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1巻
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プロローグ
森の中の小さな家。その一室に、裸の女がいた。
緩やかな癖のあるダスティローズの髪に、なめらかな白い肌。鎖骨の下には特徴的な文様の痣が浮かんでいる。
ベッドの上で裸体を晒す女の瞳は深い霧に包まれたように曇り、その奥に意思は見えなかった。
彼女の痴態を眺める男が、くつくつと喉を鳴らす。
「ツィーラ、足を広げて。僕にもっとよく見せて?」
彼女の脚を掴んで開くこともできたが、ナハルドはあえてそう命令した。
今の彼女にとって、ナハルドの言葉は絶対である。
自ら足を開いて秘部を見せろという命令に、ツィーラは顔を赤くして恥じらいを見せた。心を男によって塗りつぶされてなお、羞恥は残っているらしい。
けれどもナハルドに逆らうようなことはせず、ゆっくりと足を左右に広げていく。
「こ、これでいい?」
遠慮がちに足を開いたツィーラは、許しを乞うように問うた。
「それじゃあよく見えないよ。膝を折り曲げて、もっと大きく足を開いて」
「っ……!」
あえて意地悪く言ってみても、彼女はナハルドを責めたりはしない。
恥ずかしそうに震えながらも、膝を折り曲げて足を大きく左右に開き、隠された女性の部分をナハルドの眼前に曝け出す。
「……綺麗だ」
ナハルドは無意識に感想を口にする。
彼女の髪と同じ色をした陰毛の下にある、小さな割れ目。そこは、ナハルドの愛撫を受けて潤んでいる。
「触るよ」
熟れた果実に貪りつきたくなる衝動に耐えながら、ナハルドは彼女の割れ目に指を這わせた。
くちゅりと小さく音がして、ぬるりとした液体が絡みつく。ツィーラが自分の愛撫で感じてくれていることに喜びが湧き上がる。
「あっ、ふぅ、あぁ……」
ナハルドが動くたびに、ツィーラは艶めいた喘ぎ声を漏らす。
闇の精霊の力で支配された今の彼女は、ナハルドが何をしたって拒絶しない。
ああ、やっと、彼女が手に入った。これでもう、彼女がナハルドから離れていくことはない。
仄暗い目をしたナハルドの口元には、いびつな笑みが浮かんでいた。
一章 精霊の祝福とナハルド王子
屋敷は血の匂いで満ちていた。
美しい模様が織り込まれた青い絨毯に、赤色のシミが広がっていく。
殺されたのは屋敷の使用人だった。ツィーラをいない者として扱う夫に代わって、よく話し相手になってくれた優しい女性だ。先日、そろそろ孫が生まれるのだと嬉しそうに話していた。
その彼女が死んだ。ツィーラの目の前で、心臓を剣でひと突きされて。
窓の外では季節外れの霧雨が降り続いている。息苦しいほどの湿気と緊張で汗が止まらない。強く脈打つ鼓動を感じながら、相手の一挙一動を見逃すまいと、ツィーラは固唾を呑んで目を凝らした。
「……どうして」
どうにか紡いだ言葉は震えていた。彼女の紫紺の目は恐怖に染まり、かるく癖のついたダスティローズの髪も輝きを失っているようだ。
怯えるツィーラを前にして、血の滴る剣を握る男はいつも通り平然としている。
彼の名前はナハルド・フィーネン。精霊王国フィーラシアの第二王子であり、数カ月前に挙式したばかりのツィーラの夫である。
美しい男だった。月の光を編み込んだような柔らかな白金の髪に、高く通った鼻梁。端整な顔立ちは、まるで精巧に彫り上げられた彫像のようだ。しかし、どこか気だるげな白群の瞳は何の感情も映さず、どろりと濁っているようにも見える。
「君を庇おうとして、邪魔だったから」
冷たく床に横たわる死体を一瞥して、まるで花瓶を片づけたような口調でナハルドが告げる。彼は剣についた血を一振りして払うと、その切っ先をツィーラに向けた。
この美しい夫のことが、ツィーラはずっと苦手だった。
初対面から微笑むことなく、妻であるツィーラのことも路傍の石と同じように見る。初夜に部屋に来なかっただけでなく、結婚してからろくに会話もしたことがなかった。
それでも、こうして剣を向けられるほど恨まれているとは思わなかったのだが。
「殺したいほど、私が嫌いなのですか?」
「べつに。君のことは好きでも嫌いでもないよ。だけど、君がいればルミエナと結婚できない」
「ルミエナ様と? 馬鹿を言わないでください。ルミエナ様は王太子妃ですよ!」
ナハルドの虚無の瞳が、ルミエナを見た瞬間だけ光を宿すことにツィーラは気づいていた。
けれどルミエナは王太子妃。彼の兄であるライツェルトとすでに結婚しているのだ。
「知っているよ。精霊に祝福されたルミエナは、王太子妃にこそ相応しい――そう評されて、ライツェルト殿下と式を挙げるところを僕も見たからね」
ナハルドはライツェルトのことを兄とは呼ばない。
同腹の兄弟であるにもかかわらず、ふたりの間には幼い頃から確執があるのだと噂で聞いたことがある。
「だったらどうして! 私を殺したところで、ルミエナ様は手に入りません」
「ライツェルト殿下はもうすぐ消える」
ナハルドの声には確信が込められていた。だが、ライツェルトが不調だという話は聞いたことがない。つい先日も、精力的に政務をしている姿を見かけたばかりだ。
「殿下はご病気なのですか?」
そんなはずないと思いながらも確認すると、ナハルドはゆっくり首を左右に振った。
「殿下の統治に不満を持つ人間もいるんだよ」
ずっと動かなかったナハルドの唇が、軽く弧を描く。
恐怖を感じる笑みを見て、ツィーラの背筋が凍った。
「まさか、殿下の暗殺を?」
「さあね。これから死んでしまう君には関係ないことだよ」
おしゃべりは終わりだと言わんばかりに、ナハルドは剣を構え直す。
ツィーラはその刃から逃れるすべを持たなかった。
逃げようにも、部屋の入り口はナハルドの後ろにあるのだ。悲鳴を聞きつけて助けに来た使用人は、たった今殺されてしまった。
「……ナハルド様は正気を失っておられます!」
こんなことをして、何になるというのだ。
ナハルドの企てが明るみに出れば、王位になどつけるはずがない。
妻と兄を殺してまでルミエナを得ようとするなんて、常軌を逸している。
「そうだね。僕は闇の精霊に祝福された王子だから」
苦し紛れの罵りも、ナハルドの心を動かすことはできなかったようだ。
ナハルドの腕が動く。刃が宙を踊ったかと思うと、凄まじい衝撃とともに視界が暗転した。
身体から力が抜けて、ドサリと床に倒れ込む。
赤い命が流れ出て、どんどんと全身が冷えていった。
「これで邪魔者はいなくなった。やっと、ルミエナを迎えに行ける」
薄れゆく意識の中で、恍惚とするナハルドの声が聞こえた気がした。
ガバリとベッドから飛び起きて、ツィーラは肩で息をした。
寝汗で夜着が肌で貼り付き、心臓が早鐘を打っている。思わず腹部を手で探り、何の傷もないことを確認してホッと息を吐き出した。
(すごく怖い夢だった。本当に死んだかと思った……)
とても生々しい夢であったが、現実であるはずがない。
なぜなら、ツィーラはまだ八歳なのだ。結婚などしていないし、ナハルドとも会ったことがない。
だけど、ただの夢だとも思えなかった。
夢の中のツィーラは二十一歳だったが、その年齢まで生きてきた記憶をきちんと有していたのだ。どうやって成長して、ナハルドと婚約を結び、結婚に至ったか。細かな部分まで覚えているなんて、こんな夢は初めてだ。まるで二十一歳まで生きて、死んで時が戻ったかのような気分だった。
奇妙な夢について考えていると、胸元がチクリと小さく痛んだ。
見下ろすと、鎖骨のずっと下に小さな痣が浮かんでいる。昨日まではなかったものだ。
「精霊の祝福!」
ツィーラは叫んで、慌ててベッドから飛び下りた。廊下へ飛び出すと、ひんやりとした朝の空気が肌を撫でる。窓の外はまだ暗く、東の空には淡い光が滲んでいた。
起床するには早い時間だったが、ツィーラは構わずに廊下を走って母の寝室へと向かった。
「お母様聞いて、大変よ!」
乱暴に寝室の扉を開ける。ツィーラの母であるアマーリエはまだ眠っていたのだろう、むくりとベッドから起き上がり眉根を寄せた。
「ツィーラ、朝から騒々しいわよ」
「ごめんなさい。でも大事件、精霊の祝福をさずかったんだから」
アマーリエは、ツィーラの言葉を聞いて目を丸くした。
「まぁ、ツィーラ。それは本当なの⁉」
「本当よ! ほら、祝痣が出たの」
ツィーラは興奮した顔で夜着をずらし、胸元の痣をアマーリエに見せた。
美しい模様を描く痣は、ひと目見て特別なものだと分かる。これは祝痣と呼ばれる、精霊の祝福を受けた者だけが授けられる痣なのだ。
「すごいじゃないの、おめでとう!」
アマーリエに祝われて、ツィーラはへらりと相好を崩した。
精霊王国フィーラシアは、初代の精霊王が始まりの精霊と契約を結んでできた国だ。以来、精霊王とその仲間の子孫には何らかの精霊の加護が与えられている。
とはいえ、加護といっても大したことはできない。火の精霊の加護を受けた者は火傷しにくくなるといったような、些細な恩恵を受けるだけである。フィーラシアの貴族であれば何かしらの精霊の加護を受けているが、恩恵がささやかすぎて、自分がどの精霊の加護を受けているか分からないことがほとんどだった。
しかしときおり、精霊に特別に気に入られる者がいる。精霊に祝福された証として、身体のどこかに祝痣が浮かび上がるのだ。そして、通常の恩恵とは比べものにならない特別な力が使えるようになる。
アマーリエは急いで書棚から本を取り出した。
祝痣は授ける精霊によって模様が異なる。ツィーラがどの精霊に祝福されたのか調べるつもりなのだろう。ツィーラも気になって、アマーリエの横から本を覗き込んだ。
本には様々な模様と精霊の名前が書かれていた。ツィーラも知っている有名なものから、名前も知らないものまでずらりと並んでいる。
自由に炎を操れる焔の精霊、音楽の才を発揮する音の精霊、人の心を覗き見る鏡の精霊なんてものもある。
「あ、お母様これよ! この模様!」
祝痣と同じ模様を見つけて、ツィーラは慌てて指さした。
期待に満ちた顔をしたアマーリエは、精霊の名前を読んだ直後その表情を曇らせる。
「……時の精霊」
「それってよくない精霊さまなの?」
張りつめたアマーリエの声を聞いて、ツィーラは不安になった。祝福はめでたいことのはずなのに、彼女は嬉しくなさそうだ。
アマーリエはゆっくりと首を左右に振る。
「そんなことないわ、立派な精霊様よ。ただ、時の精霊様のお力は強くて、場合によっては混乱を招くことがあるの」
「時の精霊さまは、どんな力を授けてくださるの?」
「未来視の力よ。時の精霊様は未来を視ることができるの」
「未来を見る力……」
ツィーラは今朝見た夢を思い出して、胸の奥がざわつくような感覚に襲われた。
「今日、すごく変な夢を見たの。もしかして、それが未来視なのかな」
「どんな夢だったの?」
「……大人になった私が、殺される夢」
ツィーラは今朝見た夢の内容を話した。ナハルド殿下と結婚すること。けれど、殿下は兄嫁であるルミエナを愛していたこと。彼女を得るために、邪魔になったツィーラを殺してしまうこと。
いつもなら内容なんてすぐに忘れてしまうが、今日の夢は細部まではっきりと思い出せる。
「そう。それはとても怖い夢だったわね」
「あれが未来視だったらどうしよう。私、ナハルド殿下に殺されてしまうの?」
「ナハルド殿下に……? 大丈夫よ。時の精霊の見せる未来は、可能性のひとつに過ぎないの」
アマーリエはツィーラを慰めるように抱きしめて、優しく頭を撫でながらある話を聞かせてくれた。
フィーラシアでは代々、精霊に祝福された者を王妃に迎える慣習がある。その中のひとりに、時の精霊の祝福を受けた王妃がいた。彼女の力である未来視によってこの先の出来事が分かれば政治も安定するだろうと、彼女はたいへん期待されたらしい。
しかし、王妃が視た未来は外れた。隣国で内乱が起きると予見し、それを見越して準備をしていた国王は困ってしまったらしい。結局、嘘の報告をして国を混乱させたとして、その王妃は捕らえられたのだ。
のちに、時の精霊の未来視は絶対ではなく、幾重にも枝分かれした未来の可能性のひとつを見せるだけに過ぎないのだと判明して、彼女は釈放された。
「未来は人の手で変えられる。だから、時の精霊様は警告をくれるだけなのよ」
時の精霊が見せる未来は、悪い内容が多いらしい。そうならないように努力しろという警告なのだろうというのが、アマーリエの言葉だった。
「時の精霊様の力は、悪いものではない?」
「もちろんよ。だけど、未来が見えるという力は人の欲望を呼び起こすわ。罪人にされた王妃様のように、その力を利用されないとも限らない。……今は、精霊に祝福された少女が現れていないから、特にね」
精霊に祝福された少女――それが未来の王妃候補を指すことに、ツィーラも気づいた。祝福を受けたことで、ツィーラも王妃になる資格を得てしまったのだ。
「王妃様になったら、私も罪人にされてしまう?」
「王太子であるライツェルト殿下は賢明な方だそうなので、そんなことにはならないでしょうけど。でも、ツィーラの祝福は公にしない方がいいかもしれないわ。うちは伯爵家だからなおさら、ね」
ツィーラの生家であるオラクルフ伯爵家では、王妃になるには少し格が足りない。
他に祝福された者が現れなければ候補にあげられるだろうが、ツィーラは今朝見た夢でルミエナが王太子妃となることを知っていた。
夢の内容が正しければ、ルミエナ・グラウフェンは侯爵家の出身だ。黎明の精霊に祝福された美しい女性で、ツィーラよりよほど王妃に相応しい。
「祝福のことは、誰にも話さないほうがいい?」
「お父様とも相談しなければいけないけれど、そうした方がいいと思うわ。ツィーラは秘密にできる?」
優しく問いかけられて、ツィーラはこくりと頷いた。
祝痣を自慢したい気持ちもあるけれど、時の精霊の力はまだ未知数で少し怖い。どんな未来を視たのかと聞かれて、ナハルド殿下に殺されたなんて言えば、不敬だと罰せられるかもしれない。
「ツィーラはいい子ね。さぁ、せっかく早起きしたのだから、ドレスの準備をしておきなさい。今日は王城に行く日よ」
ツィーラはパッと顔を明るくした。王城のパーティに行くのは初めてだ。
兄から王城には美味しいお菓子があると散々聞かされていたので、楽しみにしていたのだ。
「嬉しい! あ、でも……ナハルド殿下もいらっしゃるのよね」
今朝の夢を見たあとで、ナハルドに会うのは少し怖い。
「ツィーラ、未来はいくらでも変えられるわ。今のナハルド殿下に何かされたわけではないのでしょう? 先入観で人を見てはだめよ」
「……うん、そっか。そうだよね」
もしいつかナハルドに殺されるのだとしても、それはずっと未来の話だ。
それに、ナハルドがツィーラを殺したのは、彼と結婚したからである。ルミエナと結ばれるために妻であるツィーラが邪魔だったからだ。
ナハルドもツィーラ自身を恨んでいたわけではなさそうだし、彼と結婚しなければ同じ未来になることはない。
未来は変えられるのだ。ツィーラは安心して、パーティの準備をすることにした。
穏やかな陽光が降り注ぐ王城の庭園は、軽やかな笑い声で満たされていた。
色とりどりの花が咲き誇る中に、白いテーブルクロスをかけた円卓がいくつか並べられ、そこに置かれた皿の上には小さな焼き菓子が美しく飾られている。
七歳から十二歳までの子供を対象とした、ガーデンパーティである。それぞれの母親たちが社交をする中、まだ幼い子供たちは自由に庭を駆け回っていた。
毎年行われるパーティであるが、ツィーラは昨年熱を出してしまい参加できなかったのだ。
ツィーラにとっては、これが初めての社交の場である。
アマーリエが張り切って用意してくれた海の色のドレスはお気に入りだが、華やかなドレスに身を包んだ愛らしい少女たちを見ると、もっと明るい色の方がよかったのではないかと、そわそわしてしまう。
アマーリエは何人かの貴族に挨拶をすると、大人たちの社交の場へと向かってしまった。
子供は子供同士で固まり、友人を作らなければならない。けれども、ツィーラはどうすればいいか分からず戸惑った。
(兄様がいてくれればよかったのに)
ツィーラの兄は今年で十三歳。この会への参加資格を失ってしまったので、今日は留守番をしている。彼がいれば知り合いを紹介してくれただろうが、残念ながらツィーラはひとりだ。
同じ年頃の女の子たちはみんな、庭の中央に集まって輪を作っている。その中心にいるのは見事なブロンドの髪をした美しい少年だった。刺繍の施された上品なジャケットに身を包み、周囲に笑顔を振りまく少年は他の子供たちと違って見える。
彼こそ精霊王国フィーラシアの第一王子、王太子のライツェルト・フィーネンだ。パーティに着いて早々、真っ先に挨拶をしたから顔と名前は覚えている。
会うのが心配だったナハルドは見当たらなかった。挨拶を求められなかったということは、きっとこの場にいないのだろう。だからライツェルトに人気が集まっているというわけだ。
ツィーラも他の少女に倣ってあの輪に入るべきだろうか。
しかし、ナハルドの兄であるライツェルトに必要以上に近づきたいと思えない。
ならば兄に自慢されたお菓子を食べようとしたものの、周囲を見回してもそんな子は見当たらない。マナー違反が怖くて、ひとりで菓子を食べに行く勇気はなかった。
(パーティ、楽しみにしていたけど……なんか、疲れちゃうな)
所在なさげにポツリとしているのも、友達を作れない子として浮いてしまうかもしれない。
目立つのが嫌で、ツィーラは自然と人が少ない方へと移動した。柔らかなピンクの花々は春風に揺れ、まるで微笑んでいるようだ。これが見られただけでも参加してよかったと思えるほどだった。
遠くに小さな池と東屋を見つけた。会場からはかなり外れてしまうが、たしか今日は王城の庭であればどこを見て回ってもよかったはずだ。せっかくなのだから探検してみようと、ツィーラはそちらへ足を向けた。
池の水面がキラキラと輝き、美しい青い羽の蝶がひらりと東屋へ向かう。追いかけるようにしてツィーラも東屋に入ると、ベンチに見慣れぬ少年が座っていて驚いた。
美しい少年だった。濃紺のジャケットを着ていなければ女の子と間違えただろう。小柄で線が細く、どこか儚い雰囲気がある。けれど、彼の一番の特徴はその髪色だ。闇を溶かしたような真っ黒な髪は、フィーラシアでは珍しい。
「……誰?」
驚いたように少年が顔を上げる。冬の泉のような淡い水色の瞳と視線がぶつかって、ツィーラはドキリとした。
彼の瞳は、今朝夢の中で見たナハルドとよく似ていたのだ。
(本人……なわけないよね。髪の色が違うし)
ナハルドの髪は月の光を編み込んだような、柔らかな淡い金髪だ。彼のような漆黒ではない。
「ごめんなさい。パーティに来ていたのだけど、東屋が気になってしまって」
「そう。じゃあどうぞ。僕はもう行くから」
少年はすぐさま視線を逸らすと、ツィーラに席を譲りどこかに立ち去ろうとする。
「あ、待って!」
思わず呼び止めると、少年が足を止めてゆっくり振り返った。
「何?」
「えっと、あなたが先にいたのに、追い出すのは悪いわ。ここで何かしていたんじゃないの?」
「べつに。人が多いと疲れるから、逃げていただけ」
「じゃあ私と一緒。せっかくだし、話し相手になってくれない? せっかくパーティに来たのに、友達のひとりも作れそうになくて」
ツィーラが提案すると、彼は目を丸くした。
「話し相手って……僕でいいの?」
「え?」
「向こうにライツェルト殿下がいる。そっちに行った方がいいよ。僕は……こんな髪だし」
彼は自分の真っ黒な髪をつまんで、嫌そうに顔を顰めた。
もしかして、彼は自分の髪が嫌いなのだろうか。
「ライツェルト殿下の周りには、もう人がいっぱいいたわ。あの中に入るのは疲れそうだもの。それに、髪がどうかしたの? 綺麗な黒髪じゃない」
「綺麗?」
「ええ。夜の空みたいで素敵な色だと思うけど……」
ツィーラが言うと、少年は戸惑った表情をした。
「そんなの、初めて言われた。……黒は闇の精霊の色だから、気持ち悪いって」
「誰にそんなひどいことを言われたの?」
「面と向かってではないけど、みんな、陰で言ってる」
白群の瞳が寂しそうに陰るのを見て、ツィーラは胸が苦しくなった。
どうしてこの瞳をナハルドと似ているなんて思ったのだろう。ナハルドの瞳はそれこそ闇の淵を覗き込むような深い虚無をたたえていたが、彼の瞳はきちんと感情を宿している。
「私はそんなこと思わないわ。パーティに退屈していたの。嫌じゃなかったら付き合って?」
もう一度誘うと、黒髪の少年は少しだけ躊躇ったあと、ツィーラの正面に座り直した。
人見知りなのだろう、彼の視線はそわそわと宙をさまよって落ち着かない様子だ。
「王城の庭はとても綺麗ね。さっき、青い羽の蝶がいたの。珍しい模様で素敵だった」
「……たぶん、アズルフィアかな」
「知ってるの?」
「羽に黒い斑点があったなら、だけど。鱗粉に発光作用があって、夜になると光るんだ」
「斑点もあった気がするわ。夜に光るなんて素敵ね!」
「他にもゼリアスって蝶もいるよ。青紫っぽい色だったら、こっち」
「深い青だったから、そっちじゃないと思う。あなた、物知りなのね」
ツィーラが感心すると、少年は照れたように髪の端を指で弄った。
「図鑑を見るの、好きなんだ。虫とか、あと、植物も」
「それじゃあ、あのピンクの花はなんて名前か知ってる?」
「ええと、あの花はローゼリアだね。その横の黄色のはセルリス」
少年は庭園の植物に詳しくて、庭に咲く花の名前を次々に教えてくれた。ツィーラも楽しくなって、色々と尋ねてしまった。
しばらく花や虫の話で談笑してから、ツィーラは彼に微笑みかける。
「ありがとう。慣れないパーティで緊張していたのだけど、おかげで楽しかったわ」
「う、ううん。……僕の方こそ、楽しかった」
もじもじしながら頬を赤らめてお礼を告げる様子は、なんだかいじらしくて微笑ましい。
「君はこのパーティ、初めてなの?」
「そうなの。去年は熱を出してしまって参加できなくて。お母様に友達を作りなさいって言われていたんだけど、女の子はみんなライツェルト殿下に夢中で話しかけづらくって、どうしようかって思ってた」
パーティに参加したのに誰とも話せなかったら、さすがに怒られてしまうかもしれない。彼と交流できてよかった。
「ライツェルト殿下には興味ない?」
「うーん。どちらかといえば、あまり近づきたくないかも」
森の中の小さな家。その一室に、裸の女がいた。
緩やかな癖のあるダスティローズの髪に、なめらかな白い肌。鎖骨の下には特徴的な文様の痣が浮かんでいる。
ベッドの上で裸体を晒す女の瞳は深い霧に包まれたように曇り、その奥に意思は見えなかった。
彼女の痴態を眺める男が、くつくつと喉を鳴らす。
「ツィーラ、足を広げて。僕にもっとよく見せて?」
彼女の脚を掴んで開くこともできたが、ナハルドはあえてそう命令した。
今の彼女にとって、ナハルドの言葉は絶対である。
自ら足を開いて秘部を見せろという命令に、ツィーラは顔を赤くして恥じらいを見せた。心を男によって塗りつぶされてなお、羞恥は残っているらしい。
けれどもナハルドに逆らうようなことはせず、ゆっくりと足を左右に広げていく。
「こ、これでいい?」
遠慮がちに足を開いたツィーラは、許しを乞うように問うた。
「それじゃあよく見えないよ。膝を折り曲げて、もっと大きく足を開いて」
「っ……!」
あえて意地悪く言ってみても、彼女はナハルドを責めたりはしない。
恥ずかしそうに震えながらも、膝を折り曲げて足を大きく左右に開き、隠された女性の部分をナハルドの眼前に曝け出す。
「……綺麗だ」
ナハルドは無意識に感想を口にする。
彼女の髪と同じ色をした陰毛の下にある、小さな割れ目。そこは、ナハルドの愛撫を受けて潤んでいる。
「触るよ」
熟れた果実に貪りつきたくなる衝動に耐えながら、ナハルドは彼女の割れ目に指を這わせた。
くちゅりと小さく音がして、ぬるりとした液体が絡みつく。ツィーラが自分の愛撫で感じてくれていることに喜びが湧き上がる。
「あっ、ふぅ、あぁ……」
ナハルドが動くたびに、ツィーラは艶めいた喘ぎ声を漏らす。
闇の精霊の力で支配された今の彼女は、ナハルドが何をしたって拒絶しない。
ああ、やっと、彼女が手に入った。これでもう、彼女がナハルドから離れていくことはない。
仄暗い目をしたナハルドの口元には、いびつな笑みが浮かんでいた。
一章 精霊の祝福とナハルド王子
屋敷は血の匂いで満ちていた。
美しい模様が織り込まれた青い絨毯に、赤色のシミが広がっていく。
殺されたのは屋敷の使用人だった。ツィーラをいない者として扱う夫に代わって、よく話し相手になってくれた優しい女性だ。先日、そろそろ孫が生まれるのだと嬉しそうに話していた。
その彼女が死んだ。ツィーラの目の前で、心臓を剣でひと突きされて。
窓の外では季節外れの霧雨が降り続いている。息苦しいほどの湿気と緊張で汗が止まらない。強く脈打つ鼓動を感じながら、相手の一挙一動を見逃すまいと、ツィーラは固唾を呑んで目を凝らした。
「……どうして」
どうにか紡いだ言葉は震えていた。彼女の紫紺の目は恐怖に染まり、かるく癖のついたダスティローズの髪も輝きを失っているようだ。
怯えるツィーラを前にして、血の滴る剣を握る男はいつも通り平然としている。
彼の名前はナハルド・フィーネン。精霊王国フィーラシアの第二王子であり、数カ月前に挙式したばかりのツィーラの夫である。
美しい男だった。月の光を編み込んだような柔らかな白金の髪に、高く通った鼻梁。端整な顔立ちは、まるで精巧に彫り上げられた彫像のようだ。しかし、どこか気だるげな白群の瞳は何の感情も映さず、どろりと濁っているようにも見える。
「君を庇おうとして、邪魔だったから」
冷たく床に横たわる死体を一瞥して、まるで花瓶を片づけたような口調でナハルドが告げる。彼は剣についた血を一振りして払うと、その切っ先をツィーラに向けた。
この美しい夫のことが、ツィーラはずっと苦手だった。
初対面から微笑むことなく、妻であるツィーラのことも路傍の石と同じように見る。初夜に部屋に来なかっただけでなく、結婚してからろくに会話もしたことがなかった。
それでも、こうして剣を向けられるほど恨まれているとは思わなかったのだが。
「殺したいほど、私が嫌いなのですか?」
「べつに。君のことは好きでも嫌いでもないよ。だけど、君がいればルミエナと結婚できない」
「ルミエナ様と? 馬鹿を言わないでください。ルミエナ様は王太子妃ですよ!」
ナハルドの虚無の瞳が、ルミエナを見た瞬間だけ光を宿すことにツィーラは気づいていた。
けれどルミエナは王太子妃。彼の兄であるライツェルトとすでに結婚しているのだ。
「知っているよ。精霊に祝福されたルミエナは、王太子妃にこそ相応しい――そう評されて、ライツェルト殿下と式を挙げるところを僕も見たからね」
ナハルドはライツェルトのことを兄とは呼ばない。
同腹の兄弟であるにもかかわらず、ふたりの間には幼い頃から確執があるのだと噂で聞いたことがある。
「だったらどうして! 私を殺したところで、ルミエナ様は手に入りません」
「ライツェルト殿下はもうすぐ消える」
ナハルドの声には確信が込められていた。だが、ライツェルトが不調だという話は聞いたことがない。つい先日も、精力的に政務をしている姿を見かけたばかりだ。
「殿下はご病気なのですか?」
そんなはずないと思いながらも確認すると、ナハルドはゆっくり首を左右に振った。
「殿下の統治に不満を持つ人間もいるんだよ」
ずっと動かなかったナハルドの唇が、軽く弧を描く。
恐怖を感じる笑みを見て、ツィーラの背筋が凍った。
「まさか、殿下の暗殺を?」
「さあね。これから死んでしまう君には関係ないことだよ」
おしゃべりは終わりだと言わんばかりに、ナハルドは剣を構え直す。
ツィーラはその刃から逃れるすべを持たなかった。
逃げようにも、部屋の入り口はナハルドの後ろにあるのだ。悲鳴を聞きつけて助けに来た使用人は、たった今殺されてしまった。
「……ナハルド様は正気を失っておられます!」
こんなことをして、何になるというのだ。
ナハルドの企てが明るみに出れば、王位になどつけるはずがない。
妻と兄を殺してまでルミエナを得ようとするなんて、常軌を逸している。
「そうだね。僕は闇の精霊に祝福された王子だから」
苦し紛れの罵りも、ナハルドの心を動かすことはできなかったようだ。
ナハルドの腕が動く。刃が宙を踊ったかと思うと、凄まじい衝撃とともに視界が暗転した。
身体から力が抜けて、ドサリと床に倒れ込む。
赤い命が流れ出て、どんどんと全身が冷えていった。
「これで邪魔者はいなくなった。やっと、ルミエナを迎えに行ける」
薄れゆく意識の中で、恍惚とするナハルドの声が聞こえた気がした。
ガバリとベッドから飛び起きて、ツィーラは肩で息をした。
寝汗で夜着が肌で貼り付き、心臓が早鐘を打っている。思わず腹部を手で探り、何の傷もないことを確認してホッと息を吐き出した。
(すごく怖い夢だった。本当に死んだかと思った……)
とても生々しい夢であったが、現実であるはずがない。
なぜなら、ツィーラはまだ八歳なのだ。結婚などしていないし、ナハルドとも会ったことがない。
だけど、ただの夢だとも思えなかった。
夢の中のツィーラは二十一歳だったが、その年齢まで生きてきた記憶をきちんと有していたのだ。どうやって成長して、ナハルドと婚約を結び、結婚に至ったか。細かな部分まで覚えているなんて、こんな夢は初めてだ。まるで二十一歳まで生きて、死んで時が戻ったかのような気分だった。
奇妙な夢について考えていると、胸元がチクリと小さく痛んだ。
見下ろすと、鎖骨のずっと下に小さな痣が浮かんでいる。昨日まではなかったものだ。
「精霊の祝福!」
ツィーラは叫んで、慌ててベッドから飛び下りた。廊下へ飛び出すと、ひんやりとした朝の空気が肌を撫でる。窓の外はまだ暗く、東の空には淡い光が滲んでいた。
起床するには早い時間だったが、ツィーラは構わずに廊下を走って母の寝室へと向かった。
「お母様聞いて、大変よ!」
乱暴に寝室の扉を開ける。ツィーラの母であるアマーリエはまだ眠っていたのだろう、むくりとベッドから起き上がり眉根を寄せた。
「ツィーラ、朝から騒々しいわよ」
「ごめんなさい。でも大事件、精霊の祝福をさずかったんだから」
アマーリエは、ツィーラの言葉を聞いて目を丸くした。
「まぁ、ツィーラ。それは本当なの⁉」
「本当よ! ほら、祝痣が出たの」
ツィーラは興奮した顔で夜着をずらし、胸元の痣をアマーリエに見せた。
美しい模様を描く痣は、ひと目見て特別なものだと分かる。これは祝痣と呼ばれる、精霊の祝福を受けた者だけが授けられる痣なのだ。
「すごいじゃないの、おめでとう!」
アマーリエに祝われて、ツィーラはへらりと相好を崩した。
精霊王国フィーラシアは、初代の精霊王が始まりの精霊と契約を結んでできた国だ。以来、精霊王とその仲間の子孫には何らかの精霊の加護が与えられている。
とはいえ、加護といっても大したことはできない。火の精霊の加護を受けた者は火傷しにくくなるといったような、些細な恩恵を受けるだけである。フィーラシアの貴族であれば何かしらの精霊の加護を受けているが、恩恵がささやかすぎて、自分がどの精霊の加護を受けているか分からないことがほとんどだった。
しかしときおり、精霊に特別に気に入られる者がいる。精霊に祝福された証として、身体のどこかに祝痣が浮かび上がるのだ。そして、通常の恩恵とは比べものにならない特別な力が使えるようになる。
アマーリエは急いで書棚から本を取り出した。
祝痣は授ける精霊によって模様が異なる。ツィーラがどの精霊に祝福されたのか調べるつもりなのだろう。ツィーラも気になって、アマーリエの横から本を覗き込んだ。
本には様々な模様と精霊の名前が書かれていた。ツィーラも知っている有名なものから、名前も知らないものまでずらりと並んでいる。
自由に炎を操れる焔の精霊、音楽の才を発揮する音の精霊、人の心を覗き見る鏡の精霊なんてものもある。
「あ、お母様これよ! この模様!」
祝痣と同じ模様を見つけて、ツィーラは慌てて指さした。
期待に満ちた顔をしたアマーリエは、精霊の名前を読んだ直後その表情を曇らせる。
「……時の精霊」
「それってよくない精霊さまなの?」
張りつめたアマーリエの声を聞いて、ツィーラは不安になった。祝福はめでたいことのはずなのに、彼女は嬉しくなさそうだ。
アマーリエはゆっくりと首を左右に振る。
「そんなことないわ、立派な精霊様よ。ただ、時の精霊様のお力は強くて、場合によっては混乱を招くことがあるの」
「時の精霊さまは、どんな力を授けてくださるの?」
「未来視の力よ。時の精霊様は未来を視ることができるの」
「未来を見る力……」
ツィーラは今朝見た夢を思い出して、胸の奥がざわつくような感覚に襲われた。
「今日、すごく変な夢を見たの。もしかして、それが未来視なのかな」
「どんな夢だったの?」
「……大人になった私が、殺される夢」
ツィーラは今朝見た夢の内容を話した。ナハルド殿下と結婚すること。けれど、殿下は兄嫁であるルミエナを愛していたこと。彼女を得るために、邪魔になったツィーラを殺してしまうこと。
いつもなら内容なんてすぐに忘れてしまうが、今日の夢は細部まではっきりと思い出せる。
「そう。それはとても怖い夢だったわね」
「あれが未来視だったらどうしよう。私、ナハルド殿下に殺されてしまうの?」
「ナハルド殿下に……? 大丈夫よ。時の精霊の見せる未来は、可能性のひとつに過ぎないの」
アマーリエはツィーラを慰めるように抱きしめて、優しく頭を撫でながらある話を聞かせてくれた。
フィーラシアでは代々、精霊に祝福された者を王妃に迎える慣習がある。その中のひとりに、時の精霊の祝福を受けた王妃がいた。彼女の力である未来視によってこの先の出来事が分かれば政治も安定するだろうと、彼女はたいへん期待されたらしい。
しかし、王妃が視た未来は外れた。隣国で内乱が起きると予見し、それを見越して準備をしていた国王は困ってしまったらしい。結局、嘘の報告をして国を混乱させたとして、その王妃は捕らえられたのだ。
のちに、時の精霊の未来視は絶対ではなく、幾重にも枝分かれした未来の可能性のひとつを見せるだけに過ぎないのだと判明して、彼女は釈放された。
「未来は人の手で変えられる。だから、時の精霊様は警告をくれるだけなのよ」
時の精霊が見せる未来は、悪い内容が多いらしい。そうならないように努力しろという警告なのだろうというのが、アマーリエの言葉だった。
「時の精霊様の力は、悪いものではない?」
「もちろんよ。だけど、未来が見えるという力は人の欲望を呼び起こすわ。罪人にされた王妃様のように、その力を利用されないとも限らない。……今は、精霊に祝福された少女が現れていないから、特にね」
精霊に祝福された少女――それが未来の王妃候補を指すことに、ツィーラも気づいた。祝福を受けたことで、ツィーラも王妃になる資格を得てしまったのだ。
「王妃様になったら、私も罪人にされてしまう?」
「王太子であるライツェルト殿下は賢明な方だそうなので、そんなことにはならないでしょうけど。でも、ツィーラの祝福は公にしない方がいいかもしれないわ。うちは伯爵家だからなおさら、ね」
ツィーラの生家であるオラクルフ伯爵家では、王妃になるには少し格が足りない。
他に祝福された者が現れなければ候補にあげられるだろうが、ツィーラは今朝見た夢でルミエナが王太子妃となることを知っていた。
夢の内容が正しければ、ルミエナ・グラウフェンは侯爵家の出身だ。黎明の精霊に祝福された美しい女性で、ツィーラよりよほど王妃に相応しい。
「祝福のことは、誰にも話さないほうがいい?」
「お父様とも相談しなければいけないけれど、そうした方がいいと思うわ。ツィーラは秘密にできる?」
優しく問いかけられて、ツィーラはこくりと頷いた。
祝痣を自慢したい気持ちもあるけれど、時の精霊の力はまだ未知数で少し怖い。どんな未来を視たのかと聞かれて、ナハルド殿下に殺されたなんて言えば、不敬だと罰せられるかもしれない。
「ツィーラはいい子ね。さぁ、せっかく早起きしたのだから、ドレスの準備をしておきなさい。今日は王城に行く日よ」
ツィーラはパッと顔を明るくした。王城のパーティに行くのは初めてだ。
兄から王城には美味しいお菓子があると散々聞かされていたので、楽しみにしていたのだ。
「嬉しい! あ、でも……ナハルド殿下もいらっしゃるのよね」
今朝の夢を見たあとで、ナハルドに会うのは少し怖い。
「ツィーラ、未来はいくらでも変えられるわ。今のナハルド殿下に何かされたわけではないのでしょう? 先入観で人を見てはだめよ」
「……うん、そっか。そうだよね」
もしいつかナハルドに殺されるのだとしても、それはずっと未来の話だ。
それに、ナハルドがツィーラを殺したのは、彼と結婚したからである。ルミエナと結ばれるために妻であるツィーラが邪魔だったからだ。
ナハルドもツィーラ自身を恨んでいたわけではなさそうだし、彼と結婚しなければ同じ未来になることはない。
未来は変えられるのだ。ツィーラは安心して、パーティの準備をすることにした。
穏やかな陽光が降り注ぐ王城の庭園は、軽やかな笑い声で満たされていた。
色とりどりの花が咲き誇る中に、白いテーブルクロスをかけた円卓がいくつか並べられ、そこに置かれた皿の上には小さな焼き菓子が美しく飾られている。
七歳から十二歳までの子供を対象とした、ガーデンパーティである。それぞれの母親たちが社交をする中、まだ幼い子供たちは自由に庭を駆け回っていた。
毎年行われるパーティであるが、ツィーラは昨年熱を出してしまい参加できなかったのだ。
ツィーラにとっては、これが初めての社交の場である。
アマーリエが張り切って用意してくれた海の色のドレスはお気に入りだが、華やかなドレスに身を包んだ愛らしい少女たちを見ると、もっと明るい色の方がよかったのではないかと、そわそわしてしまう。
アマーリエは何人かの貴族に挨拶をすると、大人たちの社交の場へと向かってしまった。
子供は子供同士で固まり、友人を作らなければならない。けれども、ツィーラはどうすればいいか分からず戸惑った。
(兄様がいてくれればよかったのに)
ツィーラの兄は今年で十三歳。この会への参加資格を失ってしまったので、今日は留守番をしている。彼がいれば知り合いを紹介してくれただろうが、残念ながらツィーラはひとりだ。
同じ年頃の女の子たちはみんな、庭の中央に集まって輪を作っている。その中心にいるのは見事なブロンドの髪をした美しい少年だった。刺繍の施された上品なジャケットに身を包み、周囲に笑顔を振りまく少年は他の子供たちと違って見える。
彼こそ精霊王国フィーラシアの第一王子、王太子のライツェルト・フィーネンだ。パーティに着いて早々、真っ先に挨拶をしたから顔と名前は覚えている。
会うのが心配だったナハルドは見当たらなかった。挨拶を求められなかったということは、きっとこの場にいないのだろう。だからライツェルトに人気が集まっているというわけだ。
ツィーラも他の少女に倣ってあの輪に入るべきだろうか。
しかし、ナハルドの兄であるライツェルトに必要以上に近づきたいと思えない。
ならば兄に自慢されたお菓子を食べようとしたものの、周囲を見回してもそんな子は見当たらない。マナー違反が怖くて、ひとりで菓子を食べに行く勇気はなかった。
(パーティ、楽しみにしていたけど……なんか、疲れちゃうな)
所在なさげにポツリとしているのも、友達を作れない子として浮いてしまうかもしれない。
目立つのが嫌で、ツィーラは自然と人が少ない方へと移動した。柔らかなピンクの花々は春風に揺れ、まるで微笑んでいるようだ。これが見られただけでも参加してよかったと思えるほどだった。
遠くに小さな池と東屋を見つけた。会場からはかなり外れてしまうが、たしか今日は王城の庭であればどこを見て回ってもよかったはずだ。せっかくなのだから探検してみようと、ツィーラはそちらへ足を向けた。
池の水面がキラキラと輝き、美しい青い羽の蝶がひらりと東屋へ向かう。追いかけるようにしてツィーラも東屋に入ると、ベンチに見慣れぬ少年が座っていて驚いた。
美しい少年だった。濃紺のジャケットを着ていなければ女の子と間違えただろう。小柄で線が細く、どこか儚い雰囲気がある。けれど、彼の一番の特徴はその髪色だ。闇を溶かしたような真っ黒な髪は、フィーラシアでは珍しい。
「……誰?」
驚いたように少年が顔を上げる。冬の泉のような淡い水色の瞳と視線がぶつかって、ツィーラはドキリとした。
彼の瞳は、今朝夢の中で見たナハルドとよく似ていたのだ。
(本人……なわけないよね。髪の色が違うし)
ナハルドの髪は月の光を編み込んだような、柔らかな淡い金髪だ。彼のような漆黒ではない。
「ごめんなさい。パーティに来ていたのだけど、東屋が気になってしまって」
「そう。じゃあどうぞ。僕はもう行くから」
少年はすぐさま視線を逸らすと、ツィーラに席を譲りどこかに立ち去ろうとする。
「あ、待って!」
思わず呼び止めると、少年が足を止めてゆっくり振り返った。
「何?」
「えっと、あなたが先にいたのに、追い出すのは悪いわ。ここで何かしていたんじゃないの?」
「べつに。人が多いと疲れるから、逃げていただけ」
「じゃあ私と一緒。せっかくだし、話し相手になってくれない? せっかくパーティに来たのに、友達のひとりも作れそうになくて」
ツィーラが提案すると、彼は目を丸くした。
「話し相手って……僕でいいの?」
「え?」
「向こうにライツェルト殿下がいる。そっちに行った方がいいよ。僕は……こんな髪だし」
彼は自分の真っ黒な髪をつまんで、嫌そうに顔を顰めた。
もしかして、彼は自分の髪が嫌いなのだろうか。
「ライツェルト殿下の周りには、もう人がいっぱいいたわ。あの中に入るのは疲れそうだもの。それに、髪がどうかしたの? 綺麗な黒髪じゃない」
「綺麗?」
「ええ。夜の空みたいで素敵な色だと思うけど……」
ツィーラが言うと、少年は戸惑った表情をした。
「そんなの、初めて言われた。……黒は闇の精霊の色だから、気持ち悪いって」
「誰にそんなひどいことを言われたの?」
「面と向かってではないけど、みんな、陰で言ってる」
白群の瞳が寂しそうに陰るのを見て、ツィーラは胸が苦しくなった。
どうしてこの瞳をナハルドと似ているなんて思ったのだろう。ナハルドの瞳はそれこそ闇の淵を覗き込むような深い虚無をたたえていたが、彼の瞳はきちんと感情を宿している。
「私はそんなこと思わないわ。パーティに退屈していたの。嫌じゃなかったら付き合って?」
もう一度誘うと、黒髪の少年は少しだけ躊躇ったあと、ツィーラの正面に座り直した。
人見知りなのだろう、彼の視線はそわそわと宙をさまよって落ち着かない様子だ。
「王城の庭はとても綺麗ね。さっき、青い羽の蝶がいたの。珍しい模様で素敵だった」
「……たぶん、アズルフィアかな」
「知ってるの?」
「羽に黒い斑点があったなら、だけど。鱗粉に発光作用があって、夜になると光るんだ」
「斑点もあった気がするわ。夜に光るなんて素敵ね!」
「他にもゼリアスって蝶もいるよ。青紫っぽい色だったら、こっち」
「深い青だったから、そっちじゃないと思う。あなた、物知りなのね」
ツィーラが感心すると、少年は照れたように髪の端を指で弄った。
「図鑑を見るの、好きなんだ。虫とか、あと、植物も」
「それじゃあ、あのピンクの花はなんて名前か知ってる?」
「ええと、あの花はローゼリアだね。その横の黄色のはセルリス」
少年は庭園の植物に詳しくて、庭に咲く花の名前を次々に教えてくれた。ツィーラも楽しくなって、色々と尋ねてしまった。
しばらく花や虫の話で談笑してから、ツィーラは彼に微笑みかける。
「ありがとう。慣れないパーティで緊張していたのだけど、おかげで楽しかったわ」
「う、ううん。……僕の方こそ、楽しかった」
もじもじしながら頬を赤らめてお礼を告げる様子は、なんだかいじらしくて微笑ましい。
「君はこのパーティ、初めてなの?」
「そうなの。去年は熱を出してしまって参加できなくて。お母様に友達を作りなさいって言われていたんだけど、女の子はみんなライツェルト殿下に夢中で話しかけづらくって、どうしようかって思ってた」
パーティに参加したのに誰とも話せなかったら、さすがに怒られてしまうかもしれない。彼と交流できてよかった。
「ライツェルト殿下には興味ない?」
「うーん。どちらかといえば、あまり近づきたくないかも」
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