アマテラスの力を継ぐ者【第一記】

モンキー書房

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章第三「化物坂、蟷螂坂」

(八) 高天原にて蟷螂生ず

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 最近、天皇は日本の象徴になった。それよりもはるか昔から、天照大神あまてらすおおみかみは日本の象徴だった。いま、門前の乾庭けんていには二柱ふたはしらの象徴が出そろっている。天照大神の娘であり次期天照大神である稚日女尊わかひるめのみことが、屋乃波比伎神やのはひきのかみたちに腕をつかまれ、境内けいだいのなかへ連れ戻される。境内のほうが安全だ。六合院りくごういんで執務中の大日女尊おおひるめのみことへ、天照大神を引き渡し、乾庭に戻ろうとして、典薬寮てんやくりょうの神々を引き連れた大宮売神おおみやのめのかみと出くわす。
 門を出た瞬間、目の前でオオカマキリの鎌が振りおろされ、危うく斬られそうになった。ほかの神々をかばいながら、積まれたたばの山から麦を一本引き抜き、いただきます、と彩はささやく。それはたちまち直刀へと変化する。稜威雄走神いつのおはしりのかみたちは、いったい、なにを手こずっているというのだろう。惑う群衆の波から脱し、上空へんだときに、その理由は判明した。
 オオカマキリの背に着地した彩は、刑部省ぎょうぶしょうの神々が見守るなか、首もと目がけて刀を突き刺す。稜威雄走神のそばには別のオオカマキリがいて、目下戦闘中であった。天安河原あめのやすのかわらには、二、三匹のオオカマキリが横たわっている。そうだ、と彩は納得した。刑部省の精鋭たちが手こずるはずもない、一匹だけなら。しかし一匹だけではなかった以上、武神といえど、苦戦をいられるのは仕方ないだろう。
 彩はオオカマキリの背を転がり落ちた。どこからいてくるのか、まわりにはオオカマキリが増え続ける。神々のなかでも最弱だという自覚がある彩は、武神たちの補助に徹していた。麦でできた十束剣とつかのつるぎを、オオカマキリの前脚に目がけて振りおろす。彩に気を取られている隙に、天尾羽張神あめのおははりのかみが急所を狙って一撃を放つ。その場へオオカマキリが倒れ込むと、なにかが破れた腹から飛び出してきた。
 天尾羽張神の動体視力を前に、口をいて出た「危ないっ!」という彩のひとことは、まったく意味をなさない。悠々とかわした天尾羽張神は、その物体すらも目にまらぬ速さで真っぷたつに斬った。さっきのは、オオカマキリの攻撃だったのだろうか。まだ生きているのだろうかと思い、彩はオオカマキリの腹部をしつこいくらいにつつき、くまなく調べてみるが、完全に息絶えていることを確認する。
天香山てんこうざんだ!」そのとき突然、八意思金神やごころおもいかねのかみが声を上げた。「このカマキリどもは、天香山からきている!」
 その場にいたほぼ全員が、八意思金神が指さすほうへ目を向ける。まさか、という思いが込み上げる。昼間から見えていた白っぽいものは、雪でも白和幣しろにきてでもなく、カマキリの巣だったということに、彩はそこで気がついた。検非違使けびいしの神々が即座に動き、天香山へと向かう。殲滅せんめつは専門家に任せようと思い、とりあえず彩は天尾羽張神と再び連携を取り、この場にいるオオカマキリの退治を進める。半分以上の麦が、オオカマキリや逃げ惑う神々によって踏み荒らされ、地獄絵図と化していた。
 七十二候しちじゅうにこうのひとつ「蟷螂生かまきりしょうず」といっても、高天原たかまのはらにカマキリはいない。外から紛れ込んでくることも、過去に一度もなかった。彩は、ふと考える。なんだか胸騒ぎがしてならない。彩は、オオカマキリと対峙しながら、さらに考え込む。ここにいる原因もそうだが、なぜオオカマキリたちは暴れまわっているのだろう、と彩は疑問に思った。
 前脚の攻撃を華麗に躱し、背中へ剣を突き立てる。するとまた、さっきと同じように細長いなにかが、腹のなかから飛び出してきた。けるべく、彩はバク宙して天安河あめのやすのかわへ着地する。オオカマキリのでき死体の山を踏んづけてしまう。それは斬り傷の一切見当らない、キレイな身体をしたオオカマキリの群れだった。田地で暴れまわっているのとは別に、天安河までやってきて、そのまま水没していったオオカマキリも、たくさんいるということだろうか。
 カマキリ……水場……ふと彩の脳裏に、思いつくものがあった。
 …………。
 ……。
 風を切る音や金属音が、高天原中に響き渡っている。天照大神は神殿のなかへ入り、ただただ祈ることしかできない。乾庭に通じる門の前で、稚日女尊は、怪我をした神々の治療にあたる典薬寮の手伝いをしていた。あくまでも自分は安全なところにいなくてはならないのが、稚日女尊にとってはなんとも歯がゆいことである。
 すると、刑部省の神々が戦っている音とは別に、太鼓のような音色が乾庭のほうから聞こえてきた。音のしたほうを見る。はだけそうな襟下えりしたを必死に押さえつけた天鈿女命あめのうずめのみことが、引っ繰り返したおけの底をドンドコと踏み鳴らしているのが目に映った。その隣りで鼻の高い男の子が、手伝おうとしてか、地団駄を踏むように、何度も小さな足を動かしている。恐らく、天鈿女命の息子だろう。様子を見ていた猿田彦老翁さるたひこのおきなが、人前をはばからずに怒号を上げた。
「なにをしとる! 乳房を出さんか! ほとさらさんか!」
 稚日女尊は、思わず「セクハラですよ、それは」と口をはさでしまう。猿田彦老翁は怪訝けげんな表情を見せる。誰も、彼を止める者は現れない。高天原ここにおいては、稚日女尊のような者のほうが少数派なのだろう。だが、黙ってはいられなかった。猿田彦老翁が反論する。「なにを言うとる。いくら皇女ひめさんといえど、家人いえびとのことに口を出さんでもらいたい」
「ダメです、無理いをさせちゃ……」
 耳を真っ赤にした天鈿女命の目もとには、大粒の涙がまっていた。恥ずかしくて、苦しい、と声に出さずとも、反応を見れば一目瞭然であった。なおも食い下がる稚日女尊を制止しようと、大宮売神は猿田彦老翁とのあいだに身体をねじ込む。稚日女尊に向かって、大宮売神は「そんなことよりも、早く境内へ入ってください!」と促した。
「そうじゃ、そうじゃ。見てるだけが関の山の皇女さんは、とっととお逃げくだされ」
 我慢の限界を迎えた稚日女尊は、思わず猿田彦老翁につかみかかろうとしてしまい、菊理媛神くくりひめのかみが仲裁へ割って入る。なだめようとしてくれているようだが、まったく稚日女尊の耳に届くことはなかった。
 そのとき、足もとの小石につまずいて、男の子は顔面から豪快に転んだ。それを見た猿田彦老翁が「愉快じゃっ愉快じゃっ」と声を上げる。その笑い声によってオオカマキリたちの動きはにぶり、この隙に刑部省の神々が一斉に攻撃を仕かけた。心配する天鈿女命が男の子に駆け寄ろうとしたのを、再び猿田彦老翁が怒号を上げて押しとどめる。「動きを止めるな! 自分の仕事をまっとうしろ!」
 言いつけどおり桶を踏み続ける天鈿女命のそばで、男の子はわんわんと泣き出した。なにもできず見ているだけの母親に代わり、稚日女尊が男の子を抱きかかえ、蛤貝比売うむがいひめのもとへと連れて行く。男の子の膝からは、血が流れていた。突然のできごとに、猿田彦老翁に対しての怒りよりも、この子を早く治療をしないと、という気持ちがまさり、稚日女尊は冷静さを取り戻す。治療を終えたあと、稚日女尊は神妙な面持ちで、大宮売神に頼みごとをする。「ひとつ、我儘わがままを聞いてくださいますか」
 大宮売神は「……はい?」と目をパチクリさせた。
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