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第三章 純愛と天使と悪霊
(99)任命と嫉妬
しおりを挟むアントワーヌの姿を借りた悪霊は館を彷徨う。ジグヴァンゼラの部屋は、領主ヴェルナールの父親ヘンゼル公爵の命で、生前のまま保管することになっている。
シアノはダネイロにワインとグラスを手渡して「夜も更けたので風呂を沸かすことができません。あなたもワインで温まりなさい」と言った。
逆立ちしても買えないようなワインの銘柄にダネイロは驚いたが、有り難く受け取った。そのワインを手に、二階の客室に案内されて、新しい寝間着を出された。
「今夜から此処に」
シアノの顔に和やかな微笑みが宿る。ダネイロはそれだけで幸せな気分になった。
「あなたをヴェルナール様付きの近衛に任じます。私の権限ですから、ヴェルナール様以外は解雇できません。宜しいですね」
尊敬するシアノから直に命を受けて胸は喜びに踊る。床に片膝を着いてシアノを見上げた。
「私がですか……」
その肩にシアノの手が置かれる。力仕事に向かないほっそりした手だが、ダネイロは喜びを持って大人しく従う。
「そうです。あなたを近衛に任じます。あなたにはヴェルナール様の水浴びに付き合ってもらいます。今夜のような命に関わる事件が起きないように警護してください」
「畏まりました。命に代えてもお守り致します」
略式の任命式は終わった。シアノが出ていった後、ワインを含む。濡れた衣服で風を切って疾風迅雷の如く馬を駆ったのだが、風に奪われたダネイロの体温は、思いがけない任命式と一口のワインで取り戻せた。
胸が熱い
なんという幸運
夢ではないのか
新しい寝間着に着替えてベッドに入る。ダネイロが休むことを予想していたのか、ベッドは日向の匂いがする。気持ちの良い枕とシーツにダネイロは眠りに堕ちた。
館を歩き回ってアントワーヌの姿を借りた悪霊はダネイロの部屋に入ってきた。ダネイロの耳元に囁く。
ダネイロ……
アントワーヌです
私を知っていますよね
ああ、あなたを愛していたの
あなたの黒髪、黒い瞳
細面のすっきりしたお顔
髪の色は違えども
私達って何処かしら
似ていると思いませんか
ダネイロ……
お兄様……
私には腹違いの兄が
いたようなのです
もしや、あなたでは……
悪霊はにっこり笑って消えた。廊下に出た姿はジグヴァンゼラに変貌している。
ダネイロ……
アントワーヌの兄と言うのは嘘だが
毎日繰り返して覚えさせてやろう
お前が私に従うまで……
愚かしい真似をして見せるまで……
悪霊はジグヴァンゼラの姿のままヴェルナールの部屋に向かう。
シアノはどうしただろうか……
ヴェルナールを温めるために
ベッドに入ったか
ヴェルナールが
誤解したらどうする
肉体を持つ者は必ず眠る
その眠りに乗じて
ガセを吹き込む
出来事の予言的な夢だったり
意識を変革する夢
人間の精神を犯す夢
犯罪に誘う夢など
悪霊は眠らないからな
シアノは上半身を脱ぎ、ヴェルナールの顔を自分の胸で温めた。夏場でも夜更けには気温が下がる。川遊びができるのは早い時間だけで、濡れた身体で小一時間も外にいると歯の根が鳴り出す。見回りの兵士達は常にマントを欠かせない。
ヴェルナールは寝ぼけ顔で上着を脱ぐと、シアノの胸にごそごそ入り込んだ。「温い」と言いかけてすっと力が抜ける。
ヴェルナールの一連の動きを驚きをもって見ていたシアノだったが、やがて寝息が聞こえると安心してヴェルナールを抱え込むように腕を回して眠った。
暫くすれば暑苦しくなる。シアノは汗ばんでシーツを剥いだ。ヴェルナールはまだシアノの胸に寄り添っていたが、震えは治まり唇の色も戻ったようだ。額に気になるほどの熱はない。
ヴェルナールが脱いだ寝間着を着せて、ベッドを出た。「孫を助けてやってくれるな」とジグヴァンゼラの声が耳に残っている。
シアノが自室に戻って眠りについたのは明け方だった。ジグヴァンゼラの悪霊はシアノの穏やかな顔を覗き込んでから、一階に下りた。ジグヴァンゼラの部屋に入る。
書架から一冊の日記が空を横切って悪霊の面前まできた。扉が開かれて、パラパラとページが捲れる。
此処だ……
ノエビアと一緒のあの娼婦は
元宮廷娼婦のコルネリアの館にいた者だ
コルネリアを通して本人も知らぬ間に
ジグヴァンゼラの手先として働いた
コルネリアは何故
ジグヴァンゼラと懇意にしたのだ
ジグヴァンゼラは
生涯リトワールだけを愛していたのだが……
悪霊の、ジグヴァンゼラの形が崩れて黒い影になる。
私の嫉妬深い目を燃やし
苛つかせるほどの
愛だったのだが……
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