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第一曲「さえずりサンライズ」
2Aメロ
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「現着しました」
救急隊員よりも早く、近くの交番から、二人の制服警官が来たようだった。
インターホンの音で玄関まで足早に向かった雨宮夫人は、警官二人を引き連れて不安げな面持ちで戻ってくる。
一人の警官は春香たちのもとで待機し、もう一人が薄闇の部屋の中へと足を踏み入れた。
暗がりの中でほんのわずかに、首を横に振る警官の姿を視認する。
それを合図かのように、部屋の外にいるもう一人の警官が、無線を握ってなにやら報告し始めた。
救急車が到着したあとも、そばに担架を携えた救急隊員がいるにも関わらず、なぜか運び出されない雨宮慎吾の身体は、元々の位置に横たえられたままだった。
「あ、あの……」
雨宮夫人が恐る恐る声を上げる。ところどころ、しゃくりあげていた。
「びょ、病院に、連れて、行かないんですか」
「申し訳ありません」
言葉とは裏腹に、警官は申し訳なさそうではなく言いのける。
「現場の保存をしなくてはならないので……ご理解ください」
「現場……」
言葉を理解できない外国人のように、そう雨宮夫人は復唱した。
「お話を少々伺いたいのですが……」警官の一人が手帳を開く。「お名前は?」
「あ、雨宮恵美子です」
ハンカチで押さえられた口元から、雨宮恵美子のくぐもった声が聞こえる。
もう一人の警官は無線をしきりに持ち替えて、いまだになにかを報告しているようだった。
「……現場を発見した状況を、詳しく教えてくれますか」
「あ、はい」
恵美子は、ハンカチを握り締めた拳に、ぎゅっとさらなる力を込める。
「お客さんが見えていたので、主人のことを呼びに部屋まで行きました。何度、呼びかけても返事がなかったので、さすがにおかしいとは思ったんですが、まさか……」
鼻をすすった音が聞こえた。
「なるほど……」警官は真剣な眼差しでペンを走らせる。「そこで、ご主人のご遺体を発見された、と?」
「遺体……」恵美子は、また復唱する。「やっぱり……死んで……」
「それで、どうされました?」
「えーっと……そのあと、ケイタイで一一九番に電話しました」
「なるほど、なるほど……」警官は春香たちのほうへと目を向ける。「あなたがたは? いまの供述で、間違いありませんか?」
「え、あ、はい……」上ずった声を発し、莉奈が答える。
「二階から叫び声が聞こえたので、わたしたちも現場に駆けつけました。そこでまず、床に座り込んでいる雨宮恵美子さんを発見しました」
「包丁が落ちていて、それを拾ったら血がついていて……」
恵美子は耳に当てた右手とは逆のほうで、なにかを掴むように手を伸ばす仕草をした。
包丁を拾った場面を再現しているのだろう。
「こ、腰を、抜かしてしまって……はい……」
「その血は……?」
春香ははっとして、自分の手元を見下ろした。
警官の視線を追うと、そこで初めて、両手が血に塗れていることに気がつく。
「尻餅をついたときに……」
気が動転してしまい、慎重に行動できなかった。
遺体に近づいていた時間はほんのわずか。
その中で手のひらに血痕が付着しうる瞬間は、あのときしかなかったはずである。
両手だけではなくパンツの裾や靴下などにも血がついていた。
ひょっとしてあのとき、血で滑って転んでしまったのだろうか。
春香は遺体発見時のことを思い出しながら、警官に対して状況を説明する。
「なるほど、なるほど……」
口癖のように何度も繰り返し言い、メモにひたすらとなにかを書き加える。
「すると……あなたがたは、初めてこの家に来たと? 雨宮慎吾さんとのご関係は?」
「えーっと。そうですね……関係?」
莉奈は首を傾げたまま、春香のほうへ視線を向ける。
「こちらのハルカがカヴァーするに当たって、作曲された方にあいさつを、と思いまして……」
「作曲……ああ、雨宮慎吾さんは作曲家だそうですが……」
警官は莉奈から春香の顔へと視線を移す。「失礼ですが、ご職業は?」
「歌手です、一応」
「ミューゼス・プロダクション所属のタレントです」
春香の自信なげな説明に、莉奈が力強く補足した。
「今後、知らない人はいないというほど有名になりますので、いまから知っておいても損はないと思います」
「ちょ、ちょっと……」
「なるほど、なるほど……」
訂正しようと身を乗り出した春香をよそに、あまり興味もなさそうな警官から何度目か口癖が飛び出す。
「すると、許可を取りに来たというわけですか」
「あ、いえ……許可というよりも、あいさつに……」
「なにが、どう違うんですか?」
「えーっと……基本的に音楽というのはJASRACが管理しててですね……わざわざ著作権者に許可を取らなくても、料金だけをそのJASRACに支払うことで、楽曲を利用することができるわけです」
「ジャ、ジャスティス……?」
正義感あふれる警官は、とんちんかんな発言をした。
「つまり、どこそこの喫茶店がBGMに使いたいからとか、いついつここのホールで演奏会をしたいからとか、いちいちそんなことで許可申請されても、許可を出す側も手間も時間も割かれるので大変なんです」
莉奈の説明は続く。「それを一手に請け負って、使用料という形で管理手数料を除いたぶんの額を、作曲家や作詞家に分配しているのが、JASRACという一般社団法人です」
ですが、と莉奈は話を締めくくる。
「今回はミューゼス・プロダクションの判断で、作曲された方へのあいさつまわりとして、雨宮慎吾さんのお宅へ出向いた次第です」
「なるほど、なるほど……」
莉奈の勢いに気圧され、警官は半歩ほど後ろに下がった。
「たまたま、あいさつに訪れたら、雨宮慎吾さんの亡骸を発見された、ということですね」
そう言って警官は、再び手帳に目を落とし、なにかを書き加える。
事情聴取している間も、もう一人の警官は無線に向かい合ったままだった。
すると雑音混じりの音声が、無線から微かに聞こえる。
「まもなく現着です」
「了解です」
無線から聞こえた声に、警官は静かに返事をし、春香たちのほうへ向き直った。
「同じ話をしていただくことになるかと思います。こちらで少々お待ちください」
それから、ほんの十数秒でガチャリ、とドアが開かれる音がした。
通報から十分ほどが経って、所轄の刑事たちが鑑識を伴って数十人、ぞろぞろと入ってくる。
そして二人の制服警官は、KEEP OUTと書かれたバリケードテープを、手際よく門扉の前に張り巡らせていった。
あとは強行犯係である刑事たちの仕事だ。
部屋の中では、鑑識の人たちがカメラを構えて写真を撮り、道具箱からなにやら取り出して、机やCDラックに擦りつけていく。
春香たち三人は、一階の応接間で待機することになった。
あらかた現場検証も終わったところで、やっと雨宮慎吾の遺体が運ばれていく。
鑑識課員の一人が刑事に告げた。
「死後硬直の状態から考えても、ガイシャは死亡してから、二時間にも満たないと思います」
「七時半くらいか……」
刑事は腕時計を確認した。それから、部下と思しき刑事たちに命令を下す。
「およそ七時半から九時までの時間帯、不審な人物が目撃されていないか聞き込みを頼む。あ、それと」
立ち去ろうとした刑事たちを呼び止め、刑事は耳打ちするように告げた。
「夫婦間についても、なにか気になる点がないか訊いておけ」
鑑識課員は説明を続ける。
「背後からひと突き、振り返ったガイシャを、もうひと突き。倒れ込んだガイシャに、トドメのひと突き……とまあ、そんな感じですかね」
鑑識課員は、ナイフを振り回す仕草をしてみせる。自分の胸元を、人差し指でトントンと軽く叩いた。
「心臓に達していた三つ目の刺創……これが致命傷でしょうね」
「三箇所も……明確な殺意があるな」
ちらりと三人に目を向ける。刑事は腕を組んで思案顔をした。「怨恨か?」
鑑識課員は深く頷いて同意する。「その可能性は高いですね」
「そうか……」
報告を受けた刑事は、春香たちのほうへ顔を向けた。
「お話を伺っていいですか。まずは奥さまから」
「あ、はい……」
恵美子が刑事に誘導され外へと出て行く。応接間には春香と莉奈、数名の警察官が残された。
それから約三十分が経過する。ただただ待つというのは、体感的には途方もなく長いように思えた。
「次に……」
刑事が顔を覗かせる。後ろから、やつれた表情で恵美子が戻ってきた。
「左側の女性、よろしいですか」
刑事は手の平を上にして指し示す。目が合ったのは春香だった。
刑事のあとをついていくと、そこは家の外に駐められたパトカーだった。
後部座席に入るよう勧められ、隣りの座席に腰かけた刑事がする質問に答える。
運転席にも、もうひとり刑事が乗り込んでいた。
「お名前は?」
「音無春香です」
「ご職業は?」
「えーっと……歌手、です」
正確には歌手と探偵だが、いちいち説明するのも面倒なので言わなかった。
きょうは特に、ここに歌手として訪れているから。
「きょうの七時半から九時半までの間、どちらにいましたか?」
「二時間前なら、ちょうど家を出た頃だと思います」
記憶を手繰り寄せて答える。
ちょうど出かけるときに時計を見たこともあり、たった二時間前の出来事なので、思い出すのにそう時間はかからなかった。
「住所は?」
「江戸川区東葛西……」
春香は、探偵事務所でもある住所を口にする。
調べれば、すぐに探偵であることには気づくはずだが、隠していると思われて変に疑われたりしないだろうか、と一抹の不安を覚えた。
「そこから、まっすぐこちらへ?」
「いえ。ミューゼス・プロダクションに寄ってからです。午前……八時をちょっと過ぎた頃だったと思います」
これでミューゼス・プロダクションに連絡が行くのは確実か。心配かけちゃうかな、社長に。
それから数分間、雑談に近い取り調べは終了した。
春香が応接間に戻ると、入れ替わりで莉奈が呼ばれる。
恵美子の姿がなかったので隣りの刑事に訊くと、女性刑事とともにお手洗いへ向かったと言う。
恵美子が戻ってくるのを待って、春香は気になっていたことを尋ねた。
「あの部屋って、いつもあんなに暗いんですか?」
「……いえ。昨日までは棚なんか置いてませんでしたよ」
「そうなんですか。それじゃあ、新しい本棚を買ったって言っていましたけど、もしかしてあれですか?」
「え、いえ……それはわかりません。全部の棚の位置が微妙に変わっていたし、あの棚も元々あった場所から動かしてきただけかもしれないですけど……」
恵美子は小首をかしげる。しばらく考え込んだあと、なにかを思い出したように声を潜めた。
「そういえば夫が今朝、鳥の歌がどうとか、オレンジの日の出がどうとか、言っていましたけど……」
「鳥の歌……オレンジの日の出……ですか?」
「ええ。それを入れるために買った本棚だ、とか言って……それから、なんとかウォッカ? ヴォッカ? 確か、そんなことを……」
「ボッカ……?」
「すみません、記憶が曖昧で……」
「いえ。ありがとうございます」
恵美子と春香は、お互いに頭を下げ合った。
春香は応接間のソファに深く腰かける。
もうすでに時刻は、十時半を過ぎていた。
莉奈も春香と同様、ほんの十数分で出てくる。
「それでは」
莉奈の後ろから入室してきた刑事が口を開く。
「次に実況見分を行いたいと思います」
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
救急隊員よりも早く、近くの交番から、二人の制服警官が来たようだった。
インターホンの音で玄関まで足早に向かった雨宮夫人は、警官二人を引き連れて不安げな面持ちで戻ってくる。
一人の警官は春香たちのもとで待機し、もう一人が薄闇の部屋の中へと足を踏み入れた。
暗がりの中でほんのわずかに、首を横に振る警官の姿を視認する。
それを合図かのように、部屋の外にいるもう一人の警官が、無線を握ってなにやら報告し始めた。
救急車が到着したあとも、そばに担架を携えた救急隊員がいるにも関わらず、なぜか運び出されない雨宮慎吾の身体は、元々の位置に横たえられたままだった。
「あ、あの……」
雨宮夫人が恐る恐る声を上げる。ところどころ、しゃくりあげていた。
「びょ、病院に、連れて、行かないんですか」
「申し訳ありません」
言葉とは裏腹に、警官は申し訳なさそうではなく言いのける。
「現場の保存をしなくてはならないので……ご理解ください」
「現場……」
言葉を理解できない外国人のように、そう雨宮夫人は復唱した。
「お話を少々伺いたいのですが……」警官の一人が手帳を開く。「お名前は?」
「あ、雨宮恵美子です」
ハンカチで押さえられた口元から、雨宮恵美子のくぐもった声が聞こえる。
もう一人の警官は無線をしきりに持ち替えて、いまだになにかを報告しているようだった。
「……現場を発見した状況を、詳しく教えてくれますか」
「あ、はい」
恵美子は、ハンカチを握り締めた拳に、ぎゅっとさらなる力を込める。
「お客さんが見えていたので、主人のことを呼びに部屋まで行きました。何度、呼びかけても返事がなかったので、さすがにおかしいとは思ったんですが、まさか……」
鼻をすすった音が聞こえた。
「なるほど……」警官は真剣な眼差しでペンを走らせる。「そこで、ご主人のご遺体を発見された、と?」
「遺体……」恵美子は、また復唱する。「やっぱり……死んで……」
「それで、どうされました?」
「えーっと……そのあと、ケイタイで一一九番に電話しました」
「なるほど、なるほど……」警官は春香たちのほうへと目を向ける。「あなたがたは? いまの供述で、間違いありませんか?」
「え、あ、はい……」上ずった声を発し、莉奈が答える。
「二階から叫び声が聞こえたので、わたしたちも現場に駆けつけました。そこでまず、床に座り込んでいる雨宮恵美子さんを発見しました」
「包丁が落ちていて、それを拾ったら血がついていて……」
恵美子は耳に当てた右手とは逆のほうで、なにかを掴むように手を伸ばす仕草をした。
包丁を拾った場面を再現しているのだろう。
「こ、腰を、抜かしてしまって……はい……」
「その血は……?」
春香ははっとして、自分の手元を見下ろした。
警官の視線を追うと、そこで初めて、両手が血に塗れていることに気がつく。
「尻餅をついたときに……」
気が動転してしまい、慎重に行動できなかった。
遺体に近づいていた時間はほんのわずか。
その中で手のひらに血痕が付着しうる瞬間は、あのときしかなかったはずである。
両手だけではなくパンツの裾や靴下などにも血がついていた。
ひょっとしてあのとき、血で滑って転んでしまったのだろうか。
春香は遺体発見時のことを思い出しながら、警官に対して状況を説明する。
「なるほど、なるほど……」
口癖のように何度も繰り返し言い、メモにひたすらとなにかを書き加える。
「すると……あなたがたは、初めてこの家に来たと? 雨宮慎吾さんとのご関係は?」
「えーっと。そうですね……関係?」
莉奈は首を傾げたまま、春香のほうへ視線を向ける。
「こちらのハルカがカヴァーするに当たって、作曲された方にあいさつを、と思いまして……」
「作曲……ああ、雨宮慎吾さんは作曲家だそうですが……」
警官は莉奈から春香の顔へと視線を移す。「失礼ですが、ご職業は?」
「歌手です、一応」
「ミューゼス・プロダクション所属のタレントです」
春香の自信なげな説明に、莉奈が力強く補足した。
「今後、知らない人はいないというほど有名になりますので、いまから知っておいても損はないと思います」
「ちょ、ちょっと……」
「なるほど、なるほど……」
訂正しようと身を乗り出した春香をよそに、あまり興味もなさそうな警官から何度目か口癖が飛び出す。
「すると、許可を取りに来たというわけですか」
「あ、いえ……許可というよりも、あいさつに……」
「なにが、どう違うんですか?」
「えーっと……基本的に音楽というのはJASRACが管理しててですね……わざわざ著作権者に許可を取らなくても、料金だけをそのJASRACに支払うことで、楽曲を利用することができるわけです」
「ジャ、ジャスティス……?」
正義感あふれる警官は、とんちんかんな発言をした。
「つまり、どこそこの喫茶店がBGMに使いたいからとか、いついつここのホールで演奏会をしたいからとか、いちいちそんなことで許可申請されても、許可を出す側も手間も時間も割かれるので大変なんです」
莉奈の説明は続く。「それを一手に請け負って、使用料という形で管理手数料を除いたぶんの額を、作曲家や作詞家に分配しているのが、JASRACという一般社団法人です」
ですが、と莉奈は話を締めくくる。
「今回はミューゼス・プロダクションの判断で、作曲された方へのあいさつまわりとして、雨宮慎吾さんのお宅へ出向いた次第です」
「なるほど、なるほど……」
莉奈の勢いに気圧され、警官は半歩ほど後ろに下がった。
「たまたま、あいさつに訪れたら、雨宮慎吾さんの亡骸を発見された、ということですね」
そう言って警官は、再び手帳に目を落とし、なにかを書き加える。
事情聴取している間も、もう一人の警官は無線に向かい合ったままだった。
すると雑音混じりの音声が、無線から微かに聞こえる。
「まもなく現着です」
「了解です」
無線から聞こえた声に、警官は静かに返事をし、春香たちのほうへ向き直った。
「同じ話をしていただくことになるかと思います。こちらで少々お待ちください」
それから、ほんの十数秒でガチャリ、とドアが開かれる音がした。
通報から十分ほどが経って、所轄の刑事たちが鑑識を伴って数十人、ぞろぞろと入ってくる。
そして二人の制服警官は、KEEP OUTと書かれたバリケードテープを、手際よく門扉の前に張り巡らせていった。
あとは強行犯係である刑事たちの仕事だ。
部屋の中では、鑑識の人たちがカメラを構えて写真を撮り、道具箱からなにやら取り出して、机やCDラックに擦りつけていく。
春香たち三人は、一階の応接間で待機することになった。
あらかた現場検証も終わったところで、やっと雨宮慎吾の遺体が運ばれていく。
鑑識課員の一人が刑事に告げた。
「死後硬直の状態から考えても、ガイシャは死亡してから、二時間にも満たないと思います」
「七時半くらいか……」
刑事は腕時計を確認した。それから、部下と思しき刑事たちに命令を下す。
「およそ七時半から九時までの時間帯、不審な人物が目撃されていないか聞き込みを頼む。あ、それと」
立ち去ろうとした刑事たちを呼び止め、刑事は耳打ちするように告げた。
「夫婦間についても、なにか気になる点がないか訊いておけ」
鑑識課員は説明を続ける。
「背後からひと突き、振り返ったガイシャを、もうひと突き。倒れ込んだガイシャに、トドメのひと突き……とまあ、そんな感じですかね」
鑑識課員は、ナイフを振り回す仕草をしてみせる。自分の胸元を、人差し指でトントンと軽く叩いた。
「心臓に達していた三つ目の刺創……これが致命傷でしょうね」
「三箇所も……明確な殺意があるな」
ちらりと三人に目を向ける。刑事は腕を組んで思案顔をした。「怨恨か?」
鑑識課員は深く頷いて同意する。「その可能性は高いですね」
「そうか……」
報告を受けた刑事は、春香たちのほうへ顔を向けた。
「お話を伺っていいですか。まずは奥さまから」
「あ、はい……」
恵美子が刑事に誘導され外へと出て行く。応接間には春香と莉奈、数名の警察官が残された。
それから約三十分が経過する。ただただ待つというのは、体感的には途方もなく長いように思えた。
「次に……」
刑事が顔を覗かせる。後ろから、やつれた表情で恵美子が戻ってきた。
「左側の女性、よろしいですか」
刑事は手の平を上にして指し示す。目が合ったのは春香だった。
刑事のあとをついていくと、そこは家の外に駐められたパトカーだった。
後部座席に入るよう勧められ、隣りの座席に腰かけた刑事がする質問に答える。
運転席にも、もうひとり刑事が乗り込んでいた。
「お名前は?」
「音無春香です」
「ご職業は?」
「えーっと……歌手、です」
正確には歌手と探偵だが、いちいち説明するのも面倒なので言わなかった。
きょうは特に、ここに歌手として訪れているから。
「きょうの七時半から九時半までの間、どちらにいましたか?」
「二時間前なら、ちょうど家を出た頃だと思います」
記憶を手繰り寄せて答える。
ちょうど出かけるときに時計を見たこともあり、たった二時間前の出来事なので、思い出すのにそう時間はかからなかった。
「住所は?」
「江戸川区東葛西……」
春香は、探偵事務所でもある住所を口にする。
調べれば、すぐに探偵であることには気づくはずだが、隠していると思われて変に疑われたりしないだろうか、と一抹の不安を覚えた。
「そこから、まっすぐこちらへ?」
「いえ。ミューゼス・プロダクションに寄ってからです。午前……八時をちょっと過ぎた頃だったと思います」
これでミューゼス・プロダクションに連絡が行くのは確実か。心配かけちゃうかな、社長に。
それから数分間、雑談に近い取り調べは終了した。
春香が応接間に戻ると、入れ替わりで莉奈が呼ばれる。
恵美子の姿がなかったので隣りの刑事に訊くと、女性刑事とともにお手洗いへ向かったと言う。
恵美子が戻ってくるのを待って、春香は気になっていたことを尋ねた。
「あの部屋って、いつもあんなに暗いんですか?」
「……いえ。昨日までは棚なんか置いてませんでしたよ」
「そうなんですか。それじゃあ、新しい本棚を買ったって言っていましたけど、もしかしてあれですか?」
「え、いえ……それはわかりません。全部の棚の位置が微妙に変わっていたし、あの棚も元々あった場所から動かしてきただけかもしれないですけど……」
恵美子は小首をかしげる。しばらく考え込んだあと、なにかを思い出したように声を潜めた。
「そういえば夫が今朝、鳥の歌がどうとか、オレンジの日の出がどうとか、言っていましたけど……」
「鳥の歌……オレンジの日の出……ですか?」
「ええ。それを入れるために買った本棚だ、とか言って……それから、なんとかウォッカ? ヴォッカ? 確か、そんなことを……」
「ボッカ……?」
「すみません、記憶が曖昧で……」
「いえ。ありがとうございます」
恵美子と春香は、お互いに頭を下げ合った。
春香は応接間のソファに深く腰かける。
もうすでに時刻は、十時半を過ぎていた。
莉奈も春香と同様、ほんの十数分で出てくる。
「それでは」
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