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第十二話
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二日後、お美津は元気よく出立した。
時雨は道中の路銀として五十両を手渡した。当然断られたが、最後は時雨が無理矢理荷物の中に押し込んだ。
そしてもう一つ贈り物をした。
国俊の刀だ。軽くて扱いやすいものを時雨は選んでいた。一応無銘と言って渡してある。
手持ちの武具がなかったお美津は喜んで受け取ってくれた。
あの後、昨日の夜まで二人は互いを貪り続け、今朝は一緒に目を覚ました。
そして二人で泣いた。
送り出した後、時雨は気そぞろになっていた。やはりお美津の出立が堪えたようだ。
今は夕刻、まだ一人として客は取っていない。二人ほど馴染みの客が来たが、体調が悪いと言って帰ってもらった。
そのような日が三日ほど続いたあと、事件は起こった。
昼時、ばたばたと廊下を走る音が聞こえ、近づいてくる。その足音は時雨の部屋の前で止まった。
「時雨、入って良いかい!!」
勘左衛門ではなく遣手婆のお京の声だ。
半分悲鳴のような声だ。相当焦っているようすだったので時雨は入るように促す。
「……なんでありんすか」
お京はぜいぜいと肩で呼吸をしていた。額にも汗がにじんでいる。
「ぜ、膳屋の太夫、枸橘と鬼灯が殺されたよ!」
時雨は何の反応も示さなかった。
吉原では太夫職では滅多にないが、客の諍いで遊女が殺されることは珍しくはない。
特に膳屋は大見世だがあまり評判は良くない。
遊女達の扱いが悪いからだ。
それでも接客は良い。
だから遊女達は男を性技で虜にし、捕まえて吉原を出ようとする。早い話が焦りすぎなのだ。
「お京さん、そんなに慌てることでもないでなんしょ。吉原ではよくあることでござんしょ」
あまり興味がないという風に時雨は床に潜り込んだ。しかし、掛布団はすぐに剥ぎ取られた。ぬるい空気が時雨の心地よい気分を削ぐ。
「……お京さん。何をするんでありんすか。事によっちゃぁ容赦いたしんせんよ」
「殺ったのは……、殺ったのは東風だっていう話なんだよ!」
一瞬だけ時雨の思考が止まった。
刹那、時雨は飛び起きていた。
「東風は!、東風はどうなった!」
時雨はお京に詰め寄り、両肩を掴んで揺さぶった。
「東風は、東風は……殺されたよ……」
消え入るような声でお京は事実を告げた。気が抜けたようにへたり込む。
「あの、あの膳屋の亡八が殺すように命じたらしい」
亡八……。それは吉原で見世を運営する楼主のことだ。
なぜ亡八と呼ばれるかというと仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳を失った者という意味だ。
また、吉原に通う者達もまれにそう呼ばれる。
時雨はすぐに立ち上がり、外出用の着流しを引っ張り出す。着替えながら事の詳細をお京から聞き出していた。
膳屋の枸橘と鬼灯は茶屋まで馴染みのお大尽を迎えに行くため、見世を出たところで襲われたらしい。二人とも短刀でめった刺しだったようだ。
その後、膳屋の若い者達と斬り合いになりさらに数名が大けがをしたということだ。
今は吉原の外の番屋から与騎までもが出張ってきているらしい。
勘左衛門も楼主として呼び出されているということだ。
着替えを済ませた時雨は新調した琴の口前と龍舌を外し、中から二振りの太刀を取り出す。
一振りを帯の中に、もう一振りを腰に巻き付ける。一振りには帯取が付いていた。前後に振って帯取りの遊びを確認する。
髪を結わず流したままなので、ぱっと見は長髪の若侍に見える。
「行ってくる。お京さんは暫くここで休んでて。
今、禿を呼ぶから」
そのままお京を残して部屋を出て、階下へと降りていった。
時雨は番頭に声をかけ事情を説明する。
番頭も事件の話は聞いていたらしく、時雨の客を帰すこと、部屋に禿をよこすことを確認して指示を出している。
時雨は最後に一言付け加えた。
「このことはまだ他のみんなには隠して欲しい。もっとも来た客が吹き込むだろうけどね。
いっそ休みにした方が良いかもしれないが……父様がいないからね。番頭さんとお京さんの判断で見世は閉めても良いと思う。
じゃあ」
そこらにいた禿を呼び、雪駄を用意させる。そしてそのまま網代笠をかぶり膳屋を目指し歩きだした。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
膳屋の前には人集りが出来ていた。玄関先にはおびただしい血痕が残っている。莚が三枚あるということはまだ遺骸は動かされてはいないらしい。
側には与騎一人と同心二人、岡っ引きが五人。
源五郎親分とその手下も数人集まっていた。源五郎の手下達は見物人達を近づかせないようにしている。
膳屋はすべての扉や窓を閉じ、休業の張り紙を出している。誰も顔を出して覗いている者はいない。
時雨は源五郎の手下の一人に近づいた。その男は先日、時雨の膝を顔面に受けた男だった。
「済まないが源五郎親分と話がしたい」
そう言った時雨に男は睨みをきかせてきたが、笠の中の顔を見た瞬間、【ひぃ】という声をあげ、源五郎の元へ走って行った。男は時雨の方を指さし、身振り手振りで話をしている。源五郎は時雨の方を見ると裏路地へ通じる方を指さし歩き出した。時雨も同じ方へ歩き出す。
「おぅ、時雨、今忙しいんだがな」
源五郎は頭を掻きながら早く話せと言わんばかりの表情をした。
しかし、その態度はすぐに豹変する。何度か時雨の冷気を纏う殺気を感じたことはあったが、今回は殺気だけではなかった。腰に佩かれている太刀の鯉口は切られていた。
「ま、まて。わかった、わかったから抜くんじゃねぇ」
源五郎は両手を前に突き出し、落ち着けという仕草をする。時雨は鯉口を切ったまま口を開いた。
「うちの父様は今どこにいる?
それと東風だというのは本当か?
遺骸を見ることはできるのか?」
時雨は早口でまくし立てた。源五郎は慎重に言葉を選んでいる様子。
目をあちらこちらに走らせ、考えをまとめているようだ。
「あー、勘左衛門さんと膳屋の籐兵衛さんは番屋だ。
与騎の筒井さまと一緒だ。
おやじも出てきている。それと東風なのはまず間違いない。
勘左衛門さんが面通しをした。俺も見たがありゃあ別人だ……」
そこまで言って言葉を切った。額にうっすらと汗が浮かんでいる。
「遺体はまだ見れない。多分無理だ。
ま、まて、怒るな、な、岡崎様に聞いてみるから待ってろ」
時雨の手が柄に伸びたのを見て、源五郎は慌てて走り出した。
時雨は源五郎が帰ってくるまで、鯉口を切り、柄に手を掛けたままだった。
暫くして源五郎は戻ってきた。
与騎の岡崎を連れて。
時雨は道中の路銀として五十両を手渡した。当然断られたが、最後は時雨が無理矢理荷物の中に押し込んだ。
そしてもう一つ贈り物をした。
国俊の刀だ。軽くて扱いやすいものを時雨は選んでいた。一応無銘と言って渡してある。
手持ちの武具がなかったお美津は喜んで受け取ってくれた。
あの後、昨日の夜まで二人は互いを貪り続け、今朝は一緒に目を覚ました。
そして二人で泣いた。
送り出した後、時雨は気そぞろになっていた。やはりお美津の出立が堪えたようだ。
今は夕刻、まだ一人として客は取っていない。二人ほど馴染みの客が来たが、体調が悪いと言って帰ってもらった。
そのような日が三日ほど続いたあと、事件は起こった。
昼時、ばたばたと廊下を走る音が聞こえ、近づいてくる。その足音は時雨の部屋の前で止まった。
「時雨、入って良いかい!!」
勘左衛門ではなく遣手婆のお京の声だ。
半分悲鳴のような声だ。相当焦っているようすだったので時雨は入るように促す。
「……なんでありんすか」
お京はぜいぜいと肩で呼吸をしていた。額にも汗がにじんでいる。
「ぜ、膳屋の太夫、枸橘と鬼灯が殺されたよ!」
時雨は何の反応も示さなかった。
吉原では太夫職では滅多にないが、客の諍いで遊女が殺されることは珍しくはない。
特に膳屋は大見世だがあまり評判は良くない。
遊女達の扱いが悪いからだ。
それでも接客は良い。
だから遊女達は男を性技で虜にし、捕まえて吉原を出ようとする。早い話が焦りすぎなのだ。
「お京さん、そんなに慌てることでもないでなんしょ。吉原ではよくあることでござんしょ」
あまり興味がないという風に時雨は床に潜り込んだ。しかし、掛布団はすぐに剥ぎ取られた。ぬるい空気が時雨の心地よい気分を削ぐ。
「……お京さん。何をするんでありんすか。事によっちゃぁ容赦いたしんせんよ」
「殺ったのは……、殺ったのは東風だっていう話なんだよ!」
一瞬だけ時雨の思考が止まった。
刹那、時雨は飛び起きていた。
「東風は!、東風はどうなった!」
時雨はお京に詰め寄り、両肩を掴んで揺さぶった。
「東風は、東風は……殺されたよ……」
消え入るような声でお京は事実を告げた。気が抜けたようにへたり込む。
「あの、あの膳屋の亡八が殺すように命じたらしい」
亡八……。それは吉原で見世を運営する楼主のことだ。
なぜ亡八と呼ばれるかというと仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳を失った者という意味だ。
また、吉原に通う者達もまれにそう呼ばれる。
時雨はすぐに立ち上がり、外出用の着流しを引っ張り出す。着替えながら事の詳細をお京から聞き出していた。
膳屋の枸橘と鬼灯は茶屋まで馴染みのお大尽を迎えに行くため、見世を出たところで襲われたらしい。二人とも短刀でめった刺しだったようだ。
その後、膳屋の若い者達と斬り合いになりさらに数名が大けがをしたということだ。
今は吉原の外の番屋から与騎までもが出張ってきているらしい。
勘左衛門も楼主として呼び出されているということだ。
着替えを済ませた時雨は新調した琴の口前と龍舌を外し、中から二振りの太刀を取り出す。
一振りを帯の中に、もう一振りを腰に巻き付ける。一振りには帯取が付いていた。前後に振って帯取りの遊びを確認する。
髪を結わず流したままなので、ぱっと見は長髪の若侍に見える。
「行ってくる。お京さんは暫くここで休んでて。
今、禿を呼ぶから」
そのままお京を残して部屋を出て、階下へと降りていった。
時雨は番頭に声をかけ事情を説明する。
番頭も事件の話は聞いていたらしく、時雨の客を帰すこと、部屋に禿をよこすことを確認して指示を出している。
時雨は最後に一言付け加えた。
「このことはまだ他のみんなには隠して欲しい。もっとも来た客が吹き込むだろうけどね。
いっそ休みにした方が良いかもしれないが……父様がいないからね。番頭さんとお京さんの判断で見世は閉めても良いと思う。
じゃあ」
そこらにいた禿を呼び、雪駄を用意させる。そしてそのまま網代笠をかぶり膳屋を目指し歩きだした。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
膳屋の前には人集りが出来ていた。玄関先にはおびただしい血痕が残っている。莚が三枚あるということはまだ遺骸は動かされてはいないらしい。
側には与騎一人と同心二人、岡っ引きが五人。
源五郎親分とその手下も数人集まっていた。源五郎の手下達は見物人達を近づかせないようにしている。
膳屋はすべての扉や窓を閉じ、休業の張り紙を出している。誰も顔を出して覗いている者はいない。
時雨は源五郎の手下の一人に近づいた。その男は先日、時雨の膝を顔面に受けた男だった。
「済まないが源五郎親分と話がしたい」
そう言った時雨に男は睨みをきかせてきたが、笠の中の顔を見た瞬間、【ひぃ】という声をあげ、源五郎の元へ走って行った。男は時雨の方を指さし、身振り手振りで話をしている。源五郎は時雨の方を見ると裏路地へ通じる方を指さし歩き出した。時雨も同じ方へ歩き出す。
「おぅ、時雨、今忙しいんだがな」
源五郎は頭を掻きながら早く話せと言わんばかりの表情をした。
しかし、その態度はすぐに豹変する。何度か時雨の冷気を纏う殺気を感じたことはあったが、今回は殺気だけではなかった。腰に佩かれている太刀の鯉口は切られていた。
「ま、まて。わかった、わかったから抜くんじゃねぇ」
源五郎は両手を前に突き出し、落ち着けという仕草をする。時雨は鯉口を切ったまま口を開いた。
「うちの父様は今どこにいる?
それと東風だというのは本当か?
遺骸を見ることはできるのか?」
時雨は早口でまくし立てた。源五郎は慎重に言葉を選んでいる様子。
目をあちらこちらに走らせ、考えをまとめているようだ。
「あー、勘左衛門さんと膳屋の籐兵衛さんは番屋だ。
与騎の筒井さまと一緒だ。
おやじも出てきている。それと東風なのはまず間違いない。
勘左衛門さんが面通しをした。俺も見たがありゃあ別人だ……」
そこまで言って言葉を切った。額にうっすらと汗が浮かんでいる。
「遺体はまだ見れない。多分無理だ。
ま、まて、怒るな、な、岡崎様に聞いてみるから待ってろ」
時雨の手が柄に伸びたのを見て、源五郎は慌てて走り出した。
時雨は源五郎が帰ってくるまで、鯉口を切り、柄に手を掛けたままだった。
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