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第一章 復讐とカリギュラの恋

(23)至らなさの罪

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  パブッチョの目は血走っている。薄暗い中でパブッチョの顔はくっきり見えた。



  リトワールは後退りした。一歩、二歩、リトワールとパブッチョは同じ速度だが間合いは詰まる。リトワールは小刻みに震えて足が重く、パブッチョは大股で燃え盛るかのように揚々と進む。歩幅が違う。




「これはこれは、リトワールの旦那……」


パブッチョの唇から涎が垂れた。


「ま、待ってくれ」


リトワールの足が何かに躓く。


「わわっ」


「旨い肉が準備できましたよ、旦那ぁ……」 




  リトワールはひっくり返った。直ぐに立ち上がろうと足掻いたが、腰が抜けて立てない。踵を使って手と尻で交互に後退りする。



  パブッチョのどす黒く歪んだ顔には、鍋底の焦げにも似て狂気がこびりついている。その笑いがリトワールに覆い被さってきた。




「旦那ぁ……お優しいリトワールの旦那ぁ……旦那も新鮮なうちに肉を食みますか。ひひひ」


リトワールの耳の近くで包丁がブンと鳴る。


「や、止めろ」

「それとも、旦那も肉になりますか」




  パブッチョの振り回す包丁が、ブンと顔面すれすれの空を裂く。



  リトワールはひいいっと叫んだ気がする。そのまま気を失った。



  リトワールが目覚めた時、パブッチョはいなかった。身体を裂かれたはずのメナリーも消えていた。血糊の痕跡もない。



悪夢か……
早く森を出よう……



  さ迷いながら白い光を目指すと、茂みの丸く空いた穴から館の影が見える。メナリーを肩に担いで館に戻るパブッチョの血にまみれた赤い後ろ姿が見えた。


  リトワールはほっとため息をついた。その途端、背後におぞましい気配がする。




「見たな……」




  パブッチョの声だ。振り向けない。向こうのメナリーを担いだ赤い背中のパブッチョは消えていた。




「リトワールの旦那ぁ……見ましたね……」




*****



  ジグヴァンゼラは長い黒髪を滝のように垂らして少年を見た。



こいつは何故此処にいるのか
強姦された訳でもないのに
何故、泣くのだ
なんて哀れな醜い姿だ
私は何をしているのか
私は何になるべきだったのか
ルネを倒す……
ルネを倒す
それだけは……



  ジグヴァンゼラには他人を哀れむ心が欠けている。他人の感情に関心がなく、他人は小さなことで動揺する醜い生き物に思えた。



  窓の隙間から射し込む西日が、部屋に色味を生む。



*****



  ルネとヴェトワネットはベッドでアペリティフを楽しみながら懐古趣味に浸って、フランス片田舎の子爵でもこんな田舎よりは楽しみが多かったと語り合っていた。




「ダンスパーティーなどはいかがでしょうか」


  リトワールが畏まって提言する。


「それは名案だ。ジギーの花嫁選びと言うのはどうだ。近隣の豪族や男爵家に呼び掛けよう。早速、計画を立ててくれ」

「畏まりました」




  リトワールは、退室して閉じたドアの外で目眩に揺らいだ。



私はあの状況から
どうやって戻ったのか
全く覚えていない
あのパブッチョは……



  パブッチョの血塗れの背中が目の前で揺らぐ。くっきりと浮かび上がる背中にはメナリーの死体が担がれていた。



「は……う……」



  リトワールは心臓を刃で貫かれたような驚きに固まった。



  メナリーの首がもたげ、リトワールを見る。




「助けて、リトワール……」




ああ……奥様……




  リトワールは驚愕のあまり失禁した。熱いものが股の間を流れたが、生温く濡れた下着は直ぐに冷たくなって張り付いた。



  リトワールは顔を背けた。



  メナリーはリトワールに抱きつこうと腕を伸ばす。



  リトワールは恐怖と後悔にまみれて腕から逃れるべく身体を反らす。



あの時は仕方なかったとしても
それは言い訳に他ならない
ルネが何をするか
最悪の場合を予想すべきものを
まさか親戚筋の奥様に
直ぐに手を出すとは思いもよらず……



  落胆のあまりに膝の力が抜ける。



しかし……私は馬車に
お乗りにならないようにと
身振りでお伝えしましたのに
ああ……
もっとはっきりお止めしていれば……
あの時ルネに命じられたとしても
言葉で伝え立ち塞がってでも
断固として阻止していれば……
それをしなかったのは私の罪です
メナリー様、ジグヴァンゼラ様
今更言い訳にすらならない
私の至らなさ
全て、私の罪
あの時、命を賭けなかった
私の至らなさの罪です



    
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