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第1章

『心の扉を開いて』

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 タウレコの2階には、小規模なイベント会場がある。壇上に設置された長机にガップレメンバー5人が並んで座り、サイン会が行われている。
 タウレコにてCDを購入してくれた方々に、メンバー1人からのサインと握手をプレゼントするという流れになっていた。
 「流れ」と言ったが、まさしく本当に流れ作業のように次から次へと人が流れていく。参加者はまるで某「夢と魔法の国」のアトラクション待機列のように、ロープで区切られた人1人通れるほどの通路にズラリと並び、それが階段下まで綺麗に続いていた。ちなみに何処まで続いているのかは分からないし想像するのも恐ろしい。
 しかし、待つ方も待つ方だが書く方も書く方だ。ガップレのユウこと入月勇志は書いても書いても終わりが見えず、サインを書く手が既に限界を迎えていた。

(このただの文字に、一体何の価値があるというのだろうか……)

 そもそも、【Godly Place】がサイン会を開くというのは初めてのことで、今まで経験がない。この大規模な握手&サイン会が業界のスタンダードなのだろうと本人たちは思っていたが、実際は人数制限を設けていたり、抽選で選んだりというのが基本だという。この事実を彼等はまだ知らない……
 そして、待機列が店の外まで続き、最長の時は駅の前まで続いたということも……
 後にこの事件は、【Godly Place】のメンバー間で『地獄のサイン会』と語られ続けるのであった。

「ぐふあッ!?(手が…! 手がぁああ!!?)」
 
 遂に限界を迎えた手がペンを握った形のまま小刻みに震える。元々ミミズがのたくったような字なのに、更にクネクネの字になってしまう。

(ああーッ! 手は痛いし、マスクの所為で視界も狭いし、なんという苦行だよ、これは!)

「キャーッ!! 生ユウさんだー!! 大ファンなんです! 握手してくださいッ!!」
「はい、ありがとうございます。これこらもよろしく」
「キャーッ!! ありがとうございます!これ手作りのお菓子です! 愛情込めて作ったので、よかったら食べてください!」
「あ、ありがとう…… 後ほど、じっくり味わって食べさせていただきますね……」
「キャーッ!! ありがとうございます! これからも応援してます! 頑張ってください!!」
「あ、ありがとう… よろしくお願いします… 」

 このような熱狂的ファンとのやり取りも、最初こそ驚き照れ臭い気もしたものだが、数え切れないほど繰り返している中で、いつの間にか慣れてしまっている自分が少し恐ろしい。

(いかんいかん、感謝の心を忘れずにいなければ!)

 こうして短くない間、多くのファンと触れ合う中で、性別から世代などの傾向に全く統一感がないことに気が付いた。
 バンドの顔とも言える『ミュア』には、若い女性だけでなく、子供やオタク系の方々も多い。つい最近では音楽情報誌で特集を組まれたりと、メンバーの中でも1番メディア露出が多いのが要因だろう。
 『マシュ』『ヨシヤ』は圧倒的に女性人気が高い。マシュは筋肉好きに、ヨシヤは大人のお姉さんたちに、それぞれ需要があるのだろう。
 『ショウちゃん』の所だけ少し毛色が違い、「あれ?間違えてメタルバンドの握手会に来ちゃったのかな?」と思うくらい、革ジャンだのチェーンだのをジャラジャラさせた世紀末の方々が、やけに腰を低く手を差し伸ばしていた。

「ショウ様!お目に掛かかれて光栄でございます!」
「俺たちは何処までもショウ様に付いていきますッ!」
「うむ、苦しゅうない」
(大丈夫……? なんか新手の信仰宗教とか始めないよね?)

 ユウのエリアも女性比率は多いが、マシュやヨシヤ程ではなく、老若男女問わず多種多様の人たちと握手を交わしていた。特に子供たちから「応援してるね!」と言われると、飛び跳ねそうなほど嬉しかったが、ほとんどの子供たちはリアルで見るホラーマスクを怖がって握手してくれなかった。

「むむむ……(握手会なのに、握手してあげる方が避けられるというのはどういうことか……)」
「ふふっ……」

 隣から堪えきれなかった笑い声が聞こえてくる。子供たちから避けられるたびに、ミュアが必死に笑うのを堪える姿が視界の端に映った。そうかと思うと、今度はファンの女の子に「キャーキャー」言われる度に鋭い視線を送られている。

(俺が一体何をしたというのだろうか……)

「えーと、ミュアさん? 」

 ファンが入れ替わるタイミングを見計らい、隣の視線の主に小声で話し掛けることにした。

「僕、何か変なことしてましたかね?」
「別に、何でもない!」
(えー、ちょっと怒ってなーい!?)

 「勇志のことが気になっていたから」などと、面と向かって言えるはずもなく、歩美はつい突き放す口調になってしまった。そんな乙女心を勇志が理解出来るはずもなく、次のファンが目の前に現れる。
 
 「あのー……」
「あ、はい!ごめんなさい!」

 ミュアの方に顔を向けていたユウは、次に来ていたファンに気付いておらず、声を掛けられてすぐに向き直って謝罪をした。

「い、いえ…… 」
「えっ……!?」

 見覚えのある制服に青紫色のストレートな髪がひらりと揺れる。すらりと伸びた脚の美しさは厚手の黒タイツでは隠すことはできない。

(ま、まさか……)

 ゆっくりと、目の前に立つ人物を見上げるように顔を上げると……
 
「その、よ、よろしくお願いします……」

 そこには、伏せ目がちに顔を赤らめている『橘時雨』が、緊張で震える体をどうにか抑えて立っていた。

「こ、こちらこそよろしくおね、お願いします(あれー!?橘さん?何か雰囲気違くないですか?いつものキャラはどうしちゃったんですかー!?)」

 一瞬、別人かとも思える程に、年頃の女の子(実際、年頃の女の子なんだけども)のような照れ方をしている時雨に、勇志は「いやでも、どちらかといえばありだな」と不純なことを考えていた。

 (――っと、いかんいかん! つい見惚れてしまった)

 今の自分はガップレのユウだということを再確認して、冷静に普段通りにユウを演じる。

「えーと、お名前はなんと書けばよろしいですか?」

  ユウの時の勇志は普段の喋り方より少し高い声で話す。ほぼ顔全体を隠してくれている仮面マスクとの相乗効果により、誰にも正体は暴けまいと自負していた。

「その、『時雨』でお願いします…… えっと、時間の時に、天気の雨で『時雨』です」
「わかりました」

 どうやら時雨もユウの正体には気付いていない様子。ユウは内心ほっと胸を撫で下ろしながら、差し出されたCDケースを慣れた手つきで開いた。
 ディスクの上の方に、いつも通りサインを書き、右下に『時雨さんへ』と付け加える。いつもと全く雰囲気の異なる時雨に戸惑いつつも、何とかサインを書き終えたユウは、CDを90度回転させて時雨へ手渡した。

「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます!」

 サインを書いたCDを時雨に手渡すと、今まで見たことのない満面の笑みでお礼を言われ、ユウはまた少し見惚れてしまった。

「――あの!」
「ふぁッい!?」

 見惚れていた所に咄嗟に声をかけられて、つい変な声が出るほど驚いてしまう。
 一瞬、会場内の視線、特にミュアの刺すような視線を一身に集めてしまうが「ゴホンっ!」と、わざとらしく大きな咳払いをすると、また元の喧騒が戻ってきた。

「失礼しました…… それで何か?」

 再び時雨に視線を戻したユウが見たものは、初恋の相手に想いを告げようとするが、なかなか最初の第一声が出てこないような、そんな可愛らしい仕草をしている時雨がそこにはいた。
 その姿に見惚れそうになるのをグッと堪えながら、ユウは時雨の次の言葉を待った。

「その、最後に歌った曲、あれは……」
「あの曲は――」

 そこから先の言葉に詰まり、黙ってしまう時雨にユウが答えを出す。まるで時雨が言いたかったことが分かっていたかのように。

「――『INイン』っていうタイトルにしようと思っています」
「それって……?」
「恥ずかしい話、『IN』はあの時、あの瞬間に降りてきた曲で『限りない蒼の世界』のアンサーソングになる…… のかな?」

 隠す必要はない。雑誌のインタビューやらで遅かれ早かれ話すことだ。

 「どうしてあの場で歌ってくれたんですか?」

 なら尚更、そんなぶっつけ本番で歌わなくても良かったのではないか。何か特別な理由があるはずだと、時雨は確信しているかのようにユウに尋ねた。
(誤魔化してはいけない)と何故か感じた。きっとこれは時雨のこれからの人生に関わるような、そんな予感さえしていた。

「あるファンの方が、『限りない蒼の世界』が好きだって話してくれたんです。けれど、その人は何処か『寂しそう』に見えたんです」
「寂しそう……?」

 あの時、遠くを見つめていたその瞳は、現在いまではなく記憶かこを見ているような、大切な人との思い出を忘れてしまったような……

「誰にでもきっと僕のように、仮面の下に隠しておきたいことがあって、それを探られることは凄く辛いことだし、苦しいことだと思う」

 時雨の心に小さな針が刺さったような痛みが襲う。

「その人は誰かに分かち合わないと『変われない』『前に進めないと知っている』だけど、出来ない。曝け出すのは怖いし、土足で上られて傷付くのは痛いから……」

 違う人の話のはずなのに、まるで自分のことを見透しているような、的確で容赦のない事実を突き付けられた気がして時雨は咄嗟に目を逸らす。

「でも――」
「…………」

 その次の言葉が聞きたい。
 再びユウを見据えた瞳には『期待』そして、『恐れ』の色が浮かび上がる。

「――その人の名前を呼んでいる人がいる。心の扉の前に立ち、その人が自分から扉を開けて、招き入れてくれるのをずっと待っている人がいる」
「名前を呼んで、待ってくれている人……?」
「だから、そのファンの方に、名前を呼んでくれる人がいるって伝えたくて…… 」

 その後の言葉は続かない。それでも、時雨はユウが何を伝えようとしてくれているのかが充分に理解することができた。

「その、私にもいるでしょうか?私の名前を呼んで、待ってくれている人が……」
「もちろん、時雨さんにも、必ず……!」

 心の扉が鈍い軋みを上げて、ゆっくりと開いていく。何年もの間、固く閉ざしていたその扉は、重くて頑丈で、もう開かないかもしれないと思い込んでいた。
 しかし、鍵を外せば軽く、簡単にその扉は開いてしまう。
 頑丈で安全だと思っていた扉は、あまりにも薄く、あまりにも脆かったということに初めて気が付いた。

「その人は…… 私が扉を開いたら、何て言うと思いますか!?」

 もう少し、後もう少しで大事なことが思い出せる気がする。時雨の両手にグッと力がこもる。

「うーん…… きっと――」

 扉の隙間から光が差し込む。
 暖かく懐かしい光……

「――きっと『ただいま』って、言ってくれると思いますよ」
「――お… とう、さん?」

 いつもの笑顔で、いつものようにギターを掻き鳴らし、時には怒り、時には泣いて……
 扉の先には、大好きな父が「ただいま」と、時雨に向かって微笑みかけていた。

「う、うわあああああんッ!!」
「………… いや、ちょっ、えええぇ~!?」

 堪らず、その場で泣き崩れる時雨と、突然のことでパニックになるユウ。
 会場全体がこれは何事かと大騒ぎになった。

(あわわわわわ…… 一体これはどうすればいいんだ!?えーっと、スタッフ~!スタッフ~っ!)

 キョロキョロと辺りを見回しながら、ユウは心の中でスタッフを呼び続けたのだった。
 
「ユウ!?一体その人に何をしたのよ!?」
「わかりませんッ!!」

 隣のミュアから非難の目で見られるが、ユウにも状況は理解出来ていない。こうしている今も、眼下で時雨は泣き続けている。

(待って、客観的に状況を整理しよう!)

 ユウは冷静さを取り戻し、自身の置かれている状況を脳内で整理し始めた。
 橘は俺と話していて突然泣き崩れた。俺との会話の中で、何かがトリガーになったのは間違いないけど、故意にこのような状況を引き起こそうと思ったわけではないし、ましてや橘がこんなに大泣きするなんて誰が想像できようか。起こってしまったことは仕方がない。ならば、客観的に見たらどうだ?女子高生と仮面マスクの男がお互い1人。仮面マスクの男が、女子高生にあれやこれやと言っていたら、女子高生か泣き崩れた……

(ダメだこれは!完全に俺が悪者じゃないか!?)

 ユウは気付いてしまった。
 この状況では言い逃れできないと……
 そして、覚悟を決めた。
 セクハラ容疑で捕らえられ、牢に入れられることを……

(母さん、百合華、みんな、ごめん……  俺は、行くよ)

 新聞の見出しには赤字で、『【Godly Place】ボーカルギター、セクハラ』と書かれ、連日のニュースでは、警察車の後部座席にスーツの男2人に挟まれるようにして連行される仮面マスクの男の映像が何度も何度もループする。テロップには「容疑を一部否定しているが、概ね認めている」と流れている。

「そこのあなた、大丈夫ですか!?」
「ゔっ、うぅぅ…… 」

 ユウの前で蹲りながら泣いている女性に、ミュアが駆け寄り声を掛ける。

「えっ……(この子、橘時雨じゃない!?でも、こんなに感情的になったところ見たことない……)

 歩美と時雨は、1年の時に同じクラスだった。
 別段、仲が良いわけでも悪いわけでもなかったが、その頃から時雨は表情を変えず、人とあまり接点を持とうとしなかった。そのくせ、クラス委員や部活動には積極的に参加する、『2面性』のある人物だと歩美は思っていた。

 ある日突然、時雨に「私と同じ境遇なのに、どうしてあなたは自分のままでいられるの?」と、聞かれたことがあった。
 「ありのままの私を受け入れてくれる人がいるから……」と伝えたが、時雨にはそれが受け入れられなかった。いや、理解する事ができなかった。

(きっとユウには、あの時の私と今の時雨の姿が重なって見えたのね……)

 だから、勇志は『IN』を歌い、時雨は自分の心の扉の開いて…… ほんと、勇志はいつもお節介なんだから……  でも、そんな勇志が、私は……

「ごック、ごめんなさい…… ゔっ、もうだ、大丈夫ッ、です……」

 数分程で、時雨はその場からよろめきながらも立ち上がり、言葉を詰まらせながら何とか謝罪をするが、その姿は誰が見ても到底大丈夫とは言えない状態だった。

「どこか静かなところで休みましょう。ユウ、手伝って!」
「……は、はいッ!」

 ミュアとユウに支えられるように会場を後にした時雨は、スタッフに案内されて近くの空き部屋に移動した。

「ごめんなさい…… お二人に迷惑を掛けてしまって……」

 その部屋に用意されていた、2人掛け用のソファーに時雨を座らせた後、時雨はユウとミュアの2人に向けて改めて謝罪をした。

「時雨さん、ごめんなさい!僕がでしゃばって余計なことを言ったばかりに、時雨さんを傷付けてしまって……!」
「違うんです!ユウさんは何も悪くありません!私が勝手に色々思い出してしまって、それで……」
「…………」
「…………」

 それからお互いに掛ける言葉が見つからず、黙り込む。時雨は初対面の、しかも有名人に、何を話すことがあるかと自制し、一方ユウは下手に話し掛けると、自分が勇志であるとバレてしまうのではないかという不安からだった。

「ユウ、そろそろ会場に戻ったら?」
「いや、でも……!」

 引く気はないと、身体に力を込めるユウの耳元で、ミュアが時雨に聞こえないように何やら話し掛けると、ユウは「ごめん!」と一言、すぐに部屋を後にした。

 ミュアは、まだ少し放心状態の時雨を横目に、嫌な記憶が広がっていくのを感じていた。

 あの時は、勇志が側にいて救ってくれた。
 その日、その瞬間から、それだけが私の『全て』になった。それは今も、これからも変わらない。
 
 だから納得してしまった。この心の黒いモヤモヤした気持ちは、勇志の『優しさ』が、自分以外の相手に向くことへの『嫉妬』だということを……
 勇志は誰にでも分け隔てなく接し、誰にでも優しい。その優しさで自分が傷付くことも厭わない。そのことを私は誰よりもよく知っていて、理解しているつもりだったのに……

(私、醜いな……)

 部屋の扉が軽くノックされる。
 程なくして開いた扉から、入月勇志が一応、中を伺うように入って来た。

「ここに俺の連れがいるって聞いたんですけど……」
「どうぞ、ソファーに座って休んでいます」
「ありがとうございます」
「では、私はこれで……」

 時雨のもとに駆け寄る勇志に、短く振り返りながら、ミュアは入れ替わるように部屋を後にした。
 勇志には、扉が閉まる直前、ミュアがどれほど思い詰めた表情をしていたかなど、気付く余地もなかった。


……

…………

………………


 その後の空き部屋に残った2人は、別段いい雰囲気になったりとか、逆に険悪なムードになったわけでもなく、特に話もないまま2人で駅まで行き、そのまま駅のホームで分かれた。

 時雨は無言のまま電車に乗った。
 しかし、電車の扉が2人を隔てた後、何か一言、勇志に向かって言葉を発し、そして少し笑った気がした。

「――今『ありがとう』って、言ってたよな……?」

 誰に聞くでもなく、自分自身への答えとして、勇志は電車が見えなくなるまで時雨を見送った。
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