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1巻
1-2
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ツィーラの祝福が露見すれば、ライツェルト殿下の婚約者にされてしまうかもしれない。
そうなれば周囲の嫉妬を買うだろうし、仮に婚約者になっても、やがてルミエナに祝福が現れればその立場を追われることになるだろう。
それに、ライツェルトと仲良くなれば、自然とナハルドとも顔を合わせることになりそうだ。
「変わってるね。女の子はみんな、ライツェルト殿下みたいな人が好きかと思ってた」
「人の好みはそれぞれじゃないかな。私はあなたの方が話しやすそう」
「ほ、本当に……?」
「うん。あ、でも、べつにライツェルト殿下が嫌だってわけじゃないよ」
不敬だと思われてはいけないと、ツィーラは慌ててつけ足した。
少年も分かっているというように頷く。
「……殿下が嫌いだなんて人はいないと思う。格好いいし、優秀だし」
何だか、やけにライツェルトを気にしているようだ。どうしてなのかと不思議に思ったが、同年代の少年ならば彼を意識するのは当然かと考え直す。
なにせライツェルトは悪い噂を聞かない。容姿端麗、勉学も優秀らしく、次期国王として周囲から期待されている。同性であれば嫉妬心が芽生えるのも自然だろう。
「でも、あなただって素敵だと思うよ? すごく綺麗な顔をしてるし、物知りですごいなって思ったもの」
ライツェルトと比べて落ち込んでいる様子だったので、ツィーラはそう言って彼を励ました。
「あ、ありがとう。……僕、その、こんな髪だし、友達とかいなくて。婚約者を作れって言われてるんだけど、そんなの絶対に無理で……」
婚約者という言葉を聞いて、ツィーラはピンと閃いた。
そうだ。先に婚約者を作っておけば、ナハルドとの結婚を避けられるのではないだろうか。
そうすれば、自然とツィーラが殺される未来も回避できる。
「それなら、もしよかったらだけど、私を婚約者にしてみない? 私もまだ相手が見つからなくて」
「えっ?」
「あ、でも身分とか釣り合わないかな? うちは伯爵家なんだけど」
「……う、ううん。僕は色々事情があるから、伯爵家と婚約しても問題ないと思う」
少年の言葉を聞いて、ツィーラはおやっと思った。こういう言い方をするということは、彼の身分はおそらくかなり高いのだろう。
しまった。婚約だなんだと言い出す前に、先に名前と家名を聞いておくべきだった。
「あの、今さらだけど名乗らせてね。私は――」
「ツィーラ、どこにいるの?」
名乗ろうとした瞬間、アマーリエがツィーラを探す声が聞こえてきた。
「お母様だ!」
もうお開きの時間なのだろうか。ツィーラは慌てて立ち上がり母を呼んだ。
ツィーラに気づいたアマーリエが、東屋へと歩いてくる。
「まったくもう、どこにいるのかと思ったわ。……あら?」
ツィーラと一緒にいる少年に気づいたアマーリエは、驚いた顔をしてから、少年とツィーラを見比べた。
「……驚いたわ。ツィーラ、ナハルド殿下と一緒にいたの?」
「えっ⁉」
驚いたのはツィーラの方だ。この少年がナハルド殿下?
「う、嘘、だって、殿下は金髪じゃあ……」
「……気づいていなかったのね」
呆れた声でため息を吐くアマーリエを見て、ツィーラは焦った。
アマーリエがこんな嘘をつくはずがないので、この少年が本当にナハルドなのだ。
たしかによく見ると瞳の色は同じだし、顔立ちに面影もなくはない。
「ナ、ナハルド殿下……なの?」
恐る恐る当人に確認すると、彼はこくりと頷いた。
「……うん。僕はナハルド・フィーネンだけど」
「でも、だって、ナハルド殿下は金髪のはずよ」
「よく知ってるね。僕、もともとは金髪だったんだ。でも、闇の精霊に祝福されてからこんな色になっちゃった」
ナハルドの言葉にツィーラは驚いた。精霊の祝福で髪の色が変わるなんてことがあるのだろうか。
しかし、未来のナハルドは金髪に戻っていた。いったいどういうことかと尋ねたかったが、未来視のことを話すわけにもいかない。
「ツィーラ。しっかりと殿下に挨拶なさい」
娘の戸惑いに気づいたアマーリエが、場の空気を変えるように挨拶を促す。
ツィーラはハッとして、慌ててスカートの裾を摘まんだ。
「ツィーラ・オラクルフです。殿下、本日はお付き合いいただき、ありがとうございました」
「ううん、僕も君と喋れて楽しかった。ツィーラ、よかったら僕とまた遊んでくれる?」
「も、もちろんです」
これだけ親しく話をして、今さら嫌だと言えるはずがない。ツィーラは声が裏返らないよう注意しながら、引きつった笑みを浮かべたのだった。
「どうしてナハルド殿下がいるって教えてくれなかったの⁉」
帰りの馬車の中でツィーラが叫ぶと、アマーリエは困った顔をした。
「私も殿下はいらっしゃらないと思っていたのよ。お姿が見えなかったし、あまり表舞台には出てこない方だから、今日も欠席されていたのかと」
アマーリエもナハルドが来ていたことは知らなかったらしい。
彼は隠れるように東屋にいたので、挨拶ができなかったのだろう。
「でも、殿下が黒髪だって教えてくれていたらよかったのに」
髪の色が違うのだと知ってさえいれば、誤解することなんてなかったはずだ。
「ツィーラが知らないと思わなかったのよ。未来を視たのでしょう?」
「未来ではナハルド殿下は金髪だったの!」
ツィーラは不服だったが、アマーリエが教えてくれなかったのも仕方がない。彼女からすれば、それこそ未来視で本人を見ているツィーラがナハルドの髪色を誤解しているとは思わなかったのだろう。
「では、未来の殿下は闇の精霊のお力を制御されていたのね」
ナハルドはもともと金髪で、祝福によって髪の色が変わったのだと言っていた。つまり、力を制御できれば元の髪色に戻るのかもしれない。
しかしそんなことを、あのときのツィーラに気づけるはずがなかった。
髪色が違うのだから別人なのだと思い込んで、すっかり気を許してしまったのだ。
「どうしよう、お母様。私、ナハルド殿下に婚約を申し込んじゃった」
ツィーラが青ざめると、アマーリエは頭が痛いとばかりに額を押さえた。
「……あなた、ナハルド殿下を避けたいのではなかったの?」
「避けたかったの! だから、さっさと別の人と婚約しちゃおうと思ったのよ」
まさか、ナハルドが黒髪になっているだなんて思わないではないか。
ツィーラは彼の成長した顔しか知らないのだ。髪の色が違うのだから、別人だと考えるに決まっている。
「だからといって、名前も聞かずにそんな話をするだなんて愚かすぎるわ」
アマーリエの言葉はもっともすぎて、ツィーラは何も言えなくなった。
婚約だなんて大事なことを、その場の勢いで話すべきではなかったのだ。
「どうしよう……私、夢と同じようにナハルド殿下と結婚しちゃうの?」
「婚約は家と家の結びつきですもの。子供同士の口約束で実現することはないでしょうけど……ナハルド殿下の場合は分からないわね」
王族の嫁になるには、オラクルフ家は少々格不足だ。伯爵家でも力がある家であればいいが、オラクルフ家は大した収入のない小さな領地を持つだけの中流貴族。普通ならば婚約者候補には挙がらない。
しかし、相手がナハルドとなれば話が別だ。彼は闇の精霊の祝福を受けている。それは一種の呪いのようなもので、闇の精霊に関わるなんてと繋がりを持つことを嫌がる者が多いらしい。ゆえに、ツィーラのような身分の者でも婚約を認められる可能性がある。
だからこそ、未来視の中でもツィーラが彼の婚約者として選ばれたのだろう。
「本当に申し込みが来てしまったらどうしよう」
「王家からの申し出なんて、よほどの理由がないと断れないわよ?」
「うっ、わ、分かってる……」
「貴女の祝福を明かせば別でしょうけど……ライツェルト殿下の婚約者になる気はある?」
現状、貴族令嬢で精霊からの祝福を得ているのはツィーラだけだ。公表すれば、おそらくナハルドではなくライツェルトとの婚約話が持ち上がるだろう。
しかし、ツィーラはゆっくりと首を左右に振った。
「ライツェルト殿下は、ルミエナ様と結婚するはずよ。ふたりのお邪魔虫になるのは嫌だし……」
ツィーラの脳裏に、庭園で話をしたナハルドの白群の瞳がよぎった。
未来で見たナハルドと違って、彼の瞳にはきちんと感情が宿っていた。
未来は変えられるというのなら、ああなってしまう前にナハルドをどうにかできないだろうか。
ライツェルトの婚約者になればナハルドを避けることはできるが、それだと彼が兄と対立する未来は変わらない。
あの悲劇を避けるためには、ナハルド自身をどうにかしなければいけないのだ。
「夢の通りになるのは嫌だけど……私、ナハルド様とお友達になってみたい」
未来視のことがあって動揺していたが、別れ際に彼はまた遊びたいと言ってくれたのだ。
正直、未来のナハルドは怖い。だけど、あれはまだ訪れていない未来だ。先入観で見てはダメだとアマーリエも言っていたではないか。
今のナハルドには何もされていないのに、避けるのはおかしい。
「そう、あなたの気持ちは分かったわ」
アマーリエはそっと目を伏せたあと、励ますようにツィーラを見つめた。
「ナハルド殿下は複雑な立場におられるわ。どうか、味方になってあげて」
「……味方に? 何をすればいいの?」
「難しいことではないわ。あなたの言った通り、お友達になってあげればいいの」
アマーリエの言葉に、ツィーラはこくりと頷いた。
それならば大丈夫だ。もともと、あの物知りな少年ともっと仲良くなりたいとツィーラも思っていたのだから。
二章 闇の精霊の力
パーティから数日後、ナハルドとの婚約に関して両親のもとに何らかの話が来たらしい。
はっきりと決まったわけではないが、おそらく一度ふたりの相性を見て前向きに検討しようという感じなのだろう。王城に遊びに来るようにと、ツィーラに誘いがあったのだ。
これは未来視にはなかった流れだ。
夢の中でのツィーラがナハルドと出会ったのは、大人になってからだった。
先日のパーティでツィーラが東屋に行ったのは、ライツェルトを避けたためだ。夢を見ていなければあの女の子の輪の中に加わって、ナハルドと知り合わなかったのだろう。
この時点でもう未来は変わり始めている。
だったらきっと、ナハルドを変えることだってできるはず。
ツィーラは明るいレモン色のドレスを着て、アマーリエと共に再び王城を訪れた。
先日は庭でのパーティだったが、今日は王城の中に入れるらしい。兵士に守られたアーチ状の門を潜ると、そこはシャンデリアが吊り下げられた広いホールだった。しかし閑散としているわけではなく、メイドや文官たちが忙しそうに行きかっている。城の東棟がプライベートな空間になっているらしく、ツィーラたちはそちらへ案内された。
ぴかぴかに磨かれた廊下を歩いて応接室へと入る。椅子に座ると、すぐさまメイドがお茶を運んできた。
少し待っていると、銀糸の刺繍が贅沢にあしらわれたドレスを着た、美しい女性が現れる。おそらく彼女が王妃なのだろう。顔立ちがナハルドによく似ている。アマーリエが礼をするのを見て、ツィーラも慌ててそれに倣った。
彼女に続いて入室したのはナハルドだった。伏し目がちに歩く姿は美しい人形のようだ。一瞬だけ目が合うが、彼の瞳はすぐさま別の場所へと逸らされる。
「ようこそいらしてくださいました。オラクルフ伯爵夫人、ツィーラ嬢」
王妃の声は鈴を転がすように柔らかで、それでいてはっきりとした威厳を持っていた。
「お目にかかれて光栄でございます、王妃殿下、ナハルド様」
アマーリエが再び深く頭を下げる。ツィーラもそのあとを追うように礼をした。
「本日はこうしてお目にかかれたこと、大変嬉しく思います。ツィーラ嬢、先日はナハルドと仲良くしてくださったのだとか。ナハルドはとても人見知りで友人もいないので、これからも仲良くしてくださると嬉しいわ」
そう声をかけられて、ツィーラは顔を上げた。王妃の微笑は優しく、けれど視線の奥には見定めるような光が宿っている。
「も、もったいないお言葉にございます……」
ツィーラの返事に満足したように微笑んだあと、王妃はナハルドへと視線を移す。
「ナハルド、こんな場所で話なんて退屈でしょう。ツィーラ嬢を中庭にご案内して差し上げては?」
緊張しているツィーラに気づいたのだろう、王妃がナハルドに提案した。
彼は小さくうなずくと、ツィーラをエスコートして部屋を出る。
中庭はすぐ近くにあった。暖かな陽光が降り注ぎ、まだ若い葉をつけた木々が風に揺れて柔らかな音を立てている。王城は多くの人が行きかっていたが、ここには人がいなくて静かだった。
花壇の前に置かれた石造りのベンチに案内され、ふたりで並んで腰かける。
すぐ近くにあるナハルドの横顔はかたく、白群の瞳は愁いを帯びている。重たい沈黙が続いたあと、彼はゆっくりと唇を動かした。
「……ごめんね」
開口一番に謝罪されて、ツィーラはきょとんとした。謝られる心当たりがない。
「君のことを、母上に話してしまったんだ。そうしたら婚約者にどうかって」
なるほど。どうやら彼は自分のせいで婚約話が浮上したと思っているらしい。
「いいえ、それは私のせいですよ。私がナハルド様におかしなことを言ってしまったから」
婚約しようと提案したのはツィーラが先だ。彼が謝罪することではない。
「でも君は、僕のことを知らなかったんでしょ?」
「それは――」
「僕の名前を知った途端、君の態度が変わった」
ツィーラはパーティの日のことを思い出した。
たしかにあのときのツィーラは黒髪の少年がナハルドだと知って、しまったと思ったのだ。
顔に出さないように注意していたが、彼はツィーラの気持ちを見抜いていたのだろう。
「……ごめんなさい」
「いいよ、そういうのは慣れてるし。謝るべきなのは僕の方なんだ。友達ができたかもって……勘違いして、君のことを話してしまった。君にとっては迷惑だったろうに」
ナハルドはじっと中庭の土を見つめながら言葉を紡ぐ。
彼の言葉を聞いて、ツィーラはあの日の自分の態度を反省した。先入観を持つなとアマーリエに言われていたのに、彼を拒絶して傷つけてしまった。
「勘違いじゃない! ……です。私、本当に友達になりたいって思って……でも、殿下だって知らなくて、すごく動揺してしまって」
ダメだ、何を言っても言い訳になってしまう。だけど、ナハルドに殺される未来を見たからだなんて言えるはずもない。
「無理しなくていいよ。闇の精霊の祝福を受けた人間なんて、気持ち悪いでしょ?」
「それは違います!」
今度はきっぱりと否定できた。
ツィーラが恐れているのは、闇の精霊なんかじゃない。
「私は闇の精霊のことをそんなに怖いと思っていないんです。それに、祝福は選べないって知っていますから」
祝福は本人が望むかどうかに関係なく、精霊から一方的に与えられるものだ。
ツィーラだって、祝福を受けるまで時の精霊のことをよく知らなかった。
ナハルドが祝福を受けたという、闇の精霊に対して偏見がないわけではない。
よくない精霊、怖い精霊だという話は聞いているし、物語でもいつも悪役として登場するので、悪い印象はあった。けれども、だからといって祝福されている者を怖いと思うかは別である。
未来のツィーラは、ナハルドのことを苦手に思っていた。でもそれは、ナハルドの瞳が怖かったからだ。何を考えているかまったく読めない虚無の瞳は闇そのもののようで、ああ、これは闇の精霊の寵愛を受けているからなのかと思ったのだ。
だけど、今のナハルドの瞳は怖くない。
ツィーラの態度で傷つき揺れている、普通の子供のものだ。
「ナハルド様は怖くありません」
にこりと笑ってみせると、ナハルドの目が地面から持ち上がりツィーラを捉えた。
視線がぶつかった途端、ナハルドの頬が朱色に染まり、彼は慌てた様子で唇を開く。
「そっ、そんなの、僕のことを知らないから言えるんだ。闇の精霊の力を、知らないから」
「髪の色が変わる以外に、何かあるんですか?」
「……試してみる?」
ナハルドはそう言うと、悲しそうな顔をしてツィーラの頬に手を伸ばした。
彼に触れられた瞬間、ドクンと大きく心臓が鳴る。
それと同時に、まるで夢の中にいるようなふわふわした気持ちになった。
(あれ? ナハルド殿下って、こんなに素敵だったっけ……)
なんだか突然、ナハルドのことが魅力的に見えてきた。
彼が好きだ。彼に好かれたい。この人に悲しい顔をさせたくない。
ナハルドの言うことなら何でも叶えてやりたいという気持ちになったところで、パンッと手を叩く音がして、思考がクリアになった。
ツィーラは驚いて、再びナハルドの顔を見る。美しい顔だが、先ほどのような強烈な魅力は感じない。えも言われぬ恐怖を感じて、じわりと汗が滲んだ。
「……い、今の……なに?」
「闇の精霊の力だよ。君が僕を好きになるように、精神を支配したんだ」
それはたしかに恐ろしい力だと思った。心が自分のものではなくなるという体験は、最悪といっていいくらいに不快だった。
闇の精霊が嫌われているのは、祝福した相手に、こんな力を与えるからというのもあるのだろう。
「だ、誰にでもこんなことができるんですか?」
「複数人を同時に操ることはできないし、限界もあるけどね。僕を好きにさせるだけじゃなく、誰かを怖がらせることも、もしかしたら自殺させることだってできるかもしれない」
「……それは、たしかに恐ろしい力ですね」
ツィーラは未来のナハルドを思い出した。ツィーラとライツェルトを殺して、どうやってルミエナの心を得るつもりだったのだろうかと思っていたが、彼には他人の心を変える力があったのだ。その気になれば相手の心を支配できるのだから、ルミエナを得ることも可能だ。
正直言って、ナハルドが恐ろしかった。
ツィーラの手が震えているのを、ナハルドは見逃さなかったようだ。
「僕が嫌われる理由が分かったでしょ?」
ナハルドは自嘲して、そっとツィーラと距離を取った。そうするのが当たり前だというように、悲しそうな顔をしてツィーラから離れたのだ。
何もかもを諦めたようなその表情がすごく苦しく見えて、ツィーラは咄嗟にナハルドの腕を掴んで自分の方へと引き寄せた。
そのままナハルドを抱きしめると、彼はビクッと身体を固くした。
「ツ、ツィーラ? な、何するの⁉」
「いきなりごめんなさい! でも、なんだか、すごく悲しくて」
ツィーラが怖い未来を見たとき、アマーリエが優しく抱きしめて慰めてくれた。
それと同じように、大丈夫だという気持ちを彼に伝えたくなったのだ。
「……大丈夫ですよ。だって、ナハルド様はそんな力があることをわざわざ私に伝えてくださったんですから。誰かの気持ちを無視して力を使ったりしないって信じられます」
ナハルドの力は怖かったが、それよりも未来視で剣を向けられたときの方がずっと怖かった。
あのときのナハルドは、ツィーラを殺すことをなんとも思っていなかった。だけど今のナハルドは、ツィーラを怖がらせて遠ざけるために力を使ったのだ。
きっと、期待しないように。仲良くなってから、裏切られないように。
当たり前のようにそう行動するナハルドは、今までどれだけ傷ついてきたのだろうか。
何も感情を映さない、虚無の瞳をした未来のナハルド。彼がああなるまでに、いったいどれだけのつらい経験をしてきたのだろう。
「ツィーラ……やめて、離して……僕を、期待させないで……」
離してと言いながら、ナハルドは抵抗する素振りを見せない。
本当は彼も期待したいのだろう。だから、ツィーラを突き放さない。
「……本当はツィーラも怖いんでしょ。だって、手が震えてる」
「怖い……ですよ。でも、ナハルド様と友達になりたいって思います」
完全に恐怖が消えることはないだろう。ナハルドの力も、彼に殺されるかもしれないという未来も怖い。
だけど、ツィーラはナハルドと向き合うと決めたのだ。彼の味方になるのだと。
それに、たぶんきっと、彼は怖いだけの人じゃない。
「……僕と、友達になってくれるの?」
「ナハルド様が望んでくれるなら。また、綺麗な虫とかお花の名前とかを教えてください」
ツィーラが頼むと、返事の代わりに彼の腕が背中に回った。
ツィーラとナハルドが友人関係になってから、半年が経過した。
ツィーラはナハルドと文通しながら、ときおり王城に遊びに行くという生活を続けている。
ナハルドとの友情は順調だ。本が好きだというナハルドは、ツィーラの知らない知識を色々と教えてくれるので、話をしていても面白い。
ふたりが交流を深めるのを見て大丈夫だと判断されたのか、正式に婚約を結ぶことに決まった。
ツィーラはそれを素直に受け入れた。ナハルドから逃げるのではなく、向き合おうと決めたからだ。
「ツィーラは本当によかったの? その、僕と婚約することになって」
ナハルドとの婚約が決まった翌週、いつものように王城にある彼の部屋に遊びに行くと、ナハルドは不安そうにツィーラに問いかけてきた。
「もちろん! ナハルドと婚約できるのは嬉しいよ」
ツィーラが笑うと、ナハルドはホッと息を吐き出した。
ナハルドが王子だと知ってから、しばらくツィーラは敬語で話していたが、彼の希望で気安い言葉を使うようになった。様をつけるのではなく、家族のように気安く接してほしいと頼まれたのだ。
ナハルドに何かを頼まれることは珍しかったので、ツィーラは喜んでその提案を受け入れた。無礼にならないか心配だったが、婚約者という間柄なら問題ないだろう。
「ナハルドこそ嫌じゃないの? 私が婚約者になるの」
「嫌なわけないよ! 君と結婚できるなら、嬉しいし……」
ナハルドは顔を赤らめてもじもじとする。
喜んでもらえるのはありがたいが、ナハルドと結婚となるとどうしても不安が頭を過る。
未来のナハルドは、ライツェルトと結婚したルミエナに横恋慕をしていた。何にも興味を持たないように見えたナハルドが執着したくらいだから、よほど惹かれるものがあったのだろう。
(もしかしたら今のナハルドも、ルミエナに恋をするのかもしれない)
「ねぇ、ナハルド。もしこれから先、他に好きな人ができたらいつでも言ってね。私はいつだってナハルドを応援したいし、そのために婚約を解消する覚悟もあるから」
「……どうしてそんなことを言うの?」
ナハルドの表情がすっと凍る。白群の瞳が陰った気がして、ツィーラは慌てた。
「ナハルドが嫌なわけじゃないよ? ただ、私たちはまだ幼いし、大人になったら他に好きな人ができるかもしれないでしょ?」
そうなれば周囲の嫉妬を買うだろうし、仮に婚約者になっても、やがてルミエナに祝福が現れればその立場を追われることになるだろう。
それに、ライツェルトと仲良くなれば、自然とナハルドとも顔を合わせることになりそうだ。
「変わってるね。女の子はみんな、ライツェルト殿下みたいな人が好きかと思ってた」
「人の好みはそれぞれじゃないかな。私はあなたの方が話しやすそう」
「ほ、本当に……?」
「うん。あ、でも、べつにライツェルト殿下が嫌だってわけじゃないよ」
不敬だと思われてはいけないと、ツィーラは慌ててつけ足した。
少年も分かっているというように頷く。
「……殿下が嫌いだなんて人はいないと思う。格好いいし、優秀だし」
何だか、やけにライツェルトを気にしているようだ。どうしてなのかと不思議に思ったが、同年代の少年ならば彼を意識するのは当然かと考え直す。
なにせライツェルトは悪い噂を聞かない。容姿端麗、勉学も優秀らしく、次期国王として周囲から期待されている。同性であれば嫉妬心が芽生えるのも自然だろう。
「でも、あなただって素敵だと思うよ? すごく綺麗な顔をしてるし、物知りですごいなって思ったもの」
ライツェルトと比べて落ち込んでいる様子だったので、ツィーラはそう言って彼を励ました。
「あ、ありがとう。……僕、その、こんな髪だし、友達とかいなくて。婚約者を作れって言われてるんだけど、そんなの絶対に無理で……」
婚約者という言葉を聞いて、ツィーラはピンと閃いた。
そうだ。先に婚約者を作っておけば、ナハルドとの結婚を避けられるのではないだろうか。
そうすれば、自然とツィーラが殺される未来も回避できる。
「それなら、もしよかったらだけど、私を婚約者にしてみない? 私もまだ相手が見つからなくて」
「えっ?」
「あ、でも身分とか釣り合わないかな? うちは伯爵家なんだけど」
「……う、ううん。僕は色々事情があるから、伯爵家と婚約しても問題ないと思う」
少年の言葉を聞いて、ツィーラはおやっと思った。こういう言い方をするということは、彼の身分はおそらくかなり高いのだろう。
しまった。婚約だなんだと言い出す前に、先に名前と家名を聞いておくべきだった。
「あの、今さらだけど名乗らせてね。私は――」
「ツィーラ、どこにいるの?」
名乗ろうとした瞬間、アマーリエがツィーラを探す声が聞こえてきた。
「お母様だ!」
もうお開きの時間なのだろうか。ツィーラは慌てて立ち上がり母を呼んだ。
ツィーラに気づいたアマーリエが、東屋へと歩いてくる。
「まったくもう、どこにいるのかと思ったわ。……あら?」
ツィーラと一緒にいる少年に気づいたアマーリエは、驚いた顔をしてから、少年とツィーラを見比べた。
「……驚いたわ。ツィーラ、ナハルド殿下と一緒にいたの?」
「えっ⁉」
驚いたのはツィーラの方だ。この少年がナハルド殿下?
「う、嘘、だって、殿下は金髪じゃあ……」
「……気づいていなかったのね」
呆れた声でため息を吐くアマーリエを見て、ツィーラは焦った。
アマーリエがこんな嘘をつくはずがないので、この少年が本当にナハルドなのだ。
たしかによく見ると瞳の色は同じだし、顔立ちに面影もなくはない。
「ナ、ナハルド殿下……なの?」
恐る恐る当人に確認すると、彼はこくりと頷いた。
「……うん。僕はナハルド・フィーネンだけど」
「でも、だって、ナハルド殿下は金髪のはずよ」
「よく知ってるね。僕、もともとは金髪だったんだ。でも、闇の精霊に祝福されてからこんな色になっちゃった」
ナハルドの言葉にツィーラは驚いた。精霊の祝福で髪の色が変わるなんてことがあるのだろうか。
しかし、未来のナハルドは金髪に戻っていた。いったいどういうことかと尋ねたかったが、未来視のことを話すわけにもいかない。
「ツィーラ。しっかりと殿下に挨拶なさい」
娘の戸惑いに気づいたアマーリエが、場の空気を変えるように挨拶を促す。
ツィーラはハッとして、慌ててスカートの裾を摘まんだ。
「ツィーラ・オラクルフです。殿下、本日はお付き合いいただき、ありがとうございました」
「ううん、僕も君と喋れて楽しかった。ツィーラ、よかったら僕とまた遊んでくれる?」
「も、もちろんです」
これだけ親しく話をして、今さら嫌だと言えるはずがない。ツィーラは声が裏返らないよう注意しながら、引きつった笑みを浮かべたのだった。
「どうしてナハルド殿下がいるって教えてくれなかったの⁉」
帰りの馬車の中でツィーラが叫ぶと、アマーリエは困った顔をした。
「私も殿下はいらっしゃらないと思っていたのよ。お姿が見えなかったし、あまり表舞台には出てこない方だから、今日も欠席されていたのかと」
アマーリエもナハルドが来ていたことは知らなかったらしい。
彼は隠れるように東屋にいたので、挨拶ができなかったのだろう。
「でも、殿下が黒髪だって教えてくれていたらよかったのに」
髪の色が違うのだと知ってさえいれば、誤解することなんてなかったはずだ。
「ツィーラが知らないと思わなかったのよ。未来を視たのでしょう?」
「未来ではナハルド殿下は金髪だったの!」
ツィーラは不服だったが、アマーリエが教えてくれなかったのも仕方がない。彼女からすれば、それこそ未来視で本人を見ているツィーラがナハルドの髪色を誤解しているとは思わなかったのだろう。
「では、未来の殿下は闇の精霊のお力を制御されていたのね」
ナハルドはもともと金髪で、祝福によって髪の色が変わったのだと言っていた。つまり、力を制御できれば元の髪色に戻るのかもしれない。
しかしそんなことを、あのときのツィーラに気づけるはずがなかった。
髪色が違うのだから別人なのだと思い込んで、すっかり気を許してしまったのだ。
「どうしよう、お母様。私、ナハルド殿下に婚約を申し込んじゃった」
ツィーラが青ざめると、アマーリエは頭が痛いとばかりに額を押さえた。
「……あなた、ナハルド殿下を避けたいのではなかったの?」
「避けたかったの! だから、さっさと別の人と婚約しちゃおうと思ったのよ」
まさか、ナハルドが黒髪になっているだなんて思わないではないか。
ツィーラは彼の成長した顔しか知らないのだ。髪の色が違うのだから、別人だと考えるに決まっている。
「だからといって、名前も聞かずにそんな話をするだなんて愚かすぎるわ」
アマーリエの言葉はもっともすぎて、ツィーラは何も言えなくなった。
婚約だなんて大事なことを、その場の勢いで話すべきではなかったのだ。
「どうしよう……私、夢と同じようにナハルド殿下と結婚しちゃうの?」
「婚約は家と家の結びつきですもの。子供同士の口約束で実現することはないでしょうけど……ナハルド殿下の場合は分からないわね」
王族の嫁になるには、オラクルフ家は少々格不足だ。伯爵家でも力がある家であればいいが、オラクルフ家は大した収入のない小さな領地を持つだけの中流貴族。普通ならば婚約者候補には挙がらない。
しかし、相手がナハルドとなれば話が別だ。彼は闇の精霊の祝福を受けている。それは一種の呪いのようなもので、闇の精霊に関わるなんてと繋がりを持つことを嫌がる者が多いらしい。ゆえに、ツィーラのような身分の者でも婚約を認められる可能性がある。
だからこそ、未来視の中でもツィーラが彼の婚約者として選ばれたのだろう。
「本当に申し込みが来てしまったらどうしよう」
「王家からの申し出なんて、よほどの理由がないと断れないわよ?」
「うっ、わ、分かってる……」
「貴女の祝福を明かせば別でしょうけど……ライツェルト殿下の婚約者になる気はある?」
現状、貴族令嬢で精霊からの祝福を得ているのはツィーラだけだ。公表すれば、おそらくナハルドではなくライツェルトとの婚約話が持ち上がるだろう。
しかし、ツィーラはゆっくりと首を左右に振った。
「ライツェルト殿下は、ルミエナ様と結婚するはずよ。ふたりのお邪魔虫になるのは嫌だし……」
ツィーラの脳裏に、庭園で話をしたナハルドの白群の瞳がよぎった。
未来で見たナハルドと違って、彼の瞳にはきちんと感情が宿っていた。
未来は変えられるというのなら、ああなってしまう前にナハルドをどうにかできないだろうか。
ライツェルトの婚約者になればナハルドを避けることはできるが、それだと彼が兄と対立する未来は変わらない。
あの悲劇を避けるためには、ナハルド自身をどうにかしなければいけないのだ。
「夢の通りになるのは嫌だけど……私、ナハルド様とお友達になってみたい」
未来視のことがあって動揺していたが、別れ際に彼はまた遊びたいと言ってくれたのだ。
正直、未来のナハルドは怖い。だけど、あれはまだ訪れていない未来だ。先入観で見てはダメだとアマーリエも言っていたではないか。
今のナハルドには何もされていないのに、避けるのはおかしい。
「そう、あなたの気持ちは分かったわ」
アマーリエはそっと目を伏せたあと、励ますようにツィーラを見つめた。
「ナハルド殿下は複雑な立場におられるわ。どうか、味方になってあげて」
「……味方に? 何をすればいいの?」
「難しいことではないわ。あなたの言った通り、お友達になってあげればいいの」
アマーリエの言葉に、ツィーラはこくりと頷いた。
それならば大丈夫だ。もともと、あの物知りな少年ともっと仲良くなりたいとツィーラも思っていたのだから。
二章 闇の精霊の力
パーティから数日後、ナハルドとの婚約に関して両親のもとに何らかの話が来たらしい。
はっきりと決まったわけではないが、おそらく一度ふたりの相性を見て前向きに検討しようという感じなのだろう。王城に遊びに来るようにと、ツィーラに誘いがあったのだ。
これは未来視にはなかった流れだ。
夢の中でのツィーラがナハルドと出会ったのは、大人になってからだった。
先日のパーティでツィーラが東屋に行ったのは、ライツェルトを避けたためだ。夢を見ていなければあの女の子の輪の中に加わって、ナハルドと知り合わなかったのだろう。
この時点でもう未来は変わり始めている。
だったらきっと、ナハルドを変えることだってできるはず。
ツィーラは明るいレモン色のドレスを着て、アマーリエと共に再び王城を訪れた。
先日は庭でのパーティだったが、今日は王城の中に入れるらしい。兵士に守られたアーチ状の門を潜ると、そこはシャンデリアが吊り下げられた広いホールだった。しかし閑散としているわけではなく、メイドや文官たちが忙しそうに行きかっている。城の東棟がプライベートな空間になっているらしく、ツィーラたちはそちらへ案内された。
ぴかぴかに磨かれた廊下を歩いて応接室へと入る。椅子に座ると、すぐさまメイドがお茶を運んできた。
少し待っていると、銀糸の刺繍が贅沢にあしらわれたドレスを着た、美しい女性が現れる。おそらく彼女が王妃なのだろう。顔立ちがナハルドによく似ている。アマーリエが礼をするのを見て、ツィーラも慌ててそれに倣った。
彼女に続いて入室したのはナハルドだった。伏し目がちに歩く姿は美しい人形のようだ。一瞬だけ目が合うが、彼の瞳はすぐさま別の場所へと逸らされる。
「ようこそいらしてくださいました。オラクルフ伯爵夫人、ツィーラ嬢」
王妃の声は鈴を転がすように柔らかで、それでいてはっきりとした威厳を持っていた。
「お目にかかれて光栄でございます、王妃殿下、ナハルド様」
アマーリエが再び深く頭を下げる。ツィーラもそのあとを追うように礼をした。
「本日はこうしてお目にかかれたこと、大変嬉しく思います。ツィーラ嬢、先日はナハルドと仲良くしてくださったのだとか。ナハルドはとても人見知りで友人もいないので、これからも仲良くしてくださると嬉しいわ」
そう声をかけられて、ツィーラは顔を上げた。王妃の微笑は優しく、けれど視線の奥には見定めるような光が宿っている。
「も、もったいないお言葉にございます……」
ツィーラの返事に満足したように微笑んだあと、王妃はナハルドへと視線を移す。
「ナハルド、こんな場所で話なんて退屈でしょう。ツィーラ嬢を中庭にご案内して差し上げては?」
緊張しているツィーラに気づいたのだろう、王妃がナハルドに提案した。
彼は小さくうなずくと、ツィーラをエスコートして部屋を出る。
中庭はすぐ近くにあった。暖かな陽光が降り注ぎ、まだ若い葉をつけた木々が風に揺れて柔らかな音を立てている。王城は多くの人が行きかっていたが、ここには人がいなくて静かだった。
花壇の前に置かれた石造りのベンチに案内され、ふたりで並んで腰かける。
すぐ近くにあるナハルドの横顔はかたく、白群の瞳は愁いを帯びている。重たい沈黙が続いたあと、彼はゆっくりと唇を動かした。
「……ごめんね」
開口一番に謝罪されて、ツィーラはきょとんとした。謝られる心当たりがない。
「君のことを、母上に話してしまったんだ。そうしたら婚約者にどうかって」
なるほど。どうやら彼は自分のせいで婚約話が浮上したと思っているらしい。
「いいえ、それは私のせいですよ。私がナハルド様におかしなことを言ってしまったから」
婚約しようと提案したのはツィーラが先だ。彼が謝罪することではない。
「でも君は、僕のことを知らなかったんでしょ?」
「それは――」
「僕の名前を知った途端、君の態度が変わった」
ツィーラはパーティの日のことを思い出した。
たしかにあのときのツィーラは黒髪の少年がナハルドだと知って、しまったと思ったのだ。
顔に出さないように注意していたが、彼はツィーラの気持ちを見抜いていたのだろう。
「……ごめんなさい」
「いいよ、そういうのは慣れてるし。謝るべきなのは僕の方なんだ。友達ができたかもって……勘違いして、君のことを話してしまった。君にとっては迷惑だったろうに」
ナハルドはじっと中庭の土を見つめながら言葉を紡ぐ。
彼の言葉を聞いて、ツィーラはあの日の自分の態度を反省した。先入観を持つなとアマーリエに言われていたのに、彼を拒絶して傷つけてしまった。
「勘違いじゃない! ……です。私、本当に友達になりたいって思って……でも、殿下だって知らなくて、すごく動揺してしまって」
ダメだ、何を言っても言い訳になってしまう。だけど、ナハルドに殺される未来を見たからだなんて言えるはずもない。
「無理しなくていいよ。闇の精霊の祝福を受けた人間なんて、気持ち悪いでしょ?」
「それは違います!」
今度はきっぱりと否定できた。
ツィーラが恐れているのは、闇の精霊なんかじゃない。
「私は闇の精霊のことをそんなに怖いと思っていないんです。それに、祝福は選べないって知っていますから」
祝福は本人が望むかどうかに関係なく、精霊から一方的に与えられるものだ。
ツィーラだって、祝福を受けるまで時の精霊のことをよく知らなかった。
ナハルドが祝福を受けたという、闇の精霊に対して偏見がないわけではない。
よくない精霊、怖い精霊だという話は聞いているし、物語でもいつも悪役として登場するので、悪い印象はあった。けれども、だからといって祝福されている者を怖いと思うかは別である。
未来のツィーラは、ナハルドのことを苦手に思っていた。でもそれは、ナハルドの瞳が怖かったからだ。何を考えているかまったく読めない虚無の瞳は闇そのもののようで、ああ、これは闇の精霊の寵愛を受けているからなのかと思ったのだ。
だけど、今のナハルドの瞳は怖くない。
ツィーラの態度で傷つき揺れている、普通の子供のものだ。
「ナハルド様は怖くありません」
にこりと笑ってみせると、ナハルドの目が地面から持ち上がりツィーラを捉えた。
視線がぶつかった途端、ナハルドの頬が朱色に染まり、彼は慌てた様子で唇を開く。
「そっ、そんなの、僕のことを知らないから言えるんだ。闇の精霊の力を、知らないから」
「髪の色が変わる以外に、何かあるんですか?」
「……試してみる?」
ナハルドはそう言うと、悲しそうな顔をしてツィーラの頬に手を伸ばした。
彼に触れられた瞬間、ドクンと大きく心臓が鳴る。
それと同時に、まるで夢の中にいるようなふわふわした気持ちになった。
(あれ? ナハルド殿下って、こんなに素敵だったっけ……)
なんだか突然、ナハルドのことが魅力的に見えてきた。
彼が好きだ。彼に好かれたい。この人に悲しい顔をさせたくない。
ナハルドの言うことなら何でも叶えてやりたいという気持ちになったところで、パンッと手を叩く音がして、思考がクリアになった。
ツィーラは驚いて、再びナハルドの顔を見る。美しい顔だが、先ほどのような強烈な魅力は感じない。えも言われぬ恐怖を感じて、じわりと汗が滲んだ。
「……い、今の……なに?」
「闇の精霊の力だよ。君が僕を好きになるように、精神を支配したんだ」
それはたしかに恐ろしい力だと思った。心が自分のものではなくなるという体験は、最悪といっていいくらいに不快だった。
闇の精霊が嫌われているのは、祝福した相手に、こんな力を与えるからというのもあるのだろう。
「だ、誰にでもこんなことができるんですか?」
「複数人を同時に操ることはできないし、限界もあるけどね。僕を好きにさせるだけじゃなく、誰かを怖がらせることも、もしかしたら自殺させることだってできるかもしれない」
「……それは、たしかに恐ろしい力ですね」
ツィーラは未来のナハルドを思い出した。ツィーラとライツェルトを殺して、どうやってルミエナの心を得るつもりだったのだろうかと思っていたが、彼には他人の心を変える力があったのだ。その気になれば相手の心を支配できるのだから、ルミエナを得ることも可能だ。
正直言って、ナハルドが恐ろしかった。
ツィーラの手が震えているのを、ナハルドは見逃さなかったようだ。
「僕が嫌われる理由が分かったでしょ?」
ナハルドは自嘲して、そっとツィーラと距離を取った。そうするのが当たり前だというように、悲しそうな顔をしてツィーラから離れたのだ。
何もかもを諦めたようなその表情がすごく苦しく見えて、ツィーラは咄嗟にナハルドの腕を掴んで自分の方へと引き寄せた。
そのままナハルドを抱きしめると、彼はビクッと身体を固くした。
「ツ、ツィーラ? な、何するの⁉」
「いきなりごめんなさい! でも、なんだか、すごく悲しくて」
ツィーラが怖い未来を見たとき、アマーリエが優しく抱きしめて慰めてくれた。
それと同じように、大丈夫だという気持ちを彼に伝えたくなったのだ。
「……大丈夫ですよ。だって、ナハルド様はそんな力があることをわざわざ私に伝えてくださったんですから。誰かの気持ちを無視して力を使ったりしないって信じられます」
ナハルドの力は怖かったが、それよりも未来視で剣を向けられたときの方がずっと怖かった。
あのときのナハルドは、ツィーラを殺すことをなんとも思っていなかった。だけど今のナハルドは、ツィーラを怖がらせて遠ざけるために力を使ったのだ。
きっと、期待しないように。仲良くなってから、裏切られないように。
当たり前のようにそう行動するナハルドは、今までどれだけ傷ついてきたのだろうか。
何も感情を映さない、虚無の瞳をした未来のナハルド。彼がああなるまでに、いったいどれだけのつらい経験をしてきたのだろう。
「ツィーラ……やめて、離して……僕を、期待させないで……」
離してと言いながら、ナハルドは抵抗する素振りを見せない。
本当は彼も期待したいのだろう。だから、ツィーラを突き放さない。
「……本当はツィーラも怖いんでしょ。だって、手が震えてる」
「怖い……ですよ。でも、ナハルド様と友達になりたいって思います」
完全に恐怖が消えることはないだろう。ナハルドの力も、彼に殺されるかもしれないという未来も怖い。
だけど、ツィーラはナハルドと向き合うと決めたのだ。彼の味方になるのだと。
それに、たぶんきっと、彼は怖いだけの人じゃない。
「……僕と、友達になってくれるの?」
「ナハルド様が望んでくれるなら。また、綺麗な虫とかお花の名前とかを教えてください」
ツィーラが頼むと、返事の代わりに彼の腕が背中に回った。
ツィーラとナハルドが友人関係になってから、半年が経過した。
ツィーラはナハルドと文通しながら、ときおり王城に遊びに行くという生活を続けている。
ナハルドとの友情は順調だ。本が好きだというナハルドは、ツィーラの知らない知識を色々と教えてくれるので、話をしていても面白い。
ふたりが交流を深めるのを見て大丈夫だと判断されたのか、正式に婚約を結ぶことに決まった。
ツィーラはそれを素直に受け入れた。ナハルドから逃げるのではなく、向き合おうと決めたからだ。
「ツィーラは本当によかったの? その、僕と婚約することになって」
ナハルドとの婚約が決まった翌週、いつものように王城にある彼の部屋に遊びに行くと、ナハルドは不安そうにツィーラに問いかけてきた。
「もちろん! ナハルドと婚約できるのは嬉しいよ」
ツィーラが笑うと、ナハルドはホッと息を吐き出した。
ナハルドが王子だと知ってから、しばらくツィーラは敬語で話していたが、彼の希望で気安い言葉を使うようになった。様をつけるのではなく、家族のように気安く接してほしいと頼まれたのだ。
ナハルドに何かを頼まれることは珍しかったので、ツィーラは喜んでその提案を受け入れた。無礼にならないか心配だったが、婚約者という間柄なら問題ないだろう。
「ナハルドこそ嫌じゃないの? 私が婚約者になるの」
「嫌なわけないよ! 君と結婚できるなら、嬉しいし……」
ナハルドは顔を赤らめてもじもじとする。
喜んでもらえるのはありがたいが、ナハルドと結婚となるとどうしても不安が頭を過る。
未来のナハルドは、ライツェルトと結婚したルミエナに横恋慕をしていた。何にも興味を持たないように見えたナハルドが執着したくらいだから、よほど惹かれるものがあったのだろう。
(もしかしたら今のナハルドも、ルミエナに恋をするのかもしれない)
「ねぇ、ナハルド。もしこれから先、他に好きな人ができたらいつでも言ってね。私はいつだってナハルドを応援したいし、そのために婚約を解消する覚悟もあるから」
「……どうしてそんなことを言うの?」
ナハルドの表情がすっと凍る。白群の瞳が陰った気がして、ツィーラは慌てた。
「ナハルドが嫌なわけじゃないよ? ただ、私たちはまだ幼いし、大人になったら他に好きな人ができるかもしれないでしょ?」
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