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第3章 ブガッティの女、猛烈に愛しているぜ
(5)同時多発殺人事件
しおりを挟む何処から調達したのかバスタオルを床に敷く捜査員。其のタオルを踏んで靴底の血糊を拭き取れという意味らしい。
アントローサはバスタオルの上で不器用なダンスを踊り、タオルは血糊で赤黒く染まってぐちゃぐちゃになった。
「さぁ、行こう」
「ワン、ワン。ご主人様と一緒で嬉しいなぁ」
「嘘をつけ。其れなら何で警察を辞めた」
「いやぁ、朝起きられなくてぇ」
「お前がか。嘘ならもっと高級な嘘を聞いてみたいものだ。月旅行に行く為だとかアラブの王族と結婚するとか」
「ははは。ヒエラルキーの違いかなぁ」
「嘘をつくのにヒエラルキーが関係するのか」
血の靴跡を見ながらアントローサが独り言ちる。
「犯人は靴跡を残さずどうやって此の現場から逃げた……」
「簡単ですよ、伯父貴。予め他の靴を用意していたはずです。返り血を浴びて衣服も着替えなければならないはずですからね」
「床には下足痕がなかった」
「こうやって、下足痕消しながら」
アントローサは後から知ることになるのだが、風呂場の洗濯物の中に女物の衣類と血塗れの白衣が脱ぎ捨てられており、表通りのゴミ箱からは、袋入りの血塗れの皮膚が発見された。
「計画的犯行と言うのだな。ではあの残忍さは」
「復讐かなぁ。彼処まで時間をかけて人間を壊せるなら相当な恨みか、あとは狂人の仕業……ぁ……」
「どうした。何か思い当たることが」
「いやぁ、クライアントが待っていることをすっかり忘れてて、あはは……ヤバいな。ラナンタータが上手く持て成してくれてたら良いんだけど」
「あの子は無理だ。人間を化け物だと思っている。持て成しならラルポアが上手い。たとえ一個師団が来ても丁重に持て成すだろう。心配するな」
「此の部屋だ。失礼しますよ」
ドアの隙間から中を覗く。殺風景過ぎるほど家具のない部屋で、別段異常は見られない。カナンデラがドアを開く。
「伯父貴、あれは……」
奥の部屋に足が見えた。生活感に押し潰されそうな古びたキッチンに不似合いの、若い女が倒れている。首が折られていることは、身体の向きに対する異常な角度から一目でわかる。あり得ない姿だった。
此れが妹なら100ブロック先にでも届く悲鳴をあげる処だ。そしてへなへな崩れる。あの男の魂消た気持ちがわかるぜ。
しかし、惜しい美女だ。
カナンデラはアントローサ警部の指示待ちに徹している。部外者が勝手に触るなと言われることは必定だ。
アントローサ警部は、付いて来た若い捜査員に「ここにも人を割け」と伝えて、自身は隣室をノックする。聞き込み開始だ。
カナンデラは向かい側の部屋をノックした。
ラナンタータはイサドラにコートを脱いだらどうかと言い、イサドラは睡眠不足で寒気がすると断り、ラルポアはお茶のお代わりを勧めた。
「昨日出てきたばかりだから、大した服を持ってなくて、薄着なの。友人も裕福な暮らしはしていないから、このコートくらいなものよ」
イサドラは、未払い分の給料を待っている。お金が入ればホテルに泊まるつもりだが、目立ってはいけない。天才ダンサーとしてだけでなく精神異常の殺人鬼としても名を馳せてしまった街だ。
「カナンデラさん、遅いわね」
イサドラの顔に険はない。寧ろ楽しげですらある。本当は来たくなかったのに、此の街でやるべきことを思うと、どうしても心が華やぐ。
「まあ、カナンが明日も生きていたければ他人様の給料で飲み歩いたりしないはずだけどね」
「ふふふ。私の給料って雀の涙くらいなものよ。探偵さんの飲み代になるかしら」
「それはおかしい。踊りとは一言で言えば神に捧げる芸術だよね。しかも一瞬一瞬の芸術」
ラナンタータが言い切った。
「他の誰にも代われない自分の肉体を使った一瞬の芸術。努力も痛みも、踊ったあとには残像すらも残らない。表現としては消えてしまうもので後に残らない。外側から観る者にとっては、例え動画撮影しても180度全てを写し取れる訳ではないし、観賞しつくせるものではない。空気を切り裂きながら、踊り手は空気に溶けようもない物質の身体を意識する。そしてその意識すら残せずに全てが空気に溶けていく、そういうものだ。其れをあなたは舞台の上で実践してきたのではなかったか」
滔々と持論を述べるラナンタータは真剣そのものだ。
「ラナンタータ……有り難う」
予想もしなかった相手の理解に溶かされて、イサドラ・ナリスの鼻が赤らむ。目に細かい光が宿り壊れて流れた。
ラルポアが胸のチーフをすっと出す。こういうときのラルポアは、天才的に自然に振る舞う。イサドラの手にハンカチが手渡された。
イサドラは思いがけない親切に、暫く目を細めてラルポアを見つめ、チーフを受け取った。
カナンデラは頼まれてもいない殺人事件に首を突っ込んで、アントローサに恩義を売るつもりでいる。
向かいの部屋の住人は眼鏡を掛けた痩せた若いお針子、同居の弟はレストランの厨房見習いと言った。
「その部屋は夜仕事の方で、女性はたしかコリーン、男性はポール言ってお兄さんだと……たまに羽根売りを見ました」
殺人事件と聞いて震え上がった女性は、眼鏡の縁を指先で上げて廊下の左右を確認した。警察の姿を見て、目の前のカナンデラを刑事だと勘違いしたらしく、すらすら答える。
「羽根売りって」
「あの色とりどりの羽根のブローチです。虹羽根とか、貧しい子供たちに愛の手を、と言って街角で寄付を乞う」
「コリーンは子持ちなのか」
「さぁ、よくわかりません。弟が帰る前に食事を作らなければならないので、もう良いですか」
「もうひとつ、弟さんのレストランは何処」
「ボナペティです。ケインズ・ファミーユの一階のボナペティというレストランです」
「有り難う」
「弟が何か……」
「いや、このアパルトマンの住人全てを調べる必要があるだけです」
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