風が記憶を攫う日に、君へさよならを。

塩見凛

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君を結ぶ、最後の想い。

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─季節が、巡った。
 
 彼がいなくなってから、最初の秋。

 私は、学校へ行かなくなった。

 黒板の文字も、教室のざわめきも、運動場を走る足音も。

 すべてが、もう、自分とは関係のない世界のことのように思えた。

 学校の制服は、押し入れの奥にしまったままだった。

 朝になっても、目覚まし時計は鳴りっぱなしで、私はそれを止めることもしなかった。

 誰かが「大丈夫?」とドアの向こうから声をかけてくるけど、返事をする気力も出なかった。

 彼がいない学校に、行く意味なんて、もうどこにもなかった。

 教室のざわめきも、笑い声も、全部、遠い世界の音みたいだった。

 耳をふさいだわけでもないのに、何も聞こえない。

 鏡に映った自分を見た。
 そこにいたのは、よく知っているはずの顔だった。

 けれど、どこかが、決定的に違っていた。

 ―笑えない。

 どんなに口角を上げても、頬に力を入れても、笑うという形にならなかった。

 あんなにくだらないことで笑い合っていたのに。

 肩をぶつけ合って、からかい合って、泣くほど笑った日々があったのに。

 それを思い出しても、もう、心が動かなかった。

 世界は、色を失ったみたいだった。

 私は、ただ、時間に取り残されるまま、部屋の中で小さく丸まっていた。

 朝になると、布団の中で目を開けたまま、ただ天井を見つめていた。

 母が、「無理しなくていいんだよ」と言ってくれた。

 父も、祖母も、誰も責めなかった。
 
 だけど─

 誰も、私を、彼のいる場所に連れて行ってはくれなかった。

 家の外では、風が吹いていた。

 彼がいないこの世界で、風だけは、何もなかったように吹き続けていた。

 ─どうして。

 私は、何度も自分に問いかけた。
 
 どうして、あの日、あの道を選んだんだろう。

 どうして、もっと早く歩かなかったんだろう。

 どうして、あのとき、私じゃなくて─。

 答えは、どれだけ探しても見つからなかった。

 見つかるはずなんてなかった。

 私は、ただ、時間の中に取り残されていた。

 **
 
 冬になった。

 冬の朝は、世界が音を失ったみたいだった。

 窓の外には、白い息を吐く街並み。
 けれど私は、毛布にくるまったまま、ベッドから起き上がることさえできなかった。

 寒さのせいじゃない。
 まだ、立ち上がる理由を、どこにも見つけられなかった。

 毛布の中で小さく丸まったまま、ぼんやりと天井を見つめる。
 そのうち、ふいに思い出す。

 あの日も、こんなふうに寒い日だったことを。

 「寒いな」って笑いながら、彼は私の手を取った。

 ポケットにから、取り出したカイロを私に押し付けて。

 「こうすればあったかいだろ?」なんて、無邪気な顔で。

 そのぬくもりを、私はもう二度と感じることができない。

 それに気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと縮こまった。

 窓の外に、うっすらと雪が降り始める。

 白い、静かな世界に、私だけが取り残されているみたいだった。

 指先がかすかに震える。
 あの時の温度を、無理やり思い出そうとしても、もう指先は、こんなにも冷たい。

 私はそっと目を閉じた。
 そして、そっと呟いた。

 ―会いたいな。
 ―もう一度だけでいいから。

 外では雪が積もり始めていた。
 けれど私は、何もできず、ただ、あの日のぬくもりを、毛布の中で抱きしめるしかなかった。

 吐く息が白くなって、彼がそれを面白がって笑っていたこと。

 思い出すたび、胸が締めつけられた。

 ─いない。
 
 ─どこにも。

 もう、声も、温もりも、指先の感触も。

 何ひとつ、ここにはなかった。

 私は、ノートを開いて、何度も彼の名前を書いた。

 でも、書いた名前は、ただのインクの染みにしか見えなかった。

 夜になると、毎日の様にベッドの中で声を殺して泣いた。

 涙の跡が冷たくなっても、目を閉じることができなかった。

 
 ─会いたい。

 
 それだけを、呪文みたいに、何度も心の中で繰り返していた。

 **
 
 そんなある夜。

 ふと、彼と交わした言葉を思い出した。

 まだ、彼がいた頃。

 まだ、何でもない日々が続くと信じていた頃。

 **
 
 ある夏の日、送り堂のまえで。

 「……でも、私は、書いたよ」

 「何を?」

 私は少しだけ、笑って。

 「……いつか、つらいことがあったときに、それを受け止めて、前を向ける自分でいたい、って」

 「……お前、今、悲しいことなんてないだろ」

 「うん、ないよ。でも、未来のために」

 「未来の私は、ちゃんと前を向ける人でいたいから」
 
 「まぁアユなら……大丈夫だろ。なにがあっても。」

 「俺はアユのそう……いうとこ、好き……だけど」

 「かわいいとこあるじゃん」
 
 あの日、夕陽に染まった彼の横顔が、ありありと脳裏に蘇った。

 
 **
 
 あんなに、不器用で。

 あんなに、恥ずかしそうな言葉で。

 私は、気づかないふりをしていた。

 彼のその言葉の重みも。

 彼がどれだけ、大切に想ってくれていたかも。

 ─ばかだなぁ。私。

 自分の胸に、そっとつぶやいた。

 ばかなのは、私だ。

 彼が残してくれたものを、言葉を、ちゃんと抱きしめようとしなかった。

 彼の優しさも、温もりも、想いも。

 私は、あまりにもたくさんのものを、見逃していた。

 涙が、またこぼれた。

 でも、それでも。

 私は、布団を蹴飛ばして、起き上がった。

 窓を開ける。

 冬の夜風が、肌を刺すように冷たかった。

 チリン─。

 どこかで、聞こえた気がして。

 凍えるような夜空の下で。

 約束をした時の、彼の不器用な笑顔が目の前に浮かぶ気がして。
 
 私は、胸の奥にそっと手を当てた。

 まだ、痛みは消えない。

 消えるわけがない。

 消しちゃ、いけない。
 
 でも─
 
 それでも、風鈴の音は、ここにある。

 私は、窓辺でずっと、風の音を聞いていた。

 ずっと。

 **
 
 ─少しずつ、世界が戻りはじめた。

 朝の光が、カーテン越しに差し込んでくる。

 鳥の声が、遠くで響く。

 庭の草木が、風にそよぐ。

 そんな当たり前の風景に、私は少しずつ、心を慣らしていった。

 でも、それは「元に戻る」ことじゃなかった。

 もう、あの頃には戻れない。

 彼がいた日々に、戻ることなんてできない。
 

 ─分かってる。分かってるけど。


 胸の奥に、消えない痛みがあった。

 彼を想うたびに、心のどこかがぎゅっと縮こまる。

 笑おうとすればするほど、涙がにじむ。

 何かを始めようとすると、どこかに置き去りにしてきた彼の声が、そっと引き留める。

 私は、あの日からずっと─

 「忘れたくない」と、「前に進まなきゃ」の狭間で、立ち尽くしていた。

**

 春の坂道を歩く。

 海から吹く風が、頬を撫でる。

 遠くから、子供たちの笑い声が聞こえてくる。

 私は、歩きながら、ふと思う。

 
 ─このまま、ずっと立ち止まったままでも、いいんだろうか。

 
 彼のことを、ずっと抱えて。

 何も見ないふりをして。

 何も聞かないふりをして。

 時間だけを、やり過ごして。

 
 ─それで、本当に、彼は、凪は喜んでくれるのかな。

 
 私は、足を止めた。

 目の前に広がる、坂の上の町を見下ろす。

 あの日、彼と一緒に見た、あの景色。
 
 夕陽に染まった屋根。

 海へと続く小さな道。

 灯り始めた家々の窓。


 ─思い出す。

 ─彼が、言ってくれた言葉。

 
 「俺はアユのそう……いうとこ、好き……だけど」

 何気ない日常の中で。

 彼は、恥ずかしそうに、でもすごくあたたかい声で、そう言ってくれた。


 ─前を向く私が、好きだって。

 
 涙が、滲んだ。

 私は、彼のことを忘れたくない。

 でも、彼のために、ちゃんと生きなきゃいけない。

 私を守ってくれた、彼の為にも。

 前を向くことは、彼を裏切ることじゃない。

 風に想いを託すことは、記憶を捨てることじゃない。
 
 ─受け止めて、前に進むため。

 ─だから。

 私は、来年の風送りの日に。

 彼を、ちゃんと風に還そう。
 
 風鈴に、すべての想いを託して。

 この手で、彼を送り出そう。
 

 小さな音が、風に揺れるたびに。

 彼の声が聞こえた気がした。

 彼の笑顔が浮かんだ気がした。

 涙が出る日もあった。

 膝を抱えて、声を殺して泣く夜もあった。

 それでも、私は。
 
 ─あなたに、届くように。
 
 ─あなたに、恥じないように。


 私は、今日を積み重ねる。

 風が、想いを連れて行ってしまわないうちに。

 私が、自分を見失わないうちに。

 風鈴の音は、毎日、私を支えてくれた。

 彼が、そばにいるような気がした。

 でも、同時に、少しずつ、私の中で彼は“遠く”なっていった。

 それはきっと、悪いことじゃない。

 そういうことなんだ。

 **
 
 そして、季節はまた巡る。

 夏が、近づいてきた。

 あと1週間。

 風鈴坂町の、風送りの日が、もうすぐそこに来ていた。
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