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第三章 純愛と天使と悪霊

(114)サレの祈り

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  貴族院評議会の左局席は改革派が占めていたが、ヘンゼルの掲げる貴族制廃止と意見を異にして離れる者が出ている。

あらかじめ想定していたことだが、楽しいな。わははは」

  アントローサ小公爵ジグマスタは、明るく笑い飛ばした。大胆不敵な性格にして爽やかな顔つきだ。王都を見下ろす宮廷のバルコニーは、その高さ故に心地好い風が吹く。

「俺の兄貴は見聞が広い。貴族制度は崩れると予想している。俺は大公なのだから国を分割してでも資本主義に進み国を拓く、とも意気込んでいる。今の時代、この国では貴族は単なる投資家に過ぎない。起業などできないからな」

  ジグマスタの実兄は、武公アントローサと謳われた父親の後を継いで広大な自領地を治める堂々とした辺境伯だ。国を滅ぼすくらいの軍事力を持つ。ザカリー領も、女王ヘシャス・ジャンヌの繋がりで皇族と見なされ独立した大公領となるるまでは、アントローサ大公領の中に含まれていた。

  ジグマスタはヘンゼルの肩を組んで声を潜めた。

「女王には悪いが、兄貴は王政廃止にも熱心だ。王室に根深く絡んで来た我が家系を無視して、我が国もフランス革命後のフランス国民の自立にあやかるべきだと宣っている」

「それでいきなり全領民義務教育制度を敷いたのか」

「そうだ。やがてザカリー領のように文盲がいなくなるぞ。そうなればボンクラ貴族等よりも才能ある人材を発掘できると喜んでいる。わははは」

  ジグマスタはヘンゼルから離れて腰に手を当て笑ったが、ふと遠くを見た。

「しかし国の遅れはいかんともし難い。教育制度に反対する貴族は下々に知恵がつくのを恐れているのだ。社会が転覆すると騒ぎやがる」

「それも暫くのうち」

  ヘンゼルは、兄とも慕うジグマスタと力を合わせて評議会に挑む。

「そうだ、ヘンゼル。奴ら全員を叩き潰す為にも、お前の立太子は夢のようだ。わはははは、今に見ていろよ、右局席の奴ら」

  ジグマスタは大袈裟に腕を広げてヘンゼルを抱き締めてから「おっと、ヘンゼルは王太子様になるのだった」とわざとらしく言って離れた。

  それでも破顔して嬉しさを隠せないジグマスタは「お前が王様になっても、俺は義兄だからな、ヘンゼル」と肩を叩く。

「大きな盾であり大鉈でもある兄上か」

「ははは。期待しておいて間違いないぞ。おっと、そろそろ評議会が始まる。これからの議会は様相が一変するぞ、ヘンゼル。罪人が到着するのを待ってはいられない。行こう」


  ネイトはガレの忘れた人参を掘りに来た。サレがいたら大人しく謝ろうと思って、人参の畑に向かう。足が見えた。

「お爺ちゃん、お爺ちゃん」

  サレが倒れている。サレは胸を押さえて苦し気な声を出した。

「医者を、医者を呼んでくれ」

「お爺ちゃん……神様、助けて。お爺ちゃんを助けて。アール様、助けて」

  サレは眉を潜めたが、苦しむ顔は元から歪んでいたから、ネイトは気づかない。サレの背中に両手を当てる。

「お爺ちゃんを治して、お爺ちゃんを助けて」

  ネイトの手は光らない。

「神様、アール様、お願い、お祖父ちゃんを助けて」

  ネイトの背後に黒い影の悪霊が立った。

「サレ、助かりたいか。ならば私に傅けばいい。簡単なことだ。どうだ、サレ。頷くだけで良いんだぞ。ネイトの手からお前を助ける力を与えようではないか」

「ネイト……ネイトか。良い子だ、ネイト。お前は優しい子だ。ネイト、医者を呼んでくれ」

「わかった。わかったよ、お爺ちゃん、待ってて」

  脱兎の如くに飛び出すネイトに、悪霊は舌打ちの真似をして顔を歪めた。

「サレ。お前自身は忍耐できても、たとえばガレが井戸に落ちたとしたらどうかな。可愛い孫の命を、お前は」

「止めろ。何をする気だ」

「仮の話だ。サレ、お前の孫は可愛い。私ですら、お前の孫を抱き締めたいと思うよ、サレ。その孫の命を」

  サレは黒い書物に手を置いて祈った。

「天におわします我らが父よ。あなたの御代が来ますように。日頃の糧を与えてくださることに感謝します。私たちの福祉を気遣ってくださり、尊い教えで導いてくださることにも感謝します」

  悪霊は嗤った。

「病を治せと祈れ。神に、信じてやるから病を治せと」

  サレは祈りを続けながら身を起こす。

「私の仕事がはかどりますように、また、そのことで私が高慢になることのないように、そして私の肉体のトゲに忍耐できるようにしてくださることにも感謝します。私があなたの敵対者を追い払うことができますよう、私にみ力をお与えください。私の信仰が神の喜びとなりますように」

  サレが立ち上がった。悪霊は一歩退く。

「成る程。これがお前の信仰か、サレ」

  サレは重い書物を片手に抱いて、片手を悪霊に伸ばした。

「あなたは天の神を崇拝しなければならず、ただその方だけに崇拝を捧げるのです」



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