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第三章 純愛と天使と悪霊
(113)悪霊祓い
しおりを挟むサレの小屋の裏手に人参の畑がある。ガレは父親モーナスに言われて、グラッセ用の人参を収穫に来た。
そのガレの足が疎む。ガレの目線の先の、木立の最初の木にネイトが縛られていた。
「ネイト。どうしたの」
「ガレ。僕、お爺ちゃんに叱られたんだ」
「どうしてお爺ちゃんに」
「アール様のことだよ。お爺ちゃんはアール様のことが嫌いなんだって。僕、ガレにお願いがあるんだけど」
「うん。縄ならほどけると思うよ」
「違うよ、ガレ。僕のリボンとガレのリボンを交換しよう。そうしたら僕はガレと一緒にいるように思えて、頑張れるから」
「うん、良いよ。でも、助けてあげなくても良いの」
ガレは髪を結んだリボンを交換して、ネイトの髪を結んだ。
「似合っているよ、ネイト」
「有り難う、ガレ。お爺ちゃんに見つからないように早く逃げて。お爺ちゃんは機嫌が悪いから」
「うん、わかった」
「待って、ガレ。手を見せて」
ガレは両手を揃えてネイトの前に出した。血豆が潰れて幾つも連なっている。
「可哀想に。ガレ、僕の手をぎゅっと握って」
「こう……」
「温かくなるまで」
ガレは手のひらが直ぐに熱くなるのを感じたが、ネイトが「もう、良いよ」と言うまで掴んでいた。
「もう治っただろ。ガレ、早く行って」
「うん、有り難うネイト。頑張ってね。僕、後から来るよ」
ガレは離した手が癒されたことに驚いた。
「な、治った。僕の水疱が……」
「早く……早く行ってガレ」
ネイトはガレの姿が見えなくなった時に、がっくりと肩を落とした。俯いた顔は悔しげに唇を噛んでいる。
暫くするとサレが近づいて来た。腕に大きな黒い書物を抱えている。
「ネイト……これが何がわかるか」
ネイトの横で悪霊がジグヴァンゼラに姿を変えた。サレの目にはその姿が薄く消えかかった靄のように見える。
「悪霊め」
「お爺ちゃん、僕だよ。悪霊なんかじゃないよ」
悪霊が口を開く。
「サレ、この子はネイトではない。お前の愛する孫のガレだ」
サレの顔色が変わった。
「ガレ……」
ネイトはリボンがよく見えるように横を向く。ガレを表す青いリボンが、サレの目にも色鮮やかに映る。
「ガレか。どうしてガレがっ」
サレは可愛い孫に駆け寄った。悪霊が木陰に退きながら嗤う。
「入れ替わったのだ。ガレは良い子だ。ネイトの癒しの技のために自ら入れ替わったのだよ」
「まさか……悪霊め。お前がたぶらかしたのか」
「まさか、たぶらかすなどと」
サレは黒い書物を草の上に置いた。
「ガレ、辛かっただろう。今、ほどいてやるからな」
サレは自分で縛った縄をほどきに掛かった。
「お爺ちゃん……」
ネイトの目から涙が溢れる。
お爺ちゃんはガレには優しい
僕に辛く当たって木に縛り付けても
ガレなら……
ガレならほどいてあげるんだ
何故なの
僕は苦しんでいる人を
助けてあげたのに
死にかけていた人も
生き返らせてあげたのに
どうしていけないの
ガレなら良いの
僕でなくてガレなら……
縄が落ちた。ネイトはサレにしがみついて泣いた。
「ガレ、ガレ、もう大丈夫だよ。何処か痛むかい」
ネイトはサレの優しい言葉に涙が止まらなくなった。その言葉はガレへの労りの言葉であり、自分に向けられたものではない。自分の頭を撫でるサレの手も、優しく抱き締める腕も、ガレに対する愛情だ。
「おうちへお帰り、ガレ。ゆっくり休むんだ」
「うん」
ネイトは大人しく離れてしゃくりあげながら小屋の影に姿を消した。サレは草の上に置いた黒い書物を取り上げて、ガレのことで切なくなった胸に抱く。
「サレ、可愛い孫に酷い虐待をするものだな」
悪霊はジグヴァンゼラの年齢を遡って若返り、ルネに変貌してみせる。
「サレ、お前はあの子を本当にガレだと思うのか」
サレは眉根を寄せた。
「ガレではないと……いや、青いリボンは」
「リボンで決まるのか。本人が入れ替わるのとリボンを取り替えるのと、容易くできるのはど、ち、ら、だぁ」
サレは青くなった。
ガレだと思って
ネイトを放してしまったのか
ガレだと思って慰めた
ガレだと思って……
サレは慌てて黒い書物を捲る。
「ジギーからもらった聖書か。彼は大金を積んで買ったのだが、一体、神の音葉が書かれているからと言って、何の役にたったと言うのであろうか。ふわははは」
「悪霊め。豚の中に閉じ込めるぞ」
悪霊はルネの顔を崩して黒い影に戻りかけた。
「お前にできるものか。まあ、良い。今日の処は退散しよう。しかし、私はネイトの涙の理由を、お前に考えさせたかったのだ。ネイトは優しい心で苦しむ人を助けただけ。お前はガレよりもネイトを重んじるべきだ」
「悪霊よ、こう書かれている。あなたは天の神を崇拝しなければならないと……お前の魔力で人々にネイトを崇拝させてはならない。お前自身が苦しむ人をこっそり癒せば良いだろう。崇拝されることなどを求めずに」
悪霊はジグヴァンゼラに変貌し、生前のように生き生きと、肉体を持つもののようにはっきり姿を現す。その目鼻立ちは確かにジグヴァンゼラのもので、眼光は爛々と輝いている。
「サレ、懐かしいな。元気にしていたか」
「だ、旦那様……旦那様っ。いや、いや違う。お前は謀り者だ。旦那様ではない。旦那様の威光で私を傅かせようとしている悪霊だ」
サレは両手を上げた。天を仰ぐ。
「天の神エホバよ。私にみ力を与え賜え」
サレの背後に光が立ち上がる。人の目には見えない光が強くなって、光の粒が人の象をとった。
ジグヴァンゼラの顔がふとルネに変わり、嫌悪の表情で薄くなり「今日の処は退散する」と消えていく。
逃げられた……
サレは肩を落としたが、光の粒は両手を掲げて神を呼び求めた。
ご覧ください、この者を
あなたの為に戦う者、サレです
私の目に芳しく映るこの者が
あなたの喜びとなりますように
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