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1巻
1-1
プロローグ
どうしよう。ヤバイ、いよいよ死んでしまう。
ズキズキと痛む胸元を押さえ、朦朧とする意識の中で、來実は手探りでナースコールを押した。
加月來実は生まれつき病弱だった。
医者には長く生きられないだろうと宣言されていて、十八歳まで生きられたのは奇跡とまで言われている。今まで何度も発作はあったが、今回の発作はいつもと違った。
死を間近に感じて、來実の脳裏に後悔が過る。
(ぐっ、まだ……『ぴゅあ恋学園』の続編がプレイできていないのに!)
來実の趣味は乙女ゲームをプレイすることだった。
ここまで生き延びられたのは、生への執着……というよりも、新作ゲームをプレイしたいという欲望のおかげかもしれない。
乙女ゲームは素晴らしい。
長い闘病生活で学校にも通えなかった來実は、恋や青春に縁がなかった。
満足に外出することもできない身体だけれど、ゲームの中では自由に恋愛ができる――乙女ゲームは、來実にとって生きがいだったのだ。
胸の痛みに耐えながら、來実はベッド横に置かれたチェストへと手を伸ばした。
そこには、充電器に差したままの愛用ノートパソコンがある。
(ああ、死ぬならば最後にガーシェルムに会いたかった)
大好きな乙女ゲームの中で、最も來実がハマったゲーム。
それが、『魔法学園のシュメシ』という、ファンタジー世界の学園が舞台の成人向け乙女ゲームだった。成人向けゲームであるため、ゲーム機ではなくパソコン専用ソフトなのだが、これがたまらなく面白い。
濃厚な描写があるラブシーン目当てで購入したのだけれど、プレイしてみると、それだけではなく世界観やストーリー、魅力的なキャラクターにも魅了されてしまった。
中でも來実が夢中になったのが、攻略キャラクターのひとりであるガーシェルムだ。
いわゆる、ツンデレ枠と言われるこの青年。口調はぶっきらぼうなのだが、その裏に隠れる孤独や優しさがたまらないのだ。ビジュアルから声まで、なにもかもが、來実の好みの中心を射貫いていた。
このまま死んでしまうなら、どうか、乙女ゲームの世界に転生したい。
全身を襲う苦痛に耐えながら、來実はそう強く願った。
目の前が真っ暗に染まり、意識が闇の中へと落ちていく。
こうして、加月來実は十八の若さで生を終えたのだった。
転生に失敗したようです
気がつくと、來実は見知らぬ場所に立っていた。
どこか歴史情緒を感じる美しい部屋だ。
木目の浮いた床にはアラベスク模様の絨毯が敷かれ、壁には石造りの暖炉が取りつけられている。
置かれた家具はすべてアンティーク調で、落ち着いた色合いが、どこか古めかしさを感じる内装に馴染んでいる。
部屋の隅にある戸棚には様々な瓶が並んでいて、中に入った不思議な色をした液体が淡く発光していた。
初めて見るはずの光景。
なのに、來実はなぜだかこの部屋に見覚えがあるような気がした。
(ここは、どこ?)
來実はどうして自分がここにいるのか思い出せなかった。
ついさっきまで、來実は病室にいたはずだ。凄まじい胸の痛みに苦しみながら、どうにかナースコールを押したところまでは覚えている。
(あの痛みが、消えている?)
記憶を辿ろうとして、來実は自分の身体が軽くなっていることに気がついた。
長年來実を苦しめていた、全身を這い回るような身体の痛みがない。
少し動かしただけでも悲鳴を上げるほど軟弱な身体だったはずなのに、今は思わず走り出したくなるくらいに、全身が軽かった。
(軽いっていうか、むしろこれは――)
「貴様、私の部屋で何をしている!」
來実の思考を遮って、男性の鋭い声が聞こえた。
驚いて顔を上げると、部屋のドアの前に美しい男性が立っていた。
派手な色彩をした男だ。冬の空のようなスカイグレーの髪。その一部に、鮮やかな青のメッシュが入っている。その色と同じ、輝くサファイアの瞳は切れ長で鋭く、どこか冷ややかな印象だ。
さらに色白で背が高く、ギリシア彫刻を思わせるほど彫りの深い顔は日本人には見えない。
恐ろしく整った顔立ちの青年を見て、來実は顎が外れそうになるくらいに口を開けた。
「ガ、ガガガガガ、ガーシェルムゥゥゥ⁉」
彼のことを見間違えるはずがない。
シナリオコンプリート率百パーセント。台詞を覚えるほど繰り返してシナリオを読み込み、スチルは何度も眺め尽くした。
目の前の男性は、大好きなゲームである『魔法学園のシュメシ』に登場する推しにそっくりだったのだ。容姿はもちろん、騎士服を思わせるようなマントのついた黒い制服まで、ゲームの立ち絵を忠実に再現している。
(間違いない、彼はガーシェルムだ)
まるでゲームの世界から抜け出したような、クオリティの高いコスプレイヤーは存在するが、目の前の男性はあまりにもそのままだった。
「気安く私の名を呼ぶな。貴様、何者だ」
冷たく突き放すような言葉を聞いて、來実のテンションがますます上がる。
これぞ、まさしくガーシェルムである。
「も、も、もっと喋ってください!」
「は?」
來実の口から思わず願望が漏れると、ガーシェルムの眉間に皺が寄る。
その不機嫌そうな表情も立ち絵そのままで、來実は感動した。
「あああ、その表情、仕草っ、完璧です! どこまでも理想そのものっ!」
「な、なんだ貴様。おい、近づくな!」
思わず來実が身を乗り出すと、ガーシェルムは逃げるように後ずさる。
彼は制服の内ポケットからワンドを取り出すと、來実に向かってまっすぐ構えた。
先端に青い魔石が埋まった杖の武器まで、ゲームそのままだ。
「離れろゴースト、私に何をするつもりだ!」
ガーシェルムに敵意を向けられて、來実ははっと動きを止めた。
目の前に突然推しが現れてつい興奮してしまったが、これではただの変態である。
とにかく敵意がないことを分かってもらおうと、來実は両手を上げた。
「待ってください。私は怪しい者じゃありません」
「勝手に人の部屋に入り込み、おかしなことを口走って、怪しくないと?」
ごもっとも。第三者の視点で見れば、來実は間違いなく不審者だ。推しの部屋に入り込む、ストーカーまがいの厄介なファンである。
(というか、ここはガーシェルムの部屋なの⁉)
目の前に現れたガーシェルムに気を取られていた來実は、改めて周囲を見回す。
ガーシェルムと親しくなると、彼の部屋に誘われるイベントが発生する。この部屋は、そのイベント内で見られる背景に酷似していた。
資料がたくさん積まれたアンティーク調の机や、部屋の端にずらりと並んだ魔法薬の棚。その前に置かれた調合スペースや器具まで、ゲームとまったく同じだ。
「ここがまさしく、聖地……」
「なにを意味の分からないことを言っている」
あまりの尊さに、思わず両手を合わせて拝み始めた來実に、冷たい視線が突き刺さる。
いけない。推しの部屋に感動している場合ではない。
とにかく、ガーシェルムに自分が無害であることを分かってもらわないと。
ガーシェルムは険しい表情のままワンドを來実に突きつけ、今にも攻撃をせんばかりの体勢なのだ。この警戒を解かなければ、まともに話もできやしない。
「あなたからすればとても怪しいと思うんですが、なにか悪いことをしようと思ってここに来たわけじゃないんです。というか、どうしてここにいるか、まったく分からなくて」
喋りながら、來実はどうして自分がここにいるのか首を傾げた。
何度記憶を辿ってみても、この場所にやってきた記憶がない。病室で倒れてしまってから先の記憶が、ぱったりと途切れているのだ。
あの胸の苦しさは、通常の発作ではなかった。そのはずなのに、すっかり苦しさも身体の重さも消え失せているということは――
「私、死んだと思うんですけど、どうしてここにいるんでしょうか」
「それはもちろん、死んだからだろうな。ゴーストというのは、死んだ人間がなるものだ」
「ゴースト?」
「自覚がないのか? 自分の身体を見下ろしてみろ」
ガーシェルムに指摘されて、來実は自分の身体を見下ろした。
來実は病室にいたときと同じ、パジャマ姿だった。こんな恰好で推しの前に立っていたのかと思うと、恥ずかしい。
けれどもそれ以上に、來実には気にしなければならないことがあった。
「わ、私の身体、透けているんですけど!」
半透明になった身体を見て、來実は思わずそう叫んだ。
自分の身体の向こうに絨毯の模様が見えているような状態だ。
(これって、つまり幽霊? 私、転生したんじゃなくて、幽霊としてこの世界にトリップしちゃったの?)
死ぬ直前、確かに來実は乙女ゲームの世界に転生したいと願った。
けれどもそれは、赤ん坊として生まれ変わりたいという意味で、決して幽霊になりたいという意味ではない。
「光魔法の使い手の部屋に迷い込んでくるとは、愚かなゴーストだ。すぐに浄化してやろう」
ガーシェルムの言葉に呼応するように、ワンドの先端が光り始める。
あのワンドは、魔法の威力を増幅するものだったはずだ。その先端を向けられて、來実は慌てた。
「ま、ま、待ってください、話を聞いて!」
光魔法は、治癒と精神をつかさどる魔法だ。身体を癒し、悪しきもの――ゴーストや悪魔といった、実体を持たない精神生命体を浄化する。
もしも來実が本当にゴーストならば、一瞬で消されてしまうはず。
「ゴーストの話など、聞くはずがなかろう」
ガーシェルムは問答無用で呪文を唱えると、來実に向かって白い光を放った。
「消えろ」
「っ――!」
眩しい光の中で、來実は小さく悲鳴を上げた。
(せっかく推しに会えたのに、こんなにすぐ消えたくないっ!)
けれども想像していた痛みは訪れず、身体にはなんの変化もない。
「……なに?」
浄化の光が消えたあともその場に佇む來実を見て、ガーシェルムは驚いたように目を見開く。
「失敗したか。なら、もう一度だ」
ガーシェルムは顔を顰め、再び來実に向けて浄化魔法を放った。けれども先ほどと同じく、眩しいだけで來実にはなんの効果もない。
そのあと、ガーシェルムは何度も浄化魔法を使ったが、やはり結果は同じだった。
ガーシェルムは忌々しそうに自分のワンドを見てから、じろりと來実を睨む。
「なぜ効かない。貴様、ゴーストではないのか?」
「わ、分かりません」
ガーシェルムの疑問に答えてやりたいが、來実にもどうして自分がここにいるのか、まったく見当がつかないのだ。
「私、気がついたらこの場所にいたんです。どうしてここにいるのか、覚えていなくて」
説明しながら、來実は情けない顔になった。
『魔法学園のシュメシ』の世界に行きたいと思っていた。
しかし、まさかこんな状態で転生するとは思っていなかったのだ。
それとも、これは夢なのだろうか。もしそうなのだとしたら、ヒロインとまではいかずとも、せめて健康な身体で登場したかった。
「ゴーストとはそういうものだろう。にしても、私の魔法を食らって浄化しないどころか、平然としているのも珍しい」
ガーシェルムは顎に手を当てながら、まじまじと観察するように來実を眺めた。
至近距離で見つめられ、來実は思わず頬を染める。
(か、顔が良い!)
こんな状況で見惚れるのもどうかと思ったが、胸がときめくのを止められない。
ガーシェルムは何もかもが、來実の好みのど真ん中なのだ。容姿はもちろん、人を寄せつけないぶっきらぼうな物言いも、心を開いた者にだけ見せる甘い表情も、どれも來実の心に刺さる。
(ゴーストだとしても、こうやってガーシェルムと話せるなんて、幸せすぎる!)
「――聞いてるのか」
「はいっ、すみません、聞いていませんでした!」
來実がびしっと背筋を伸ばすと、ガーシェルムは嫌そうに顔を顰めた。
「貴様はどうすれば浄化するのかと聞いたんだ。この世に未練があるから、ゴーストになったのだろう」
ガーシェルムの言葉に、來実は目を瞬いた。
「未練と言われれば、たくさん思い当たりますけど……」
健康な身体に産まれたかった。
普通の女の子みたいに、学校に通って青春を謳歌したかった。
とはいえゴーストになるほど強い未練だったのかと問われれば、首を傾げざるを得ない。
そんなことは無理なのだと來実はとっくに諦めていたのだ。
(しかも、普通なら化けて出るにしても、その世界で化けるものだよね)
死んだ人間が化けて出たなんて話は聞くが、異世界に――それも、ゲームの世界に化けて出るなんてことはあるのだろうか。
そこまでするほどの心残りと言えば――
「しいて言うなら、あなたに会ってみたかったですね」
「貴様と私は初対面のはずだが」
「はい。一方的に存じ上げておりました」
來実がそう告げると、ガーシェルムは気味が悪そうに顔を歪めた。
「私に会ってどうするつもりだったのだ」
「それはもちろん、壁になってあなたの恋を見守ります!」
拳を握りしめて、來実は力説した。
ゲームのようにガーシェルムと恋愛したいと思うのが普通なのかもしれないが、來実はヒロインになりきるタイプではなく、ヒロインとの恋を見守るタイプのヲタクだった。
ヒロインに成り代わりたいのではなく、間近でその恋を見届けたい――そう考えると、ゴーストというのは最適なポジションではないだろうか。
「それはつまり、私に取り憑くという宣言か?」
「そんなつもりは……いや、そうなるのかも」
ガーシェルムに背後霊のように取り憑いて、ヒロインとの恋を見守れたら、なんて素敵だろうか。
「是非、取り憑かせてください!」
「断る! 消えろ、ゴーストが」
ガーシェルムはそう言うと、再びワンドを來実に向けて魔法を放った。
ワンドは浄化の光を放つが、先ほどと同じく、來実はなんの影響も受けない。
どうやら、ガーシェルムに來実を浄化することはできないらしい。
それが分かって、來実はにやりと口元を歪めた。
「ふふふふ。どうやら、力ずくで消すことはできないみたいですね」
「くそ、忌々しい」
「拒絶したって無駄ですよ。悪いようにはしません。いえ、むしろ、ガーシェルムの恋を応援しますので!」
『魔法学園のシュメシ』は乙女ゲームだ。攻略対象は複数いて、ヒロインの選択によって恋をする相手が変わっていく。つまり、この世界のガーシェルムがヒロインと結ばれるかはまだ分からない。
けれども、來実はイベントの内容をすべて覚えている。來実が協力すれば、他の攻略対象を出し抜いて、ガーシェルムがヒロインと恋愛することも可能なはず。
來実は拳を握りしめて力説するが、ガーシェルムは冷めた目で來実を見るばかりだ。
「馬鹿馬鹿しい。誰が恋などするものか」
冷めたガーシェルムの言葉を聞いて、來実は緩みそうになる表情を必死で引き締めた。
(こんな風に恋愛を馬鹿にしているけど、結局ヒロインに夢中になるんだよね)
ガーシェルムは好感度が低いときは物言いが冷たいが、好感度が上がると、途端に甘くなる。
いわゆる、ツンデレ枠というやつなのだ。
「なにを笑っている、不愉快だ」
「すみません。でも、私は出て行きませんよ! 必ずガーシェルムの役に立ちますから」
「必要ない、邪魔だ、消えろ」
そのあともふたりは、出て行け、行かないと押し問答を繰り返した。
しびれを切らしたガーシェルムが、強制的に來実を部屋から追い出そうとしたが、ゴーストである來実には実体がない。腕を掴んで連れ出そうにも、手がすり抜けてしまうのだ。
浄化魔法も効かないため、ガーシェルムが來実にできることがなにもない。
來実が自分の意思で出て行かない限り、追い出す手段がないと分かり、ガーシェルムは低い声で唸った。
最後には勝手にしろとガーシェルムが捨て台詞を放ったことで、來実は彼の側に居座る権利を得たのだった。
ヒロインへのアプローチ
翌朝、ぐったりと疲れた様子のガーシェルムの隣で、來実はご機嫌だった。
なにせ、ゲーム画面で見るだけだった魔法学園の中を歩いているのだ。
魔法学園は、正式にはシャーロン国立魔法師養成学園という。シャーロン魔法王国内の、魔力を持つ者を育成するための機関である。しかし、その門戸は誰にでも開かれているわけではない。
シャーロン魔法王国は、その名前の通り魔法使いが建国した国だ。
五百年前、魔法使いはその異端の力ゆえに迫害を受けていた。
そんな彼らが集まって、未開の地であったシャーロンに魔法使いの理想郷を創ったのが、国の起こりだ。そのとき力を貸した魔法使いの子孫が、今のシャーロン貴族である。
ゆえに、シャーロンの貴族たちはみな魔法使いの血を受け継いでいて、魔法が使えた。
この魔法学園は、貴族のご令息ご令嬢のための学校なのだ。
通う人間が貴族であることが前提のため、学園の内装も美しく凝ったものとなっている。
天井は優美なアーチを描き、腰壁のついた廊下には絵画が飾られていて華やかだ。学園というよりも、お城のような雰囲気であった。
「さすがはシャーロン魔法学園。どこもかしこも、とっても素敵ですね!」
來実が大声ではしゃいでみても、廊下を歩く生徒たちは気にした様子もない。どうやら來実の姿は、ガーシェルム以外には見えていないようなのだ。
強い光魔法の素質を持っているガーシェルムだから來実が見えるのか、はたまた、來実が推しである彼に取り憑こうと思ったからなのか。
理由は分からないが、來実がガーシェルムの側をうろうろしていても、咎められる心配がないのはありがたい。
ちなみに、最初にこの世界に来たときの來実は病院で着ていたパジャマ姿だったのだが、今は魔法学園の制服を着用した姿になっている。実体がないので、衣服は來実の意識ひとつで切り替えられるようだ。
ガーシェルム以外、誰からも見られることはないが、着替えられるのはありがたい。
「あまりうるさくしないでくれ。寝不足の頭に響く」
ガーシェルムは額を押さえながら、來実を睨んだ。
彼はどうやら、部屋に居座るゴーストが気になって、なかなか眠れなかったらしい。
彼の睡眠を邪魔するつもりがなかった來実は、ガーシェルムが眠っている間は廊下に出ていたのだが、それでもいつゴーストが戻ってくるかと思うと安眠できなかったのだとか。
來実も、ゴーストになって初めての夜は慣れなかった。なにせ、身体がないので、眠ることができないのだ。
生きていたときに感じていた身体の痛みがないのはありがたいが、お腹も空かないし、喉も渇かない。おまけに、なにかに触ろうとすれば、すり抜けてしまう。
自分の身体が壁やドアをすり抜けるのは、感覚がないとはいえ、気持ちの良いものではなかった。
妙なのはそれだけではなかった。
しばらくしてから気づいたのだが、來実はいつの間にか日本語ではない言葉を話していたのだ。
この世界、どうやら独自の言語が使用されているらしい。
不思議な響きの言葉なのだけれど、來実はその言葉を母国語であるかのように自然と理解して使用することができた。
しばらくの間、自分が話している言葉が日本語ではないと気づけなかったくらいだ。
どうして言葉が理解できるのか分からなかったが、これも來実がゴーストになってしまったことと関係しているのかもしれない。
「次の講義は水魔法学だというのに……万全の状態で受講できないとは」
ガーシェルムは忌々しそうに顔を顰めた。
水魔法学と聞いて、來実は眉根を寄せる。
ガーシェルムは、ガーシェルム・スタンバーグという、スタンバーグ家の嫡男だ。この家は代々優秀な水魔法使いを輩出している。
『魔法学園のシュメシ』の世界では、髪の色は魔法の属性に左右されるため、水魔法の使い手は必然的に青系の髪色になる。
初代スタンバーグ侯爵は、深い海のような藍色の髪をしていた。その濃さは違えど、スタンバーグを継ぐものは美しい青色の髪をしているのが常である。
けれども、ガーシェルムの髪は銀色に近いスカイグレー。スタンバーグ家の一員であることを示すように、髪の一部だけがメッシュのように青に染まっているが、その大部分は光属性を示す銀色だ。
それゆえ、スタンバーグ家の代名詞である水魔法は、ごく初歩の魔法ですら使えない。
ゲームの中のガーシェルムは、そのことに強いコンプレックスを抱いていた。この世界がゲームと同じであるなら、彼も水魔法には並々ならぬ執着があるのだろう。
授業に向かうガーシェルムの目には、焦りが見える。
心配になって、來実は思わずつぶやいた。
「水魔法の講義に、アレラが来てるといいんですけど」
「アレラ? キューカ男爵の養子となった、アレラ・キューカのことか?」
アレラはこのゲームのヒロインだ。
貴族しか入れないこの学園で、アレラは平民の出自であった。
シャーロン魔法王国では、国民全員が魔法を使えるわけではない。魔力は血筋に由来するため、先住民や移民が多いこの国の平民は魔法が使えない者のほうが多いのだ。
魔法の源である魔力は、全部で六種類の属性があって、その属性の魔力を持っていないと魔法が使えない。火属性の魔力を持つ者は、火に関する魔法しか扱うことはできない、というように、魔力の系統は基本的にひとりにひとつ。多くても三つの属性までだ。
その中で、アレラは全属性の魔力の持ち主だった。平民であるアレラが六種すべての魔法を扱えるのは、とても珍しいことだ。
そんなアレラの存在を知ったキューカ男爵が、彼女を養子にして、無理やりこの学園に放り込んだのがゲームの始まりだ。
『魔法学園のシュメシ』はパラメーター育成型の恋愛シミュレーションゲームである。
各攻略対象のルートに入るには、それぞれに対応した魔法の能力値を上げなければいけない。
ガーシェルムの攻略を狙うのであれば、水魔法と光魔法は必須。
つまり、アレラが水魔法の講義を受けているなら、ガーシェルムのルートに入る可能性が上がる。
「貴様はアレラの知り合いなのか?」
「できれば貴様じゃなくて、來実って呼んでくれると嬉しいんですけど」
「ゴーストと親しくするつもりはない」
名前で呼んでほしいという小さな希望を切って捨てられ、來実は肩を竦めた。
残念だが仕方がない。彼は親しくない人間には基本的に塩対応なのだ。
「アレラのことは、一方的に知っているんです。アレラだけじゃなくて、ガーシェルムのことも知っていますよ」
「嘯くな。ゴーストが私のなにを知っている」
「ガーシェルム家の嫡男で、光魔法の優秀な使い手ですよね」
どうしよう。ヤバイ、いよいよ死んでしまう。
ズキズキと痛む胸元を押さえ、朦朧とする意識の中で、來実は手探りでナースコールを押した。
加月來実は生まれつき病弱だった。
医者には長く生きられないだろうと宣言されていて、十八歳まで生きられたのは奇跡とまで言われている。今まで何度も発作はあったが、今回の発作はいつもと違った。
死を間近に感じて、來実の脳裏に後悔が過る。
(ぐっ、まだ……『ぴゅあ恋学園』の続編がプレイできていないのに!)
來実の趣味は乙女ゲームをプレイすることだった。
ここまで生き延びられたのは、生への執着……というよりも、新作ゲームをプレイしたいという欲望のおかげかもしれない。
乙女ゲームは素晴らしい。
長い闘病生活で学校にも通えなかった來実は、恋や青春に縁がなかった。
満足に外出することもできない身体だけれど、ゲームの中では自由に恋愛ができる――乙女ゲームは、來実にとって生きがいだったのだ。
胸の痛みに耐えながら、來実はベッド横に置かれたチェストへと手を伸ばした。
そこには、充電器に差したままの愛用ノートパソコンがある。
(ああ、死ぬならば最後にガーシェルムに会いたかった)
大好きな乙女ゲームの中で、最も來実がハマったゲーム。
それが、『魔法学園のシュメシ』という、ファンタジー世界の学園が舞台の成人向け乙女ゲームだった。成人向けゲームであるため、ゲーム機ではなくパソコン専用ソフトなのだが、これがたまらなく面白い。
濃厚な描写があるラブシーン目当てで購入したのだけれど、プレイしてみると、それだけではなく世界観やストーリー、魅力的なキャラクターにも魅了されてしまった。
中でも來実が夢中になったのが、攻略キャラクターのひとりであるガーシェルムだ。
いわゆる、ツンデレ枠と言われるこの青年。口調はぶっきらぼうなのだが、その裏に隠れる孤独や優しさがたまらないのだ。ビジュアルから声まで、なにもかもが、來実の好みの中心を射貫いていた。
このまま死んでしまうなら、どうか、乙女ゲームの世界に転生したい。
全身を襲う苦痛に耐えながら、來実はそう強く願った。
目の前が真っ暗に染まり、意識が闇の中へと落ちていく。
こうして、加月來実は十八の若さで生を終えたのだった。
転生に失敗したようです
気がつくと、來実は見知らぬ場所に立っていた。
どこか歴史情緒を感じる美しい部屋だ。
木目の浮いた床にはアラベスク模様の絨毯が敷かれ、壁には石造りの暖炉が取りつけられている。
置かれた家具はすべてアンティーク調で、落ち着いた色合いが、どこか古めかしさを感じる内装に馴染んでいる。
部屋の隅にある戸棚には様々な瓶が並んでいて、中に入った不思議な色をした液体が淡く発光していた。
初めて見るはずの光景。
なのに、來実はなぜだかこの部屋に見覚えがあるような気がした。
(ここは、どこ?)
來実はどうして自分がここにいるのか思い出せなかった。
ついさっきまで、來実は病室にいたはずだ。凄まじい胸の痛みに苦しみながら、どうにかナースコールを押したところまでは覚えている。
(あの痛みが、消えている?)
記憶を辿ろうとして、來実は自分の身体が軽くなっていることに気がついた。
長年來実を苦しめていた、全身を這い回るような身体の痛みがない。
少し動かしただけでも悲鳴を上げるほど軟弱な身体だったはずなのに、今は思わず走り出したくなるくらいに、全身が軽かった。
(軽いっていうか、むしろこれは――)
「貴様、私の部屋で何をしている!」
來実の思考を遮って、男性の鋭い声が聞こえた。
驚いて顔を上げると、部屋のドアの前に美しい男性が立っていた。
派手な色彩をした男だ。冬の空のようなスカイグレーの髪。その一部に、鮮やかな青のメッシュが入っている。その色と同じ、輝くサファイアの瞳は切れ長で鋭く、どこか冷ややかな印象だ。
さらに色白で背が高く、ギリシア彫刻を思わせるほど彫りの深い顔は日本人には見えない。
恐ろしく整った顔立ちの青年を見て、來実は顎が外れそうになるくらいに口を開けた。
「ガ、ガガガガガ、ガーシェルムゥゥゥ⁉」
彼のことを見間違えるはずがない。
シナリオコンプリート率百パーセント。台詞を覚えるほど繰り返してシナリオを読み込み、スチルは何度も眺め尽くした。
目の前の男性は、大好きなゲームである『魔法学園のシュメシ』に登場する推しにそっくりだったのだ。容姿はもちろん、騎士服を思わせるようなマントのついた黒い制服まで、ゲームの立ち絵を忠実に再現している。
(間違いない、彼はガーシェルムだ)
まるでゲームの世界から抜け出したような、クオリティの高いコスプレイヤーは存在するが、目の前の男性はあまりにもそのままだった。
「気安く私の名を呼ぶな。貴様、何者だ」
冷たく突き放すような言葉を聞いて、來実のテンションがますます上がる。
これぞ、まさしくガーシェルムである。
「も、も、もっと喋ってください!」
「は?」
來実の口から思わず願望が漏れると、ガーシェルムの眉間に皺が寄る。
その不機嫌そうな表情も立ち絵そのままで、來実は感動した。
「あああ、その表情、仕草っ、完璧です! どこまでも理想そのものっ!」
「な、なんだ貴様。おい、近づくな!」
思わず來実が身を乗り出すと、ガーシェルムは逃げるように後ずさる。
彼は制服の内ポケットからワンドを取り出すと、來実に向かってまっすぐ構えた。
先端に青い魔石が埋まった杖の武器まで、ゲームそのままだ。
「離れろゴースト、私に何をするつもりだ!」
ガーシェルムに敵意を向けられて、來実ははっと動きを止めた。
目の前に突然推しが現れてつい興奮してしまったが、これではただの変態である。
とにかく敵意がないことを分かってもらおうと、來実は両手を上げた。
「待ってください。私は怪しい者じゃありません」
「勝手に人の部屋に入り込み、おかしなことを口走って、怪しくないと?」
ごもっとも。第三者の視点で見れば、來実は間違いなく不審者だ。推しの部屋に入り込む、ストーカーまがいの厄介なファンである。
(というか、ここはガーシェルムの部屋なの⁉)
目の前に現れたガーシェルムに気を取られていた來実は、改めて周囲を見回す。
ガーシェルムと親しくなると、彼の部屋に誘われるイベントが発生する。この部屋は、そのイベント内で見られる背景に酷似していた。
資料がたくさん積まれたアンティーク調の机や、部屋の端にずらりと並んだ魔法薬の棚。その前に置かれた調合スペースや器具まで、ゲームとまったく同じだ。
「ここがまさしく、聖地……」
「なにを意味の分からないことを言っている」
あまりの尊さに、思わず両手を合わせて拝み始めた來実に、冷たい視線が突き刺さる。
いけない。推しの部屋に感動している場合ではない。
とにかく、ガーシェルムに自分が無害であることを分かってもらわないと。
ガーシェルムは険しい表情のままワンドを來実に突きつけ、今にも攻撃をせんばかりの体勢なのだ。この警戒を解かなければ、まともに話もできやしない。
「あなたからすればとても怪しいと思うんですが、なにか悪いことをしようと思ってここに来たわけじゃないんです。というか、どうしてここにいるか、まったく分からなくて」
喋りながら、來実はどうして自分がここにいるのか首を傾げた。
何度記憶を辿ってみても、この場所にやってきた記憶がない。病室で倒れてしまってから先の記憶が、ぱったりと途切れているのだ。
あの胸の苦しさは、通常の発作ではなかった。そのはずなのに、すっかり苦しさも身体の重さも消え失せているということは――
「私、死んだと思うんですけど、どうしてここにいるんでしょうか」
「それはもちろん、死んだからだろうな。ゴーストというのは、死んだ人間がなるものだ」
「ゴースト?」
「自覚がないのか? 自分の身体を見下ろしてみろ」
ガーシェルムに指摘されて、來実は自分の身体を見下ろした。
來実は病室にいたときと同じ、パジャマ姿だった。こんな恰好で推しの前に立っていたのかと思うと、恥ずかしい。
けれどもそれ以上に、來実には気にしなければならないことがあった。
「わ、私の身体、透けているんですけど!」
半透明になった身体を見て、來実は思わずそう叫んだ。
自分の身体の向こうに絨毯の模様が見えているような状態だ。
(これって、つまり幽霊? 私、転生したんじゃなくて、幽霊としてこの世界にトリップしちゃったの?)
死ぬ直前、確かに來実は乙女ゲームの世界に転生したいと願った。
けれどもそれは、赤ん坊として生まれ変わりたいという意味で、決して幽霊になりたいという意味ではない。
「光魔法の使い手の部屋に迷い込んでくるとは、愚かなゴーストだ。すぐに浄化してやろう」
ガーシェルムの言葉に呼応するように、ワンドの先端が光り始める。
あのワンドは、魔法の威力を増幅するものだったはずだ。その先端を向けられて、來実は慌てた。
「ま、ま、待ってください、話を聞いて!」
光魔法は、治癒と精神をつかさどる魔法だ。身体を癒し、悪しきもの――ゴーストや悪魔といった、実体を持たない精神生命体を浄化する。
もしも來実が本当にゴーストならば、一瞬で消されてしまうはず。
「ゴーストの話など、聞くはずがなかろう」
ガーシェルムは問答無用で呪文を唱えると、來実に向かって白い光を放った。
「消えろ」
「っ――!」
眩しい光の中で、來実は小さく悲鳴を上げた。
(せっかく推しに会えたのに、こんなにすぐ消えたくないっ!)
けれども想像していた痛みは訪れず、身体にはなんの変化もない。
「……なに?」
浄化の光が消えたあともその場に佇む來実を見て、ガーシェルムは驚いたように目を見開く。
「失敗したか。なら、もう一度だ」
ガーシェルムは顔を顰め、再び來実に向けて浄化魔法を放った。けれども先ほどと同じく、眩しいだけで來実にはなんの効果もない。
そのあと、ガーシェルムは何度も浄化魔法を使ったが、やはり結果は同じだった。
ガーシェルムは忌々しそうに自分のワンドを見てから、じろりと來実を睨む。
「なぜ効かない。貴様、ゴーストではないのか?」
「わ、分かりません」
ガーシェルムの疑問に答えてやりたいが、來実にもどうして自分がここにいるのか、まったく見当がつかないのだ。
「私、気がついたらこの場所にいたんです。どうしてここにいるのか、覚えていなくて」
説明しながら、來実は情けない顔になった。
『魔法学園のシュメシ』の世界に行きたいと思っていた。
しかし、まさかこんな状態で転生するとは思っていなかったのだ。
それとも、これは夢なのだろうか。もしそうなのだとしたら、ヒロインとまではいかずとも、せめて健康な身体で登場したかった。
「ゴーストとはそういうものだろう。にしても、私の魔法を食らって浄化しないどころか、平然としているのも珍しい」
ガーシェルムは顎に手を当てながら、まじまじと観察するように來実を眺めた。
至近距離で見つめられ、來実は思わず頬を染める。
(か、顔が良い!)
こんな状況で見惚れるのもどうかと思ったが、胸がときめくのを止められない。
ガーシェルムは何もかもが、來実の好みのど真ん中なのだ。容姿はもちろん、人を寄せつけないぶっきらぼうな物言いも、心を開いた者にだけ見せる甘い表情も、どれも來実の心に刺さる。
(ゴーストだとしても、こうやってガーシェルムと話せるなんて、幸せすぎる!)
「――聞いてるのか」
「はいっ、すみません、聞いていませんでした!」
來実がびしっと背筋を伸ばすと、ガーシェルムは嫌そうに顔を顰めた。
「貴様はどうすれば浄化するのかと聞いたんだ。この世に未練があるから、ゴーストになったのだろう」
ガーシェルムの言葉に、來実は目を瞬いた。
「未練と言われれば、たくさん思い当たりますけど……」
健康な身体に産まれたかった。
普通の女の子みたいに、学校に通って青春を謳歌したかった。
とはいえゴーストになるほど強い未練だったのかと問われれば、首を傾げざるを得ない。
そんなことは無理なのだと來実はとっくに諦めていたのだ。
(しかも、普通なら化けて出るにしても、その世界で化けるものだよね)
死んだ人間が化けて出たなんて話は聞くが、異世界に――それも、ゲームの世界に化けて出るなんてことはあるのだろうか。
そこまでするほどの心残りと言えば――
「しいて言うなら、あなたに会ってみたかったですね」
「貴様と私は初対面のはずだが」
「はい。一方的に存じ上げておりました」
來実がそう告げると、ガーシェルムは気味が悪そうに顔を歪めた。
「私に会ってどうするつもりだったのだ」
「それはもちろん、壁になってあなたの恋を見守ります!」
拳を握りしめて、來実は力説した。
ゲームのようにガーシェルムと恋愛したいと思うのが普通なのかもしれないが、來実はヒロインになりきるタイプではなく、ヒロインとの恋を見守るタイプのヲタクだった。
ヒロインに成り代わりたいのではなく、間近でその恋を見届けたい――そう考えると、ゴーストというのは最適なポジションではないだろうか。
「それはつまり、私に取り憑くという宣言か?」
「そんなつもりは……いや、そうなるのかも」
ガーシェルムに背後霊のように取り憑いて、ヒロインとの恋を見守れたら、なんて素敵だろうか。
「是非、取り憑かせてください!」
「断る! 消えろ、ゴーストが」
ガーシェルムはそう言うと、再びワンドを來実に向けて魔法を放った。
ワンドは浄化の光を放つが、先ほどと同じく、來実はなんの影響も受けない。
どうやら、ガーシェルムに來実を浄化することはできないらしい。
それが分かって、來実はにやりと口元を歪めた。
「ふふふふ。どうやら、力ずくで消すことはできないみたいですね」
「くそ、忌々しい」
「拒絶したって無駄ですよ。悪いようにはしません。いえ、むしろ、ガーシェルムの恋を応援しますので!」
『魔法学園のシュメシ』は乙女ゲームだ。攻略対象は複数いて、ヒロインの選択によって恋をする相手が変わっていく。つまり、この世界のガーシェルムがヒロインと結ばれるかはまだ分からない。
けれども、來実はイベントの内容をすべて覚えている。來実が協力すれば、他の攻略対象を出し抜いて、ガーシェルムがヒロインと恋愛することも可能なはず。
來実は拳を握りしめて力説するが、ガーシェルムは冷めた目で來実を見るばかりだ。
「馬鹿馬鹿しい。誰が恋などするものか」
冷めたガーシェルムの言葉を聞いて、來実は緩みそうになる表情を必死で引き締めた。
(こんな風に恋愛を馬鹿にしているけど、結局ヒロインに夢中になるんだよね)
ガーシェルムは好感度が低いときは物言いが冷たいが、好感度が上がると、途端に甘くなる。
いわゆる、ツンデレ枠というやつなのだ。
「なにを笑っている、不愉快だ」
「すみません。でも、私は出て行きませんよ! 必ずガーシェルムの役に立ちますから」
「必要ない、邪魔だ、消えろ」
そのあともふたりは、出て行け、行かないと押し問答を繰り返した。
しびれを切らしたガーシェルムが、強制的に來実を部屋から追い出そうとしたが、ゴーストである來実には実体がない。腕を掴んで連れ出そうにも、手がすり抜けてしまうのだ。
浄化魔法も効かないため、ガーシェルムが來実にできることがなにもない。
來実が自分の意思で出て行かない限り、追い出す手段がないと分かり、ガーシェルムは低い声で唸った。
最後には勝手にしろとガーシェルムが捨て台詞を放ったことで、來実は彼の側に居座る権利を得たのだった。
ヒロインへのアプローチ
翌朝、ぐったりと疲れた様子のガーシェルムの隣で、來実はご機嫌だった。
なにせ、ゲーム画面で見るだけだった魔法学園の中を歩いているのだ。
魔法学園は、正式にはシャーロン国立魔法師養成学園という。シャーロン魔法王国内の、魔力を持つ者を育成するための機関である。しかし、その門戸は誰にでも開かれているわけではない。
シャーロン魔法王国は、その名前の通り魔法使いが建国した国だ。
五百年前、魔法使いはその異端の力ゆえに迫害を受けていた。
そんな彼らが集まって、未開の地であったシャーロンに魔法使いの理想郷を創ったのが、国の起こりだ。そのとき力を貸した魔法使いの子孫が、今のシャーロン貴族である。
ゆえに、シャーロンの貴族たちはみな魔法使いの血を受け継いでいて、魔法が使えた。
この魔法学園は、貴族のご令息ご令嬢のための学校なのだ。
通う人間が貴族であることが前提のため、学園の内装も美しく凝ったものとなっている。
天井は優美なアーチを描き、腰壁のついた廊下には絵画が飾られていて華やかだ。学園というよりも、お城のような雰囲気であった。
「さすがはシャーロン魔法学園。どこもかしこも、とっても素敵ですね!」
來実が大声ではしゃいでみても、廊下を歩く生徒たちは気にした様子もない。どうやら來実の姿は、ガーシェルム以外には見えていないようなのだ。
強い光魔法の素質を持っているガーシェルムだから來実が見えるのか、はたまた、來実が推しである彼に取り憑こうと思ったからなのか。
理由は分からないが、來実がガーシェルムの側をうろうろしていても、咎められる心配がないのはありがたい。
ちなみに、最初にこの世界に来たときの來実は病院で着ていたパジャマ姿だったのだが、今は魔法学園の制服を着用した姿になっている。実体がないので、衣服は來実の意識ひとつで切り替えられるようだ。
ガーシェルム以外、誰からも見られることはないが、着替えられるのはありがたい。
「あまりうるさくしないでくれ。寝不足の頭に響く」
ガーシェルムは額を押さえながら、來実を睨んだ。
彼はどうやら、部屋に居座るゴーストが気になって、なかなか眠れなかったらしい。
彼の睡眠を邪魔するつもりがなかった來実は、ガーシェルムが眠っている間は廊下に出ていたのだが、それでもいつゴーストが戻ってくるかと思うと安眠できなかったのだとか。
來実も、ゴーストになって初めての夜は慣れなかった。なにせ、身体がないので、眠ることができないのだ。
生きていたときに感じていた身体の痛みがないのはありがたいが、お腹も空かないし、喉も渇かない。おまけに、なにかに触ろうとすれば、すり抜けてしまう。
自分の身体が壁やドアをすり抜けるのは、感覚がないとはいえ、気持ちの良いものではなかった。
妙なのはそれだけではなかった。
しばらくしてから気づいたのだが、來実はいつの間にか日本語ではない言葉を話していたのだ。
この世界、どうやら独自の言語が使用されているらしい。
不思議な響きの言葉なのだけれど、來実はその言葉を母国語であるかのように自然と理解して使用することができた。
しばらくの間、自分が話している言葉が日本語ではないと気づけなかったくらいだ。
どうして言葉が理解できるのか分からなかったが、これも來実がゴーストになってしまったことと関係しているのかもしれない。
「次の講義は水魔法学だというのに……万全の状態で受講できないとは」
ガーシェルムは忌々しそうに顔を顰めた。
水魔法学と聞いて、來実は眉根を寄せる。
ガーシェルムは、ガーシェルム・スタンバーグという、スタンバーグ家の嫡男だ。この家は代々優秀な水魔法使いを輩出している。
『魔法学園のシュメシ』の世界では、髪の色は魔法の属性に左右されるため、水魔法の使い手は必然的に青系の髪色になる。
初代スタンバーグ侯爵は、深い海のような藍色の髪をしていた。その濃さは違えど、スタンバーグを継ぐものは美しい青色の髪をしているのが常である。
けれども、ガーシェルムの髪は銀色に近いスカイグレー。スタンバーグ家の一員であることを示すように、髪の一部だけがメッシュのように青に染まっているが、その大部分は光属性を示す銀色だ。
それゆえ、スタンバーグ家の代名詞である水魔法は、ごく初歩の魔法ですら使えない。
ゲームの中のガーシェルムは、そのことに強いコンプレックスを抱いていた。この世界がゲームと同じであるなら、彼も水魔法には並々ならぬ執着があるのだろう。
授業に向かうガーシェルムの目には、焦りが見える。
心配になって、來実は思わずつぶやいた。
「水魔法の講義に、アレラが来てるといいんですけど」
「アレラ? キューカ男爵の養子となった、アレラ・キューカのことか?」
アレラはこのゲームのヒロインだ。
貴族しか入れないこの学園で、アレラは平民の出自であった。
シャーロン魔法王国では、国民全員が魔法を使えるわけではない。魔力は血筋に由来するため、先住民や移民が多いこの国の平民は魔法が使えない者のほうが多いのだ。
魔法の源である魔力は、全部で六種類の属性があって、その属性の魔力を持っていないと魔法が使えない。火属性の魔力を持つ者は、火に関する魔法しか扱うことはできない、というように、魔力の系統は基本的にひとりにひとつ。多くても三つの属性までだ。
その中で、アレラは全属性の魔力の持ち主だった。平民であるアレラが六種すべての魔法を扱えるのは、とても珍しいことだ。
そんなアレラの存在を知ったキューカ男爵が、彼女を養子にして、無理やりこの学園に放り込んだのがゲームの始まりだ。
『魔法学園のシュメシ』はパラメーター育成型の恋愛シミュレーションゲームである。
各攻略対象のルートに入るには、それぞれに対応した魔法の能力値を上げなければいけない。
ガーシェルムの攻略を狙うのであれば、水魔法と光魔法は必須。
つまり、アレラが水魔法の講義を受けているなら、ガーシェルムのルートに入る可能性が上がる。
「貴様はアレラの知り合いなのか?」
「できれば貴様じゃなくて、來実って呼んでくれると嬉しいんですけど」
「ゴーストと親しくするつもりはない」
名前で呼んでほしいという小さな希望を切って捨てられ、來実は肩を竦めた。
残念だが仕方がない。彼は親しくない人間には基本的に塩対応なのだ。
「アレラのことは、一方的に知っているんです。アレラだけじゃなくて、ガーシェルムのことも知っていますよ」
「嘯くな。ゴーストが私のなにを知っている」
「ガーシェルム家の嫡男で、光魔法の優秀な使い手ですよね」
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