の食事は、遅い朝と夜の二回。昼と夜の間に長いお茶の時間がある。だらだらと続く『死ねるくらい退屈』なその時間に、独りで散策するのがジグヴァンゼラの日課だった。
母親のメナリーは、継子ヘシャス・ジャンヌとお茶のテーブルを囲んで刺繍を始める。それがメナリーの楽しみだった。
ヘシャス・ジャンヌは指先を針で刺すことが多く、刺繍を嫌がるのだが、利き手の甲にも血玉が浮くことがあった。
父親は馬で出掛けることが多く、少し遠い村の娘を納屋に引っ張り込んで何やらやらかしたと噂になっていた。その娘に一軒の家を与え、たまに財務管理を確認する以外には領地の見廻りと称して館を出る。後妻であるメナリーに、ジグヴァンゼラの弟妹ができないのはそういう訳だ。
ジグヴァンゼラは、僅かに傾きかけた明るい陽のなかで歌う。
「待ち遠しいな。早く来ないかな。あの森で迷ったのかな。迂回する方が早いんだけどな。不親切だったかな。ああ、ドキドキしてる」
館の前の広場の向こうに、四頭立ての立派な馬車が小さく見えた。三台の馬車が屋根の上に大きな荷物を乗せてやって来る。
玄関先から、ジグヴァンゼラが嬉々として屋内に叫ぶ。
「お母様、お母様。お姉様、ヘシャス・ジャンヌお姉様。お客だよ。異世界の麗しの国からお客様がいらしたよ」
ボーイソプラノの浮き立った声に、母親のメナリーは頬を高くして微笑み、異母姉ヘシャス・ジャンヌは飛び上がった。
「おいでになったわ、楽しみだこと」
「お義母様、私、このような姿では」
使用人よりも貧相な普段着のヘシャス・ジャンヌは、父親の面子を汚すのではないかと気にして光りに透ける白い睫をしばたく。
パーティー用の他にはもう何年も新しい服を作ったことがなかったから、育っていく身体に合う普段着がなくなって、顧みてくれない父親の若い頃のシャツや、使用人の着古しのエプロンドレスに身を包んでいる。
美しい銀色の髪も後ろに束ねただけで、見るからに伯爵家の令嬢には見えない粗末な姿だ。
(お父様の面子に関わるのでは。私がこのような成りでは家族に恥をかかせることになっては)
「大丈夫よ、ヘシャス。さっきも言ったでしょ。あなたは塔に隠れていらっしゃい。その方が良いの。きっと長逗留になるから。だから、お客様がお帰りになるまでは静かにね」
メナリーはゆっくり立ち上がって窓から広場を見下ろす。立派な馬車が敷地内に入った。手が自然と髪の毛に行く。ふわりと持ち上げ、撫で付けるようにして、メナリーはヘシャス・ジャンヌを振り返った。
「若いだけで何にも出来ない穀潰しなら、何処にも出せないわね、ヘシャス。あなたはもう十七才なのよ。とっくにお嫁に行っても良い年齢なのに。そんなに醜いから王子様にも捨てられるのよ」
メナリーはつかつかとテーブルに戻ると、針刺しから細い縫い針を取ってヘシャス・ジャンヌの手の甲を刺した。
「あっ……」
ヘシャス・ジャンヌは白銀の睫毛を伏せて涙ぐむ。針の抜かれた手の甲に血玉が浮き上がった。ソバカスのようなシミが幾つもついた手の甲を、ヘシャスは強く押さえた。
花冠のように輪になったザカリアン・ローザの紋章は、二本の剣がクロスすることでできる四つのスペースの上と左右に各々ひとつの目が描かれており、その三つの目のうち左右横並びのひとつが、王公貴族や民衆など貴賤を問わず他人の目を表すとして、同列のもうひとつは自分自身の目。そして頂点の目は神の目とされる。
その真下のスペースにザカリーのイニシャルZのマークがある。それをぐるりと白い蔓薔薇が囲む。その刺繍の上に涙が落ちた。
「こんなことくらいで泣かないで。いいこと、あなたは元々人前には出せない子なの。邪魔なの。さあ、隠れて、ほらほらっ」
ティールームは他にいくつもあり、この家族専用の居間にも何脚もの椅子がある。それでもメナリーは冷たく言い放つ。
「その姿を見せないで。この部屋にもお客様をお通しするかもしれないのだから」
ガラガラと車輪が回る。馬車が到着した。御者が馬を宥めるように手綱を引く。馬は二三歩前後に多々良を踏んだ。
ジグヴァンゼラは、全てを暗闇に引きずり込む悪魔との遭遇が迫っていることなど、知る由もない。
「ようこそ、ナヴァール子爵」
リトワールの姿を期待して微笑む少年の白い頬は、ハレーションを起こす日差しに輪郭も暈ける。
日常の退屈から一転して、楽しい日々が始まると勘違いしていた。
領主殺害 天使と悪魔
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