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第一曲「さえずりサンライズ」
1サビ
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四月下旬にもなると、とっくに代々木公園の桜は散っていた。ぽかぽかとした陽気が周囲を包み込み、徐々に夏の到来を感じさせる。
マネージャーである藤崎莉奈と合流した春香は、赤坂見附から渋谷方面の電車に乗り換えて目的地を目指した。
東京メトロ銀座線は、一九二七(昭和二)年に浅草・上野間で運行を開始した、日本で初めての地下鉄である。
それと同時に、アジア圏でも初の地下鉄だったそうだ。
現在は台東区の浅草駅から渋谷区の渋谷駅までを結ぶ鉄道となり、鉄道名にもなっている銀座駅がほぼ中央に位置する。
春香は欠伸をしながら、スマホにイヤホンを挿して、その先端のイヤーピースを耳に当てた。
座席にもたれかかりながら車窓を眺めてみるも、昼間だというのに真っ暗なガラスには自分の顔がぼんやりと映り、蛍光灯の光が規則的に流れていく風景しか見ることができない。
隣りには春香と同年代である、二十代前半の女性が座っていた。
スーツを身にまとった彼女・藤崎莉奈は、ここへ来る途中に買ってきた手土産を入れた紙袋を抱え、ぼんやりと中吊り広告を眺めている。
そこには、いま人気の女優・二階堂祐実が写っていた。
祐実は『カウントダウン美少女探偵・ニノマエフミ』という連ドラに主役として出演し、今年の夏にはそのドラマのシーズン七が放送予定である。
しばらく音楽を聴きながら電車に揺られていると、春香の身体に蛍光灯とは違った光が降り注ぐのを感じた。
電車内に地上の光が差し込み、次第に視界が開けていく。
地下鉄を称しているが、東京メトロ銀座線のホームは、渋谷駅の三階に設けられている。
これは文字通り、渋谷という土地は谷になっていて低いからで、一旦地上に出る必要があるのだ。
「まもなく、渋谷、渋谷。終点です」
女性の声で、そうアナウンスされる。
渋谷の街のビル群が目に飛び込んできたのも束の間、車体は建物内へと入っていった。
その建物こそが、渋谷駅である。
改札を抜けて外に出ると、予想以上の寒気に思わず身震いする。
もう春とは言え、まだまだ気温は低いようだった。
渋谷駅を出てすぐに、スクランブル交差点の近くに広場が見える。
そこには「忠犬ハチ公の銅像」があり、平日の昼間だというのに、多くの人だかりに囲まれていた。
しかし春香たちは、こんな月並みの場所で待ち合わせしているわけではなく、忠犬ハチ公の銅像を通り過ぎて先を急ぐ。
スクランブル交差点から徒歩十分もかからずに、豪勢な家々が建ち並ぶ高級住宅街が姿を現した。
その中でも白を基調とした、ひときわ目を引く邸宅の前で、春香たちは立ち止まった。
そこが、かの有名な作曲家・雨宮慎吾の自宅である。
乗換時間を合わせても、合計約二十分。着いたときには、午前九時を少し過ぎた時刻だった。
周辺のほかの家よりも段違いに大きく、若者の街とは思えないほど場違いな風景である。
敷地の周辺はレンガの塀に囲まれ、春香たちの目の前には荘厳な門扉が出迎えていた。
二メートルほどの高さだが、それ以上あるかのように錯覚してしまう威厳を放っている。
その上、敷地内には木々が立ち並び、あまり中の様子は窺い知れなかった。
備えつけられたインターホンを莉奈は鳴らす。応答がなかったので、もう一度押してみても、やはり応答はなかった。
「留守……かな。アポは取ってたはずなんだけど……」
莉奈は携帯電話を手に取って、手短に操作したあと耳に当てる。
「う~ん。雨宮さん、出ないな。社長に連絡して指示を仰ごう」
一旦諦めて、春香たちは出直そうと、踵を返しかけたとき、背後から誰かの声がした。
「どちら様ですか?」
声のしたほうを振り返ると、ビニール袋を両手に抱えた四〇歳前後の女性が立っている。
「ミューゼス・プロダクションの藤崎莉奈です」
「ああ、紺野さんとこの……話は聞いてますよ」
女性は買い物かごに入れたポーチから、鍵を取り出してドアの開錠をする。
「どうしたんですか? 夫は中にいると思いますけど……」
「でも、応答がなくて……」
「もしかしたら、模様替えに没頭しているのかも……」
雨宮夫人は、ふふっ、と笑う。
「昨日から溜まりに溜まった本を整頓するために、新しい本棚を買ったとかで、ずっと部屋に籠っているんですよ」
どうぞと家の中に招かれ、すぐに応接間に通された。
下座のソファーに腰かけてそわそわしていると、トレーに載った二客のティーカップが運ばれてきて、春香たちは「お構いなく」と手を差し伸べながら立ち上がる。
無駄のない所作でお茶を淹れたあと、雨宮夫人は「少々お待ちください」と言って立ち去った。
夫を捜しに行った夫人の「あなた~」と呼ぶ声だけが、部屋に残された春香と莉奈の耳に届く。
ミューゼス・プロダクションの社長・紺野に渡された紙袋の中から『クラシック音楽の変遷』という本を取り出した。
これから会う、雨宮が著した書籍である。続きを読もうと、スピンを持ち上げる。
ここへ来るまでの電車内で、まさにハイドンの交響曲第四十四番を聴きながら、ハイドンの項目を読んでいたところだった。
一六〇〇年代のバロック期から一九〇〇年代のロマン派までを扱っていて、巻末の著作一覧を見る限り本作はシリーズ二作目らしかった。
一作目は『西洋音楽のはじまり』と題して、楽器・歌の起源からルネサンス期までを扱っているそうだ。
時系列順に作曲家が紹介され、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの古典派三大音楽家と呼ばれる人たちについて、作品だけではなく性格やエピソードまで、こと細かな情報が載っていた。
初めは紺野に言われたから読み始めたのだが、いつしか本をめくる手が止まらなくなっている自分に気づく。
「几帳面……というか、神経質そうな人だよね」
「確かに……この限られたページ数の中で、全曲を紹介するなんて……けっこう大変そう」
きょろきょろと視線を動かしながら言う莉奈に、春香は本のページをめくりつつ同意する。
テーブルの上にはリモコンが、きっちりと等間隔に三つ並べられている。
部屋の中を見渡す限りおそらく、テレビとエアコンとCDプレーヤーのものだろう。
好きな作家の名前が書かれたインデックスプレートを発見して、莉奈は壁際に置かれた本棚の近くまで行ってみる。
それが『カウントダウン美少女探偵・ニノマエフミ』だったので、莉奈は勝手に一人でテンションが上がった。
「いやっ」
小さな悲鳴があったあと、「あなた! あなた!」と叫ぶ声がする。
春香が「どうかしましたか?」と階下から呼びかけるも、なにも聞こえないのか返事はなかった。
ただならぬ空気にいてもたってもいられず、春香と莉奈は階段を駆け上がっていくと、向かって右側の部屋前にへたり込んだ女性を視認する。
「も、もしもしっ!」
腰を抜かしたらしい夫人は、その姿勢のままスマホを耳に当てていた。
「お、夫が……倒れていて……じゅ、住所ですか? し、渋谷区の……」
春香は開いていたドアから、部屋の中を覗き込む。
窓から陽光がわずかに差し込む薄暗い部屋の中、そこには見覚えのある男性が倒れていた。
雨宮とは初対面だったが、書籍に載っている近影を見る限り本人で間違いないだろう。
春香は恐る恐る部屋の中へ足を踏み入れる。
莉奈は部屋の前で棒立ちになったまま、わなわなと震えるように口元に手を添えていた。
「雨宮さん? 雨宮さん!」
春香は何度も声をかけてみたが、雨宮からの反応はまるでなかった。
仰向けに倒れた雨宮の身体はぴくりとも動かず、目も口も開いた状態で虚空を見つめ続けている。
その身体からは、まるで生気は感じられなかった。
「……声?」夫人の耳が、わずかにスマホから離れる。「そばに、ですか? ああ、知り合いの女性が……」
死んで、いる? いや、それはまだわからない。
救急に電話しようと、春香は震える手で鞄のファスナーを開ける。
やっと掴んだスマホは、逃げるように床へと滑り落ちた。
雨宮の身体のそばに転がり、スクリーンのライトが点灯する。
スマホを拾い上げた拍子に足がもつれ、春香は窓を覆い隠すように置かれた棚に肩をぶつけた。
「痛っ」
この部屋が薄暗い原因は、これが邪魔して陽光が入って来にくいからだ。
肘に当たったインデックスプレートには見覚えがある。一階の応接間にあった本棚に挿していたものと同じだ。
棚にはレコードやCDが、作曲者・アーティスト別に整頓されている。
クラシックはもちろんのこと、歌謡曲や演歌、それからアニメソングやボーカロイドまで揃っていた。
窓のほうから向かって左側には、ガラス張りの大きな一室が見える。おそらく、防音室だろう。
そこの扉が全開になっていて、雨宮の頭が扉との間に、挟まる形で少しだけ入っていた。
防音室の中には、ヴァイオリンケースやシンセサイザーなどの機材が見えるだけで、特別、変わった様子はなさそうだった。
「春香ちゃん」
莉奈の呼ぶ声が聞こえて、よろよろと立ち上がる。彼女は落ち着いた声音で話す。
「救急隊員なり警察官なりが到着するまで、隣りの部屋で待っていましょう」
「け、警察っ! ですか? でも、一一九にしか電話してませんけど……」
夫人が素っ頓狂な声を上げる。そうだ、救急にはもう夫人が一報を入れていたのだった。
とにかく、早鐘を打つ心臓を静めようと、春香は深呼吸する。部屋の中を再度、見渡した。
やはり几帳面な性格らしく、室内には塵ひとつなく、綺麗に整頓されているようだった。
「大丈夫です。救急に連絡しても、伝え聞いた現場の状況を考慮して、相応の連絡が警察のほうへも行くようなシステムになっていますから」
莉奈は春香たち二人を隣室へ誘導する。
雨宮慎吾の書斎だろうか、壁際の机上にはパソコンはひとつ置かれているだけだった。
その部屋にあるラックの中にも、さっきの部屋と同様にCDがたくさん並べられている。
莉奈は、右上の空いたスペースを眺めた。
「かなり最近の音楽の流行にも、アンテナを張っていたみたいだね」
莉奈は顎に手をやって、考え込む仕草をした。
「春香ちゃん。この部屋、なにか変じゃない?」
「……変って?」
「……この部屋にあるCD、順番がバラバラだよ?」
春香はざっと、部屋の棚を見渡す。言われてみると確かにそうだった。
下段はレコードが収められているが、上段はCDのコーナーになっているようだった。
棚の中の適当な部分を、左から順番に見ていく。
大滝詠一の『A LONG VACATION』、松田聖子の『Pineapple』、五輪真弓の『恋人よ』、キャンディーズの『THE BEST Againキャンディーズ』……
そのラインナップを見て春香は、著書の第三弾は邦楽を題材にする予定だったのかもしれない、と思った。
それはともかく。
聞き覚えのある名曲たちが、ところ狭しと並べられているようだったが、やはりアーティスト名やタイトル名とは関係なく、適当に並べられているように見える。
「本当だ……確かに順番がバラバラ……」
「……几帳面な人が、こんなミスを?」
「まさか……これはミスっていうより……」
沈黙が降りてきた二人の空間に、未だ電話口で状況を伝え続けている夫人の声が響く。
そこに救急車の音が、だんだんと近づいてくるのが重なって聞こえた。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
マネージャーである藤崎莉奈と合流した春香は、赤坂見附から渋谷方面の電車に乗り換えて目的地を目指した。
東京メトロ銀座線は、一九二七(昭和二)年に浅草・上野間で運行を開始した、日本で初めての地下鉄である。
それと同時に、アジア圏でも初の地下鉄だったそうだ。
現在は台東区の浅草駅から渋谷区の渋谷駅までを結ぶ鉄道となり、鉄道名にもなっている銀座駅がほぼ中央に位置する。
春香は欠伸をしながら、スマホにイヤホンを挿して、その先端のイヤーピースを耳に当てた。
座席にもたれかかりながら車窓を眺めてみるも、昼間だというのに真っ暗なガラスには自分の顔がぼんやりと映り、蛍光灯の光が規則的に流れていく風景しか見ることができない。
隣りには春香と同年代である、二十代前半の女性が座っていた。
スーツを身にまとった彼女・藤崎莉奈は、ここへ来る途中に買ってきた手土産を入れた紙袋を抱え、ぼんやりと中吊り広告を眺めている。
そこには、いま人気の女優・二階堂祐実が写っていた。
祐実は『カウントダウン美少女探偵・ニノマエフミ』という連ドラに主役として出演し、今年の夏にはそのドラマのシーズン七が放送予定である。
しばらく音楽を聴きながら電車に揺られていると、春香の身体に蛍光灯とは違った光が降り注ぐのを感じた。
電車内に地上の光が差し込み、次第に視界が開けていく。
地下鉄を称しているが、東京メトロ銀座線のホームは、渋谷駅の三階に設けられている。
これは文字通り、渋谷という土地は谷になっていて低いからで、一旦地上に出る必要があるのだ。
「まもなく、渋谷、渋谷。終点です」
女性の声で、そうアナウンスされる。
渋谷の街のビル群が目に飛び込んできたのも束の間、車体は建物内へと入っていった。
その建物こそが、渋谷駅である。
改札を抜けて外に出ると、予想以上の寒気に思わず身震いする。
もう春とは言え、まだまだ気温は低いようだった。
渋谷駅を出てすぐに、スクランブル交差点の近くに広場が見える。
そこには「忠犬ハチ公の銅像」があり、平日の昼間だというのに、多くの人だかりに囲まれていた。
しかし春香たちは、こんな月並みの場所で待ち合わせしているわけではなく、忠犬ハチ公の銅像を通り過ぎて先を急ぐ。
スクランブル交差点から徒歩十分もかからずに、豪勢な家々が建ち並ぶ高級住宅街が姿を現した。
その中でも白を基調とした、ひときわ目を引く邸宅の前で、春香たちは立ち止まった。
そこが、かの有名な作曲家・雨宮慎吾の自宅である。
乗換時間を合わせても、合計約二十分。着いたときには、午前九時を少し過ぎた時刻だった。
周辺のほかの家よりも段違いに大きく、若者の街とは思えないほど場違いな風景である。
敷地の周辺はレンガの塀に囲まれ、春香たちの目の前には荘厳な門扉が出迎えていた。
二メートルほどの高さだが、それ以上あるかのように錯覚してしまう威厳を放っている。
その上、敷地内には木々が立ち並び、あまり中の様子は窺い知れなかった。
備えつけられたインターホンを莉奈は鳴らす。応答がなかったので、もう一度押してみても、やはり応答はなかった。
「留守……かな。アポは取ってたはずなんだけど……」
莉奈は携帯電話を手に取って、手短に操作したあと耳に当てる。
「う~ん。雨宮さん、出ないな。社長に連絡して指示を仰ごう」
一旦諦めて、春香たちは出直そうと、踵を返しかけたとき、背後から誰かの声がした。
「どちら様ですか?」
声のしたほうを振り返ると、ビニール袋を両手に抱えた四〇歳前後の女性が立っている。
「ミューゼス・プロダクションの藤崎莉奈です」
「ああ、紺野さんとこの……話は聞いてますよ」
女性は買い物かごに入れたポーチから、鍵を取り出してドアの開錠をする。
「どうしたんですか? 夫は中にいると思いますけど……」
「でも、応答がなくて……」
「もしかしたら、模様替えに没頭しているのかも……」
雨宮夫人は、ふふっ、と笑う。
「昨日から溜まりに溜まった本を整頓するために、新しい本棚を買ったとかで、ずっと部屋に籠っているんですよ」
どうぞと家の中に招かれ、すぐに応接間に通された。
下座のソファーに腰かけてそわそわしていると、トレーに載った二客のティーカップが運ばれてきて、春香たちは「お構いなく」と手を差し伸べながら立ち上がる。
無駄のない所作でお茶を淹れたあと、雨宮夫人は「少々お待ちください」と言って立ち去った。
夫を捜しに行った夫人の「あなた~」と呼ぶ声だけが、部屋に残された春香と莉奈の耳に届く。
ミューゼス・プロダクションの社長・紺野に渡された紙袋の中から『クラシック音楽の変遷』という本を取り出した。
これから会う、雨宮が著した書籍である。続きを読もうと、スピンを持ち上げる。
ここへ来るまでの電車内で、まさにハイドンの交響曲第四十四番を聴きながら、ハイドンの項目を読んでいたところだった。
一六〇〇年代のバロック期から一九〇〇年代のロマン派までを扱っていて、巻末の著作一覧を見る限り本作はシリーズ二作目らしかった。
一作目は『西洋音楽のはじまり』と題して、楽器・歌の起源からルネサンス期までを扱っているそうだ。
時系列順に作曲家が紹介され、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの古典派三大音楽家と呼ばれる人たちについて、作品だけではなく性格やエピソードまで、こと細かな情報が載っていた。
初めは紺野に言われたから読み始めたのだが、いつしか本をめくる手が止まらなくなっている自分に気づく。
「几帳面……というか、神経質そうな人だよね」
「確かに……この限られたページ数の中で、全曲を紹介するなんて……けっこう大変そう」
きょろきょろと視線を動かしながら言う莉奈に、春香は本のページをめくりつつ同意する。
テーブルの上にはリモコンが、きっちりと等間隔に三つ並べられている。
部屋の中を見渡す限りおそらく、テレビとエアコンとCDプレーヤーのものだろう。
好きな作家の名前が書かれたインデックスプレートを発見して、莉奈は壁際に置かれた本棚の近くまで行ってみる。
それが『カウントダウン美少女探偵・ニノマエフミ』だったので、莉奈は勝手に一人でテンションが上がった。
「いやっ」
小さな悲鳴があったあと、「あなた! あなた!」と叫ぶ声がする。
春香が「どうかしましたか?」と階下から呼びかけるも、なにも聞こえないのか返事はなかった。
ただならぬ空気にいてもたってもいられず、春香と莉奈は階段を駆け上がっていくと、向かって右側の部屋前にへたり込んだ女性を視認する。
「も、もしもしっ!」
腰を抜かしたらしい夫人は、その姿勢のままスマホを耳に当てていた。
「お、夫が……倒れていて……じゅ、住所ですか? し、渋谷区の……」
春香は開いていたドアから、部屋の中を覗き込む。
窓から陽光がわずかに差し込む薄暗い部屋の中、そこには見覚えのある男性が倒れていた。
雨宮とは初対面だったが、書籍に載っている近影を見る限り本人で間違いないだろう。
春香は恐る恐る部屋の中へ足を踏み入れる。
莉奈は部屋の前で棒立ちになったまま、わなわなと震えるように口元に手を添えていた。
「雨宮さん? 雨宮さん!」
春香は何度も声をかけてみたが、雨宮からの反応はまるでなかった。
仰向けに倒れた雨宮の身体はぴくりとも動かず、目も口も開いた状態で虚空を見つめ続けている。
その身体からは、まるで生気は感じられなかった。
「……声?」夫人の耳が、わずかにスマホから離れる。「そばに、ですか? ああ、知り合いの女性が……」
死んで、いる? いや、それはまだわからない。
救急に電話しようと、春香は震える手で鞄のファスナーを開ける。
やっと掴んだスマホは、逃げるように床へと滑り落ちた。
雨宮の身体のそばに転がり、スクリーンのライトが点灯する。
スマホを拾い上げた拍子に足がもつれ、春香は窓を覆い隠すように置かれた棚に肩をぶつけた。
「痛っ」
この部屋が薄暗い原因は、これが邪魔して陽光が入って来にくいからだ。
肘に当たったインデックスプレートには見覚えがある。一階の応接間にあった本棚に挿していたものと同じだ。
棚にはレコードやCDが、作曲者・アーティスト別に整頓されている。
クラシックはもちろんのこと、歌謡曲や演歌、それからアニメソングやボーカロイドまで揃っていた。
窓のほうから向かって左側には、ガラス張りの大きな一室が見える。おそらく、防音室だろう。
そこの扉が全開になっていて、雨宮の頭が扉との間に、挟まる形で少しだけ入っていた。
防音室の中には、ヴァイオリンケースやシンセサイザーなどの機材が見えるだけで、特別、変わった様子はなさそうだった。
「春香ちゃん」
莉奈の呼ぶ声が聞こえて、よろよろと立ち上がる。彼女は落ち着いた声音で話す。
「救急隊員なり警察官なりが到着するまで、隣りの部屋で待っていましょう」
「け、警察っ! ですか? でも、一一九にしか電話してませんけど……」
夫人が素っ頓狂な声を上げる。そうだ、救急にはもう夫人が一報を入れていたのだった。
とにかく、早鐘を打つ心臓を静めようと、春香は深呼吸する。部屋の中を再度、見渡した。
やはり几帳面な性格らしく、室内には塵ひとつなく、綺麗に整頓されているようだった。
「大丈夫です。救急に連絡しても、伝え聞いた現場の状況を考慮して、相応の連絡が警察のほうへも行くようなシステムになっていますから」
莉奈は春香たち二人を隣室へ誘導する。
雨宮慎吾の書斎だろうか、壁際の机上にはパソコンはひとつ置かれているだけだった。
その部屋にあるラックの中にも、さっきの部屋と同様にCDがたくさん並べられている。
莉奈は、右上の空いたスペースを眺めた。
「かなり最近の音楽の流行にも、アンテナを張っていたみたいだね」
莉奈は顎に手をやって、考え込む仕草をした。
「春香ちゃん。この部屋、なにか変じゃない?」
「……変って?」
「……この部屋にあるCD、順番がバラバラだよ?」
春香はざっと、部屋の棚を見渡す。言われてみると確かにそうだった。
下段はレコードが収められているが、上段はCDのコーナーになっているようだった。
棚の中の適当な部分を、左から順番に見ていく。
大滝詠一の『A LONG VACATION』、松田聖子の『Pineapple』、五輪真弓の『恋人よ』、キャンディーズの『THE BEST Againキャンディーズ』……
そのラインナップを見て春香は、著書の第三弾は邦楽を題材にする予定だったのかもしれない、と思った。
それはともかく。
聞き覚えのある名曲たちが、ところ狭しと並べられているようだったが、やはりアーティスト名やタイトル名とは関係なく、適当に並べられているように見える。
「本当だ……確かに順番がバラバラ……」
「……几帳面な人が、こんなミスを?」
「まさか……これはミスっていうより……」
沈黙が降りてきた二人の空間に、未だ電話口で状況を伝え続けている夫人の声が響く。
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